「ただし、彼らは、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかった。カナン人はエフライムのただ中に住んだ。今日もそうである。カナン人は強制労働に服することになった。」ヨシュア記 16章10節

相続地の境界線がヨセフ族、そしてエフライム、マナセの境界線として繰り返して示されます。
主の約束の地、恵みを正しく守ったことが分かります。
しかし、ここでは15章の終わりと同じことばが記されていることに気が付きます。

「追い払わなかった」です。
ユダ族の中にはエブス人が住み、エフライム族の中にはカナン人が住んだのです。
もちろん、戦いにはイスラエルの子らが勝利したので、カナン人は強制労働をすることにはなります。
友好関係を結んでいるのではないのです。
しかし、それはまるで、私たちの中に罪の欠片が残っているようです。
「今日もそうである」と、15章の終わりと16章の終わりに記されるのです。
ヨシュア記が記された今日で終わらず、現代の今日も残っていると、警告するようです。

主の約束と恵みは完全です。
しかし、私たちがその恵みを受取って、主に従うときに、私たちの歩みには罪の欠片が残り、突き刺さっているようです。
それが駄目だというのではなく、そのことから私たちは弱さを覚え、足りなさを覚えて、主に信頼し委ねつつ丁寧に歩むことが大切です。
主の恵みは罪の欠片などによって失われません。
境界線が細かく記されるのは、土地の権利のためのルールブックとしてではなく、丁寧に小さなことに忠実におこなうことを教えてくれます。

シャローム