「自分のために祭司たちを任命して、彼が造った高き所と雄やぎと子牛に仕えさせたからである。」 歴代誌 第二 11章15節
レハブアムのエルサレムでの様子を記す11章ですが、その時、同時に北イスラエルで王となったヤロブアムの状況を知ることができることばがここにあります。
それはとてもひどいものです。
ヤロブアムは、主の祭司を解任して自分勝手な祭司を任命しているのです。
祭司の職を解かれた主の祭司は、主を探し求めて南ユダのレハブアムのところにやって来ます。
ヤロブアムは、自分の思い通りに礼拝をささげ、いけにえをささげたかったのです。
しかし、それは主なる神を捨て、信仰を捨てて、自分を神ようにして振る舞うことでした。
立派な建物で高き所を造り、多くのいけにえをささげても、主のことばに従わない礼拝と信仰には、意味がありません。
自分のためのいけにえ、礼拝になってしまうのです。
南ユダのレハブアムの生活も主の前に正しいものとは言えないものです。ダビデのようではない。
しかし、同じ時代、同じ時に、もっと恐ろしいことをしているヤロブアムがいるのです。
主が定めた祭司を追い出し、自分の思い通りの祭司を任命したのです。
混乱の時代だと感じます。
しかし、この時の一つのことばに励まされます。
「主を尋ね求めて」
続く16節で、祭司たちが主を求めて、北から南ユダへとやって来たことを教えます。
祭司の仕事を追われても、国を離れても、主を大切にして、探し求めるならば、その人には主からの祝福があるのです。
主の恵が、その人から失われることはないのです。
私たちも「主を尋ね求める」人でいましょう。
シャローム