今日のみことば of シティリジョイスチャーチ2014

シティ リジョイス チャーチ
日本同盟基督教団

入り口0920.jpg

HOME > 今日のみことば

10.27今日のみことば

2018-06-20

キャンドル-2.jpg「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」 ヨハネの福音書 15章5節
 主イエスは、ご自身のことをぶどうの木だと、たとえられました。
 そして私たちのことを枝であると、たとえられたのです。
 枝は、木に繋がっていなければ、葉を茂らせて果実を結ぶことはできません。
 どこまでも木が主体であり、枝は木に繋がるのです。
 枝のために、木があるわけではありません。

 同時にこれは信仰の結果を示してるわけです。
 信仰を持つ、主イエスを信じると言うのは、神様と私を結び合わせてつなぎ、関係ができるのです。
 信じた結果、なにか願い事が実現すると言うことで終わるのではなく。
 私の内側に神様のご性質が結実して、形作られていくのです。

 神様と、信じる私は遠く離れたところにいるのではなく。
 繋がっています。
 イエス様のいのち、愛が流れてくるのです。湧き出てくるのです。

 信仰を持つと言うことは、願い事がかなえられるようになるのではなく。
 キリスト・イエスの愛が、私の中に結実していくことです。

 また、信仰はイエス様の愛の中にとどまることです。
 シャローム

「今日のみことば」メールの配信

ここに記している今日のみことばは、希望される方には毎日、指定のアドレスに配信をさせていただきます。
毎朝7時頃を配信時間の目安として送っています。
希望される方は、下記のアドレスまでご連絡ください。

シティリジョイスチャーチ 牧師榊原康成
cityrejoice-ch@kcf.biglobe.ne.jp

10.26今日のみことば

2018-06-20

「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」 箴言 31章30節
 水曜日です。今朝は「箴言」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 箴言は、いわゆる「格言」であると評することはできますが、他にも数多くある格言集と、根本的に違っていることがあります。
 それは、1章7節のことばに示される内容です。
 「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」1章7節
 神を恐れ、神を礼拝する民が、神様のことばに従って生きる時に、その指針となるべきものなのです。
 もちろん、神様からの語り掛けであり、神様が教え、与えてくださったことばなのです。

 箴言の内容は、通常は二行の対句の形を取って語られています。
 この書き方、形も読みやすく、心に留まります。

 今朝、選びましたのは箴言の最後のところからです。
 ここは夫と家族にとって素晴しい妻、母の姿を示しています。
 そしてその最後に語るのは、妻であり母である女性の一番の魅力、ほめたたえられるべき内容です。
 それは主を恐れる女性であることです。
 姿形の美しさではなく、内面の美しさと生き方に魅力があることを示します。
 1章7節で、最初に示した通り、神を恐れること。
 神を敬い、礼拝を中心にした生活、主のことばに従う生き方ができることが、その女性の美しさであり、魅力だと語ります。

 しかし考えてみれば、教会は来るべき日に主に迎え入れられる花嫁であると、たとえられるわけですから、男性にも通じることだと言えます。
 そうであれば、箴言は徹頭徹尾、主を恐れ、主を愛する人の幸いな生き方を教えてくれることばが詰まっていると言えます。
 また、31章ありますから、毎日1章づつ繰り返し読んでいくなかで、そのことばの持つ内容の深いところがより分ってきて、実生活で生きるのだと言えるのです。
 読みやすい二行句ですから、繰り返し読み続けたいものです。
 シャローム

「今日のみことば」メールの配信

ここに記している今日のみことばは、希望される方には毎日、指定のアドレスに配信をさせていただきます。
毎朝7時頃を配信時間の目安として送っています。
希望される方は、下記のアドレスまでご連絡ください。

シティリジョイスチャーチ 牧師榊原康成
cityrejoice-ch@kcf.biglobe.ne.jp

10.25今日のみことば

2018-06-20

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 ヨハネの福音書 14章27節
 この後、イエス様は捕えられて、不法な裁判に掛けられて処刑されます。
 死にます。
 弟子たちのところから去って行くのです。
 居なくなるのです。
 愛する主イエスは居なくなります。

 もっと一緒に旅をしたかった、もっとたくさんお話しを聞きたかった。もっと楽しく食事をしたかった。
 際限がありません。きっと願いがどんどん増えていくのです。
 イエス様が居なくなってしまうのだから。

 でも、イエス様は平安を残してくださり。平安を与えてくださる。
 イエス様が居なくなったと分った瞬間に、私たちは淋しくなり、不安になり、迷います。
 でも、次の瞬間にこの日のことばと約束を思い出すのです。
 不安ではなく、心乱れるのではなく、平安が与えられる。

 イエス様は居なくなるけれど、平安を残してくださる。
 この世の安心とは違って、決して失われたりしない平安です。

 イエス様が、一番大切なものとして残してくださったのは平安。与えてくださるのは平安。
 十字架の死からよみがえった日曜日。
 イエス様は、再会した弟子たちに向かってこう言われました。
 「平安があなたがたにあるように」

 冨、名誉、権力にまさる主のくださる平安が、今、貴方のものなのです。
 主イエスは、貴方に向かって「平安があなたがたにあるように」と、今朝も語りかけておられる。
 そしてその通りに平安を与えてくださる。

 主の平安をもって今日の歩みを進めるならば、すべては益と変わり、満たされた仕事ができる。
 シャローム

10.24今日のみことば

2018-06-20

「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」」 ヨハネの福音書 13章35節
 ついにイスカリオテのユダが、イエス様を裏切り、イエス様が十字架につけられる時が近づきました。
 最後の時を目前にして、イエス様は弟子たちの足を洗ってくださいます。
 それはイエス様とペテロを初めとする弟子たちとが関係があること、いいえ関係が結ばれていることを明らかにしてくださる行為でした。
 私たちもまた、イエス様と関係がある身です。繋がっています。

 そしてイエス様は、弟子たちに新しい戒めを与えます。
 互いに愛し合うと言う戒めです。34節。
 禁令や禁欲主義の生活を勧めると言ったものとは、まったく違う戒め。神様のことばを与えます。
 それは愛すること。

 続く35節で、イエス様は凄いことを教えてくださる。
 「もし互いの間に愛があるなら」
 そうであれば、人々はその群れを、イエス様の弟子と認めて、その群れに加わりたいと願うようになるのです。

 聖書の知識がより豊富であるとか、神学的な考察に優れているとか。
 聖句をたくさん、暗唱しているとか。そういうことではないのです。
 私たちはそういうことに目が向きがちですが、違うのです。

 互いに愛し合っているか。
 互いの間に、ちゃんと愛が存在しているのか。
 それがイエス様の弟子となる大切なことであり、価値があることです。
 互いにということが大事です。
 愛があることはどうしたって外せないのです。お互いにです。
 イエス様に愛されていることが源泉ですから、可能なのです。
 今日一日の歩みもそのように愛をもって進めたい。
 シャローム

10.23今日のみことば

2018-06-20

「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」 ヨハネの福音書 12章43節
 本当の神様を信じて生きるよりも、現状に対して波風を立てないように生きる方を選ぶ。
 愛したと、ここにはありますが、愛は犠牲をともないます。ここはそうではありません。
 人の栄誉の方を選ぶ人は、犠牲を払わないで、人からの栄誉を好ましく思うと言う事です。

 神様からのお誉めの言葉をいただける代わりに、困難や戦いを強いられることは避けられません。
 それが嫌な人は、人からの評価、称賛を受けたいと願うのです。
 そちらを好んだのです。

 しかし神様の示してくださった真実は、後の世にも関係してくるのです。
 今を問題なく生きようとばかりすると、それは滅びを招くことになります。

 何が本当に大切にすべきことかを考え。
 何を愛して生きるべきかを選び。
 何を犠牲にすべきかを選んで。
 決断をして生きる生き方を、したいと思います。

 好ましい人生よりも、愛する人生を選びたいものです。
 シャローム

10.22今日のみことば

2018-06-20

「イエスは涙を流された。」 ヨハネの福音書 11章35節
 イエス様が、はっきりと悲しみを現されて涙を流されたことを記す箇所です。
 短い1節ですが、とても大切なことを教えてくれます。

 ここはマルタとマリヤ姉妹の兄弟であるラザロが病で亡くなった場面です。
 ラザロが重病にかかっていることを聞かされて、ラザロを訪ねてきて欲しいと、イエス様は懇願されていたのです。
 イエス様は、ラザロに会いに出かけます。
 しかし、重病だと聞かされているのに、その町になおも二日間もとどまってから、出発したのです。
 イエス様は、ご自分が到着する前にラザロが亡くなっていることもご存知です。
 しかし急いで駆けつけなかったのです。

 それはこのことが、病、死で終わらないで、神の栄光を明らかにするものとなるためでした。

 マルタたちの家に着いた時、ラザロは亡くなっていました。
 マルタたちの悲しむ姿を見られて、イエス様は、涙を流されたのです。
 この涙から、三つのことを学び取ることができます。

 1.御子が、完全な人となって地上に来てくださったのだと、分ります。
 悲しむ心、涙を流す心。
 私たち人とまったく同じ感情を持っていてくださるイエス様なのだと分ります。

 2.ラザロが死んだこと、マルタとマリヤが悲しんでいることに、イエス様は共感されて涙を流してくださっています。
 私たちの心を知ってくださる方、神様なのです。
 遠くおられて私たちの心に関心を持たないような神ではないのです。

 3.死を恐れる人の苦悩、涙を知ってくださる、弱さを共感してくださる神なのです。
 悲しみを共感してくださるだけで終わらないで、私たちが死を避けることが出来ないで、苦悩することに共感してくださる。
 私たちの弱さを知っていてくださる方。
 同じように泣いてくださる方です。

 しかし、一番大切なことは、これが「死」で終わらないことです。
 イエス様が流された涙は、新しい命、罪を赦して、永遠の命へと繋がっていくのです。
 私に流れてくいくのです。
 シャローム

10.21今日のみことば

2018-06-20

「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。」 ヨハネの福音書 10章25節
 イエス様は、私たちに対して「わたしは話しました。」と、語られます。

 私たちに罪があること。
 そのままでは、私たちは滅びること。
 神はそんな私たちを、なおも愛していること。
 私を罪から救うためにイエス様が来られたこと。
 私の罪を贖うために、イエス様がご自分から進んで十字架の上で命を差し出されること。
 このイエスを信じる人は、救われること。

 必要なことはすべて、イエス様は語ってくださったということ。
 語られたことが真実であることは、イエス様の行われたわざによって確かであること。

 しかし、残念なことに多くの人は、それを信じないと、イエス様は指摘されます。

 私は、貴方は、どうでしょう。

 イエス様が語られた愛のことばと。
 イエス様の行われた愛のわざとは。
 一致しています。
 貴方は、信じますか
 貴方は、信じていることを確認できましたか。
 不安になったり、迷ったりしませんか。
 私たちは自分を信じられなくても、イエス様のことは信じられるのです。

 イエス様は、私に、貴方に、必要なことであり大切なことを話してくださいました。
 私は、感謝して喜び、信じます。
 素直にそう答えることができる幸いを確認する朝です。
 シャローム

10.18今日のみことば

2018-06-20

おはようございます。
今日から、松原湖のキャンプ場でおこなわれる牧師の研修会に出席しています。
ネット環境に制限がありますし、早朝からプログラムが続きますので、毎朝送ることができません。
今日から三日分を、簡単にまとめて配信をさせていただきます。
よろしくお願いします。
榊原康成

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」」 ヨハネの福音書 8章32節
 真の神を知り、御子であるイエス様のことばを聞いて信じる人が、真理を知り、本当の自由な人に変わります。
 私たちは、なんでも自分の思い通りに行い、好きに生きることが自由だと思っていました。
 何者かの支配や指示を受けずに、自分で決定し、自分の思うように動くことを、望み、それが叶うことが自由だと思っていたのです。

 しかし本当に自由とは、罪から解き放たれていくことであり。
 真の神様の愛の中で生きることでした。

 しかし、イエス様のことばを聞いて従うのが嫌な人がいます。
 従順に従うことは不自由であると考えるのです。
 でも、それは欲望や罪の奴隷になっている状態でした。
 神様から離れて、隠れ住み、罪の支配下にいることに気がつかないだけなのです。
 なぜなら、神の光に照らして自分の見ていないから、分らないのです。

 でも、今、イエス様のことばが与えられました。
 それを聞いて従う時、私たちは真理を知り光に照らして自分を知ることができます。
 私たちは今、自由なのです。
 罪に支配されないで、愛の中に生きるように変わったから。

 本当の自由は好き勝手することではなく、愛のあるところで生きることです。
 シャローム
******
 短く、19日、20日の分を書きます。
19日
 「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ」詩篇3篇4節
 水曜日にあたりますので、聖書の書簡紹介です。
 詩篇です。
 150篇の「詩」がおさめられています。
 ソロモン、ダビデの作と思われる詩も見受けられますが、全体の3分の1は、著者不明です。
 多くの人に愛されている聖書の詩篇です。
 賛美そのものです。
 仕事に特徴もありますし、分類することもできますが、一つの詩の中に様々な内容を織り交ぜているものもありますから、簡単に分類はできません。
 声に出して、読むことをお勧めします。
 礼拝で歌う賛美歌、ワーシップと同じように賛美そのものだと言えます。

 選びました1節は、嘆願の祈りのことばです。
 でも、同時に神を信頼して、賛美しています。
 神への信頼と熱い賛美の心を持つ信仰者の、熱心な嘆願です。
 信仰者の神への嘆願と賛美は、並行して声に上げることができる大切なことばだと思います。

 答えられると信じて祈る嘆願は、同時に、賛美声も自然とあげさせます。

 神に呼ばわりましょう。そして、神を賛美しましょう。
 シャローム
******
20日
 「彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。」 ヨハネの福音書 9章38節
 盲目であったこの人は、イエス様に目をあけていただき見えるようになりました。
 しかし、パリサイ人たちを初めとして、イエスを信じない者たちから、非難されることになります。
 しかし、生まれるつき見えなかった目が、今は見えると言う真実に彼は突き動かされます。
 そして、もう一度イエス様にあった時。
 彼は、イエス様の言葉を聞いて信じたのです。

 「主よ。私は信じます。」
 このことばを、自分の口で、ことばにして告白できることは、なんと幸いなことでしょう。
 イエス様にい愛されていることを知った人は、イエスを愛するように変わり。
 「主よ。私は信じます。」と、イエスが真の神であることを信じて、告白するのです。
 すると、必然的に神を礼拝するようになります。
 罪の奴隷から、愛の奴隷(自由になること)となって、礼拝者に変わるのです。

 自分の口で、自分の言葉として、「主よ。私は信じます。」と、このことばを告白できることは幸いです。
 嘘でもこれが言えるかと言えば、それは不可能なのです。
 「主よ。私は信じます。」と、声に出せた貴方は幸いな人です。
 愛の人に変わっているのです。
 イエス様が愛の方ですから、その方の弟子なのですから。
 シャローム

10.17今日のみことば

2018-06-20

「だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」」 ヨハネの福音書 7章49節
 パリサイ人が、イエス様を慕っている民衆たちのことを批判して言った言葉です。
 民衆を、のろわれている人だと、切り捨てます。
 罪人であり、イスラエルの唯一の神様に愛されることのない人だと、切り捨てているのです。
 そして自分たちは、正しい人であり、神の国に迎え入れられる人だと、自負しているのです。

 彼らは、民衆が律法のことをよく知らない人だと評価します。
 律法を守らない人たちだと評価します。批判しているのです。

 でも、彼らは気がついていません。
 神の目には、パリサイ人もまた、罪人であり、律法を守らない人、即ち、のろわれた人です。
 旧約聖書の申命記27章26節に、そのように書かれています。

 律法を守っていると言うなら、嫉みからイエス様を殺そうなどと、考えることはないはずです。できないはずです。
 しかし彼らは、神様を一番にして守り従うのではなく、自分たちの決めた約束事を大切にして、他の人にそれを守らせようとしているに過ぎません。

 文字としての律法は知っているのかもしれません。
 しかし、神様の愛の律法を知らない彼らのほうが、不幸です。罪人の代表です。
 人を罪人呼ばわりする分、自分たちの罪の大きさを知らない、のろわれた人です。
 他人を断罪する人ほど、罪深いのです。自分の罪を認めないのですから。

 しかし私たちはそうであってはいけないのです。
 私たちは、自分の罪を認めて、イエス様の前に悔い改め。
 イエス様を救い主と信じるのです。
 そこから始まります。
 私たちはのろわれるのではなく、祝福される神様の子どもになりました。
 シャローム

10.16今日のみことば

2018-06-20

「こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。」 ヨハネの福音書 6章19節
 湖の上で嵐に遭遇し、翻弄される弟子たちのところにイエス様が、湖の上を歩いて近づかれ、舟に乗り込まれると嵐が鎮まる奇蹟の場面です。
 同じ出来事をマタイの福音書は、イエス様とペテロとのやり取りを詳しく書きますが(マタイ14:24〜)、ヨハネはわずか3節に簡潔に示します。
 余分なことは書きません。
 イエス様のことばと、弟子たちの行動に注目しました。

 この湖の上で出来事の意味を考えました。
 恐れるなと、最終的にイエス様は声を掛けられます。
 弟子たちはなぜ恐れ、何を恐れたのでしょうか。

 イエス様が湖の上を歩いて、自分たちに近づいてこられたから恐れた。
 イエス様だと気がつかなかったから、恐れたのでしょうか。それだけなのでしょうか。

 弟子たちは、嵐に遭遇して、解決、脱出もできずに困っていました。
 そこに外から、助けが来ました。イエス様です。
 しかし、弟子たちは恐れた。

 困った時の神頼み、と言いますが。
 私たちは自分の手に負えない問題にぶつかった時に、むしろ外からの助けを恐れて拒むような傾向があるのではないでしょうか。
 素直にイエス様の助けを求めることができない自分。
 祈った時に答えられない、イエス様に見捨てられた、と騒ぐことはあるのに。
 問題の最中にイエス様の方から関わってくださると、急に不安になり、助けを拒んでしまう。
 そんなことがあるように思います。

 イエス様が、自分を愛してくださり、助けてくださることを素直に喜ぶと言う、その前に。
 問題があるのに、今、イエス様に何を言われるのだろう、と余計なことを考えて恐れる。
 弱い自分から、素直にイエス様に助けを求めない私が、ここにいるように思います。

 自分から助けを求めるのはよくても、イエス様の方から助けの手を伸ばされると、急に手を引っ込めてしまう。
 そんな自分勝手な姿があるように思います。

 しかしイエス様は、変わらないで声を掛けてくださる。
 恐れるな。わたしだ。
 わたしは、あなたを見捨てない。
 いつも、イエス様の方から私に近づいてくださる。そして愛してくださる。
 シャローム

10.15今日のみことば

2018-06-20

「ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。」 ヨハネの福音書 5章42節
 神であるイエス様は、私たちのことを知っていてくださいます。
 私の名前を呼んで、神の御前に召し出すこともあります。
 私の名前を呼んで、弱っているところを癒してくださることもあります。
 私の心の内を、私以上にご存知です。心の一番奥深いところまで知っておられます。
 隠すことなどできません。

 そのイエス様が、厳しいことばを語られます。
 聖書を読んでいるのに、イエス様のところに来て、命を得ようとしないと。
 そしてさらに厳しいことばを語られます。
 私たちのうちには、神の愛を持っていない。

