「その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」出エジプト記 21章6節 (2017新改訳)

21章は24節から始まる言葉が印象に深く残る箇所であり、律法のことばでしょう。
「目には目を、歯には歯を〜」と、始まることばは過激な言葉のように聞こえます。
復讐を容認しているように受け止めてしまうからです。
しかしそうではありません。
ここは「同態復讐法」と、いって被害者に与えてしまった被害と同じだけの価値で償わなければならないことを命じる律法です。
決して「やられたから、やり返してよい」と、教えていません。
人の過激な報復を禁じていることばだと言えます。

しかし私は、この21章を読み返すたびに、この律法の前に書かれた「きりで彼の耳を刺し通す。」という言葉がいつも、私に迫ってきます。
これは奴隷として主人に仕えた人が、自由になることを望まないで、これからも主人に仕えたいと願った時におこなう契約の方法です。
戸と門柱は、その家と主人を象徴的に表します。
ですから刺し通すのは、主人に命がけで刺し通されて、繋がり、仕えることを意味します。
もう、今日からは奴隷ではないのだからと、いい加減な仕え方はできません。
むしろ自由に、自分の意志を持って命がけで主人に仕えますと、この方法を取るのです。

刺し通されるのは「耳」です。
まず、神の前に行きました。
そして続いて主人の前に行きます。
命がけで仕えるのは、神であり主人です。
そしてそれは、聞くことから始まるのです。

神を愛し、主人を愛して仕えるのは、最初に命がけで主人の言葉を聞くことから始まるのです。
命がけで、神のことばを聞くことを始めないならば、そこには自由も仕える喜びもなくなります。
この奴隷のように、神のことばを命がけで聞いているだろうか。刺し通されるほどに、必死に神さまのことばを聞いているだろうか。
きりで刺し通されたように、しっかりと神のことばに刺し通されて、神さまのことばを近くに聞いていたいのです。

いつでも神、主のことばが聞けるのです。
嬉しいこと、凄いことなのです。
シャローム