「目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。」マタイの福音書 23章26節
「わざわいだ」と繰り返し教えられる23章です。
「幸いです」と教えられた4章と対比されます。
ここではパリサイ人と律法学者が、偽善者であり目の見えない案内人として責められています。
イエス様は、彼らの信仰の足り無さや未熟なことを責めているのではありません。
彼らが、自分たちこそは神に選ばれた者であり義であると自負し、人々を教えますが自分は実践しないことを責めているのです。
まず、杯の内側をきよめよとは、彼らが、外側だけを飾っていることを指摘するのです。
彼らが、着飾り立派に見える衣服を着て、きよい信仰者のように振る舞うことに力を注いでいる人たちに過ぎないことを指摘するのです。
まず、自分には欠けがあり、それを神様に満たされることを求める必要があるのです。
それが内側をきよめることであり、その信仰の歩は外側へと現われるのです。
きよめるとは、別の側面を見れば、神様を求め続ける心です。
信仰深くて立派な自分だと、他の人に誇って見せびらかすような人ではないのです。
ここで「目の見えないパリサイ人」というのは、行くべき道を知らず、見えていないのに、人々に指図する指導者のことです。
心から神様を求め続けていれば、それはそのまま道を示す幸いな案内人になります。
自分の内側を見つめて祈り求める人は、外側を主が覆ってくださるのです。
シャローム