 それはそうでしょう。
 安息日に、病の人を癒すことを禁止しているのです。
 仕事をしてはならない日だから、癒す行いも労働として禁止するということでしょう。
 紙に書いた人が定めた律法を守ることに一生懸命なのです。
 その結果、大切な神の律法を忘れています。
 それと同時に、神の愛を忘れています。
 そして、その人の内には神の愛がなくなったのです。

 律法を守る誠実さは大事です。でも、守ることが目的なのではなくて、神の愛を知り、愛を実践する者となっていく時に守れるようになることが大事なのです。
 神の愛を知り、神の愛を小さき者に、隣人に実践できる者となっていきたいです。

 安息日は、本当の意味で休み、イエス様の大庭で憩い、使命を確認するとしたい。
 イエス様に、あなたの内には神の愛が大きくなっていますと、言われるように、イエス様の愛をまずは味わっていたい。
 シャローム

10.14今日のみことば

2018-06-20

「イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」 ヨハネの福音書 4章50節
 サマリヤの井戸を舞台にして始まる4章です。
 ここに登場する人は、息子が病気で瀕死となっていて、イエス様に癒して欲しいと願ってやって来た人です。
 イエス様に助けて欲しい、息子を癒して欲しいと願うこの人に、イエス様は「直っています」「帰って行きなさい」と、ことばをかけます。
 この人は、イエス様のことばだけを信じ、頼りとして、家へと帰ります。

 彼の息子は直っていました。
 それもイエス様が、彼にことばをかけた時間に、直っていたのです。

 イエス様のことばを聞いて、信じます。
 ことばを信じます。
 しるしを求めるのではないのです。
 信じて、従います。彼の場合は、家に帰ることが、その従順を示します。
 すると、イエス様のことばが確かな約束であり、恵みであることを知るのです。
 従う時に、知ることができます。より深く知ると言うべきでしょう。

 この4章では、井戸で出会った女性が、聞いて信じました。
 彼女からイエス様のことを聞いた人たちが、イエス様のことばを聞いて信じました。
 自分で聞いたと、42節で証言します。

 貴方も、聖書を通して、イエス様のことばを聞いた人です。
 聞いて信じた人です。
 従順に従う時、そのことばの約束と恵みをさらに深く知り、味わうのです。

 今日、イエス様からかけていただいたことばを思い巡らせ、従っていきます。
 恵みは既に貴方のものです。
 安心して帰途につく、安心して今日の一歩を踏み出しましょう。
 シャローム

10.13今日のみことば

2018-06-20

「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」」 ヨハネの福音書 3章3節
 四つの福音書の中で、もっとも知られているのが、このヨハネの3章だと、言っても言い過ぎではないでしょう。
 もちろんそれは、3章16節があるからです。
 聖書の要(かなめ)。福音の中心。聖書の高嶺。福音の神髄。この1節で聖書全体をも現し得る。
 様々な表現を使って、この1節がどれほど大切であり、神の愛が表されているかを、多くの先人が語ってくれました。

 そして3章は、16節だけでなく、非常に多くの大切な宝物のことばがあります。

 新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。と、イエス様はニコデモに教えられました。
 イエス様を信じた者は、新しく生まれた人だと、いうことです。
 貴方も私も、何も変わっていないようでも、人の目には何も見えなくても、新しい人となって生まれているのです。
 別のものになったと言って良いのです。

 書きながら、車のモデルチェンジを思い浮かべました。
 トヨタ車の何々が、2016年秋にモデルチェンジしました。と、発売されれば、それは新車です。一番新しい車でしょう。
 でも、前の車と繋がっており、どれほど大きな変化を加えたとしても、それは新しい車ではありません。
 どこまでもモデルチェンジ。
 しかし、車は車でも、以前とは全く違う車として、生み出されたなら、それは真に新車です。
 エンジンが違う、いや、動かす動力源が違う。肉ではなく霊。
 前の車のようであり、似ているところはあっても新しい車です。同じ名前を付けて呼んだとしても新しいのです。
 ちょっとくだらないことを思い浮かべてしまいました。

 でもイエス様は貴方に言われる。
 「まことに、まことに、あなたは新しく生まれた人です。以前とは違うのです。」「貴方は、神の国を見ている」
 新しい自分を喜ぶ朝としましょう。
 そして新しい貴方に相応しい、新しい生活が始まっています。
 シャローム

10.12今日のみことば

2018-06-20

「サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」ヨブ記 1章9節
 水曜日です。今朝は「ヨブ記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。
 かなり挑戦的な内容かと思います。
 是非、健康である時に読み通しておいて欲しい書です。

 ヨブ記は、族長時代に生きた信仰者であると考えられています。架空の人物ではなく、実際にいた信仰者の生きた信仰の証しを記します。
 大きな命題として「正しい人が何故苦しまなければならないのか」と言うことがあります。

 サタンが神の前で申し開きしている場面から、ヨブが試練に会う状況へと移ります。
 本書の大半が、ヨブと友人たちの問答で示されます。
 最終的に、主なる神様の介入、ことばがあり、結論へと進みます。

 ヨブは神を恐れる正しい人でありましたが、サタンの挑戦があり、神の許される中で、ヨブは試練を受けることになります。
 その試練は、私にはとても耐えられそうにもない激しく苦しいものです。

 私たちの信仰の生活は、この地上での毎日そのものです。
 自分や家族、愛する人の健康や家の様々なことで、私たちは悩むことも悲しむことも、もちろん喜ぶこともあります。
 そして仕事、職場での様々なことがあります。
 人間関係、ことば、会話の一つ一つでも私たちは悩み、傷つくでしょう。

 そんな時、どこからか(ここではサタンが)聞こえ、ささやくのです。
 「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」
 キリスト者は、神を恐れ生きるのですか?と。

 その声、ささやき、誘惑、挑戦をどう受けるでしょうか。
 私たちは、そのささやきに、誘惑、挑戦に対して、答えます。
 「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」1章21節

 主は、ヨブに最後まですべてのことを明かされることはありませんでした。
 しかし、ヨブを愛して祝福を倍にしてくださる方です。
 私たちは、何故ですかとばかり問いかけるよりも、主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかなと、声に出したいと、思います。
 シャローム

10.11今日のみことば

2018-06-20

「イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」」 ヨハネの福音書 2章19節
 カナの婚礼で、イエス様は最初のしるしをおこなわれました。
 続けて、エルサレムの神殿から、神を礼拝することを形だけ利用して、商売をしていた人たちを追い払い、神殿をきよめたのです。
 ある人は、しるしを見てイエス様を信じました。
 ある人は、神殿をきよめる激しい行いを見て驚き、イエス様と敵対してしまいます。
 ある人は、もっとしるしを見せてくれなければ信じることはできないと言いました。

 しかし、大事なことはイエス様のことばを聞くことです。
 イエス様は、続けて神殿で動物のいけにえを捧げて礼拝する時が終わり、新しい礼拝が始まる時が来ていることを示されました。
 それはイエス様ご自身をいけにえとしてささげて、三日目によみがえることで、救いの業を完成することです。
 そして、十字架の犠牲を払ってくださったイエス様のことばを聞き、贖いの死を信じた人が救われるのです。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」
 コリント人への手紙 第二5章17節のことばがは、確かな約束であり、私が聞いて信じるべきことばです。

 私たちが「キリスト」救い主を信じるならば、私たちは霊によって新しく造られた者となって、救い主であるイエスを信じる民になります。
 私たちは、以前の私たちではありません。
 キリストに繋がり、キリストによって新しくされ。
 新しい生活を始めるのです。

 イエス様は、ちゃんと三日目によみがえると語ってくださっていました。その通りに成就しました。
 私も、イエス様のことばのとおりに、新しくなっているのです。
 過ぎ去った古い私、罪の中に居た私は過ぎ去っています。
 そうは思えないですか。そんなことはないのです。古い貴方は既に過ぎ去っています。
 新しい貴方がいます。

 新しい貴方にふさわしい新しい生き方を求めましょう。
 今日、するべき新しいことがあります。
 それはできるのです。
 新しく造られた私たちなのですから。
 シャローム

10.10今日のみことば

2018-06-20

「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。」 ヨハネの福音書 1章41節
 今朝から、福音書の四番目に納められているヨハネの福音書を読みます。
 使徒のヨハネが著者であると考えられます。
 特徴は「イエスが神の子キリストであること」を証言することを主な目的としていること。
 同時に、1章1節の「初めに、ことばがあった。」という表現に代表されるように、ギリシャ哲学的な言葉遣い、表現が用いられていることです。
 また、他の福音書にはない奇蹟の物語「カナの婚礼、ぶどう酒の奇蹟」があることもあげられます。
 他には、井戸の前でのサマリヤの女とイエス様の対話などの個人との対話が載っていることです。
 他の3つの福音書とは、随分と様子が違いますので、読み比べると発見が多いと思います。

 今朝、選びましたのは、1章の後半で、イエス様がヨハネたちを弟子へと招かれている場面からです。
 最初はバプテスマのヨハネの弟子であったアンデレは、イエス様と出会い、イエス様の弟子になりました。
 ヨハネが、そのように導き送り出したのです。

 イエス様の弟子となったアンデレは、素晴しいことをします。
 自分の実の兄弟であるシモン(使徒となるペテロのことです)を、見つけるとイエス様のことを紹介して、証しします。
 明確にして端的。
 「メシヤに会った」

 私たちも見習いたい行動です。
 細かな説明ができなくても良いのです。
 信じた救い主、メシヤのことを、大切な人に紹介するのです。
 そして、端的に明確に、紹介します。
 「私のメシヤです」

 こう言えること。
 こう「言葉」にできること。
 私たちの毎日に大切なことです。

 私たちには、「メシヤです」と、伝えるべき大切な人がいます。
 私たちは、本物のメシヤと出会っています。
 そのことを喜び、大切にしたい。
 シャローム

10.9今日のみことば

2018-06-20

「その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現された。」 マルコの福音書 16章12節
 金曜日に、イエス様が納められたお墓をよく見ていたマリヤたちは、日曜日の朝に死んでしまったイエス様の身体ではなく、よみがえったイエス様との再会を果たしました。

 初めは、お墓が空っぽとなっていたことに加えて、お墓にいた青年の姿をした御使いに出会って驚き、恐ろしくなってしまったのですが。
 しかし、そんなマリヤたちにイエス様の方から、会いに来てくださったのです。

 イエス様の死と言う絶望から。
 空っぽのお墓と言う、恐ろしい経験をし。
 今、よみがえったイエス様が会いに来てくださると言う喜びを経験しました。
 そして、少しづつ、そして更に大きく、イエス様が語ってくださったことば、約束が確かであることを味わっているのです。

 そして田舎(エマオの町)に向かっていた二人連れに、イエス様が会いに来てくださった。
 別の姿だと、書いてあります。
 イエス様のことばを聞いて、慕い求める人には、イエス様の方から会いに来てくださる。
 そして、イエス様の口から出たことば、約束、聖書のことばがすべて真実であり、成就することを知ることができます。
 そういう日が、誰にでもあるのです。

 貴方にも、再臨の日に、イエス様はマリヤたちとは違う姿で、会いに来てくださるのです。
 そして、新しいからだをとってよみがえるという約束と、永遠のいのちをいただき天の御国へ入る約束が成就します。

 どんな姿でイエス様は、会いに来てくださるのでしょう。
 期待が高まります。
 そして、その前に、今日も聖書を通して、イエス様が私たちに愛と力を与えてくださることばを語りかけてくださるのです。
 日曜日、主の礼拝の日です。期待して集まりましょう。
 シャローム

10.8今日のみことば

2018-06-20

「マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。」 マルコの福音書 15章47節
 救い主であるイエス様が、私たちすべての人の罪を身代わりに背負って、十字架で死なれる15章です。
 十字架の場面には、実に色々な人が登場します。
 イエスをあざけって、処刑場を通り過ぎる人たちがいます。
 処刑に関わる人はイエスには興味が無く、自分たちが役得として手に入れることができるイエスの衣服を分け合う相談をしています。
 イエスを嘘の罪で告発して、まんまと処刑台に送り込むことに成功して喜んでいる人もいます。
 立場上、イエスの処刑を決定したピラトは、関わりになりたくないという態度をあからさまにしています。

 そんな状況の中で、イエスに目を向けて「見ている」人を著者のマルコは三種類の人として記しました。

 「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」36節
 偉大な預言者と考えられているエリヤが、遣わされて来て、イエスを助けるところを見させてもらいたいものだと、あざけりの心と目を向ける人たちです。
 自分たちこそ、この十字架の架けられているイエス様に愛されて救っていただかなければならないことに気がつくことができない、見ているようで見ていない人です。
 この人たちは、イエス様の愛のことばも聞こえていませんでした。

 「また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。」40節
 恐れながら、不安に心を揺れ動かされながら、でも、目を離すことはできないで、逃げ出さないで、イエス様の処刑を見守る女性たちです。
 恐れ、不安を持っていても問題を見過ごさないで、遠くからでも見たいと思い、実行する人です。
 イエス様はこういう人たちを大切に思い、愛してくださっています。

 47節の「よく見ていた。」マリヤたちです。
 あの墓に、安息日が終われば、出かけて行って、自分たちの手でイエス様に最後の葬りのために香油を塗って差し上げたいと願って、よく見ている人です。
 イエス様が復活をすることを信じるところには至っていません。
 でもでもこの後、マリヤたちには亡骸に香油を塗るよりも、もっと価値のある復活のイエス様を証しして伝えると言う使命、働きが与えられるのです。
 よく現状を見て、自分にできることをしたいと思い、行動するなら、その先に祝福があります。
 イエス様はその人に、素晴しい使命を与え、また、愛のことばを掛けてくださるのです。

 イエス様のことばをよく聞き。
 自分の周りにある状況をよく見て。
 そしてすべきことを探り求めるなら、主が、恵を与えて、導いてくださるのです。

 聞く耳と、曇りの無い目を与えて欲しいと、今朝、イエス様に祈り求めます。
 シャローム

10.7今日のみことば

2018-06-20

「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」 マルコの福音書 14章50節
 イエス様がゲッセマネの園で祈っておられた時に、イスカリオテのユダの手引きで、群衆たちも一緒になってイエス様を捕えに来ました。
 最初は、大祭司のしもべに剣で向かっていったペテロを初めとした弟子たちは、みんな逃げ出します。
 イエスを見捨てて逃げます。
 自分だけを自分の力で守ろうとしたのです。いいえ。自分のことだけが大切になった。
 ですから、イエスを捨てました。逃げ出しました。

 ペテロだけではない、みんな自分こそが一番弟子だと自負していたはずです。
 そのような人たちが揃って、捨て、逃げた。
 何故、最後まで抵抗しなかったのでしょう。
 誰一人として、そこに踏みとどまれなかったのですか。

 貴方は、イエス様を信じて喜んでいたはずなのに、その信仰を隠してしまったことはありませんか。
 人の目、攻撃、危険を感じて、隠すと言う行為で、イエス様のそばから逃げたことはありませんか。
 その時、イエス様に従うことよりも、なにを大切にしてしまったのでしょう。

 逃げた結果、何かを得たでしょうか、
 後悔し、涙する以外になにかを得ることがあったでしょか。

 しかし、そんな私をイエス様は見捨てないことを、味わっているでしょうか。
 シャローム

10.6今日のみことば

2018-06-20

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」 マルコの福音書 13章31節
 13章でイエス様は、ご自分がもう一度この地上に来られる日(再臨の日)についての注意を弟子たちに与えます。
 学びなさい。葉が出てくることから夏が近いことをわかるように、再臨の日のことを知りなさいと。
 目をさましていなさい。主人が旅先から思いがけない時に戻り、その時に眠りこけていたりしないように注意していなさい。
 再臨の日には、主イエスは、救い主を信じる人を四方から集めてくださるのですから、目をさましてその日を待つのです。

 主イエスは、繰り返して目をさましていなさいと教えます。
 主のことばを聞いて、目をさましていなさいと、命じます。
 主が語られることばを聞きもらさないようにとは、命じません。
 信仰の目を開き、眠りこけないで、主との再会を待つのです。
 聞くと言うことは、目をさましていなければ聞くことはできないものです。主はそのことを教えてくださる。

 ここ31節でも、終末の日に天と地が滅びると言われると、私たちにはイメージが沸きます。
 では、イエス様のことばが滅びないとは、どのようなイメージなのでしょう。
 ことばが滅びるって、すごい表現です。
 ことばがかき消されて聞こえない、と言う表現じゃないのです。
 滅びないのです。
 無くならない。変わらない。消え去らない。

 私が今立っている大地が崩れるとしたら、それは相当の変動です。まさに滅びていくのです。
 では、主のことばは滅びないのなら、私に何が起ころうとも、私の周囲の状況がどのように変化しようとも、主のことばは変質したり崩れない。
 目に見えないことばが、見える大智が崩れ滅びる中でも、滅びることがない。
 主のことば、私に与えてくださった主の約束は、それほどまでに強固で、確実です。
 しかし、と主は言われる。

 それならば私も言おう。
 しかし、何が起きても私は主から離れない。
 見えないけれども見える主のことばを握りしめて目をさまして見続けます。
 シャローム

10.5今日のみことば

2018-06-20

「エステルは答えた。「もしも、王さまがよろしければ、きょう、私が王さまのために設ける宴会にハマンとごいっしょにお越しください。」」エステル記 5章4節
 水曜日です。今朝は「エステル記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 女性の名前である「エステル」が書名に付けられています。「ルツ記」と並んで珍しい書です。
 ルツ記は、外国人の女性の信仰を示す書でした。
 エステル記は、捕囚の民として連れて行かれたペルシャ帝国の中で生きるエステルと伯父のモルデカイの信仰について示します。

 本書は歴史書として分類されるものですが、詩篇のような「詩書」的な表現がちりばめられていると感じます。
 本書は、ペルシャ帝国と言う、主を信じる国ではない生活基盤の中での信仰者の生き方をしめすのです。そのため、本書には「主」「神」と言った表現は登場しません。
 また、4章16節で、モルデカイの問い掛けに答えるエステルが、人々に断食をして、自分が王の前に行くことを支えて欲しいと願う場面でも、真にエステルが願ったのは「祈り」の支援ですが、敢えて祈りと言うことばはなく、断食だけを願います。
 選びましたここ4節は「きょう、私が王さまのために設ける宴会にハマンとごいっしょにお越しください。」との、エステルの願いのことばですが。
 この原文のヘブル語の文章の単語のかしら文字を取ると「ヤハウェイ」となり、主の名前になります。
 言葉を隠しながら、主への信仰を告白しつつ、重大な使命に向かうエステルの決意を示したのかも知れません。

 また、一章でワシュティ王妃が、王の怒りを買って、その地位を奪われたことが、エステルが王妃となって行くきっかけなのですが。
 19節になるとワシュティ王妃から「王妃」の表現がなくなっています。
 王妃の座から引き下ろされたことを、ことばの表現からも示すのです。

 このように本書は、単語一つ、ことばの表現一つにこだわって書かれています。詩書のようと言ったの、そういう意味です。
 自分の周りに信仰者が、ほとんど誰も居ない中で、信仰生活を歩む時には大変なことが多いものです。
 その時、主、神、祈りと言ったことを口にしなくても、主への信仰を証ししたり、信仰を貫くことは、難しくても可能であること。
 自分自身が信仰をしっかりと持って守りたいと願うなら、背後に主が守り導いてくださることをエステルの姿は教えてくれます。

 しかし同時に、ことばにはしなくても、信仰を明らかにすべき時にはそれを一番にすることが大切であることをエステルとモルデカイの姿は示します。
 モルデカイは、神だけを礼拝して、相手が時の権力者と言えども礼拝の対象にしませんでした。人々に強制されてもです。
 エステルは、国中の信仰者の命を守るために、命がけで王に直訴します。
 その行為をおこなうことが自分の使命、時であると確信を持って動きます。
 その時、「死ななければならないのならば死にます」との告白は、死を覚悟したと言うよりは、使命を確信した告白と言えます。

