「このような方、経験で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」ヘブル人への手紙 7章26節 (2017新改訳)

人が勝手に作り出した神様と、その神様を崇めるための方法も人が自由に作り出したものと、聖書が示す神様の礼拝方法はまったく違っています。
聖なる、聖なる、聖なる神様に人は自由に近づくことはできません。
神が人と会ってくださる方法も、神様が示されました。
罪人である人と、聖なる神様の間を執り成す大祭司を通してでなければ、人は神様を自由に礼拝することができません。
罪の汚れをきよめてから近づくわけですが、大祭司も自分自身の罪がありますから、まず最初にその罪をきよくする儀式にのっとってから、民のために執り成しをするわけです。
そのため大祭司は、毎度毎度、まず初めに自分の罪をきよめてから、初めて大祭司としての職務を果たせるのです。
毎度です。

しかし真の大祭司であるイエス様は、罪を持っておられません。聖なる方なのです。
ですからそのきよさのままで、大祭司としての職務をただお一人で、永遠に行うことができます。
アロン以降の大祭司は、死ぬわけですから、代替わりをするわけです。

ですから真の聖い大祭司が、私たちには必要だったのです。
しかしアダムの子孫である人にはその使命を果たすことができません。皆、罪人ですから。

私たちには、どうしても完全に聖なるただお一人の大祭司が必要でした。待ち望んでいたのです。
御子イエスは、この希望のために人となってくださり、大祭司の務めを果たしてくださっているのです。
ああ!私にどうしても、絶対に必要な大祭司のイエス様です。

聖なる方が、罪人の私のために、大祭司となってくださっています。
考えてみれば、不思議なことです。これも主のあわれみと、愛の姿なのです。
感謝と感動しかありません。
シャローム