「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」マタイの福音書 26章53節

十字架の前、ゲッセマネの祈りから逮捕に至る場面です。
弟子の一人が、イエスを逮捕しようとする大祭司のしもべに剣で切りかかります。
大祭司のしもべも棒や剣を持っていますから、イエス様を守ろうとしたのでしょう。
しかしイエス様は弟子に剣を収めるように命じます。
剣に剣で対抗することはイエス様は望みませんし、父の望まれることでもありません。

父にお願いするとは、父なる神様に願って御使いの剣で守られることを言います。
それも十二軍団よりも多くのとは、人数のことだけを言っているのではなく、絶対的な御使いの力を指します。
その御使いの力を配下に置けば、イエス様の命は完全守られるのです。
父に願えば、それは完全に実現します。しもべたち棒や剣など意味をなくします。

しかし、イエス様はそれを望まれません。
イエス様の望みと、父のご計画は、イエス様がこのようなことをする人々の罪の身代わりとしてイエス様の命をいけにえとすることです。
守られるべきはイエス様の命ではなく、ご計画であり罪人の命そのものです。

少し前の4節では、祭司長たちがイエス様を殺す計画を立てます。
16節では、ユダがイエス様を裏切る計画を立てます。
みんな自分のことだけ、自分の益となることだけを計画します。そのためには不法なこともする計画です。
しかし、父とイエス様は罪人のために計画をします。
自分の命を守ることではなく、ひとり子の命を惜しむのではなく、罪人を救うことを計画します。
そのために自分を犠牲にすることを計画します。

イエス様の願い、祈りとは自分の利益を願うことではなく、正しいこと、良い計画が進むことを祈られています。
何度も祈られます。
私も、イエス様の祈りに倣う祈りを自分の祈りの基礎としたい。

シャローム