「どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」出エジプト記 10章17節 (2017新改訳)

ようやくファラオは自分の罪を認めて、イスラエルを解放してくれるのかと、思いますが、そうではありません。
この後も、ファラオは心を頑なにし、イスラエルの民を去らせません。

ここでファラオは、見逃してくれ、取り去ってくれと、願っています。
ファラオの願いは、目前の苦しみ、問題がなくなることだけです。
問題が取り去られるのであれば、方法はなんでもよいのです。
神、主の前に自分の罪を認めると言うことがありません。

問題さえ解決できるならば、自分の罪はそのままでも一向に気にしないのです。
ですから、問題が解決すれば、約束は破ります。民を解放しません。

私たちが、神様の前に犯した罪、原罪を悔い改めて、神からの赦しを得ない限り、目の前の問題だけを解決しても、真の解決にはなりません。
一息つくことはできても、真の平安を得ることはできないのです。

しかし、ファラオはいつまで主と張り合うつもりなのでしょうか。
私たちの心の奥底には、いつも神と張り合って、自分を神としたい罪の思いがあるのです。
神を認めることが、幸いと平安の始まりなのですが、それができない心が有るのです。
シャローム