「「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。」」 使徒の働き 10章47節
ペテロがイエスさまのことを証しし、福音について語っている途中で、外国人であるコルネリウスたちに聖霊が下り、彼らは神を賛美し始めたのです。
それまで、イスラエル人たちは、外国人が自分たちと同じように神、主に愛されて救われるとは、信じてはいなかったのです。
外国人が、イスラエルの神、主を信じた時には、先ず最初に割礼を受けて、形にの上ではイスラエル人となることが求められていました。
その後でようやく信じている者として接してもらえるのです。
ここでペテロが強調するのは、人がその罪を赦されて、神の子どもとされるのは、すべて完全に神、主が決められると言うことです。
人が、割礼を受けたから、証しをしたから、バプテスマの儀式をおこなったからと、決めることではないのです。
すべて主の恵みであり、主が決めるのです。
そこにはイスラエル人、外国人の区別はありません。
主権は主にあります。
だれも妨げることんも、留めることもできません。
その人が信じた、その時に聖霊が下り、主が証印をするのです。
信じる人は、皆、同じです。同じ恵みを受けて、主に愛されて、受け入れていただいているのです。
先の人がいれば、後になる人がいるだけです。
そして先の者が後になり、後も者が先になるのが主の恵みです。
シャローム