「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。」 マルコの福音書 16章1節

16章、マルコの最後の章です。

イエスさまのことを慕い、愛する女性たちの行動を記します。
イエスさまが十字架で処刑されて、息を引き取ったのは、金曜日でした。
次の日は、土曜日の安息日ですから、誰も何もすることはできません。
ようやく安息日が終わったので、日曜日の早朝、早い時間に女性たちは、イエスさまが金曜日に葬られた墓へ急ぎます。
当時の葬りのやり方に従って、自分たちの手で丁寧に葬りをやり直そうというのです。
金曜日には、ちゃんとお別れの挨拶もできず、自分たちの手で葬りもできなかったのです。
もう一度丁寧に、行ないたいと思うのは、当然のことです。

しかし、イエスさまを慕い、これまで一緒に行動してきた女性たちとしては、この行動には決定的に欠けていること、間違っていることがあります。
イエスさまは、十字架で死んで、終わりではないのです。
死んで、よみがえると、約束されていたはずです。そう語ってくださっていました。
聞いていたはずです。しかし、信じ切れていないのです。

安息日が終わった日曜日の朝には、死んでしまった亡骸ではなく、よみがえられたイエスさまにお会いする朝なのです。
それは今も変わりません。
私の罪のために身代わりとなり、十字架で死んで、三日目の日曜日に、よみがえられてイエスさまと、私たちはお会いするのです。
そしてイエスさまから、平和のことばを掛けていただくのです。
私たちが、用意するのは香料ではなく、砕かれた自分のたましいと素直にイエスさまのことばを聞く信仰の心です。
シャローム