「どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」 使徒の働き 10章35節
ペテロがカイサリアのコルネリウスに掛けた言葉です。
どこの国の人も、神に受け入れられるというのは、現代に生きる私たちには当然のことと考えています。
しかし、選民イスラエルとして生きて、律法を守ってきたペテロにとっては、ただひとりの主が、他の国の人々をも同じように受け入れて、救いを与え、祝福しておられるのだと信じるのは簡単なことではなかったのです。
価値観が逆転します。
この出会いの前に、ペテロには、神がきよめた物は、なんであってもきよいのであって、人がそれをきよくないと言うことはできないのだと言うことを、幻を通して経験しています。
その経験があって、ペテロはこの外国人を受け入れているのです。
「神に受け入れられます。」と、あります。
けれども、正義を行ったという行いによって、受け入れられたのではありません。
神を恐れる人は、神の愛に倣って、正義を行う人になっていくのです。
その人は、イスラエル人であるか、外国人であるかは関係なく、神が受け入れている人なのです。
ペテロは、ここで外国人も神が受け入れておられるという現実を知り、それを自分の口で告白しているのです。
それを告白することは、ペテロにとって、それまでの選民イスラエル人としての価値観を完全に変えることです。
イスラエル人だから、神に受け入れられるのではなく、神を恐れるから、受け入れられているのです。
大切なのは、私たちが神を恐れること。
神は、その人を受け入れておられると言う事実です。
自分が神に受け入れられているのは、神が受け入れてくださっているからであり、同じように神に受けいられている人がいるのです。
当たり前のよいうですが、隣人を認めて受け入れるのは、いつも、どんなことでも、神の価値観、神の視点で考えて生きなければできないのです。
神を恐れること、神に受け入れられていること。
もう一度しっかり心に覚えたい。
シャローム