「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」創世記 43章14節 (2017新改訳)

エジプトで手に入れた食料が底を尽きます。再び手に入れなければならない緊迫した状況ですが、彼らは買いに行くことができません。
父ヤコブが、末息子のベニヤミンを連れてエジプトへ行くことを拒んでいたからです。
エジプトへ連れて行けば、ベニヤミンもヨセフのようにいなくなってしまうと、恐れたのです。
エジプトの権力者がヨセフだとは、家族の誰も知らないのですから、恐れる気持ちも分かります。

しかし、ベニヤミンを失いたくないと言う気持ちだけで、正しい行動ができない父ヤコブなのです。
しかし、ユダが自分が命に代えてベニヤミンを守ることを訴えて、父を説得します。
38章で息子の妻であって未亡人となったタマルとの間で罪を犯し、その背後にも主の義とあわれみがあることを経験したユダならではの、正しい行動です。

ここまで、祈る姿が一切記されないヤコブです。その姿が彼の萎えてしまった信仰を表しています。
しかしこのとき、ようやく全能の神に委ねることができるのです。
「失うときには、失うのだ」という告白は、主が取り戻してくださり、主はあわれみ、助けてくださることに期待するヤコブの姿を見ることができます。
諦めた言葉でも、自暴自棄になっている言葉でもありません。
自分の力ではなく、主の全能であわれみ深い力に期待するのです。

辛い経験だけに心を支配されず、主に期待するときに、道が開かれるのです。

この二度目のエジプト訪問が、ヤコブとヨセフの再会、兄たちとの和解へと道を開きます。
主に信頼して歩み出すときに、幸いと祝福が既に注がれていることを知ることができます。
シャローム