 信仰の現し方。証しの仕方を学ぶことができるエステルとモルデカイの生き方です。
 シャローム

10.4今日のみことば

2018-06-20

「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」 マルコの福音書 12章42節
 12章は、面白い出来事、やり取りと表現が幾つか見られると、感じています。
 例えばこんな箇所。
 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と、17節にあります。
 「七人の兄弟と律法に従って順番に結婚した女性は、復活した時には、誰の妻になるのか」と、23節にあります。
 そしてここ42節では、献金に関して教えてます。
 いえ、実は神様への信頼、信仰について教えてくれるのです。

 いずれの箇所においても、私たちは神様の愛の大きさと、神様ご自身の大きさを知らないのものなのだと、思い知ります。
 同時に、私たちは「右か左か」「黒か白か」のように二つに分けて考えてしまうのだと、思います。

 神のもの(所有、主権)ではない王様(カイザル)のものなどあるのでしょうか。ありません。
 カイザル自身が神のものです。

 復活を果たした人が、前の状態に引きずられることがあるでしょうか。
 神は、新しい人として私たちをよみがえらせてくださるのです。
 結婚も、男も女も、神が作られて定められ、祝福されたのです。

 そしてこの女性は素晴しいのです。
 レプタも、コドラントも、貨幣の単位としては最小の単位です。
 五十円硬貨が2枚ある、それは、一ドルに当たると、いったところでしょうか。
 100均ショップでも、消費税分が足りないほどの貧しい状態を表しています。

 ここで女性が、一枚を手元に残さなかったのが、主への信仰、愛を示します。
 一つをあらかじめ自分のためにと、手元に残すような愛で、主イエスを愛することはできません。
 主は、すべてを十字架の上で捧げて、わたしを愛してくださった方なのです。

 一つを惜しんで残すのではなく、すべてを主に期待して、渡す時に多くを受け取る時が訪れるのです。

 すべてを主に委ねる生き方が、この女性の姿に現されています。
 前の二つのできごとも同じでしょう。
 一度、ずべてを主に委ねて、渡してしまえば良いのです。
 主が、更に大きな祝福を与えてくれます。
 あらかじめ、自分の手元に取っておいて、主を試すようなことではいけなのです。

 何も持たないようで、実は、信仰者は多くのものを持っているのです。
 貴方の手に握っているものではなく、主の手にあるものが、貴方の本当に持つべきものです。
 シャローム

10.3今日のみことば

2018-06-20

「イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。」 マルコの福音書 11章14節
 葉の生い茂ったいちじくの木を見つけられたイエスが近づくと、その木は果実が一つもなっていませんでした。
 空腹を覚えて近づかれたイエスは、実がなっていないのを見ると、その木をのろうのです。
 翌日、その木は根まで枯れていました。

 この出来事は象徴的な意味を受け取らなければなりません。
 何もイエス様は、お腹が空いていたのに、果実がないからと、怒って腹いせに木を枯らしたのではないのです。
 通常、いちじくの木は、葉が豊かに生い茂っているのであれば、それは果実が熟した後のことです。
 葉が茂っているのに、果実が一つもないのはおかしなことなのです。

 このいちじくは、イスラエルを象徴しています。
 葉が生い茂っているということは、イスラエル人が、自分たちほど神様を信じている信仰深い民はいないと、外見を取り繕っている姿を示します。
 神を知っていて、しかし、形だけ信じているように見せているのです。
 果実がないのは、中身の無い信仰を示しています。

 しかも酷いことに、この町のいちじくの木に成る実は、旅人などが食べて良い果実なのです。
 期待して近づく人を裏切り悲しませる木でした。
 神様も、イスラエル人に期待しているのに、内容はなく、神様を信じることがないと言う、神様を裏切る姿がここにあるのです。

 そしてイエス様ののろいのことばです。
 これは人を呪うことばでは無く、さばきのことばなのです。
 たった一つの果実さえ実らせない信仰のイスラエル人、エルサレムには、神様のさばきが臨むことを示しているのです。
 そして木は枯れました。根まで完全に枯れました。

 神のさばきの日は訪れるのです。
 その日になっては、さばきは逃れることはできません。
 愛の神は、さばきをおこなうことができる神でもあるのです。愛の神だからこそなのです。

 私たちは、イエス様のことばを聞き、自分の中に真の信仰を持ちたい。
 人の目に立派な葉を茂らせるより、イエス様の目にかなう小さな果実と言う、信仰を形作りたい。
 シャローム

10.2今日のみことば

2018-06-20

「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」 マルコの福音書 10章16節
 ここはイエス様に子どもをさわっていただこう、即ち祝福していただこうと、連れて来たところ、弟子たちがそれを叱って、遠ざけようとします。
 そしてイエス様は、その弟子たちの行為に憤って、子どもたちを近くに呼ばれて、祝福された出来事を記す個所です。

 イエス様がこの時まで、一日人々のために働かれて疲れていると、弟子たちは配慮したつもりなのでしょう。
 しかし、それは違っていました。
 イエス様の喜びは、一人でも多くの人がご自分の近くにと来ることでした。
 そしてなによりも、子どものように素直に近づくことでした。

 ここを読んで「ああ、なるほど」と、考えていてはいけないのだと思います。
 私は、イエス様に抱かれ、手を置いていただき祝福されている子どもそのものなのだと、知ることなのだと思います。

 この出来事の前後には、色々な大人が、律法をこね繰り回して永遠のいのちを得ることはできないものか、律法を守るとはどう言うことかなどと、イエス様に問い掛けたり、自分の行いを誇ったりしていました。
 そんなものは何に意味もありません。
 最初に大切なのは、イエス様の近くに行くこと。
 素直に近づき、イエス様の懐に包まれ。
 祝福していただくこと。

 この子どもは、私だ。
 私は、いつもこうありたい。
 それを知っていること。
 そのように歩むことが大事なのだと教えられた朝です。
 シャローム

10.1今日のみことば

2018-06-20

「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」 マルコの福音書 9章49節
 塩けを保ちなさいと、イエス様は信仰者に教えます。
 その塩けは、火によって、塩けとなるのだと教えてくれます。

 面白いたとえです。
 塩が、塩けを無くすことなどないと、私たちは考えます。
 「塩」は、どこまで塩だと思っています。
 現代の生活事情ならそうかも知れません。
 しかし当時のイスラエルの「塩」は岩塩を指します。
 この岩塩は、品質が悪い物であると、放っておくと塩け、塩味が無くなってしまい塩の役目を果たさなくなってしまったのです。
 そうなると、見た目は同じでもただの石ころです。
 当時の人はそのことを理解しています。
 ですから、塩が塩けを保つことが大切だと、認識しています。

 この塩けとは、信仰者の信仰そのもの、きよさを現します。
 大切です。これがなくては意味がありません。

 そして、火は、汚れをきよめ永遠の苦しみを象徴的に示すでしょう。
 この場合は、神様が信仰者に与える試練や迫害を経験することを「火」が象徴していまs.
 火で焼かれること、即ち苦悩や迫害を通ることで、信仰者の信仰やきよさが保たれ、腐敗しないことを指します。

 私たち、主イエスを信じる者の経験する試練や迫害は、私たち自身の侵攻をきよく保つために有益だということです。
 塩けを無くした信仰になってしまうことがないように。
 塩は塩らしく、信仰者は信仰者らしく、そのきよさや主イエスだけを信じるという信仰を保つことが大切です。

 信仰は甘くはないのです。

 塩けを無くして、捨てられてしまわないように。
 信仰のきよさを保ち続けて、主イエスのことばに従っていきたいのです。 
 シャローム

9.30今日のみことば

2018-06-20

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」 マルコの福音書 8章35節
 いのちを失う者はそれを救うのです、と不思議なことを主は語ります。
 弟子たちに向けて語っているのですから、彼らが殉教を避けて、自分の命の安全を守ることを第一にするならば、かえってそれを失ってしまうことを教えているのです。
 この場合のいのちは「地上での命」と「永遠のいのち」の二つの意味があります。
 地上での限りのある命のことだけを考えるならば、死の先にある永遠のいのちを得ることはできないと、教えてくれます。

 私たちは、この時代に殉教のことを、いつも意識することはないでしょう。
 でも、自分の命は自分の物で有るから、 自分で自由にできるのでは有りません。
 神と福音を捨てて、自分を一番にして生きるなら、後になって失うものは大きく、取り戻すことはできません。
 反対に、福音を信じてイエス様に従う道を選ぶなら、失ったと思うものを得ることができます。

 殉教者とならなくても、神を信じる人は、なにかしらの批判や冷笑、あざけりを受けることがあります。
 それは信じている証しでもあるのです。
 ノア、預言者、使徒たち、皆が漏れることなくその経験をしてきました。
 しかし地上で失ったものよりも、永遠のいのちと、イエス様と再会した時に得るものの方が遥かに大きく素晴しいものなのです。

 失うことを恐れるより。
 今、信じて従う道があることを喜びたい。

 自分で得ることができると考えるのか。
 主イエスに従う時に得ることができると信じるのか。
 どちらかに応答することが問われているのは確かです。

 今日も、イエス様に従う者として、先人に習って歩みたい。
 シャローム

9.29今日のみことば

2018-06-20

「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」」 マルコの福音書 7章8節
 厳しいイエス様のことばであり、私に「はっ!」と、気づかせてくれることばでした。
 この後、イエス様はささげ物に関する人々の不誠実な姿を暴きます。
 そして続けて、人の内側にあるものが、人を汚すのだと、教えます。
 外にあるものは、人の中に入っても人を汚すことはないと、教えました。

 悪い考え、嫉み、高ぶりなどの、人の内側にあるものが出て来て、隣人を友人を汚すのだと教えました。
 その通りなのだと、分ります。
 けれども、そのような心が私の中にも確かに存在して、それが出てくるのです。
 完全にそれをコントロールすることなどできません。

 そして気がつくのです。
 何故、イエス様はこの8節、続く9節で、このように語られたのか。
 それはズバリ、神への不従順な心が、内側に悪いものを蓄えさせ、そしてそれが出て来てしまうのです。

 神様は戒めを与えました。人の決めた禁止行為ではないものです。
 神様は、レビ記の11章で、食べて良いきよい生き物と、食べてはいけない汚れた生き物、動物を、示されました。
 例えば「ひづめが別れて、反すうするもの」は食べて良いと、命じます。
 しかし、野うさぎは、反すうするけれども、ひづめは別れていないので、汚れたものとなる。即ち、食べてはいけない、と言うことです。
 鳥や魚にもそれが及びます。

 ちなみに、ウナギは食べてはいけない汚れた魚に分類されます。旧約の時代だと、私たちは困りますね。

 即ち、基準は示されました。
 食べてはいけない理由に、健康のことを神様が配慮してくれた、或いは、他の民族が宗教儀式に使うから、と、色々考えることはあります。
 が、それは大切なことではなかったのです。

 汚れた生き物だから、食べるなと、命じる神は、食べて良い、豊かな恵を同時に与えてくださっています。
 その神、主の戒め、ことばに従順に従うのか、否か。
 食べた生き物の肉や、性質が、食べた人を汚すのではないのです。
 主のことばに従順に従えないという心が、その人を汚すのです。

 ここで「神の戒めを捨てている」と、イエス様が指摘したのも、このことです。
 私たちは、理由を問うことや、自分の勝手な思いばかりを神様に要求しがちです。
 愛と恵の神様が、守るように語ってくださったことば、戒めに従えるのか。
 素直に従順に従えるのか。

 それが、次に、その人から隣人を汚す心が出てくるのかを決めるのです。
 従順な心が、私をきよくし、私を神様の知恵を受け取ることができるように導くのです。
 シャローム

9.28今日のみことば

2018-06-20

「定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規程も定めた。私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください。」ネヘミヤ記 13章31節
 水曜日です。今朝は「ネヘミヤ記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 エズラ記と同じ、捕囚後の時代が舞台です。
 エルサレムの城壁の再建を通して、イスラエル人の礼拝を建て直し、信仰を建て直すことを大切にしたネヘミヤの信仰の姿を教えてくれるネヘミヤ記です。

 ネヘミヤは、捕囚の民の一人ではありましたが、終ペルシャの王宮で、王の献酌官として仕えていました。
 その時、エルサレムから来た人に、故郷のエルサレムの城壁が崩されたままであることを聞きます。
 悲しみに崩れて泣き、そして祈ったのです。

 更に、ネヘミヤは祈りながら、王に城壁再建を願い出て、許可を得ます。
 捕囚の民でありながらも、王様の信頼を得ていたのです。
 そうして故郷に戻って、城壁の再建に取り掛かるのです。
 内にも外にも、多くの困難がある中で、五十二日間という短期間に城壁を再建するのです。

 ネヘミヤは、城壁の再建が、主から与えられ、委ねられた使命であることを確信して、力強く進めました。
 使命を確信することは大切だと教えてくれる本書です。

 そしてもう一つ大切なことを教えてくれる本書です。
 それは「祈り」です。
 1章の最初も祈りで始まりました。
 最後の13章は祈りで終わるのです。
 ネヘミヤは、いつも祈るのです。
 祈ることを大切にしています。
 呼吸するように、いつも自然に祈ります。

 そしてその祈りには特徴があります。
 ここ31節では「私を覚えて」とあります。
 1章の最初の祈りも「聞いてください」と、祈っています。
 ネヘミヤは、全能で恵深い主が、自分のことを覚えてくださり、祈りを聞いてくださることを大切にしています。
 確信して祈りますが。
 覚えてくださいと、熱心に祈ることを、大切にしています。

 主が、私に目を注いでくださり。
 主が、私の祈りを聞いてくださる。
 だから祈りは聞かれると、確信できるのです。
 そしてだからこそ「私を覚えてください」と必ず祈るのです。それが祈りの原点でもあるからです。

 願いを聞いてもらうことに勝のは、主との深い交流です。
 祈るたびにそのことも覚えたいのです。
 「主よ。今朝も、私を覚えてください。」心から祈ります。
 シャローム

9.27今日のみことば

2018-06-20

「イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。」 マルコの福音書 6章39節
 イエス様が、男性だけで五千人の人々を、五つのパンと二匹の魚だけで食事をさせてくださり、全員が満腹した上に、余ったという奇蹟の場面です。
 イエス様が祝福を求めて祈り、パンと魚を奇蹟の力で増やして、群衆の空腹を満たしてくださったのです。
 マルコはここでイエス様が、群衆を組みにして座らせるように命じられたことを記します。
 そして人々がその言葉に従って、百人、五十人と固まって座ったことも記しています。
 ここが興味深い。大切なことです。

 この瞬間まで、群衆はただの聴衆でした。
 良いお話しをしてくれるイエス様のお話しを聞きにやって来ていただけの人も大勢いたことでしょう。
 真理や救いを求めて集まっていた人たちがどれほどいたのか。
 あまり多くはなかったことです。

 しかし今、群衆は変わりました。
 イエス様の言葉を聞いて従う人の群れに変わりました。
 イエス様に期待して待つ人の組みになりました。
 空腹がもしかしたら、満たされるのかも知れないと、わずかな期待をしていたに過ぎないのかも知れません。

 それでもバラバラの五千人が、変わったのです。
 整えられて、組みになって座り、待つ人になりました。
 期待する人になりました。

 少しだけ、行動し応答する人になれたのです。
 イエス様の言葉どおりに、組みになって席に付いたのです。

 私たちも同じです。
 少しづつ、イエス様のことばを聞き続けることで、期待して待つ人の集まりになり。
 イエス様の言葉に、まずは応答できる人になったのです。

 聞くことから始まり。
 応答して待つことへと進み。
 期待する人に変わります。

 そしてイエス様のことば、祝福で満たされて行くのです。
 今朝も、イエス様は語ってくださる。
 さあ!期待していこう。
 シャローム

9.26今日のみことば

2018-06-20

「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」」 マルコの福音書 5章36節
 娘の病を癒して欲しいと、願った会堂管理者ですが、イエス様が彼の家に向かう途中で、娘が亡くなったという知らせが届いてしまいました。
 イエス様の到着が、間に合わなかった。残念で悲しい出来事であり、絶望してしまう出来事でしょう。

 しかしイエス様は、そのようには捉えておられません。
 イエス様は、そのまま会堂管理者の家に向かい、娘を生き返らせてくださるのです。

 今朝の箇所で大事なことは、病が癒されることや生き返ることではないのです。
 信じること。
 信じ続けること。
 これが大事なのです。

 恐れるなとは、イエスのことばだけに信頼して、他の言葉に惑わされないようにすることです。
 信じていなさいとは、信じることを、決断し、継続し続けることです。

 私たちはイエス様と出会いました。
 イエス様を知りました。
 イエス様を救い主であることに、同意をしたのです。
 信じると、決断をしたのです。

 私たちが信じるという時、そこには、知り、同意し、決断し、継続すると言うことがあるのです。
 他の声に惑わされたり、不安になったりしないで、イエス様の声だけを聞き続けて、信じ続けるのです。

 貴方にも、私にも、イエス様は声を掛け続けてくださる。
 「恐れないで、ただ信じていなさい。」
 信じ続ける力も、実はイエス様が与えてくださるのです。
 だから、安心して信じ続けよう。
 イエス様が良くしてくださる。
 シャローム

9.25今日のみことば

2018-06-20

「聞く耳のある者は聞きなさい。」」 マルコの福音書 4章23節
 種まきのたとえ話とその意味をイエス様が解き明かしてくれています。

 神様を信じることは、聞くことに始まり、聞くことで完成します。
 聞く耳とは、イエス様のことばを、良く聞いて受け入れることです。
 イエス様は、私たちが自分では辿り着けない探求することができない神様の真理を教えてくださいます。
 その語られることを、注意深く、素直で正しく聞きます。
 そして応答することが期待されているのです。

 イエス様は、今日も私に語ってくださいます。
 イエス様は、今日も貴方のために語りかけておられます。
 素直な耳、正しい耳で聞いて、応答をしたいのです。

 いえ、聞いておりますから、語ってくださいと、耳を向けて、イエス様のことばをまず待ちたい。
 そして、聞きたいのです。

 ここ4章でも、おおぜいの人がイエス様のお話しを聞きたいと集まっていました。
 しかし聞いて満足したのです。いや、聞いた気持ちになって満足してしまっているのです。ちゃんと耳で聞いていないのに、気がつかない。
 それに対して、4章の後半では、風や湖さえも、イエス様の語られたことばを聞いて、従いました。
 私たちは、風や湖に劣る、負けてしまうような聞き方をしたくないものです。
 イエス様が貴方のために愛を注いで語ってくださっていることばなのですから。

 貴方には、今朝、聞く耳もイエス様が与えてくださっています。
 期待して聞きましょう。
 シャローム

9.24今日のみことば

2018-06-20

「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」」 マルコの福音書 3章35節
 3章は、イエスを排除しようとする者たちの姿があることを示します。パリサイ人たちです。
 イエス様は、病の人や虐げられている人たちを愛して善を行われます。
 一方で、自分たちの立場や名誉が脅かされると、イエス様を憎んで、殺そうとする人たちがいます。
 この人たちは、1節に登場する片手のなえている病の人さえも利用します。
 彼を慰めたり助けようとはしません。

