「まず、ささげ物の頭に手を置き、それを会見の天幕の入り口で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を祭壇の側面に振りかける。」レビ記 3章2節 (2017新改訳)

3章は和解のいけにえの方法です。
いけにえの動物の頭に手を置くのは、特別な祈りです。
これをおこなうことで、献げる人の罪を、いけにえの動物に移すのです。
そしていけにえを屠ります。即ち命を犠牲にするのです。
こうしなければ、いけにえを献げる意味はありません。

そして、いけにえの動物の屠り方、その血をどのように振りかけるのか、脂肪、内蔵部分はどのように焼いていくのかが、細かく決められています。
本来ならば、私たち罪人は命の犠牲を払ってもなお、聖なる主に近づくことなどできないはずなのです。
ですから、象徴的な儀式とは言え、いけにえの動物の命の犠牲が必要です。
献げましたと、祭壇の前に動物を連れていくだけではだめなのです。

屠った動物の血は大切な祭壇に振りかけます。
祭壇が血で汚れてしまうと思いますが、それが必要なのです。
この祭壇は、私たちが真剣に主の前に進み出るためにあります。
鳴き声が響き、祭壇には血が流れ、いけにえの動物の匂い、焼いた煙、その香りと、凄まじい状況がそこにはあります。
それを聖なる役目として祭司がおこなうのです。
手が、装束がよごれる仕事だと、他の人に任せないのです。
このような大変な犠牲を毎回払わなければ、主を礼拝し、和解を祈り求めることは許されません。
私たちの罪はそれほど大きく深いのだと、毎回、思い知るのです。
1章にも似た記述はありましたが、3章の献げ方は、ただ読むのではなく、その場に実際に自分が身を置くようにして読まなければならないのです。

今現在、新約の時代に生きる私たちは、いけにえの血を必要としません。血を流し、振りかけません。
でも、それは簡単になったのではありません。
血の犠牲は、罪のない方が流してくださったのです。
私たちがするのは、自分の心をすべて注ぎ出し、血がすべて流れ出てしまうように心とたましいをその芯まで砕いて祈るのです。
血を流さなければならないほどの真剣さを覚えたい朝です。
シャローム