「すると主は私に、「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」と言われました。」」使徒の働き 22章21節
パウロが自分のことを証しして群衆に語ります。
パウロのことを捕らえて取り除こうとしていた危険な群衆です。
ユダヤ人である群衆はパウロがヘブル語、即ちユダヤの母国語で語り始めたので、パウロの話を聞いていたのです。
しかしかつてはキリスト者を迫害する者であったパウロがイエスを信じたこと、そしてイエスの使徒となって、今ここに来ていることを聞くことになります。
そしてパウロが、主によって使命を与えられていることに驚くわけです。
さらに群衆には受け入れることができないことをパウロが口にするので、続く22節では、声を張り上げてパウロを殺そうとします。
自分たちだけが主に選ばれていると自負していたユダヤ人にとって、主が異邦人を選び、異邦人を救うために、わざわざ遠い地にまでパウロを遣わしたと言うことは、受け入れたくないことなのです。
彼らは、神さまに愛されていると言うことを、自分の都合の良いように受け入れていたいのです。
主が、異邦人を自分と同じように愛していると考えたくはないのでしょう。
彼らは、主の愛を自分の思い通りの愛にとどめておきたいのです。自分が理解できる小さな愛でおさめておきたいのです。
主が、異邦人を愛し、遠くに住む異邦人のために使徒を遣わすという事実を受け入れたくないのです。
私たちはどうでしょうか。
主の愛を、自分が理解できる範囲、形、大きさではかってはいないでしょうか。
主の愛の大きさをちゃんと知ろうとしているでしょうか。
主の愛が、遙か昔に遠くの異邦人にまで及ぶ愛だったので、私は今、ここにいます。
主の愛の大きさについて思う朝です。
シャローム