 選んだのは3章の最後の節です。
 「神のみこころを行う人」と言う言葉が今朝は迫ってきます。
 パリサイ人は、モーセの律法を文字通りに守ろうとしますが、愛の業を行おうとはしません。
 イエス様は、神のみこころを行う人は、救い主であるイエス様の家族、神の家族なのだと、教えてくださる。
 神の家族に迎え入れられるのです。これほど嬉しいことはありません。
 神を信じる人は、遠くの方から神を眺めて、信じている人のことではないのです。
 神の近くに、家族として生きる人です。

 神を信じる人とは、ただ、文字に記された律法を守る人のことではないのです。
 もちろん、律法など、守らなくても良いということではありません。
 しかし、律法に現されている神のみこころは何であるのかを知り、それを実践することが大切です。

 神のみこころを行う人が、神を信じる人です。
 神を信じる人が、神のみこころを行わないのであれば、本当に信じてはいないのです。

 神のみこころは、この2016年の私たちの生きる場所で、どのようなものとして示されているのでしょう。
 私たちはそれを祈り求めて、神のみこころを行う人になりたいのです。
 今日も、神のみこころを行う機会があります。
 神の家族と呼んでいただける一人として、イエス様を愛する愛で、みこころを実践したい。
 シャローム

9.23今日のみことば

2018-06-20

「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。」 マルコの福音書 2章14節
 レビは、福音書を書いたマタイと同一人物だと考えられます。12弟子の一人です。
 次の15節にも書かれていますけれど、イエス様の周りには取税人や罪人がおおぜい集っていました。
 これまでのユダヤ教の律法の専門家や教師、祭司たちは、罪人と呼ばれるような人たちとは、交流をいっさい持たなかったのです。
 ですから、一緒の食卓に付くなどということはありえなかったのです。

 しかしイエス様は違います。
 弱い者、虐げられている者と同じように、人々から「罪人」と呼ばれて嫌われている人を神の国に招くのです。
 罪人が自分の罪深さを知って認め、悔い改めるのであれば、主は、その人の罪を赦し、神の国へと入ることを約束してくださるのです。

 イエス様は、レビをご自分の弟子となるように招かれたのです。召したのです。
 この召しに答えれば、約束が与えられて、そえは成就します。確実にです。
 ただし、応答することが必要です。

 レビんお素晴らしいところは、この時、すぐに立ち上がって従ったことです。
 貴方も、主イエスの声を聞いたのなら、立ち上がって従ってください。

 立ち上がるのは、今していることを後ろに置き、新しくイエス様を一番として歩み始めることです。
 そしてイエス様のことばに従っていくのです。

 さあ、今気になっていること、悩むことを置いて、立ち上がりましょう。
 顔を上げて主の声を聞いてください。
 そしてイエス様の声に従って歩み始めましょう。
 失望することのない主の弟子としての一歩です。
 シャローム

9.22今日のみことば

2018-06-20

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 マルコの福音書 1章1節
 福音書は、新約聖書の中に四つ納められています。
 一昨日にマタイの福音書は、最後の28章まで読みました。続けてマルコの福音書に進みます。
 マルコの福音書の著者は、マルコと、言われています。
 バルナバのいとこで、パウロの第一回の宣教旅行に同行しますが、途中で帰ってしまい、そのことでパウロを怒らせてしまうのです。(使徒の働き15章)
 しかし、晩年は宣教に非常に役立つ者となり、パウロとも再び行動しています。
 元々、家が裕福であったので、マルコの自宅が初代教会の集会にも使われて、そこから福音を信じるようになったのです。
 ペテロの手紙からは、マルコがペテロとも一緒に居たことが分ります。

 選んだのは、最初の一文です。
 マタイが、イエス様の系図から始まったのに対して、マルコは、宣言文から始まりました。

 イエス・キリストが救い主であることを宣言する言葉で始まりました。
 そしてマルコの福音書は、イエスが、私たちのただ一人の救い主であることを宣言して知らせる物語が記されるのです。
 力強い一文です。

 1.イエス・キリストが中心です。
 2.イエス・キリストが救い主です。
 3.福音には始まりがあります。

 今、この福音の宣教が始まり、私もそれを聞いて信じた幸いな一人となりました。
 もう一度この素晴しい恵の内容を確認して行きましょう。16章に短く、しかし豊かにまとめられています。

 福音を信じる幸いな貴方の新しい一日が始まりました。
 主イエスの恵と守り、導きがある一日です。
 主イエスに期待して歩みましょう。
 シャローム

9.21今日のみことば

2018-06-20

「事実、私たちは奴隷です。しかし、私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシヤの王たちによって、私たちに恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を再建させ、その廃墟を建て直させ、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。」エズラ記 9章9節
 水曜日です。今朝は「エズラ記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 祭司であり学者でもあるエズラの名前が書名になっています。
 イスラエル人が捕囚となった後の時代が舞台です。
 本書は、大きく二つに分けることができます。
 1〜6章は、バビロンに引かれて行った民が、エルサレムに帰還して、神殿を再建するところまでを記します。
 後半の7章から10章は、エズラの活動について記します。
 特徴は、6章と7章の間には、56〜57年の時が経過していることです。

 エズラは、7章を読みますと、最初から主の律法をよく調べて、それを元にして人々を教え導こうと、心に定めて行動を始めたことが分ります。
 そのようなエズラと、同時に活躍した預言者ハガイやゼカリヤが協力して活動しています。
 他の書との関係も見えて興味深い書です。

 選びましたのはエズラの祈りです。
 エズラと一緒に帰国した人々の内から、自分たちの罪を認めて、心からの悔い改めをする者が現れました。
 エズラは、彼らの悔い改めを聞き、ひざまずいて祈るのです。

 自分たちの罪深さを隠すことなく、取り繕うことなく、主の前に注ぎ出します。
 そして、主がどれほどあわれみ深く、恵に富む方であるのかを告白します。

 9節から、私にももちろん関係がある大切なことを二つ学びました。
 1つ。
 「この奴隷の身の私たちを見捨てることなく」
 見捨てない神。
 確かに今も、帰国は許されましたが、ペルシャ帝国の奴隷の身分です。
 それは神の前に重ねた罪の結果です。
 不自由で、苦しみもあります。
 でも、主は見捨てない方なのです。
 感謝と喜びしかありません。

 2つ。
 「ペルシヤの王たちによって、私たちに恵みを施し」
 そんな奴隷の身ですが、そこにも恵を注いでくださる。
 私たちが生きている世界は、多くの人が主を信じないし、争いや悪も多くあある世界です。日常です。
 でも、そこにも神様の恵は届きます。
 主を信じる人には、そんな状況でも、世の王様や支配者を通してでも、恵を与えてくださる神様なのです。

 だから、私たちは絶望する必要なはい。
 主の希望を置き、期待して一日一日歩むのです。
 悔い改め、主の前に砕かれた心で、謙遜に主のことばに聞くのなら恵が増し加わるのです。
 律法、聖書の言葉を大切にして、主の前に祈りましょう。
 シャローム

9.20今日のみことば

2018-06-20

「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」 マタイの福音書 28章17節
 マタイの福音書の最後は、イエス様が十字架の死からよみがえられた三日目の朝の記述から始まります。

 お墓に最初に出掛けて行き、最初にイエス様にお会いしたのはマリヤたち女性でした。
 お墓の入り口の石を転がしたのは、天から降りて来た主の使いです。
 主の使いは、マリヤたちに「恐れるな」と、声を掛けます。5節。
 イエス様も「恐れてはいけない」と、言われました。
 大切なことです。

 イエス様とお会いする時、イエス様を救い主と信じていく時、恐れることは疑うことに繋がります。
 ここでも以前イエス様が語ってくださった通りにガリラヤで、イエス様と再会したのです。
 そして礼拝したにも関わらず、ある者は疑ったのです。

 恐れないで、イエス様に期待をして、礼拝をします。お会いするのです。
 恐れは、疑いに繋がり、期待して主に委ねることができなくなります。

 私たちは、日曜日毎に礼拝をします。
 その時、恐れる心を持って礼拝することがあるでしょうか。
 日々の生活の中で、恐れたり不安を感じることはあるでしょう。
 そのような心を、平安と喜びに溢れる心に変えていただくために、イエス様に会うのです。
 ですから、私たちは期待し、委ねていきます。
 この場合の恐れるなとは、イエス様が語られた言葉を疑わない心のことです。約束を疑わない心です。

 恐れ、疑いを棄てて。
 期待して主イエスに会い。謙遜に主のことばを聞きます。素直に従います。
 と、このような心で、主を礼拝します。朝毎に主にお会いします。期待して。
 シャローム

9.19今日のみことば

2018-06-20

「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」 マタイの福音書 27章46節
 十字架につけられたイエス様が叫んだ言葉です。
 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 詩篇22篇1節の、言葉です。

 私たちは、この言葉を心から注ぎ出し、叫んだ日があったでしょうか。

 神は、私を見捨てない。
 決して見捨てない。
 私が、神なんて知らない。神なんていらない。と、思ったとしても、神は見捨てない。

 でも、神に見捨てられてしまったように感じる、苦しい、本当に苦しい経験をしたことがあるだろうか。
 イエス様は、十字架の上で私の代わりにその苦しさを経験してくださった。

 それに対して、ここ27章には、祭司長、長老、ピラトが、こう言っています。
 「自分で始末しろ」
 ユダに向かって、群衆に向かって、そう言い放ちます。
 彼らは、自分の罪深い性質も、神に受け入れていただくことも、すべて、自分でできると思っているのです。

 けれども、私たちは自分の罪を自分ではきよくできないし、赦しを獲得することもできません。
 「自分では始末できません。」
 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 このように叫ぶ者を、神は受け入れてくださり、赦しを与え、恵を与えてくださるのです。

 罪の苦しさを知っている者が、赦しに近い者です。
 自分で何とかできる。自分はきよく正しい人間である、と。
 そう思っている人は、神様から遠いのです。

 私は、貴方は、神に叫ぶ者ですか。人に向かって言い放つ人ですか。
 シャローム

9.18今日のみことば

2018-06-20

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」」 マタイの福音書 26章節
 ゲッセマネの園で、イエス様が十字架の死を目前に見据えて祈った祈りです。
 この杯とは、間違いなくこの直後に訪れる十字架で殺されることを指しています。
 イエス様は、十字架で自分が死ぬことで贖いの業が成し遂げられることを知っています。
 しかし、弟子たちと別れる悲しみもあります。
 十字架で処刑されることで、父なる神様と断絶する経験もしなければならないのです。
 それは苦しく悲しい経験になります。

 できることならば、それを避けたいと、父が取り去ってくださることを願います。
 しかし、同時に自分が成し遂げるべき業であることも知っているのです。
 ですからイエス様は、最後にこう祈るのです。
 「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」

 神様のみこころが成し遂げられるように。
 私は、神様の御心に従います。

 私たちは、父なる神様に何だって祈って良い。祈り求めて良いのです。
 どれほど大きなことも、些細なことでも、祈って良い。祈り求めたら良いのです。
 でも、同時に、神の御心を求めて祈り、御心に従いますという祈りもするべきです。
 御心に聞き従うことができる心が、祈り求める心にも力を与えます。

 神様は良くしてくださる。
 それなので、願った通りの答えではなくても、御心であるならば、それは私にとって最高の道であり答えなのです。

 わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようにと、祈ります。
 シャローム

9.17今日のみことば

2018-06-20

「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」 マタイの福音書 25章18節
 旅に出る主人が、しもべにタラントで現される財産を預ける例え話です。
 五タラント、二、一タラントと、三人のしもべが登場します。
 五,二タラントを預かったしもべは、受け取るとすぐに行動します。

 主人に忠実あること。
 預かったものを活用すること。
 この二つの点において、二人は主人から祝福されて、主人とともに喜びを分かち合います。

 ところが一タラントを預かったしもべは、それを隠します。
 活用しなかったのです。
 当然そのことは、主人に対する不誠実な行動でもあるのです。
 このしもべは主人から叱責され、追い出されることになります。
 その時になって、泣いても遅いのです。

 タラントは賜物のことです。
 私たち一人一人には、神様から与えられた賜物があります。
 隠すのは、用いないことです。正しい行い、生き方ではありません。

 自分の賜物が、なんであるのかを知らなければなりません。
 知って、その賜物を喜びことができれば、隠さないいでしょう。
 しかし、五タラント、二タラントの賜物を持つ人をうらやんだり、自分と比較することにばかり目を向けると、隠したくなるのでしょう。
 この人は、自分の賜物を見ないで、人の賜物を見て、自分の物を地に隠したのです。
 自分の賜物を、素直に見ることから始めたいと思います。
 持たない賜物のことばかり考えても始まりません。
 手にしている、預けてくださった賜物を見て、喜び、活用する時にこそ、賜物は賜物として価値があります。

 預かっているのです。
 喜びを分かち合いたいと、主なる神様は私に語ってくださるのです。
 もしかしたら隠した賜物は有りませんか。
 発掘して、その価値を輝かせましょう。地に隠さず、主の前に、光の前に出して活用しましょう。
 主が、幾倍にも増やして祝福してくださる。
 シャローム

9.16今日のみことば

2018-06-20

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」 マタイの福音書 24章4節
 世の終りの日が来る時、その前兆は何でしょうかと、弟子たちがイエス様に尋ねた時に、イエス様はこのように答えられたのです。

 「人に惑わされないように気をつけなさい。」
 これはまさに終末の時のことだけではなく、私たちの日々の生活においても言えることです。
 私たちは、イエス様の言葉を聞いて、その声に従って歩みたいと願っているはずです。
 羊が、自分を愛してくれている羊飼いの声を、聞き誤らないように聞いているつもりなのです。
 ところが、私たちは他人の声に惑わされ、迷うものです。

 このことは後半の44節の言葉「あなたがたも用心していなさい。」にも、通じるものです。
 いつも注意をして、イエス様の声を聞いているのならば、大丈夫なのです。
 ところが、私たちはイエス様の声を聞き漏らして、人の声に惑わされてしまうことがあります。

 人に惑わされないようにするには、どうしたら良いのでしょう。
 そのことばかり気にしても無駄なことです。
 それよりも、愛するイエス様の声をいつも気をつけて聞くことが大切です。
 日曜日に聞き。
 朝毎に聞き。
 眠る前にも聞く。
 それを漏らすと、惑わす声が耳に飛び込んで来るのです。
 イエス様の愛情いっぱいの声をいつも聞いていましょう。
 なにも恐れることはありません。
 シャローム

9.15今日のみことば

2018-06-20

「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」 マタイの福音書 23章5節
 イエス様が、律法学者やパリサイ人といった当時の宗教の指導者たちを厳しい言葉で戒めます。
 この後、13節から、なんと七回に渡って「わざわいだ」と、厳しく戒めます。

 イエス様が責められたことを簡潔に言えば、それは主を愛する心が大切だということです。
 神を愛し神のことばに従う心がなければ、どんなに立派に振る舞ったとしても意味がありません。
 礼拝を捧げても。
 祈りを捧げても。
 献金を捧げても。
 心がなければ意味がないのです。

 ここに指摘される「経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりする」のは、彼らのいわゆる宗教的式服です。
 豪華で立派な式服を着て、自分の信仰が優れているように、人に見せたい、誇りたいのです。
 でも本当の式服は、全く反対の意味を持っていました。
 ふさが長くなったりすることで、歩きにくくなるのです。
 それは長いふさが、自分の罪の深さを表し、歩くたびに自分の大きな罪を思い起こしては、主の赦しに感謝をささげる心を思い起こすためです。
 人に見せるためではありません。自分を戒め、主への感謝と賛美の心を起こさせるものです。
 そんな服さえも彼らは、自分勝手な思いで利用するのです。

 素直な心で、主の前に進み出ることが大事です。
 裸の心で、人の目など気にしないで、主の目の前に進み出ることを大切にしたいのです。
 衣のふさを長くすることに心を向けるより、小さな罪のひとつにも敏感になる砕けた心を大切にしたいのです。

 なによりも、私たちは十字架で死んでくださったイエス様をこの身に着ているのですから。
 シャローム

9.14今日のみことば

2018-06-20

「 捕らわれていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、」歴代誌 第二 6章38節
 水曜日です。今朝は「歴代誌 第二」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 第一の歴代誌が、礼拝するダビデ王の姿を示していると、まとめるならば。
 この第二の方は、その息子ソロモン王の神殿建築に焦点を当てて、神殿での礼拝の大切さを示します。
 ソロモン王の、神殿建築という業績を誇ろうというのではありません。
 イスラエル人が罪をおかして、主のさばきを受けて捕囚の民となった後、再び、故郷エルサレムに帰還を許された時に、神殿での礼拝に、人々を立ち返らせることが目的です。

 本書は、後半で南ユダ王国の王たちの歴史を記します。
 残念ながら、数人の王を除いて、南ユダの王たちも、北イスラエルと変わらずに、主の前に罪をおこない続けたのです。
 それでも、本書が、捕囚からの帰還が、ペルシャのクロス王によって許されることを示すのは、主の許しを象徴的に示しているのです。
 主は、南ユダを見捨てないのです。

 主は、罪を憎まれてさばきをします。
 しかし、ここにあるように、主に立ち返る人を受け入れてくださるのです。
 主は、怒るのに遅く、あわれみ深いのです。
 赦しと回復を与えてくださる。

 私たちは、罪をおかしたことを恥じるばかりですが。
 立ち返って、神殿で主を礼拝することが、大切です。
 現代ならば、日曜日毎の教会での礼拝に進み出ることが大切になります。

 神殿の石は崩れても、主の礼拝は残ります。
 主に立ち返る人が、祈るならば、主は、その祈りを聞いてくださる。

 いつも、主の元へ立ち返るのです。
 いつでも、立ち返るのです。

 今、ソロモンの神殿を見ることは叶いませんが、主を愛する人の礼拝を見ることが、いや、加わることができます。
 教会で祈る時、礼拝する時を、もっと、もっと喜びたいと思います。
 シャローム

9.13今日のみことば

2018-06-20

「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」 マタイの福音書 22章29節
 死んだ人の復活について、当時の人たちは「復活が有る」と考える人と、「復活はない」と考える人がいました。
 復活を信じない代表的なグループがサドカイ人と呼ばれる人でした。
 この日、サドカイ人はイエス様をためそうと質問しました。

 夫が跡取りを残さないまま死んでしまったので、律法に従いその弟と結婚して、次々と七人の兄弟と結婚することになった女性が居たのです。
 復活をした時、この女性は誰の妻となるのかという、質問です。

 イエス様は、この後天の御使いのようになって復活をするので、めとることも、とつぐこともないと、30節で答えます。
 大切な答えは、そうお答えになる前の、この29節のことばです。

 「聖書も神の力も知らないからです。」

 天と地が、神によって創造された時のことを、私たちは何一つ知りません。
 創世記で知らされていること以上には、何も知らないのです。
 復活はあると、聖書が示し、神がそのように語ってくださいます。
 それを信じます。

 そして知らされ定ること以外には「知らない」ことがあると、認めて信じることが大事です。
 知識もなく、探求心もなく、洞察することもなく、知らないと言うのでは有りません。
 私には、知ることができないほど、神の知識と力は大きく深いことを素直に知るのです。
 私には、神に知らされても、すべてを理解することはできないと、素直に認めるのです。
 そしてその神は、想像を超えた大きな愛の方であることも知るのです。

 復活があることを信じて。
 復活後のことは期待をして、今を生きる。
 全能で完全な愛の方に期待をして委ねる。
 そして、信じている者として、今、すべき使命を果たして行きたいと思います。
 シャローム

