「彼女は答えた。「主よ。食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」」 マルコの福音書 7章28節

7章の続きです。
この女性は、26節によれば「シリア・フェニキア出身」の人でした。即ち、ユダヤ人から見れば外国人です。
当時の理解では、神の恵みから漏れ落ちている人たちということです。
そしてユダヤ人はこの外国人たちのことを良く思っていませんでした。
女性は、そのような事情は十分に知った上で、ユダヤ人の先生であり、ユダヤ人のために働いておられたイエスさまに、娘を助けて欲しいと願い出ているのです。
それは汚れた霊を追い出すという、通常には不可能な業です。
しかし彼女はイエスさまならばできると信じて願い出ています。

それなのに、イエスさまは、イエスさまらしくない答えを最初にされます。
ユダヤ人を子どもとたとえて、彼らのために働く使命があるので、外国人のために働く時ではないと答えています。
しかし彼女は、イエスさまが「野良犬」と蔑むのではなく、愛らしい「子犬」と、呼んだことに、希望を持って、さらに願い出たのです。
食卓の下のパン屑とは、神さまの恵みそのものを表しています。
溢れ出る神さまの恵みは、ユダヤ人だけではなく外国人にもその恵みは溢れ出ると、信じて求めるのです。

イエスさまから受け取る癒やしも、救いの恵みも、当然のようにいただけるものではなく。
神さまの大きな恵みのゆえに、注がれるものです。
そういう意味では、最初からイエスさまの食卓に着いているのではなく、食卓の下にいたはずの私が、パン屑を受け取り、そしてついには、イエスさまと一緒の食卓に着くのです。
すべてはイエスさまの大きな恵みなのです。

この女性はそれを知っており、最初から最後まで諦めないで求めたのです。
そして娘は癒されました。
求める心と、それを言葉にして口に上らせることは大切です。
この女性に倣いたいのです。
シャローム