「主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。」創世記 29章31節 (2017新改訳)

伯父ラバンのところに身を寄せたヤコブでした。
ヤコブはラバんの二人の娘の内の妹のラケルを愛したので、彼女との結婚を条件にラバンに仕えます。
約束の7年が経ったとき、ラバンはヤコブを騙して、ラケルでは無く姉のレアとヤコブを結婚させます。
「私をだましたのですか」と、ヤコブは迫りますが。ラバんは言葉巧みに逃れて、ヤコブはもう7年をラケルとの結婚のために仕えるのです。

結果として二人の姉妹を妻としたヤコブですが、彼が愛していたのはラケルです。
ここ31節で、主が介入をされてラケルがヤコブに子どもを生むことが記されます。
二つのことを知ることができます。

1つ。主はすべてのことをご覧になっておられる。
レアが嫌われていることを、主はあわれんで、恵みを与えてくださるのです。

2つ。子どもが与えられるのは、主の愛と恵みの力によるのです。

しかしそのどちらにも、主の愛があります。
主の愛が、主の御手を動かすのです。
ラケルが不妊の女であるのも、主に愛されていないからではないのです。
見捨てられてはいません。主がラケルを知っていてくださることから分かるのです。
その先に恵みがあります。

ラバンにだまされたと、追求したヤコブですが、その言葉、追求はヤコブが父や兄から受けるべきものでもありました。
こうしてヤコブは試練を経験して整えられていくのです。
そしてそのような時でも、主はヤコブを見捨てず愛しておられます。
それがレアを顧みてくださり、ラケルにも届いていてくださることで分かるのです。

自分の思い通りの結果、恵みが与えられないことが、主に愛されていないこと、主の恵みがないことではないのです。
主の愛の目は、今も貴方に注がれ、愛の御手は動いているのです。
シャローム