「しばらくたってから、サムソンは彼女を妻にしようと戻って行った。あの獅子の死骸を見ようと、脇道に入って行くと、なんと、獅子のからだに蜜蜂の群れがいて、蜜があった。」士師記 14章8節 (2017新改訳)

サムソンはユダヤ人であり、ナジル人です。むやみに死骸に近づくことは禁じられています。
それなのにサムソンは、獅子の死骸に近づき、その蜜を食べます。その上、父母にも与えます。9節。
それ以前に、以前にこの獅子を殺したことも罪なのです。
いえそれよりも、ティムナに住むペリシテ人の女性を妻にしようとして、出かけた訳ですが、そのことが軽率な行為です。

一つ一つのことを、ここで指摘しても意味がないかも知れません。
サムソンは、ここまで自由に生きてきました。
自分が好ましいと思うことだけをしています。
そのためには、父母に無理を言ってペリシテ人の女性を妻にしようとしたり、獅子を殺すこと、その死骸にある蜜を食べることもためらうことなくするのです。
ユダヤ人、ナジル人として主の律法を守り、生きると言う姿勢はありません。

ここに記される「脇道に入る」と言うのが、サムソンが主の示される歩むべき道をそれて生きていることを象徴的に示しているようです。
しかし、主はこの日も、この後もまだしばらく、サムソンの好き勝手を許しているようです。
主が、一番大切な時、必要な時にサムソンを用いて、イスラエルの民を救うための備えの時なのです。
主の愛の深さ、忍耐強さは、私には真似をすることもできません。
主が、サムソンに持っておられる計画を、知ることも、同意知ることもできないのです。

しかし、主は時にかなって素晴らしいことを私たちにしてくださるのです。
そのことを信じて、私たちは、計画を練り、備えながら主のことばに誠実に従っていきたいのです。
このように好き勝手に行き、罪を重ねるサムソンをも、主は愛して、主の大切な働きに持ちいてくださるのです。
私にも大切な使命があります。
シャローム