「きよい人たちには、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています。」 テトスへの手紙 1章15節(2107訳)

水曜日です。聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、テトスへの手紙です。

テモテとともにパウロの片腕として各地で奉仕した人です。
ガラテヤ人への手紙2章3節によれば、彼はギリシャ人であり、パウロとともに各地の教会に仕えました。
パウロが始めた後、教会を建て上げていくためにテトスを残して、パウロ自身は次の教会に移動すると言うこともありました。
クレタの教会に残したと、この手紙の冒頭1章5節にあります。

今、テトスがいるクレタの教会は、まだ組織がしっかりと形成されていない状況であり、しかもそこに偽教師が入り込んできたので、パウロはテトスを励まし、教えるためにこの手紙を書きました。
選びました箇所とそこに続く内容は、テトスの牧会者としての心得を教えるものです。
同時に信仰者の歩みを示してくれます。

信仰者の中に「きよい人」と「汚れた人」がいるわけではありません。
イエス・キリストを信じて生きる人は、罪人から生まれ変わり新しい人になりました。
きよい人としての人生が始まっているのです。
その人生は、イエス様のきよさを受け取り、イエス様のきよさに倣う者です。
イエス様の愛を受けて、同じように実践し、自分の思いではなく神の義に従う道です。

良心が汚れていると、言われると、それは何となく悪の道に走らない、悪い心に誘われないことなのだろうと分かります。
では、知性が汚れているとは、どういうことなのでしょう。
知に、きよいものと汚れたものがあるのでしょうか。
ここには偽教師の教える神に従わない間違った教えもありましたから、それらに警戒しなければなりません。
神の知性は、この聖書のみことばに明らかにされており満ちています。
みことばを味わって従い、それを隣人にも明かしして教える時に、知性はきよいものとして働きます。
しかし自分に都合の良いことを語り教えるならば、その知性は汚れたものとなります。
そのような人は、何一つきよいものはないと、パウロに指摘されてしまうのです。

パウロは続く2章7節で、テトスに良いわざの模範となり、教えることに偽りがなく、品位を保つように教えます。
これはかなり難しいことです。
それをおこなうには、知性と良心が、イエス様に倣うきよいものでなければならにということでしょう。
人々の完全な模範になることなどテトスにもパウロにもできないことでしょう。
しかし、生活の実践において、知性さえもきよく、イエス様に倣う者として生きることを求める時にそれは少しづつ実現していくのではないでしょうか。
心を尽くし、知性をも尽くしてイエス様を愛する、パウロ自身が厳しく真剣に追い求めていたことです。
心に思うこともきよくあり、動かす手のわざもきよくあり、その唇が愛と義を語ることできよさを表したいと思います。
シャローム