「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」ヤコブの手紙 2章26節 (2017新改訳)

私たちは「霊・心・身体」があって存在しています。
一つでも欠けていては、私の存在が危ういのです。
霊を普段意識することは少ないかも知れませんが、信仰を持って生きる時には、霊を意識します。
神様との深い交流は、霊的な部分が大きく関係します。
切り離せないのです。

同じようにと、ヤコブは指摘します。
信仰と、信仰に生きる時の行いは、切り離せないのです。
行いとまったく切り離したような信仰は生きた信仰ではないのです。

行いについいて、礼拝の時の隣人への態度について、えこひいきと言う視点で1節から語り。
あわれみを示すと言うことでは、14節から語っています。
行いとは、善行を行うことだけではないのです。
行いとは、生き方とも言えます。
信仰に生きる。信仰の通りに生きる。生きるのです。
生き方に信仰が現れないならば、それは生きてはいないことなのです。
当然、その信仰者の毎日には、イエス様の姿は見えないでしょう。証しにならないのです。

霊と真をもって主の日の礼拝をささげるように。
霊と真をもって七日間を生きることで、行いに信仰を表したいのです。
行いを欠き、行いと切り離された信仰とはならないようにしたい。
主の日の礼拝の時間にも、他の6日間にも、信仰が明らかになるように願うのです。
シャローム