9.12今日のみことば

2018-06-20

「イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。」 マタイの福音書 21章節
 空腹を覚えられた時に、イエス様はいちじくの木に、葉が豊かに茂るのを見ました。
 果実を期待したのに、葉ばかりで実が一つもありませんでした。
 その時イエス様は、木を呪われたのです。
 すると木は枯れました。
 いちじくの木は、形ばかりを取り繕う中身のない、当時のユダヤ人の宗教指導者の信仰の姿を象徴しています。
 そのような信仰では滅ぶのです。

 そして弟子たちは、いちじくの木が枯れたことに驚くのです。
 するとイエスs間は、それは祈りの力であると教えます。 
 信仰をもって祈るならば、実現しない祈りはないと、お答えになるのです。

 木が枯れるどころか、山が動くのだと、言われます。
 あの山が、祈りによって動くのかと、驚きます。

 「山」は、私の、そして貴方の、信仰と祈りを邪魔をする障害を示しています。
 貴方の祈りが聞かれないとしたら、貴方の目の前に、信じきって祈ることを邪魔をする山があるのです。障害が山となって立ちふさがっているのです。
 山よ動けと言う祈りは、そのまま、イエス様を信じて祈りを実現させていく祈りなのです。

 貴方の祈りを邪魔をする山はなんですか。
 イエス様と貴方の真ん中にある大きな山はなんですか。
 何が、疑わずに祈ることを躊躇させるのですか。

 山を見て祈っていてもだめです。
 山が動いて、その先にイエス様の姿を、貴方の目は見て祈っていますか。
 大きな山も動くのです。

 山が動く瞬間を見たくはないですか。見たいですよね。
 それならば答えは簡単です。
 疑わずに祈っていきましょう。
 シャローム

9.11今日のみことば

2018-06-20

「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』」 マタイの福音書 20章15節
 気前のよいぶどう園の主人と労務者のたとえ話です。
 ぶどう園の主人とは、父なる神様のことです。
 労務者は、私たちのことです。そのままで過ごせば、滅んで行く身です。
 ぶどう園は、教会です。

 主人は、9時に労務者を雇います。1日一デナリと言う、当時の平均的な賃金を払う約束をします。
 そして、午後になって、12時と3時にも、仕事をしないでいる人を見つけると雇います。
 ただ、この時は「相当なものを上げる」とだけ、約束します。
 次に、夕方の5時も何もしないでいる人を見つけると、やはり雇います。
 この時は、なんの約束もしないで、ぶどう園に行くようにだけ伝えるのです。

 さて夕方に仕事が終わります。
 主人は、5時に雇った人から始めて、みんなに一デナリを払います。
 すると、9時に雇われた人が文句を言うのです。
 5時に雇われた人が、自分と同じ一デナリなのは、納得がいかないというのです。
 私たちも、そう思いがちです。

 しかし、そうではない。
 主人がみんなに気前よく払いたいと思うのを、悪く言うことはできません。
 約束は結んだのです。
 教会に集い、奉仕もします。しかし、主人に見出されて、その声を来た人が集うことを、主人である神は望んでいます。
 一人として漏れないように、救い、恵を与えたいと願ってくださっている。

 9時の人は、自分の行いで、恵を受け取りたいと思うのです。
 でも、そうではない。
 二つのことがあります。

 一つ目。
 恵は、与える主人の側に、100%よるのです。
 私が選んだり、文句を言うことはできない。
 それが報酬ではなく恵です。

 二つ目。
 このたとえですと、仕事をしたと言う報酬だと思いがちですが、大事なのは、約束を結んでいることです。
 恵を与えるという約束が最初に結ばれたのです。
 実は、朝の9時といっても、それは本来は、その日の仕事が与えられなかった、あぶれた人なのです。
 元々、自分の力では報酬を得ることができなかった労務者でした。それを、この主人は憐れんで、恵を与えたのです。
 5時の人も、9時の人も、みんな同じ行いでは得ることができないものを、この気前のよい主人に恵を与えられたのです。

 恵は喜んで受け取るのです。
 他の人をねたましくおもうことはない。
 互いに喜んで受け取り、ぶどう園である教会で、喜びを分かち合えば良いのです。
 主人は気前が良く、恵を与えて祝福してくださる。
 シャローム

9.10今日のみことば

2018-06-20

「 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」」 マタイの福音書 19章20節
 「永遠のいのち」を得るためにどんな良いことをしたらよいのでしょうかと、一人の青年がイエス様に問いかけます。
 イエス様は律法を守るようにと、答えられたのです。
 すると青年は再びイエス様に質問したのが、この20節です。

 何がまだ欠けているのでしょうか、との不安があります。
 律法を完全に守っていると、自負すればするほど、心のどこかで「欠け」があるのではないかと不安になります。
 良いことをしている、律法を守っていると、自分の行いに頼るほど、不安が次々と出てくるのです。
 行いと自負では、永遠のいのちを得たと、確信して平安は得られません。

 そうではなくて、神様の前に、自分は欠けがあり、行いでは完全に良いことをすることができないと自覚し。
 イエス様に頼る時、平安が与えられて、確信へと繋がっていきます。

 律法を守り、良い行いをしているという自負ではなく。
 自分でしたくないと思う悪を行っているという、告白をするパウロのような心こそが、本当に良い行いを続け、律法に変わるイエス様のことばに従っている生き方の現れでしょう。
 自分の足りなさで不安になるのではなく、足りないからこそイエス様が犠牲を払って救ってくださったのだという信仰の確信に至るのです。

 私には「何がまだ欠けているのでしょうか。」と、問いかけるよりも。
 「欠けばかりの」私を愛してくださって感謝しますと、祈る者でいたい。

 欠けがあっていい、そこにイエス様の愛が輝くはずですから。
 シャローム

9.9今日のみことば

2018-06-20

「清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。」 マタイの福音書 18章24節
 天の御国の持つ赦しの恵を教えてくれるたとえです。
 王様は、しもべたちの借金を清算したいと願いました。
 最初に連れて来られたのは、なんと、一万タラントの借金がある人でした。
 すぐに返すように命じますが、彼はとても返せませんでした。
 それで王様はかわいそうに思って、借金をすべて無条件で免除してやったのです。

 この人は、私です。私たちの姿です。
 返すことができない多くのものを背負っています。
 そして解決の方法を持っていません。

 一万タラントと言う金額は、現在の金額に直すと、兆の桁になると言われます。
 一つの国家予算ぐらいなのです。一人の人が背負い、返すことができるような額ではないのです。
 でも、返さなければならないものです。それが筋です。

 王様は、自分の権利を放棄し、自分が犠牲を払ってこの借金を清算してくださったのです。
 王様の愛の犠牲があります。

 この凄まじい額の借金は、私の大きな罪を現します。
 自分では、なにをしても清算できないのです。
 でも誰かが、肩代わりししてくれなければ、その罪は残ったままになります。
 イエス様は、私をかわいそうに思い、愛してくださり、犠牲を払ってくださった。

 自分では清算できない、返せない、大きな罪を持っていることを認め。
 それがイエス様の愛の犠牲によって、支払われて清算されて、きよくなったことを信じて歩みたい。
 シャローム

9.8今日のみことば

2018-06-20

「そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。」 マタイの福音書 17章23節
 祈りについて、弟子たちに教えられたイエス様は、続けてご自分がいよいよ人々に裏切られて殺されていくことを明かされます。
 弟子たちは「非常に悲しんだ。」と、あります。
 悲しんだのです。当然のことだと思います。
 しかし、イエス様はこの時「三日目によみがえります。」と、明されているのです。
 イエス様の近くにおり、イエス様を慕い、信じる者たちならば、この言葉を聞き漏らしてはいけなかったのです。

 イエス様の行動、ご計画には意味があります。
 私たちには計り知ることができない深い計画があります。
 そしてそれは私たちのため、私たちを愛して祝福してくださるためのご計画です。

 ところが私たちは、目の前にある悲しみや困難にばかり、目を囚われてしまって、イエス様のことばを聞き漏らしてしまうことが多いのです。
 この時も「殺される」と言う言葉を聞いて非常に悲しんだのです。
 ですから続く「三日目によみがえります。」と言う言葉を聞き漏らしてしまったのです。
 よみがえってくださるという喜びの言葉を受け止めるべきでした。

 聞いているようで聞いていない。
 それが私たちです。

 どうしてこんな悲しいこと、苦しいことが起きるのだろうかと、思い悩む時。
 私たちは、イエス様のことば,声を聞き漏らしてしまって悲しんでいることがあります。
 静まって、イエス様のことば、声をもう一度聞くなら。
 よみがえりの主イエスの、喜びの約束、ことばを聞くことができます。

 そこには非常に大きな悲しみを超えたイエス様の約束があり、喜びが備えられています。
 悲しみが大きい時ほど、静かにイエス様の声を聞き返す時としたいと思います。
 聞き漏らす者にならないで、イエス様の声をよく聞く者になろう。
 わたしの心とたましいに、そう言い聞かせる朝です。
 シャローム

9.7今日のみことば

2018-06-20

「こうして、主の契約の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。」歴代誌 第一 15章29節
 水曜日です。今朝は「歴代誌 第一」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 イスラエルの代々の王の歴史を記していることから「歴代誌」と呼ばれます。
 元々のヘブル語で記された聖書の書名は「日々の出来事」と言う、なんとも緊張感がないような書名です。
 それがギリシャ語に翻訳される時に,上下の二巻に分けられて,その際に「省略されてきた記録」と言う書名が付けられたそうです。
 これはサムエル記と列王記も、イスラエルの同時代の歴史を取り扱っていますが、これらには含まれていない多くの事柄を記しているから付けられたものです。

 第一の歴代誌は「アダム」の名前から始まるイスラエルの家系を記します。
 アブラハムではなくアダムなのです。
 初めに神が創造をされたアダム、そのアダムの真の継承者は,契約の民であるイスラエル人であることを示すのです。
 そして12部族の名前が示されていきます。
 それは捕囚から帰還した人々にとって,自分が確かに契約の民の一員であることを確認できる大切な系図となりました。
 特徴は、ユダ族,レビ族,ベニヤミン族を詳しく記載しながら、反対にゼブルン族,ダン族、ナフタリ族についてはほとんど記されません。
 それは、帰還して来たのが分裂王国の南ユダ出身者が多かったことで,ユダ族。
 帰還後の礼拝を大切にすることを強調するために祭司の家系のレビ部族を記すという意図があります。

 そして、王であるダビデの姿も、特徴的です。
 礼拝する王。
 将来、神殿建築を息子ソロモンに委ねるための備えをする王。
 この姿です。
 そして謙遜に主に仕えるダビデの姿があります。
 戦いに勝利するダビデの姿ではありません。
 謙遜なダビデです。

 選びました節は、かつて奪われた契約の箱を、エルサレムに戻して安置するために動くダビデを見て,さげすんだ妻ミカルの姿を記します。
 サムエル記第二の6章20節にも同じ出来事を記しますが、窓から見おろし、心の中でダビデをさげすむという、細かな記述はサムエル記にはありません。
 主の前に謙遜なダビデが、主に祝福され。
 ダビデをさげすみ、主に謙遜に仕えることができないミカルは、この後、祝福と恵みをいただくことができないのです。

 他の人を、ましてや夫,家族を、心の中でさげすむ人は、主の前に謙遜にはなれないのでしょう。
 主と人に仕え、主と人の前に謙遜であることが,大切だと改めて教えられます。

 イエス様も、あの罪人と町の人から嫌われていたザアカイさえも見おろすどころか,樹の上に登っていたザアカイを見上げて優しい声をかけました。
 誰かの心の中で、なんと思われようとも、主に謙遜に仕え、主を喜び賛美する者でいたいと思います。
 シャローム

9.6今日のみことば

2018-06-20

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」 マタイの福音書 16章18節
 「ペテロ」(ギリシャ語では「ペトロス」)は,岩、岩塊を意味する男性名詞の単語です。
 「岩」「ギリシャ語では「ペトラ」)は、岩盤を意味する女性名詞の単語です。
 音の似た二つの単語を使って,イエス様は教会を建てると語りました。

 シモンにイエス様が「ペテロ」と言うあだ名をつけました。
 音が「岩」と似ており,シモンが弟子のリーダーだからと言って、ペテロを中心にして教会が建てられるという意味ではありません。

 直前にイエス様は弟子たちに,ご自分のことを何者であるかと,問われます。
 人々が、バプテスマのヨハネが生き返ったとか、エリヤの再来だと言っていたので、弟子たちはどう思うのかと,問われたのです。

 その時シモンが「生ける神の御子キリストです」と答えたのです。
 この告白こそが,大切です。
 一人一人の、この信仰告白があって、そこに教会が建てられていくのです。

 ちなみに「教会」と言う単語も、新約聖書では、ここと18章17節に登場します。

 私たちも「教会」を訪れ、そこに所属して教会のメンバーになると言うことが大切だと,勧められるのではありません。
 イエス様と出会い,イエス様が私の救い主と信じた時,救い主であると,信仰を自分の口で告白をします。
 そうして教会に連なり,教会の一部となって、しっかりと組み合わされていくのです。
 イエス様がそうしてくださるのです。
 そしてハデスの門に象徴される死や滅びから,イエス様によって守られて,永遠のいのちの約束を持って生きる新しい人になっていきます。

 イエス様が,私たちに望んでおられることは、イエス様を全面的に信頼をしていくこと。
 はっきりと、信仰告白を口にすることです。

 立派な行いがともなった信仰者とならならなければいけないとかではない。
 この時のシモンの告白だってそれほど明確なものではなかったし、すぐに失敗をしたのがシモンです。
 イエス様を信じたら,心の奥底で慕うとか、なんとなくいつもイエス様を求めていますと言うことではなく。
 信じます。
 イエス様が私の救い主ですと、この唇で告白をすることです。
 その後は、イエス様が助けて導いてくださる。委ねれば良い。

 また、失敗するかも知れないから,信じています。従いますと,告白できない,と言うのは誠実な態度ではないのです。
 信じましたと,素直に告白して歩みを始めることが,イエス様の前に誠実な生き方なのです。
 どの道,弱い私です。失敗も多く,落ち込むことも多い私です。
 そんな私の信仰告白をイエス様は受け取ってくださる。
 そしてそんな小さな私が,教会の大切な一つの欠けることができない器官にしていただけるのです。

 朝の祈りの中で,イエス様に向かって「生ける神の御子キリストです」と、口にすることも大切なことだと,思う朝です。
 シャローム

9.5今日のみことば

2018-06-20

「すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」」 マタイの福音書 15章22節
 イスラエル人ではない女性が、彼女の娘を癒して欲しいと願ってイエス様のところに来るお話しです。
 最後には、イエス様はこの女性の願いを聞いて、癒してくださいます。
 その刻、イエス様はご自分は、イスラエル人の失われた羊のところに遣わされたのであって、外国人のところではないと、あえて言われます。
 すると女性は、自分をイスラエル人の食卓からこぼれ落ちるパンくずをいただく子犬にたとえて、イエス様のあわれみを求めます。
 イエス様は、彼女の信仰をほめて、癒してくださるというものです。

 私たちが主に祈り願う時に、どのようにするべきかをこの女性の姿から学びました。
 どうしたら、かなうのかを知りました。

 彼女はイエス様に願う時に、二つの特徴的なことをしました。
 1.叫び声をあげて。
 2.あわれんでくださいと、言った。

 病をい癒すのかどうかは、主が決めることです。
 もし、癒さないとしても、そこには主の御心があり、主の願う最善があるということです。
 でも、私たちは、病は癒されたいのです。
 ではどうするか。
 主のあわれみを求めるのです。
 あわれみ深い神様の御心を動かすのです。

 私たちは叫ぶべきです。
 形を整え、祈りのことばを多くして願うよりも、叫ぶのです。
 主のあわれみを真剣に祈り求める時には、心からの声をあげるのです。
 それが、叫びとなっていくのなら、叫ぶのです。
 叫ばないで諦めたり、主に見捨てられたのではと、嘆くよりは、叫んで、叫んで、主の御心を動かしたい。
 人に向かって、叫んでも意味はありません。
 でも、イエス様に叫ぶなら、それは大いに意味があり、価値がある。

 苦しい私の胸の内を、叫び声にのせたい。
 主のあわれみをいただかなければ、私には、どうすることもできない苦しいこと、悲しいこと、難しいことがあるのだから。
 どうして。などと嘆くより。
 あわれんで、主よ。と、叫びます。

 朝から、叫んだって良い。
 主にだけすがる者を、主は絶対に見捨てない。
 胸の内が苦しくなったら、涙が溢れるなら、主に叫ぼう。
 シャローム

9.4今日のみことば

2018-06-20

「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」」 マタイの福音書 14章31節
 ご存じの方も多い場面です。
 イエス様は、弟子たちをご自分とは別に舟に乗せて向こう岸に行かせます。
 すると向かい風となり、悩まされていた弟子たちのところに、イエス様が何と湖の上を歩いて近づかれたのです。
 初めはそれを見て、幽霊だと騒いでいた弟子たちですが、イエス様の声を聞くと、ペテロが湖の上を歩いて行くことを求めたのです。

 ペテロらしい出来事ですね。
 何故、突然、湖の上を歩かせて欲しいと願ったのでしょう。
 イエス様のそばに行きたかったのでしょうが、途中で、沈みかけるのです。

 自分で水の上を歩いて行きたいと、求めたのに、途中で常識や経験が、ペテロに疑う心を生じさせたのです。
 呆れたようにイエス様は言います。
 「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

 イエス様を信じる信仰を、疑わずに持ち続けたいものだと、ここから学びます。
 が・・・
 敢えて今朝は、恵みの箇所として、読みました。
 私の信仰が薄いことなど、認めるしかありません。
 むしろ信仰が深い、強い、素晴しいなどと、自負するように信仰者にはなりたいとは思いません。

 信仰が薄いと、言われたイエス様のその手は、伸ばされて、信仰の薄い男に腕をつかんでくださっているのです。
 私たちは、湖の上を歩けるほどの信仰を持つことが求められているのではないのです。
 信仰が薄く、直ぐに疑ってしまうような私なのです。
 でも、そんな私の腕は、イエス様の愛の手で掴まれていること、決して離されないことを信じる信仰を持ち続けていることが大切なのです。

 忍耐強く、あわれみ深いイエス様は、私に呆れるよりも、腕を強く掴んで何度でも引き上げてくださる方です。
 シャローム

9.3今日のみことば

2018-06-20

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」 マタイの福音書 13章44節
 天の御国について教えてくれます。

 最初に一つだけ、説明をしておかなければなりません。
 畑で宝を見つけた時、その畑を買うことで宝を自分のものにするのは、当時は許されていたことです。
 見つけた時点で、届け出なかったと、責められるものではなかったと言うことです。
 ですから、素晴しい宝を自分のものにするために畑を買うのは、正しいことでした。
 更に言うならば「自分の持ち物を全部売り払って」までも、手に入れようとすることは、素晴しいことです。
 この人は、宝の価値を知っており、それを自分が見つけたことを、大喜びしているのです。

 天の御国とは、本来このように、手に入れるためならば、どんな犠牲を払ってでも惜しくはないと思うほどの価値があるものです。
 私たちは今、イエス・キリストを信じています。天の御国を相続できる恵みに預かっています。
 その価値を、この人のように知っているでしょうか。
 私の持っているもの、私がこれまでに持っていたどれよりも、なによりも価値があることを知っていますか。
 大喜びしていますか。
 計り知れない価値あるものを貴方は手にしています。

 この節には、もう一つ別の見方がると言われます。
 イエス様が、ご自分のすべての犠牲を払って、私を見つけ出して買い取ってくれたことを示すというものです。
 計り知れない価値が、私にはありません。
 しかし、イエス様は大喜び買い取ってくださったのです。
 そうして罪人であった私には、計り知れない価値が造り出されたのです。

