「彼はまた、本殿の奥に長さ20キュビト、幅20キュビトを測って、私に「これは最も聖なる所だ」と言った。」エゼキエル書 41章4節

最も聖なる所とは、贖いの箱が置かれた「至聖所」と呼ばれるところです。
旧約のレビ記16章によればそこには大祭司が大切な勤めをするために年に一度入ります。
その時に着る装束も細かく決められています。
それらを破った場合には死ぬことになると示されています。
主が、その方法を定められて、それを守るように命じました。

この時、エゼキエルは、神殿の内部を導かれて、細かく教えられました。
しかし「これは最も聖なる所だ」と、その所を前にして教えられるのみで、入ることはできませんでした。
エゼキエルが大祭司に家系ではなかったし、大祭司の務めを果たす日ではなかったからだと思われます。
見学することはできないのです。ただ見るなどできないのです。それほどまでに大切な部屋なのです。

このようにこれは最も聖なる所が、存在することを改めて教えることで、主ご自身がいったいどのようなお方なのかを教えるのです。
主を恐れることは大切なことです。
私たちには、勝手に近づくことができない聖なる所、聖なる方があることを知るのは大切なことです。
その恐れは、畏怖であり、怖がることとは違います。

そして今、その聖なる方が私に近づいてくださり、私を愛して、私のために犠牲を払ってくださった。
そして私はこの聖なる方と深い関係を持つことが赦されています。見学するだけではない。
神の子どもとしていただいたのです。それがどんなに凄いことか、改めて味わいたい。

シャローム