「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」創世記 39章21節 (2017新改訳)
イシュマエル人の隊商からヨセフを買い取ったとのはエジプトの侍従長のポティファルでした。
ここからヨセフのエジプトでの奴隷としての生活が始まりますが、聖書は不思議なことを示します。
「成功する者となり」2節です。
幸いな人と、翻訳する聖書もありますから、奴隷の生活のスタートから、主は、ヨセフを悲しみ苦悩する人と捉えていないことが分かります。
ポティファルの家で誠実に仕えていたヨセフですが、主人の妻のよこしまな思いと策略によって、無実の罪で監獄に入れられます。
そのとき、ここ21節では再び「しかし、主はヨセフとともにおられ」と、聖書は指し示します。
その上、続く23節でも、もう一度「それは、主が彼とともにおられ」と、示します。
兄に憎まれて売られたエジプトでのスタートの時も、主はヨセフとともにおられ。
主人の妻にひどい目に遭わされた時も、主はヨセフとともにおられ。
そのために始まった監獄生活でも、主はヨセフとともにおられ。
ヨセフは、いつも成功し、祝福されています。
他人の目には、酷い状況であり、苦しく涙するような時でも、主がともにおられることが一番の祝福だと、ここは教えてくれるのです。
もちろん、私たちはそのような状況では、実際に涙し、苦悩し、落ち込むのです。
「しかし」ここ21節が示すように、主がともにおられることは、すべてのことを逆転し「しかし」と、祝福と恵みへと変えることができるのです。
それはどんなに豊かに見えたとしても、主から離れ、主との関係を失ってしまえば、それは空しい結果へと繋がるということです。
主が、私を見捨てないで、ともにいてくださるのであれば、私たちは、他の何よりも豊かで素晴らしいものを持っているということです。
「しかし、主はヨセフとともにおられ」と、このことばをしっかりと心に刻み、私の生活はこのとおりなのだと、喜び、誠実に今日の歩みを進めたい。
シャローム