 ここにはイエス様の計ることができない大きな愛が隠されています。
 貴方は、イエス様の愛を知っていますか。知っています。
 シャローム

9.2今日のみことば

2018-06-20

「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」」 マタイの福音書 12章50節
 ここにイエス・キリストを信じる信仰がいわゆる「御利益 信仰」ではないことを示してくれています。
 私たちは、主イエスと出会いました。正確には、主イエスが私を探し歩いてくださって、私はようやくそのことに気がつけたということなのですが。
 でも、イエス様と出会い、イエス様を私の救い主と信じました。

 罪が赦されて、永遠のいのちを持ち、天の御国へ入ることが約束されています。
 素晴しいもの、良いものをいただけました。
 また、病の時の癒し、困難からの助けなどを祈り求めます。そして答えをいただける。
 すべてが叶うわけではなくても、罪が赦された上に、様々な助けや恵みをいただけています。
 それは私にとって、益となることであり、良いもの、御利益ではないのかと、意地悪な問いを受けることがあるかもしれません。
 違うのです。

 信じた時、私はイエス様との関係を結び、主に従順に付いていくことを、行うようになりました。
 そのことが大事であり、ここでは「わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と、言っていただける関係になっているのです。

 愛する者のために犠牲を払う。愛する人に仕える。
 その時、良いものが与えられるのは、御利益ではないのです。
 望んでいるのは、神と私の愛の関係が結ばれること。そして従順に仕えること。

 イエス様が愛して地上で業を行ってくださったように、私もまた、神のみこころに叶うことを行う者になっていくのです。
 主イエスを信じる人とは、主イエスのを遣わしてくださった父なる神様のみこころを、この地上で行う人のことです。
 御利益信仰ではなく、愛の信仰です。犠牲と仕える信仰です。

 今日も一つ、みこころを行うことができるように導いてください。主よ。
 シャローム

9.1今日のみことば

2018-06-20

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」 マタイの福音書 11章29節
 罪が赦されて救われた人のすべきことが示されます。イエス様のことばです。

 イエス様に習ってへりくだり、イエス様から学ぶのです。

 ここは28〜30節までが、一つのこととして教えられ示されます。
 主は招いておられるのです。

 1.イエス様のところに来て、救いを得ます。28節。
 2.弟子となって学びます。29節。
 3.くびきを負って仕える者になる。30節。

 信じて救われる。それは大きな喜びです。
 でも、それで終わらない。
 ここ29節では、イエス様に習って、へりくだることが教えられます。
 神であるイエス様が、世の誰よりも謙遜になり人々に仕えました。
 相手を自分よりも優れた人だと見て、自分からへりくだり、仕えるのです。
 そしてイエス様の受け取られた苦しみをも共に受け取る者となって、弟子として仕えていくのです。

 今日の箇所は、へりくだって、学ぶことが教えられます。
 そうすればたましいに安らぎがあると、約束されています。
 私たちは、へりくだることを実践するのはなかなか難しいのではないでしょうか。
 しかし手本があります。イエス様の歩まれた道がそれです。
 そして素晴しい約束があります。

 イエス様のところに近づき、救いを得たら、その先には使命を持って生きる道が備えられているのです。
 その道を歩むのには困難もあるけれど、必ず果たすことができます。イエス様が完成させてくださるのです。
 そこにこそ平安があります。

 今日の私に、へりくだることを困難にさせるような心や行いがあるでしょうか。
 主よお探りください。そして導いてください。私は主よ、あなたから学びたいのです。
 シャローム

8.31今日のみことば

2018-06-20

「 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」列王記 第二 5章14節
 水曜日です。聖書66巻を順番に紹介しています。
 今朝は旧約聖書の「列王記 第二」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 第一に続く、列王記の第二です。
 第二の始まりは、かなり衝撃的です。
 預言者エリヤが、たつまきに乗って天に上げられ、弟子のエリシャが、次の預言者として北イスラエル王国で活躍を始めます。
 このエリシャの活躍を中心にして、北イスラエル王国と、その後、南ユダ王国がそれぞれアッシリヤ、バビロンの捕囚となって行く様子までを記します。

 列王記は、イスラエルの王様が、どのような宗教的な態度を取って、主に仕えたかを示します。
 政治的に、経済政策がどうであったかではなく、主の前に正しく歩んだのかどうかを問いかけます。
 そして残念ながら、多くの王は、主の前に悪をおこなっていくのです。
 しかし、それでも主はあわれみ深い方であることを、列王記は教えてくれるのです。

 選びましたのは5章に登場するナアマン将軍の出来事です。
 アラムの国の王に仕える将軍であるナアマンは、ツァラアトに冒されて悩んでいました。
 しかし、戦争に勝利して連れ帰って来たイスラエルの女性から、イスラエルの預言者エリシャならば、その病を癒すことができますと、伝えられます。
 エリシャを尋ねたナアマンが、初めは信じなかったのですが、彼のしもべたちの助言も受けて、預言者エリシャの命じる通りに、ヨルダン川に身を浸すのです。
 その時、彼の病は完全に癒されました。

 主は、このような方です。
 主を信じる者を守り、恵みを注いでくださいます。
 しかし主は、どこまでもあわれみ深い方ですから、ナアマンのように外国人であっても、主にすがる人を退けたりしません。
 主の元へと、逃れてくる人、助けを求めてくる人に対して、あわれみを注ぎ、ユダヤ人だけを愛するという限定をしないのです。

 主の愛は、どこまでも深くて、高く、広がるのです。
 求める時、求める人には、主は惜しみなくその両手を開き、恵みを与え、必要を満たしてくださる。
 ある人には癒しを。別の人には慰めを。また他の人には愛を注いでくださる。

 私に欠けているもの、足りないものがあるのだと、思ったら、主に求めるのです。
 主よ。主よ。と、叫び近づく者を、主はいつくしみで取り囲んでくださる。

 ナアマンは勇敢な戦士でしたが、幼子のような素直さも持っていました。
 それなので、癒された彼のことを聖書は「幼子のからだのようになり、きよくなった。」と、表現するのです。
 素直さは、主に叫び求めるのに大切なものです。
 シャローム

8.30今日のみことば

2018-06-20

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」 マタイの福音書 10章29節
 とても好きな節、イエス様のことばです。
 市場で売っている一羽の雀をたとえに出して、私たちの価値が、神様の目からははるかに価値があり愛されている存在なのだと教えてくれるお話しです。
 しかし、一羽の雀は、私のことを言っているという面もあります。

 まず一羽の雀ですが、当時の貧しい人たちの食料として売っていました。
 そして市場では「二羽の雀は一アサリオン」の価値で売られるのですが、実際は二羽を、さらに2つまとめて売るのが普通でした。
 つまり二アサリオンで、今夜の夕食を買うのです。
 すると、一羽は幾らになるのかと、計算ですが。そうではないのです。
 実は、雀は五羽を、一つにして売り物なのです。
 そうです。おまけ、サービスで一羽ついて来るのです。

 要するにイエス様が、一羽の雀といえば、聞いている人は、二羽のうちの一羽のことではなく、おまけの一羽のことだと、即座に理解します。
 値段がつけられていない、一羽も、父なる神様からは価値のあるものとして扱われ、大切にされて、その命が支えられています。

 ですから、雀よりはるかに価値のある「貴方」は価値のある存在で、神様に愛されていると、教えてくれます。

 でも、もう一つの面はこれです。
 父の許しがなければ地に落ちる、即ち死んでしまうことはない。
 それは元を正せば、父が命を与えておられると言うことを示します。
 ところが、私たちは毎日の生活の中で、つい自分の命は自分のものだと、思ってしまいます。
 自分でこの命を与え、創り出したわけでもないのに、そう思っていることがあります。

 そうではなく、私には創造主である神がおられて、その神に命を与えられ、支えられ、愛される存在として、今、生きているのです。
 そのことを知り、喜び。
 そして一アサリオンに数えられない一羽の雀さえも愛される神に、私は、もっとも大切な者として愛されていることを知るのです。

 その上で、この地上で愛されている一人として、地上での、私の使命を探り続けて、歩みたいものです。
 だって、価値がある者なのですから。
 シャローム

8.29今日のみことば

2018-06-20

「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」」 マタイの福音書 9章17節
 イエス様の「たとえ」は、その時代の、その地域に生きる人には、生活に密着した分かりやすく、それでいて神様の真理の深いところまで教えていただけるお話しです。
 ここではぶどう酒を入れる皮袋を通して教えてくれます。
 私たちは現在、皮袋を日常的に使うことはありませんので、少し分かりにくいかも知れません。
 当時は、山羊とか羊の皮を使った入れ物(水筒のようなもの)にぶどう酒を入れて運びました。
 ですから、人々にはよく分ったのです。

 現代のように、発酵が完了したぶどう酒を、ガラス製のビンに詰めるのならば、何も問題は起きません。
 しかし当時は、発酵途中、途上のぶどう酒を入れました。
 もし、使い古されて皮が堅くなってきた袋に、新しいぶどう酒を入れたらどうなるでしょう。
 新しぶどう酒は、発酵が進み、外へと広がる力があります。
 膨らんでいきますから、皮袋は裂けてしまいます。
 ぶどう酒はこぼれ、皮袋には穴が空きます。
 両方とも使い物にならなくなります。

 では、新しいぶどう酒は、どうするのか。

 イエス様を信じて、新しく生きるようになった人が、新しいぶどう酒です。
 この人は、活き活きとしており、古いユダヤの慣習には収まりきりません。
 今まで通りの生活を続ければ、せっかく新しく生まれ変わったのに、駄目になってしまいます。

 新しく生まれた人は、罪赦された者として、ふさわしい生き方があるのです。
 新しくなった貴方なのです。貴方にピッタリの新しい皮袋があります。

 罪に縛られて自分の欲望を満たすことを一番としていた生活、真の自由もなく生きていた以前とは違う生き方が必要です。
 自分のために生きるのではない。
 イエス様のために生きるのです。
 イエスを信じた者として、イエス様の生き方に習い、神のために生きる生き方があります。
 それが新しい皮袋です。

 新しいぶどう酒である貴方には、イエス様の愛を実践する新しい皮袋と言う生き方があります。
 古い生き方を打ち破って、新しい生き方、イエス様の愛を現す生き方を歩みましょう。
 貴方のために用意された、新しい皮袋、生き方が、使命があります。
 シャローム

8.28今日のみことば

2018-06-20

「 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」」 マタイの福音書 8章17節
 8章には、イエス様がおこなわれた多くの奇蹟が記されています。
 中風の病になったしもべを癒していただいた百人隊長。
 この人の、イエス様の「ことば」をいただけばしもべは癒されると信じた信仰は、イエス様からほめられるほどの確かな信仰でした。

 ペテロのしゅうとめの熱も癒されて、しゅうとめは喜びながらイエス様をもてなしました。
 それを見た多くの人が病の人をイエス様のところに連れて来たのです。

 その後も、暴風雨となった湖をことばだけで静められたり、悪霊どもを追い出したりしたのです。

 そのような奇蹟をもおこなってくださったイエス様を、マタイはイザヤ書の預言のことばを引用して紹介したのが17節です。
 「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
 しもべの病を癒し、しゅうとめの病を癒し、悪霊を追い出し、湖を静めたのも、私たちに主なる神様が、私とと一緒に歩んでくださることを教えてくれます。
 イエス様は、どこか遠いところから、奇蹟をおこなって私たちの災いを取り除こうと言うのではありません。

 毎日の地上での生活の中で、私たちが困難を覚え、時に悲しみ涙する時に、それを一緒に受け取ってくださり。
 私たちに必要な癒しや助けを与えてくださるのです。
 その方法は、時には、こうした奇蹟を通して与えられます。

 しかしイエス様が、私の友人であり、主であり、地上での並走者です。
 そのことが私に癒しを与え、慰め励ましを与えてくれます。
 私を罪から救い出し。
 今日も、私を慰め力づけてくださるために、イエス様は地上に来てくださった。
 貴方と、イエス様は今日も一緒です。
 貴方を、慰め励ましていてくださるのです。
 シャローム

8.27今日のみことば

2018-06-20

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」 マタイの福音書 7章12節
 聖書のゴールデンルール(黄金律)と呼ばれることのあるみことばの節です。
 道徳の教科書の教えではありません。もっと本質的で大切な教えです。

 人が嫌がるようなことをしてはいけないと言う、そんな消極的な規律ではなく。
 もっと積極的な愛の行動を教えてくれる12節のことばです。
 これが律法であり預言者ですと、結ばれます。
 主なる神様が与えてくださった聖書のことばをを信じるならば、この教えを守りなさいと言うことです。
 自分にしてもらいたいことを、ほかの人、相手にもすると言うことです。
 それは自分が主に愛されて、素晴しい恵みを与えられていることを知っているのだから、できることです。

 自分が、大きな愛と恵みを与えられたように、ほかの人にも与えることができるのです。

 今朝、ここを読みながら、このゴールデンルールが7章の最初のこのことばから始まっていることに、改めて驚きました。
 「さばいてはいけません。さばかれないためです。」
 このことばです。驚きます。
 ほかの人をさばくより、ほかの人を愛していくのだと、聖書は導いています。

 私たちは、イエス様の愛を知る前は、愛するよりもさばくことが多い者だったと、想い出すのです。
 愛したくない、愛を注ぐのを惜しんだつもりはないのです。
 それでもやはり、愛するよりはさばき、赦すよりはさばくことを、していたことを認めないわけには行きません。(私はですが)
 でも、イエス様を知った今は、さばかれないためにではなく「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」ということばを、心から大切にしたいと思うのです。
 私が先に、イエス様に愛されて与えられたのだから。
 シャローム

8.26今日のみことば

2018-06-20

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」 マタイの福音書 6章21節
 「宝」とは何でしょう。
 一般的なこととしてすぐに思いつくのは「宝石」「黄金」と言ったものでしょうか。
 その人にとって、価値があるもの、大切なものということになります。
 ここ21節では「あるところ」と、宝がどこかに置かれている、大切にされている場所を意識させる文章です。

 19節のことばを合わせて読めば、金銀、宝石などを蔵などに保管しても、それはいずれ無駄になると教えてくれます。
 しかも、21節では、宝のあるところには、持ち主の心もそこにあると、示します。
 見方を変えれば、宝石に価値を置き、それを金庫にしまうなら、その人の心も、金庫に宝石とともにしまい込まれていると言うことになります。
 これではこの宝は、なんの価値もありません。
 持ち主だけが、満足して、しかもそこから何も創造的に生み出されることもなければ、良い影響も広がりません。

 しかし、ここでは宝とは、イエス・キリストのことであり、イエス・キリストを信じていることを指しています。
 そこに信じている人の心もあるのです。
 天の御国にあるとも、言えますし。
 イエス・キリストとともに、信じる人の心も働いているとも言えます。

 「宝」であるイエス・キリストとともに。平和を作り出しているのであり。
 イエス・キリストとともに、隣人を愛して、援助しています。
 この宝は、倉庫にしまい込まれることはなく、いつも高く掲げられて、良い影響を広げています。

 この世の宝ならば、心は宝に捕えられて、動けません。
 しかしイエス・キリストが与える宝ならば、宝とともに活動して、平和や喜びを生み出します。
 そこに貴方の心があるのです
 シャローム

8.25今日のみことば

2018-06-20

「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」 マタイの福音書 5章41節
 まず「一ミリオン行けと強いるような者」とは、どう言うことでしょうか。
 これは、郵便制度とでも言ったら良いでしょうか。
 これは(一ミリオン、約1500メートルを)持ち主から馬や車を強制的に借り上げて、隣町への使いに利用することが許される制度のことです。
 馬は、ずっと乗り続けることはできませんから、到着したら次の町へ行くためには、急ぎの仕事の場合、次の町へ走るための馬を、到着したその町の中で、自由に選んで使えるのです。
 すると、持ち主は、いやいや馬と一緒に隣町へ行き、また、馬を連れて自分で帰って来なければなりません。
 制度で決められているとはいえ、持ち主には大変なことであり、嫌になるでしょう。

 言ってしまえば、権力よって使いっ走りをさせられた揚げ句、自分で帰って来なければならないのです。
 それは嫌々することになるでしょう。
 しかしイエス様は言われる。
 そうではなくて、むしろ倍の距離を動いてあげなさいと、教えます。
 すると、強制されて嫌々した行動ではなく、積極的、自発的な行動となっていくのですと。

 9節の「平和をつくる者は幸いです」ということばに通じます。
 平和は作っていくのです。待っていて与えられるのではないのです。
 無理矢理に一ミリオンだけ行くのではなく、二倍のの距離を自分から動き、作り出すことで、意味を変えてしまうのです。

 「いっしょに二ミリオン行きなさい。」
 「いっしょに」ですから、自分から積極的に愛の行動をすることを教えています。
 忍耐して何かをすると言うことを超えて、積極的に行動することで平和を作り出し、敵を友人へと変えていくのです。

 実践するのは、とてもとても難しそうですが。
 イエス様を知らないと言っていた私のために、イエス様はいっしょに二ミリオンも四ミリオンも、歩んでくださったのです。
 そのことを覚えておきたい。
 シャローム

8.24今日のみことば

2018-06-20

「それから、彼に次のような主のことばがあった。」列王記 第一 17章2節
 水曜日です。今朝は「列王記 第一」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 サムエル記の第二に続く、時代の出来事を記す列王記です。
 1〜11章は、ソロモンの治世について。
 12〜16章は、分裂王国の書記の時代について。
 17〜22章は、預言者エリヤの活躍する時代について、記します。

 知恵の王と呼ばれることになるソロモンのことを記し、最大の功績である神殿建設について記します。
 そして残念ながら、ソロモンの死んだ後に、イスラエルが北イスラエルと南ユダに分裂していく様子を記します。
 最後は、預言者エリヤの活躍です。

 今朝選びました17章は、エリヤが預言者として立ち上がり、アハブ王に主のことばを伝えていく姿を記します。
 残念ながら、もっとも悪名高いアハブ王は、預言者であるエリヤのことばを聞きません。
 ここ17章では「主のことば」と言う表現が、この2節に続いて、5節、8節、16節、24節と続きます。
 短い間にこんなにも繰り返されているのは、私たちが普段いかに「主のことば」を聞き漏らしているかを教えてくれます。
 主のことばを聞いて従わないのは、何もアハブ王だけではないのです。

 様々な形、多くの信仰者の口を通して、主はことばを与えてくださるのです。
 しかし、私たちはそれを聞き漏らしたり、心に刻まなかったりするのです。

 神様に祈っても、答えられない、などと口にする前に、普段から主のことばを聞くことを大切にしたいものです。
 この二つの耳を与えてくださった主のことばを耳で聞き。
 心の耳で聞き。
 霊の耳で聞き。
 「主のことば」を聞き漏らさないで。
 私の中に、私の生活に刻みとめたい。
 シャローム

8.23今日のみことば

2018-06-20

「そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。」 マタイの福音書 4章21節
 イエス様が声を掛けてヤコブとヨハネを弟子としていく場面です。
 今日、私はこの箇所がとても好きになりました。

 4章は、最初にイエス様が荒野で悪魔の試みを受けられて、そしてそれを退けられた後、弟子を召し出す場面を記します。
 荒野での40日を過ごされて、空腹を覚えると言う、私たちと同じ人としての弱さ(私たち飲まず食わずでは生きることはできないのですから)を、経験される中で、悪魔の誘惑を退けられました。
 人としての弱さを持っていても、神様のみことばに信頼すれば、サタンの誘惑に勝利できるのです。私たちも誘惑を受けるけれども、勝利もできることを教えられます。

