「のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。 私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。」創世記 49章7節 (2017新改訳)

ヤコブの最後の言葉。子どもたちに語られた遺言であり、イスラエル部族、即ち、主を愛する信仰者の群れに語られた預言のことばです。
ユダの子から、救い主が登場することが示され、祝福されることが語られます。
ヨセフもまた、祝福されることが語られています。
ユダとヨセフに語られる豊かな多くのことばに比べると、ヤコブに特別に愛されたはずのラケルとの間のもう一人の息子であるベニヤミンへのことばは厳しい言葉だと言えます。
しかも短いことばのみです。
そしてそのとおりに、ベニヤミン族は問題を引き起こします。
そこから登場したサウルも、聖絶すべき敵の所有物を自分のものとしていまうという、ここで示される通りの悪をおこないます。27節。

そして今朝、選びましたのは12人の息子たちの中で「シメオンとレビ」と、二人一緒に語られていることばからです。
彼らは、創世記34章で、妹ディナの復讐のために、父ヤコブをも欺き、妹を苦しめた人(民)の住む町中の人々を虐殺した二人です。
そのことを示すことばによって、厳しいことばが続きます。
しかしユダとヨセフに次いで、多くのことばが与えられています。
遺言の最後の28節でヤコブが「それぞれにふさわしい祝福を与えた」と、書いてあることが大切です。
人の思いから出る遺言ではなく、ここは主のご計画とあわれみが溢れる「預言」であり「祝福」なのです。
厳しいことばは、しっかりと心に刻んで主の導きを求めるならば、さばきのことば、叱責ではなく祝福への導きとなります。

ここではのろわれているのはシメオンとレビではなく、その「激しい怒り」「凄まじい憤り」なのです。
それを捨て去り、激しさ、凄まじさを熱い主への信仰とどこまでも従順な行動へと変えるならば、彼らは散らされてもなお、そこで祝福されます。
その証拠に、レビ人は、出エジプト記の時代に神の祭司の家系に任命されます。
残虐な剣を振るったはずのレビの部族は、主の祭壇で香に器を振り、どこまでも主のためにだけ仕える人の群れへと変えられました。
そして部族として住む地は散らされましたが、それは同時にすべての部族、すべての地域で主に仕える祝福をいただくことになりました。

ふさわしい祝福を受け取ったのです。

付け加えるならば、シメオンやダンと言った部族は、いつのまにかその存在が失われていきます。
語られた主のことばをどのように聞き、心に刻み、行動するかが、千代先の子どもたちへの祝福へ繋がるのでしょう。
私たちも今、心にある悪しきものを、主に渡して、聖くされていくことが、私だけでなく子どもたちの祝福にも繋がるのです。
シャローム