「来るべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」 テモテへの手紙 第一 6章19節

この手紙の最後の最後は,読者のための祝福を祈って終わりますが,その直前には、敬虔に生きるように命じています。
それはこのとき、敬虔とは反対の放蕩と自分の欲望のままに生きる人たちがいたからなのです。それはどうやら教会の中にもいつの間にか入り込んでいたのです。

パウロは,この地上での生活で満足して生きる道を示します。
旧約聖書のヨブが告白したように「何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません」と、教えます。
主は与え,主は取られる。

それは私たちの幸いとは、この地上での人生,80年か,100年かを生きるだけでは終わらないからです。
来るべき世とは、地上での人生の後,死んだ後のこと。
また,再臨の主イエスが来られた後の,世界のことです。
私は死んで,すべて終わりで,無くなり無となってしまうのではないからです。

再臨の主イエスと共に生きる世において,土台,立派な土台を築くのは,今の生活の中からです。
後はありません。
それは、悪を避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求める日々で作られます。

ここで言う,まことのいのちを得るとは、行ないによって得ることではありません。
正しいものを追い求めて生きる信仰生活において確信と平安と喜びを持つことです。

来るべき世が,私たちには備えられています。そこに向って,立派な土台を私の中に蓄えたいものです。
それはイエス様の足跡を追い、信仰の戦いの中で蓄えられていきます。
その人は、このパウロのように牢獄に在っても,迫害の最中でも,隣人の祝福を祈る人になっていくのです。
シャローム