 そして弟子を取る時に、最初は18節で、シモンとアンデレを、召し出されたのです。
 そして、そこから歩いて先に進まれて、今度は、ヤコブとヨハネを、召します。
 完全な人となった神が、私たちと同じように、歩いて一人一人と出会ってくださって、弟子になるように声を掛けるのです。
 シモンとアンデレの後は、ヤコブとヨハネです。
 歩いて、次の人を尋ねてくださるイエス様。
 そして、声を掛けてくださったのだと言うことに、今日は改めて感激して、この箇所が好きになったのです。

 イエス様は完全な神でもあります。
 奇蹟をおこなうことも可能なのです。
 何か特別な力を使って、この4人に、いや、12人の弟子たち全員に、聞こえるような力を使って、弟子にはしなかった。

 歩いて。
 声を掛けて。
 応答を待って。
 弟子として。
 一緒に過ごして、愛して。
 みことばを教えて。
 愛して。
 導いて。
 失敗ばかりでも、見捨てないで。

 弟子たちと、出会う最初から、イエス様は一人づつを尋ねてくだった。
 何人目、いったいヤコブから数えて何人目なのだろう。
 気が遠くなるほどの時間を描けて、私に声を掛けてくださったのだろう。
 嬉しい。
シャローム

8.22今日のみことば

2018-06-20

「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」 マタイの福音書 3章8節
 バプテスマのヨハネが、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けている時に、パリサイ人とサドカイ人に告げた言葉です。
 厳しい言葉ですね。
 何故、こんなことをヨハネは告げたのか。

 パリサイ人とサドカイ人は、当時の社会でユダヤ教を代表するグループです。
 両派は大きく違う考えを持っており反目することもあったのですが、自分たちこそはイスラエルの神に愛されている、選ばれた者だと自負していました。
 そのくせ、ヨハネが人気なので、バプテスマを受けに来たのでしょう。
 でも、それは形だけ。
 そこに居た多くの貧しい人、罪人たちを見下していながら、ヨハネの人気にあずかろうとしたのでしょう。

 でも、心の中では、自分は正しい人だと、罪人とは違うと、思っていたのです。
 それなのに、形だけバプテスマを受けるのです。

 ですから、ヨハネは彼らの心を問い、暴き出して、こんなことを言ったのです。
 行いでは、幾ら善行を積んだとしても、それでは神の前の罪は赦されません。
 罪を心から悔い改めて、生き方を180度変えて、神様の方を向いて、真剣に、謙遜に生きることを求められたのです。

 心から神様を信じるならば。
 心から悔い改めるのならば。
 その実は、神様が結ばせてくださるのです。

 きっと彼らは、ヨハネにこう言われても、自分はこんな実を大きく結んでいるのだと、自慢することでしょう。
 それが間違いなのです。
 そも果実は、隣人が、小さな人が、結んでいることを見てくれるのです。そしてイエス様が喜び、祝福してくださるのです。
 実は、小さくて良いのです。
 自慢できなくて良いのです。
 イエス様が、こうしてみことばを聞く貴方を喜んでおられるのですから、実を結ばせてくださっています。 
 シャローム

8.21今日のみことば

2018-06-20

「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、」 マタイの福音書 2章14節
 生まれた救い主であるイエスの命を、ヘロデ王が狙っていることを知らされたヨセフです。
 夢で主の使いに命じられた通りに、即座に、その場を離れてエジプトへ逃げます。

 ここ14節にある「立って」と「夜のうちに」と言う二つの言葉が、ヨセフの神様への従順な姿勢を明確に示しています。
 夢で知らされましたから、目を覚ますと直ぐに行動したのです。朝までぐずぐず過ごしません。
 立ってというのは、神様のことばへの従順な応答の姿勢を現します。
 婚約者が突然、聖霊によって身ごもったことを知らされ、次には、生まれたその子を守るために遠く知らない地へ逃げろとのことば。
 度重なる驚くようなことばに、ヨセフは即座に、素直に応答します。

 それに対して、ヘロデ王はどこまでも自分中心であり、自分の欲望のままに行動します。
 自分の欲望を満たすために、幼子を虐殺することもするのです。

 主の使いが語りかけてくれたのなら、そのことばに直ぐに従うと、私たちは思うものです。
 そんな特別な経験をしたのなら、即座に従うはずだと、答えるはずです。
 しかし神の誤りなきことばである旧新約聖書を手にして、読んでいる私たちです。そこに示されている道を真っ直ぐに素直に歩んでいるでしょうか。
 聖書のことばに触れた時、立って、その夜のうちに行動できているでしょうか。
 ヘロデのように振る舞うことはないと答えることができても、ヨセフのように応答できるでしょうか。
 いや、応答できる者になっていきたいものです。
 礼拝の朝です。主が、私に語ってくださることばに従順に応答する礼拝者となります。
 シャローム

8.20今日のみことば

2018-06-20

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」 マタイの福音書 1章1節
 今日から、新約聖書のマタイの福音書を読みます。
 新約聖書には、四つの福音書があります。その最初に登場するのが、マタイが記した福音書です。
 ユダヤ人を最初の読者と想定して書かれています。

 一章は、イエス様が救い主として生まれたことを最初に記します。
 その誕生が、聖霊によってマリヤがみごもったことによること、父となるヨセフにもそのことが主の使いによって知らされたことを記します。
 マタイの示すイエス様の誕生の様子は、この一章だけです。
 私たちが良く知るクリスマスの物語は、ほとんど何も書かれていません。(ルカの福音書が記します)

 マタイが、福音書の最初に、そして大切なこととして示すことは「アブラハムの子孫」と言うことでした。
 それは救い主イエス様の誕生とは、主が私たちに与えてくださった「約束」そのものであり、約束の成就と言うことです。

 イエス様の誕生からアブラハムまでいったいどれほどの長い年月を遡ることになるのでしょう。
 遠大な主のご計画です。
 何百年も決して変わらない主のご計画です。
 主が与えてくださる約束は、年月や人の周りの状況や、人の心がどれほど変質しても変わらない恵みです。
 主が、与えると約束してくださったことが、今、成就しました。
 恵みが貴方の前に、こんななに溢れていますと、マタイは最初に記すのです。

 アブラハムの子孫と言う言葉から始まる書は、恵みの約束が溢れていることを教えてくれる書です。
 そして今、イエス・キリストを救い主と信じる貴方は、主の遠大な計画の中にある人です。神様の子どもに迎えられた恵みが与えられた人です。
 シャローム

8.19今日のみことば

2018-06-20

「 それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。」 エステル記 10章3節
 エステルとモルデカイの行動は、アハシュエロス王によってペルシャ帝国の公式な年代記に記されることになりました。
 2節では、モルデカイの行動を「権威と勇気、功績」と言う表現をします。
 ここ3節では「自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語った」ことが、モルデカイの偉大な点であると記します。
 モルデカイとエステルが、この事件の始めから終わりまで、主を信じて歩んだことが記されているのです。
 信仰者の間では、主を証しした者の行動として記憶され。
 それが主を信じてはいないペルシャ帝国の中でも、確かな働きとして記憶されたのです。
 素晴しい証しとなったのです。

 モルデカイが、ハマンに対してひれ伏さなかったことが、ハマンの憎しみを買い、ユダヤ人全体に危険を及ぼしたのではないかと言う考えもあるでしょう。
 適当に、心そこにあらずと言った形で、ひれ伏す真似でもしておけば、事件は起きなかったのではないかとの指摘をする人もいるかも知れません。
 しかし、そうではありません。
 ハマンのように、自分を神とする者は、いつか、主だけを信じる人に敵対して行動を起こすのです。
 モルデカイが、いつも変わらないで主だけを信じて従ったこと。
 ここ3節にあるように、民の幸福を願った行動が、結局は主の助けを受けて、良いものへと変えられたのです。

 変化する周りの状況や、迫害、圧力を受けるたびに、自分の信仰の行動を変えていては、良い結果を生みません。
 最終的には、天の御国で主イエスと再会をした時に、恥じることがない信仰の歩みをしたい。モルデカイとエステルのようにです。

 それは自分だけのことではなく、神と隣人を愛して、平和を求め、平和を作り出す者になっていく生き方です。
 恥ずかしがることなく、主の愛と平和を語れる者でいたい。
 シャローム

8.18今日のみことば

2018-06-20

「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。」 エステル記 9章22節
 ユダヤ人虐殺が計画された日に、ユダヤ人はアハシュエロス王から新しく出された命令に従って、反旗を翻して敵を倒しました。
 王宮では、500人のユダヤ人を迫害する者たちが、討たれました。
 このことからも、たくさんの者が、ハマンに協力していたことが分ります。
 しかしそれらの敵は、一掃されました。

 ハマンが最初にくじを投げて決めた虐殺の日は、まったく別の日に変わりました。
 ここ22節では「悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月」と、表現します。
 そしてこの日は、祝日と定められたのです。今も「プリムの祭り」として祝われています。

 十字架の日を思い起こします。
 イエス様が、無実の罪で十字架刑に掛けられた最悪の日、悲しみの日が、救いが成就した喜びの日に変わりました。
 あの日は、父なる神様の計画など何も知らないイエス様を憎む人たちが、十字架刑を実行しました。
 その結果、主のご計画が実現したのです。
 エステル記では、主の名前も一度も登場しませんが、悪をおこなおうとする人の計画が実行されたことで、主のご計画と守りが実現して、プリムの日が実現したのです。

 私たちは主の御手を見ることはできませんし、主のご計画を知ることはできません。
 しかし、主のことばを信じて、モルデカイやエステルのように、従い通すならば、困難は祝福に変わり、主の助けは信じる人の上にいつでもあります。
 今、悲しみ、困難を覚える人が居るなら、その人は、悲しみ困難が、主によって喜びと祝福に変わることを信じて、主のことばを聞きましょう。
 シャローム

8.17今日のみことば

2018-06-20

「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」サムエル記 第二 8章6節後半
 水曜日です。今朝は「サムエル記 第二」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 サムエル記は、イスラエルの国の歴史を記します。
 エジプトでの寄留生活を経て、荒野を旅をする12部族の連合国家となり。
 次に、さばきつかさ(士師)による治世と言う都市国家となり。
 その後、サウル王が任命され、そして次のダビデ王によって遂に王国が周辺の国を治めることを記し。
 その後の後継者問題までも記します。

 21章から最後の章までは、幾つかの出来事が次々に登場していますが、年代別にはなっていません。
 興味深く、読み通せる書です。

 この第二は、ダビデを中心とした書です。
 ダビデは、第一の16章から登場していますが、それはサウル王の元でのダビデです。

 第二は、ダビデがサウルの嫉みと憎しみを受けて、逃亡生活を経験する中で、試練を通してその信仰が磨かれ、成長して王として素晴しい治世をおこなったことを教えてくれます。
 しかし、ダビデも完璧ではありません。
 王としてはサウルと違って、主に仕える良い王ですが、家庭においては子育てに苦悩し、幾つかの失敗、罪をおかしてしまう人でした。
 しかし、ダビデは悔い改めることを知っていた信仰者でしたので、主は、そんなダビデを祝福してくださったのです。

 サウルは、我が道を進みましたが、ダビデは、主の道を進み通したのです。

 ダビデの苦悩、試練は、私たち信仰者の通る試練そのものです。
 試練は、私を成長させ、信仰を確立させて強めてくれます。

 そして成功も、自分の力ではなく、主が一緒にいてくださることを知って、信頼して従うかどうかです。
 8章の6節、14節に繰り返される「主が勝利を与えられた」ということをダビデは知ってしました。
 試練の時も、勝利、順境の時も、主はいつも共にあり、私を捨てない。
 サウル王の歩んだ我が道ではなく、ダビデのように、主の道を歩むことが幸いなのです。
 主が祝福して、良いものを与えてくださるから。
 私は、この主を信じて、みことばに従う。
 そこに平安と豊かな祝福があります。

 「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
 新約聖書、コリント、第一、10章13節のことばを、ダビデは経験し、自分のものとしていたのです。
 私たちも同じです。
 シャローム

8.16今日のみことば

2018-06-20

「あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」」 エステル記 8章8節
 ここを最初に読んだ時に、不思議に思いました。
 何故王は、自分が先に出した命令(文章)を、取り消す命令を出さないのか。
 最高権力者の王なのですから、取り消しを命じてもよいのではないかと、思ったのです。
 しかし、そうではないのですね。
 最高の力と威厳を持つ王だからこそ、王の名前で(しかも証印までした)一度出した命令を変えることはできないのです。
 それでは、王の命令に力が無くなってしまいます。

 ですからここでは、新たに王の名前で、ユダヤ人を虐殺しようとする人に対して、正当防衛をとって良いとの命令を出します。
 当然、ユダヤ人を狙っていた者たちは、危機感を持ったことでしょう。
 しかも、前の命令よりもずっと早く急ぎの命令として、王から届いたのです。

 今朝考えたのは、取り消せない文章ではなくて、決して取り消さない「ことば」のことです。
 主が、私に与えてくださる恵みのことばのことです。

 主は、私たちを救うと約束のことばを与えてくれました。
 そのことばは変わりません。主ご自身が正しい方なので変えることができないのです。
 それなので、私たちが主から離れてしまうようなことがあっても、主は、一度与えた救いのことばを変えません、取り去りません。

 アハシュエロス王は、間違いも犯しますので、最初の命令のような失敗をします。
 そして、矛盾する命令を後から出すようなことしかできなくなります。
 しかし、主には、間違いも失敗もありません。

 だから、救いの約束、そのことばは絶対に変わらないのです。
 私たちは信じていれば良い。
 もし、私が迷っても、悩んでも、主から離れてしまっても。
 一度、受け取った恵みのことばは、変わらない、無くならない。

 これは凄い恵みです。
 貴方は、そのことばを受け取っているのです。
 シャローム

8.15今日のみことば

2018-06-20

「そのとき、王の前にいた宦官のひとりハルボナが言った。「ちょうど、王に良い知らせを告げたモルデカイのために、ハマンが用意した高さ五十キュビトの柱がハマンの家に立っています。」すると王は命じた。「彼をそれにかけよ。」」 エステル記 7章9節
 7章は、事件が大きく変化して、一気に解決へ向かいます。
 エステルが開いた宴会の二日目に、王は再びエステルに望みは何かと、尋ねます。
 エステルは意を決して、ハマンのユダヤ人虐殺の計画を訴えます。
 3節で、エステルは、願いを聞いて命を与え、望みを聞いて皆の命を与えてくれるように願います。
 言葉を二度重ねて強く訴えるのです。

 感情の起伏が激しい王は、怒ります。
 ハマンは、自分の立場が一気に悪くなったことを察するのです。
 そして王が席をはずした間に、エステルに命ごいをするのですが、それがかえって王にはエステルに危害を加えようとしていると見えます。
 王の怒りはさらに激しくなります。

 どんどんハマンに取っては状況が悪くなるばかりです。
 そして最後は、宦官の一人が、ハマン自身がモルデカイを殺そうと立てた柱があるので、それを利用することを進言します。
 王の側近の中にも、これまで秘かにハマンのことを快く思っていなかった人たちがいたことが分る瞬間です。

 この9節に「ちょうど」と言う言葉があります。
 時をも支配される神が、この時を、ちょうど定められ支配しておられます。
 エステルが、王に願いを口にしたのは、二日目。
 ちょうど、王が眠れぬ夜を過ごし、モルデカイの功績を認めた後でした。

 ハマンが、他人をモルデカイを陥れようと、ちょうど、柱を立てた時でした。

 主に信頼して、祈り備えて行動するなら、ちょうど、良い時に主が私たちに恵みを与えて、助けてくださるのです。
 感情のままに、虐殺を計画し、モルデカイの殺害を計画し、感情のままに、王ではなくエステルに命ごいをしたハマンは、感情のままの王に即座の罰を受けました。

 主は、私たちを愛して助けてくださる。
 その助けが与えられる時は、私が願う時ではなく、主がちょうど良いと思われる時です。

 エステルが、最初に王に願いを伝えるのではなく、主に祈り備えてから王に伝えたのは正しいことでした。
 苦しみ悲しみを感じた時に、即座に、感情のままに祈ることは、おおいにしたら良いのです。
 主に祈る内に、祈りの内容も整えられて、祈りは深くなり、祈りの内に知恵も与えられます。
 すると、次にするべき行動も教えていただけることでしょう。
 主の時があります。
 ちょうど、良い時があります。
 信じて、いつも祈り備えていくことができるように。
 シャローム

8.14今日のみことば

2018-06-20

「 それで、ハマンは王服と馬を取って来て、モルデカイに着せ、彼を馬に乗せて町の広場に導き、その前で「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである」と叫んだ。」 エステル記 6章11節
 大逆転の朝です。
 王は、エステルの開いた宴会の後で、眠れない夜を過ごします。
 そこで王は、記録書を読み返すと、そこに自分の暗殺計画を未然に防いだモルデカイのことが記されていることに目を留めるのです。
 こんな不思議なことが起きるのは、誰かが計画したり準備を整えたとしても無理な話です。
 主が、エステルとモルデカイの背後に働き、信仰者の困難をも益に変えてくださるのを感じます。

 記録を読んだ王は、モルデカイに何の報償も与えていないことを知らされると、直ぐさま行動します。
 丁度夜が明けて朝になっていたところ、ハマンはモルデカイを柱にかけて殺すことを願い出るために王宮に来ていたのです。
 王は、王のために功労がある者にはどの様にしたら良いかと、ハマンに意見を求めます。
 自分が王から栄誉をもらえると考えたハマンは最高の物を提案します。

 ところが何と、それはハマンが憎むモルデカイに与えられて、ハマンはその引き立て役になってしまうのです。

 主なる神様に仕え、正しいことを常にすることを心がけてきたモルデカイ。
 自分の欲するまま、自分の得になることだけを求めてきたハマン。
 一気に状況が反転します。
 ハマンは、まさに自滅です。

 モルデカイやユダヤ人を憎み、自分の欲だけで動いてきた人は、結局、神様の前には良い物を受けることができないのです。
 主のことばに従い、正しいことを貫き、隣人を愛して行動する人は、困難がその人を覆うことがあっても、神様の守りと祝福が取り去られることはないのです。

 王の心には、誰も何もすることはできません。
 ただ、主なる神様だけが、王の心をも動かしてくださる。
 この主を信じて歩む通せるかどうかが大切です。
 シャローム

8.13今日のみことば

2018-06-20

「エステルは答えた。「もしも、王さまがよろしければ、きょう、私が王さまのために設ける宴会にハマンとごいっしょにお越しください。」」 エステル記 5章4節
 エステルは、モルデカイに伝えた通りに、王からの召しがないにもかかわらず、王の前に進み出ます。
 王は、エステルを信頼していたのでしょう。手にしていた金の笏(しゃく)を伸ばして、エステルを許し受け入れます。
 通常ならば、王の前に勝手に近づいた場合は、王の暗殺の危険を考えて、その場で処刑されてもしかたがないのです。
 これが命がけの行為の一つでもあります。

 エステルはここで、王にユダヤ人の虐殺の回避を願ったり、ハマンの行いを訴えることはしませんでした。
 何故直ぐに助命を願わなかったのか、その理由は明らかにされていません。
 しかし、このエステルの思慮深さ、落ち着いた行動と、宴会への王とハマンの出席を願うと言う、不思議な行動に王の心も動き始めるのです。
 それは宴会のことが、命がけで願うようなことではないはずだからです。
 その背後に、時をも司る主の働きがあるようです。

