「預言者イザヤが主に祈ると、主は、アハズの日時計に落ちた日時計の影を十度後に戻された。」列王記 第2 20章11節 (2017新改訳)

アッシリアから守ると、主は語ってくださいました。
ヒゼキヤ王はそのしるしを求めます。
イザヤは、日時計の影が進むか、戻るかを選ぶように示します。
日時計が進む、戻るとは、太陽の運行が変わり、時間が進んだり戻ったりするということです。
現代の私たちには、とても信じられないことです。
しかしイザヤとヒゼキヤの間では、普通に会話が進むことに驚きます。

奇蹟ばかりを主に期待するのは間違っているでしょう。
しかし、私たちの常識や経験で不可能だと、判断するのではなく、主のことばに信頼する信仰とは、こういう場面で問われるのでしょう。
同じことが現代にも起きるとは思いませんが、主が望まれるならば、それも起きるのです。
全能で、天と地とそこにあるものをすべてお一人で造られて、今も支えていてくださる神、主ならばできるのです。

絶対的に不利な状況、アッシリアに滅ぼされるのは確実であるという状況で、主の語られる救い出す、守ると言うことばに信頼し期待できる信仰は、こういうことを問われるのだと、思います。
ここで大切なのは、9節にあることばです。
「主は約束したことを成就されます」
主のことばに絶対的の信頼を置き、主の愛に頼り休める人が、このような主の助けを経験できるのです。
この主を知っていることを喜びます。
たとえ、私の一生で日時計が十度戻ることを経験することがなくても、このようなことができるお方、主に愛されていることを知っているからです。
味わっているから。
シャローム