「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」ヤコブの手紙 4章3節 (2017新改訳)

ヤコブは、ここ4章でかなり厳しいことを語ります。
聖書は意味もなく語ることはないと、私たちが、聖書のことばに全面的に信頼して従うことを求めます。
律法に従うのではなく、律法をさばく者になり、神に敵対するなと、戒めます。
聖書のことばから自分がなすべき良い行いを知りながら、それをしないのは、罪であると示します。

その3章の最初に、私たちの心の中から出てくる欲望が罪であり、その欲望が争い、殺人までも引き起こすのだと示しています。
そして真に求めるべきは、自分の快楽のためにではなく、神の御心に沿った求め方をするべきであると、教えます。
ここ3節で「求める」と、語るのは神に祈り求めると言うことです。
求めるとは、もちろん隣人から奪うことではなく、私に本当に必要なものを知ることです。

手を動かし、足を使って求める前に。
舌を制御して、神に祈り求めることをヤコブは教えます。
祈りが神に聞かれなくて与えられないのであれば、それは今の私に必要のないものであり。
良い動機、良い行いから出ている求めではないと言うことです。
祈る中で、自分の求めではなく、神が、今の私に何を求めておられ、何を与えようとしておられるのかが分かるのです。

私の必要を祈り求める時、神の御心を求めることにもなります。
求める祈りは、必要な祈りでもあります。
私の必要のために祈る時、私のなすべきことも祈り求めることになります。
自分を知り、神の御心の一端でも知ることができるからです。
シャローム