「あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者も主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」マラキ書 2章17節

神の命令に聞き従わない民への警告が語られます。
マラキは神のことばを取り次ぐと同時に10〜12節では、自分も民の一人として罪を告白して悔い改め、神のあわれみを祈るのです。

しかし、この時、多くの民は罪を自覚しないばかりか、神を侮っています。
「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」と声を上げます。
神を侮る言葉は、1章6節でも語られ、同じ意味の言葉は逆の表現で1章2節でも語られました。
「どのようにして〜愛してくださったのですか」

私たちの心と行動は、神様を前にしてこんなにも厚顔なのでしょうか。
恐ろしいものです。
私の中に、そのような心がないのかを吟味して、神のことばを聞かなければならないと思います。

神様はさばけないのではなく、見過ごされているのでもなく。
ただ、忍耐して私たちが神様の前に帰って来ることを待っておられるのです。
神様の愛を無駄にしてはいけないのです。
シャローム