「病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、他の人が先に下りて行きます。」」 ヨハネの福音書 5章7節
エルサレムにあるベテスダの池(その意味は「あわれみの家」)での癒やしのできごとです。
38年も病気にかかっている人を見たイエスさまは彼に声をかけます。
そのことばは至極当然で明確なものでした。「良くなりたいか」です。
人々が、この池に来ているのは、この池の水がかき回された時に、最初に池に入れば癒されると、信じられていたからです。
彼もそう信じていたはずなのです。
けれども彼は分からなくなっています。
私の助けは天から、天の父から来ると、旧約の詩人は歌い、告白しました。
では彼は、池の癒やしがどこから来て、どう与えられると信じていたのでしょう。
他の人は癒される。
他の人は助けてはくれない。
他の人にはあるものが自分にはない。
そんな周りとの比較ばかりで活きていたのではないでしょうか。
主に祈り求める。
主に叫ぶ。
主に向って呻く。
そんな風に主に向うことがなかったのではないでしょうか。
しかし、この時、あわれみ深いイエスさまは、彼に向き合ってくださった。
そして、彼が祈る前に先に、聞いてくださった。
呻きでもよい。恨みでもよい。叫ぶのもよい。
主にだけ向って声を、祈りを向けることが私たちには必要なのです。
主は、待っておられる。
主は、一人に向き合ってくださる。
私に声をかけ、私の祈りを待ってくださる。
私の助けは、主から来る。
他の人より後になってもよい、主に向って叫びたい。
シャローム