「主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが、見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。」出エジプト記 19章21節 (2017新改訳)
主は、火の中にあって山に下って来てくださり、民に会ってくださる。18節。
そしてモーセに声を出して語ってくださる。19節。
なんという臨在、そしてなんと親しく、ともにいてくださる主の姿でしょうか。
しかし民は同時に、民が勝手に山に登り主を見ようとすることがないように戒められます。21節。
私たちの祈りに主が答えてくださること。
私たちとともに主がいてくださること。
これは主が約束してくださったとおりのことです。
この日のように、主をこんなにも近くに、感じられたら、どんなに嬉しいことでしょう。
しかしそのとき、同時に私たちは注意しなければなりません。
主の方から近づいてくださるからといって、私が勝手に主に近づくことは正しいことではないのです。
主に対する畏れは、信じているからこそ持ち続けるべき心であり、態度です。
主は、私たちを愛して親しく交わりをもってくださる。私に近づきともにいてくださる。
今、私たちは山に、火の中に主を見ることはないのですが、主はその臨在と約束が確かであることを聖書に示していてくださる。
それが私たちに充分なしるしのはずです。
主の臨在とともにいてくださる確信を持つからこそ、主を畏れることが必要です。
主が、ともにいてくださることが実感できないと呟くことは、押し破って山に登ろうとする行為と同じなのです。
畏れ、待つからこそ、主の愛を感じることができる時があるのです。
この日、イスラエルの民が火の中に主を見てお会いしたように、私は今、聖書を読む時に主を見て主にお会いしているのです。
畏れなく聖書を読むのであれば。そこでお会いすることはなく、聖書の活ける神のことばもただのインキの活字で終わってしまう。
愛する心と畏れる心が私には必要です。
シャローム