「それでは、どうすればよいでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」コリント人への手紙 第一 14章15節
「異言」とは外国語とは全く別のものです。
確かに言葉として発していますけれど、解き明かされなければ、聞いた人にはその意味はわかりません。
しかし、無茶苦茶な音ではないのです。
そんな異言で語り、異言で祈り、異言で賛美することがコリントの教会では起きていました。
それによって混乱が起き、異言を話すことができない人が、引け目を感じたりしていたのです。
パウロは、それは教会の成長を妨げ、秩序と一致を失わせてしまうと、注意するのです。
霊で祈り(賛美)とは、聖霊に導かれて異言で祈る(賛美)こと。
知性でとは、隣人を愛する愛に従って謙遜に祈る(賛美)こと、
聞いた人が、その言葉の意味を知り、その言葉によって示される神様の愛を知ることができるように語ること、賛美することを勧めます。
そうでなければ異言による勧めの言葉や賛美の歌は、独りよがりもものとなり、その価値を失わせます。
なによりもキリスト・イエスのことを証しをし、神様を賛美して歌うならば、そこに愛がなければ価値がありません。
イエス様が、私たちを愛してくださったので、罪が赦されて自由になり、神様に親しく祈り、賛美することができるのです。
しかし、分からないことを話したり、歌っている人の存在が、神様を愛して隣人を愛していることが分からなければ、賛美は賛美でなくなります。
信仰者が何をするにも、キリストに対するす愛と隣人に対する愛が大切なのです。
求めるべきは異言ではなく、キリストの愛です。
シャローム