「その垂れ幕を留め金の下に掛け、垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所とのしきりになる。」出エジプト記 26章33節 (2017新改訳)
幕屋の建設の大詰めです。幕を織り出し、様々な色を使い、意匠を凝らして、ケルビムをそこに織り出します。
移動用の礼拝所ですから、幕が大切な働きをするのです。
しかしこの箇所は、文章を読むだけでは、全体像、完成した時の幕屋の形をつかみ取るのは難しいと感じました。
でも、主のことば通りに造るのです。
それが主への信仰の従順の証しになります。
そして幕屋は、その中心に至聖所とそこに続く聖所が造られます。
至聖所には証しの箱を置き、ケルビムで覆われている宥めの蓋を置きます。
そして至聖所と聖所を分ける垂れ幕が掛けられるのです。
これはイスラエルの民のために掛けられるものです。
至聖所に人が勝手に近づき入ることはできません。
仕切られているのです。
そこに近づくのには、主が定めた時に、主の命じる方法によらなければ入ることは決して許されません。
神に勝手に人の方から近づくことはできないのです。
それが聖い神の前の罪人である私たちのあるべき姿です。
幕屋は、それを教えます。
幕屋は、私の罪と汚れを指し示します。
ところが、新約聖書の時代に生きる私は、その神を「アバ。父。」と親しく読んで祈り、近づくことが許されています。
イエス・キリストの十字架の死、贖いの死の犠牲が、仕切りとなっていた垂れ幕を破ってくださったからです。
ここにあるケルビムを織り出した垂れ幕を越えて主に近づけるのは、本当に凄いことなのだと、改めて思う朝です。
私の前に仕切りはなくなり、十字架があるのみです。
シャローム