「ヤコブはファラオを祝福し、ファラオの前から立ち去った。」創世記 47章10節 (2017新改訳)
ヤコブが家族を率いてエジプトにやって来たとき、ファラオと会見します。
ファラオがヤコブたちに住む場所を与えます。
会見の中でファラオが、ヤコブの年齢を尋ねます。
ヤコブは、ただ自分の年齢を答えるのではなく、アブラハムやイサクと比べて、信仰者としての自分の生きてきた年月の足り無さを答えます。
それは長寿ではないと言う意味ではなく、信仰者としてまだまだアブラハムに並ぶことができない未熟さを答えたのです。
謙遜にファラオに答えるヤコブですが、一方でファラオの前を立ち去るときには、ファラオのために祝福を祈るのです。
エジプトでの権威や力、富と言ったものでは、ファラオの保護の元、下の立場のヤコブですが、祝福を祈るのです。
それはアブラハムから周囲の人々へと祝福が広がっていくと言う、神様の約束を信じるヤコブだからです。
祝福は神様から与えられていくものであり、神様の信じる信仰者から広がっていくことを信じるから、このように祈れるのです。
一方で、ここ47章の最後には、ヤコブが自分が死ぬべきときを知ったときに、ヨセフに対して、自分をエジプトに葬るなと命じます。
信仰者として、アブラハム、イサクと同じ約束の地であるカナンに葬られることを望んだのです。
エジプトの富や力に魅力や希望を感じるのではなく、主の約束だけを信じて眠ることを望んでいます。
それがここでも「ファラオの前から立ち去った。」という、言葉に表れています。
エジプトの王ファラオに次ぐ地位にある息子ヨセフの近くにいて、エジプトの力や豊かさを求めるのではなく。
エジプトの祝福を祈りつつ、自分はエジプトの生き方とは離れて、主のことばに従う生き方を表しているのです。
私たちも今、この世と調子を合わせてはならないとの、新約聖書のことばを実践しつつ、相手のために祝福を祈ることができる信仰者として歩みたいものです。
シャローム