「痛んだ葦を折ることもなく、 くすぶる灯芯を消すこともなく、 真実をもってさばきを執り行う。」イザヤ書 42章3節
この3節は、マタイの福音書12章20節で、安息日にイエスさまが片手の萎えた人を癒した時のことを、旧約聖書でイザヤが語ったことばが実現したのだと、記すそのことばです。
安息日には働いてはいけないという律法を頑なに文字に示されたことばかりを守ろうとして、愛を示さないパリサイ人たちに対して、愛の業を行なわれたイエスさまの姿がマタイにはあります。
そして元々のイザヤの語ったことばは、主が最も弱い者さえも決して傷つけることなく、助けるという意味でした。
痛んだ葦は、農夫が作る道具の素材にはなりません。不良品として除かれるのです。
くすぶる灯芯は、芯が短くなり煙ばかりを出して周りを明るく照らさない灯芯は、消されて捨てられるだけです。
そんな価値のなくなったように思えるものにさえ主はいつくしみの心を持って接して、正しく取り扱ってくださるのです。
そこに必要な助けを与えてくださいます。
その主は、15節では「山や丘を荒らし〜沢を涸らす」と、言われるほど、自然をも造り変えてしまう厳しいさばきで臨まれる方でもあるのです。
しかし、主は弱っている者を見捨てることなく。
人が価値がないと捨ててしまうものにさえいつくしみを注ぎ、癒したて助けてくださる方です。
全能で力ある方は、このように誰よりもあわれみ深くいつくしみをもって、私たちに接してくださるのです。
私が自分の価値を見出せず、痛んだ葦、くすぶる灯芯だと思ったしても、主は私を本当に正しく見てくださり。
価値を与えてくださる。
そして真実をもって私をさばき、私を導いてくださるのです。
今日の一日も、この方に信頼し委ねて、歩んでいきたい。そこに平安があります。
シャローム