 実は、この4節は、興味深い節だと言われています。
 エステル記はイスラエルの「神」「主」と言った言葉が一度も登場しない書です。
 そしてこの4節の言葉ですが。
 「きょう、私が王さまのために設ける宴会にハマンとごいっしょにお越しください。」
 今日、王様、ハマン、お越しください、と言うそれぞれの単語の頭文字に、イスラエルの聖なる主の「聖四文字」と呼ばれる文字が、隠されているのです。
 物語りの大切な文章に、こうして神の名前を技巧的にちりばめることで、私たちの人生に、いつも一緒に居てくださる主なる神様の存在、働きを示そうとしたのかも知れません。

 エステルの行動は不思議です。
 命の危険を知っていながら動いたのに、一番の願いを口にしません。

 対して、ハマンはモルデカイの態度に、怒りを募らせ、モルデカイを処刑するための柱を直ちに立てるほどの思慮のない行動をします。14節。
 その背の高い柱は、もしかすると、宴会の席からモルデカイが処刑されるところを見ようと言う、恐ろしい心からの行動ではないでしょうか。
 思慮深いエステルと、その言葉の背後にある主の御名。
 短絡的で恐ろしい心で行動するハマンの、対比が私の心に迫ります。

 いつも主を愛して、思慮深く生きたいものです。
 主は、いつくしみ深く、怒るに遅く恵みを与えるのに惜しみない方だから。
 私も習いたいのです。
 シャローム

8.12今日のみことば

2018-06-20

「 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」」 エステル記 4章16節
 エステル記の、いいえ聖書の記す信仰者の、大切で真実な応答の言葉がここにあります。

 「あなたは〜助かると考えてはならない」「もしかすると、この時のためかもしれない」
 ハマンによるユダヤ人の虐殺計画を知ったモルデカイが、手を尽くして王宮に住む養女エステルに伝えた言葉です。問いです。

 「たとい法令にそむいても私は王のところにまいります」「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」
 養父からの言葉に答えるエステルです。

 緊張感がピリピリと伝わるやり取りが、13節から16節に続きます。

 愛するエステルに厳しいことばで迫る父モルデカイ。
 言葉どおりに行動する覚悟とともに、命の言葉を答える娘エステル。

 凄い会話です。
 見方を変えるならば、二人は、自分の言葉を「主」に向かって命がけで発しているのです。
 父も娘も、自分の命だけを救いたいと思っていません。

 イエス様の十字架の直前の、ゲッセマネの森での、父なる神様への祈りを思い起こさせます。

 モルデカイも、エステルも命を捨てようと言うのではありません。
 主が、期待してくださっている地上での大切な使命から逃れることはしません、という覚悟です。
 そこにどのような困難があっても、主が、導いてくださることを信じて、真剣に応答し、主に委ねて従うと言う決意です。

 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」
 マルコの福音書8章35節のことばを、思い起こします。
 福音とのために、神様とのために、私は、死ななければならないのでしたら、死にます、と言うことでしょう。

 主イエスとともに生き、主イエスの十字架の死とともに死ぬのがキリスト者の始まりであり終わりです。
 しかしエステルは凄いなぁと思います。迷いがない返事です。
 シャローム

8.11今日のみことば

2018-06-20

「 ところが、ハマンはモルデカイひとりに手を下すことだけで満足しなかった。彼らがモルデカイの民族のことを、ハマンに知らせていたからである。それでハマンは、アハシュエロスの王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を、根絶やしにしようとした。」 エステル記 3章6節
 いよいよ大事件が起きようとしています。
 事の発端は、モルデカイが王の信頼を得て権力を振るい始めたハマンに対して、ひざをかがめてひれ伏すことをしなかったことです。
 モルデカイ以外の家臣は、王の命令に従い、ハマンにひれ伏しました。
 しかしモルデカイは、ひれ伏すことは神をあがめる行為であり、真の神以外に対して、ひれ伏すことはできないと考えて、しなかったのです。
 人々の密告もあり、モルデカイが自分にひれ伏さないことに怒り、ハマンは彼を殺そうとします。

 しかしそこで不思議なことが起きることになるのです。
 ハマンは、その怒りが大きかったのか、モルデカイだけではなく、ユダヤ人全員を国中から抹殺しようとします。
 言葉巧みに王に進言して、王からモルデカイ一人ではなく、ユダヤ人全員の処刑の許可を取り付けます。
 そしてその決行ための日をくじを使い定めます。

 これが後に、モルデカイ、エステル、ユダヤ人を助けることになります。
 モルデカイ一人なら、その日の内にでも処刑、殺害できたでしょう。しかしそれでは納得できない心がハマンの中にあったのです。
 しかし国中のユダヤ人を処刑しようとすれば、準備も必要です。
 それで決行日は後日になります。

 これがモルデカイ、エステルが、主に祈り、ハマンの悪巧みに対抗する時間となりました。
 祈る時間が与えられたのです。
 主が、背後に働いてくださったことを覚えます。
 主は、相手の恐ろしい心をも、時には用いて、主を信じる者に力を与えてくださるのです。
 ハマンの計画はさらに恐ろしくなり、脅威は増しましたが、切に祈り備える時間は増しました。
 危機が打開の機会となりました。

 間違った怒りや憎しみは、人をさらに怒りに駆り立て、際限なく恐ろしいことを計画させます。
 モルデカイ一人を殺しても、怒りは収まらないと、もっと残虐なことをして、自分の気持ちを満足させたいとハマンは考えたことでしょう。
 怒りを鎮めることに時間と力を注ぐのではなく、復讐に使った結果、彼は、自分の手で自分の滅びを招くことになるのです。
 主は、いつも愛と平和を求める者の味方です。復讐する怒る人の友ではありません。
 ハマンの行動は最初から最後まで、一つも正しくはないですし、彼の怒りそのものも間違っています。
 同情の余地もないです。

 では、私たちが、日々の中で怒りを覚えたらどうするのがよいのでしょう。
 その怒りは正しい怒りなのかと、主に祈り、問います。
 怒りをおさめるために、相手に対して行動する前に、怒りの心を収めるべき道を祈り求めます。
 平和を作り出す者は幸いであるとのみことばを思い起こしたい。
 シャローム

8.10今日のみことば

2018-06-20

「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」」サムエル記 第一 18章1節
 水曜日です。聖書を順番に一書づつ紹介して読んでいます。
 今朝は「サムエル記 第一」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 第一と第二がありますが、元は一つの巻き物、一巻であったと思われます。
 士師記の末期からソロモン王の即位までを扱っているイスラエルの歴史書でもあります。
 サムエルが記したと言うのではなく、最後のさばきつかさ(士師)であり、イスラエル王国の最初の預言者であるサムエルの名前を取っているのです。
 そのサムエルが、サウル、そしてダビデに油を注いでイスラエルの王の任命に携わったのです。

 不妊の女性であったハンナが、主への祈りの中で平安を得て、そして主のあわれみを受けて息子サムエルを得ます。
 ハンナの素晴しい祈りから始まって、戦死したサウル王に対する哀悼と喪の断食で終わるのが本書です。
 17章には、巨人ゴリヤテとダビデの戦いが記されます。この出来事、お話しは、イスラエルの歴史上、聖書の出来事の中で、もっとも有名なことと言っても過言ではないでしょう。

 母、ハンナとサムエル、そしてサムエルの師匠でもある祭司エリ、サウル王に、ダビデとゴリヤテといった多彩な登場人物。
 ゴリヤテを石のつぶてで倒すダビデ。
 後半は、ダビデを殺そうと追い回すサウル王、決してサウルを手にかけようとしないダビデと言う事件も続く本書です。

 選びました18章1節は、サウル王の長男であるヨナタンとダビデの関係を示す節です。
 「ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。」
 主を心から信じるヨナタン。同じく主を信じて、主のことばに従うダビデ。
 同じ信仰をもつ者同士の友情は、自分の命と同じように相手を愛する心で結びついていることを教えてくれる節です。

 王の長男でありながらヨナタンは、ダビデを愛して認めています。
 次の王には、主がダビデを選んでいることを知っていて、認めることができるのです。

 もちろん、ダビデもヨナタンを愛して信頼しています。
 それは二人が、主を愛して、主のことばに従うことを大切にしているからです。

 この二人を見ていると、信仰の友の存在が、私たちの信仰生活には大切であることが分ります。
 気が合うと言うようなことではなく、主を真ん中にした友情であり、主の使命に生きる信仰者として一緒に歩むことができる大切な存在です。
 こう言う友人がいることは嬉しく大切です。
 ここを読むと、イエス様が、律法の中で一番大切であると教えてくれたみことば(神を愛して、隣人を愛する)を実践している二人の姿があると分ります。
 シャローム

8.9今日のみことば

2018-06-20

「そのころ、モルデカイが王の門のところにすわっていると、入口を守っていた王のふたりの宦官ビグタンとテレシュが怒って、アハシュエロス王を殺そうとしていた。」 エステル記 2章21節
 王宮に連れて行かれ、王妃となった養女のエステルの身を心配していたモルデカイは、王の暗殺を企む宦官の話を耳にします。
 それをエステルを通して、王の耳に入れます。
 結果として、暗殺計画は破れて、モルデカイの働きは、正式に王の書類に記されます。
 この記述が、後になって、モルデカイとユダヤ人の命を助けることになります。

 この事件を通報したモルデカイの働きの背後にも。
 召し出されたエステルが、監督官ヘガイの好意を受けて、王妃として推薦されたことも。
 願っていなかった外国人の王の后となっていくことの背後にも。
 主の助けと導きがありました。
 そのすべては、後になって、モルデカイとエステル、そして主を信じるユダヤ人を助けることになります。

 モルデカイにも、私たちにも将来起きることを見通すことはできません。
 それなので、その時に誠実に行動し、主の前に正しいことをおこなうだけです。
 それらを繋いで、恵みに変えてくださるのは主です。

 モルデカイが、可愛がっていたエステルを王妃として連れて行かれたことのみを見て、王を憎んだとして。
 暗殺計画を通報しなかったたら、どうなっていたのでしょう。
 ひとつでも欠ければ、後の時の助けにも欠けることになります。

 私たちは、毎日、新しく主に遣わされた者として、そこで起きる一つ一つのことに、誠実に愛をもって選択し行動するだけです。
 それらを恵みと祝福に変えてくださるあわれみ深い主が私の助けだと信じて歩みたい。
 いつも、私の目の前に主を置いて歩みたい。
 シャローム

8.8今日のみことば

2018-06-20

「 もしも王によろしければ、ワシュティはアハシュエロス王の前に出てはならないという勅令をご自身で出し、ペルシヤとメディヤの法令の中に書き入れて、変更することのないようにし、王は王妃の位を彼女よりもすぐれた婦人に授けてください。」 エステル記 1章19節
 今日から、エステル記を読みます。
 ルツ記と本書だけが題名に女性の名前を用いています。
 舞台はバビロン帝国がペルシャに滅ぼされた後の時代。
 捕囚となっていたユダヤ人がクロス王によって帰国が許されたものの、留まっていた人も大勢いた中で置きます。
 時のペルシャの王は、アハシュエロス(クセルクセス)です。
 この王と王妃との間で起きたトラブルを、一章は記します。
 そしてこの王妃の引き起こしたトラブルが、後にユダヤ人の大量虐殺を図る陰謀からユダヤ人を救う布石とも言うべきものになっています。

 本書の特徴は「主」「イスラエルの神」「神」と言った表現が一切登場しないことです。
 しかしその背後には、私たちの生活の背後には、いつも主の愛の御手が働き、私たちを導いてくださっていることを、知ることができる書です。
 私が、信仰の決断だと考える出来事ばかりではなく、普段の生活の中で、私たちがおこなう選択と決断、行動がすべて繋がっていることがわかります。
 誠実で愛のある行動、小さなことでも正しいことをおこなっていることが、結局は大きな危険や困難において、自分の身を助けることにもなるのです。
 それは主がすべてのことを知っていてくださる方だからです。

 一章は、神について示唆されることも、ユダヤ人の信仰についてもなにも示されません。
 物語りの背景を淡々と説明してくれます。
 しかし大切な言葉があります。
 「 もしも王によろしければ」
 本書で、7回登場するこの言葉が、ユダヤ人の命を救う出来事に関係します。
 感情の起伏が激しく、少し思慮に架けるように感じるアハシュエロス王の心一つで、事件が起き、危機が回避されることになります。

 王の心を求める時、人は配慮して言葉を掛けます。
 主の御心は、いつも私たちの生活の背後にあって、私たちを導き見守っています。
 私たちは、主に気を使って何かを願い求めるのではなく、大胆に祈り求めていけば良いのです。
 主は、私たちに多くの恵みと祝福を与えようといつも備えて待っていてくださる。
 日頃から、主を愛して、おおいに主に願いを聞いていただくのが良いのです。

 主は、貴方に良いものをくださり、最善の道へと導かれる。
 私が神と隣人を愛して行動し、選択していくならば、恐れることはないのです。
 主の御心を、大胆に求めましょう。
 そうすれば、悲しみの日が喜びの日に変わるのです。

 追加。
 創世記から申命記までを「律法の書」としてまとめることができます。
 ヨシュア記からエステル記までを「歴史の書」としてまとめることができます。
 旧約を続けて読んでいます。本書までを一つのまとまりとして読み通して、次は新約聖書に進む予定です。
 シャローム

8.7今日のみことば

2018-06-20

「定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規程も定めた。私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください。」 ネヘミヤ記 13章31節
 ネヘミヤは短く祈ります。
 「私の神。どうか私を覚えていてください」
 14節、22節に続けて、この31節でも祈るのです。
 大切なことなので、繰り返して祈るのです。
 短い言葉で祈るのです。

 ネヘミヤは、主のことばを忠実に守ろうとします。
 ネヘミヤは、主のことばを熱心に聞こうとします。
 ネヘミヤは、主のことばを少しも変えないで守ります。

 神殿再建の工事を指揮して行動するだけでなく、礼拝を整えてきよめ、民の信仰を正しく導きます。
 ネヘミヤは、主に見捨てられるなどと、思っていません。
 全能できよい神様が、すべてをご存じであることも知っています。

 それでも祈らずにはいられないのです。
 「私の神。どうか私を覚えていてください」

 熱心であったことや忠実な信仰者であったと、誇っているのではありません。
 主に、自分が覚えられていることが、ネヘミヤの力となり、喜び、平安なのです。
 だから、ネヘミヤは敢えて口にして祈るのです。
 覚えて。

 私たちは、天と地とそのすべてを作られた創造主で全能の方に、自分の名前が覚えられ、自分の毎日の生活が覚えられていることを知っているでしょうか。
 それを喜んでいるでしょうか。

 礼拝の日曜日です。
 私たちがささげる礼拝は、勝手にささげて、それで終りじゃない。
 主が、覚えてくださっており、私たちがささげる礼拝を受け容れてくださっているのです。
 でも、その礼拝の中で、敢えて声にしたい「私の神。どうか私を覚えていてください。」
 主の覚えていただけていることが一番の喜びです。
 シャローム

8.6今日のみことば

2018-06-20

「 こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」 ネヘミヤ記 12章43節
 12章は、感動の章です。
 神殿の再建が完成したことを祝う奉献式が執り行なわれます。
 奉献式の中心は、祭司、レビ人を聖歌隊とした賛美です。
 エルサレムの町を取り囲む城壁の上を左右に別れた二つの聖歌隊が歌い行進して神の宮に向かいます。
 町を聖歌隊の歌う主への賛美が取り囲むのです。

 賛美で始まり、賛美が中心の日です。

 そしてここ43節に素晴しい情景が記されます。
 町中から多くの人が集まり、主を礼拝して賛美の歌を喜び歌ったのです。
 その喜びの声ははるか遠くまで聞こえたとあります。
 つい先日まで、町は破壊され荒れたままであり、城壁も崩れていました。
 誰も喜びの賛美の歌など歌わなかったのです。
 このような日が来るとは、予想もできなかったはずです。

 しかし、主に心を動かされ、奮い立たされたネヘミヤを中心とした人が立ち上がることで、主への熱心な信仰の心が広がっていき、この日を迎えたのです。
 妨害もありました。困難もありました。
 けれど主が助けてくれました。

 町中が主を賛美して歌い、その声が遠くまで響くことを、今、私たちも想像するのは難しいです。
 けれどそれは私には難しいのであって、主には不可能ではありません。
 私たちの喜び歌う主への賛美が、大きく広がって、街の中に遠くまで響く日が来ると願いましょう。
 そして今日も、主を喜び賛美しましょう。
 きっと、街を賛美が取り囲み、多くの人が集い、喜び賛美する日が来ます。
 シャローム

8.5今日のみことば

2018-06-20

「彼らの同族の勇士たちは百二十八名。彼らの監督者はハゲドリムの子ザブディエルであった。」 ネヘミヤ記 11章14節
 ここ11章では、帰還した民の名前が順番に記されます。
 民のつかさたちがエルサレムに住んだことが記されます。
 また、くじを引いて外れた人の内からも、エルサレムに率先して住む人がいました。
 それは主の神殿があるエルサレムを大切にし、主を礼拝することを中心にして、自分たちの生活を立てあげようとしていることの現れでした。

 また、名前が一人一人丁寧に記されるのは、主が、一人一人と会ってくださりその信仰を大切にしてくださっていることを現しているのです。
 ここではイスラエル人が、帰還して主を礼拝した者の名前を大切にして記して後の時代に伝えましたが、私の名前も同じように主に覚えられているのです。

 14節は、主の神殿で奉仕する祭司の名前を記していますが、ここに大切な言葉があります。
 「勇士たち」です。
 同じ単語が歴代誌第1,9章13節では「力のある」と、訳します。
 祭司としての努めに熟練し、心から真摯に主に仕えている祭司のことを力があると示し、また、勇士と現したのです。
 そうなのです。主を信じて、主と主のことばに仕えることができる人は「主の勇士」なのです。
 剣の技が優れており勇敢な兵士だけが勇士なのではありません。
 主の福音を伝え、主の愛を証しして生きる信仰者は、主の勇士なのです。
 士師記では、主が共にいてくださる人を勇士と呼ぶことを、主の使いが伝えてくれました。

 私たちは今、一人一人、天の神を「アバ。父」と呼びかけて親しく交わりを許され、主に仕える信仰者であり、祭司です。
 万人祭司なのです。
 そして主の勇士なのです。
 その名前は、父なる神に覚えられ、天の御国に書き記されています。

 今日一日の歩みも、主が共にいてくださる勇士として、自信を持って歩みたい。
 困難も勇士なら立ち向かえる。喜びは力ある者のさらに力となる。
 貴方は主の勇士。
 シャローム

8.4今日のみことば

2018-06-20

「たとい、この地の民たちが安息日に、品物、すなわち、いろいろな穀物を売りに持って来ても、私たちは安息日や聖日には彼らから買わない。また、私たちは七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない。」 ネヘミヤ記 10章31節
 安息日には買わないと、決めたことが記されます。
 それはこの日まで、安息日にも市場が開かれて、買い物をしていたと言う事実があるのです。
 安息日は、聖なる日で礼拝をささげて、仕事をしない日のはずなのに守られていなかったのです。
 そして続けて、負債を取り立てないことを決めた、いいえ、確認して徹底したのです。
 この日までは、貧しい人が負債を負った結果、奴隷になってしまったと言う事実があったのです。
 しかし、モーセの律法はイスラエル人を奴隷にしてはいけないことを定めており、負債があっても七年目には必ずそれを免除することが定められているのです。
 これを守ることを、この日全員が徹底することを確認したのです。

 もちろん、他にも守られていなかった律法が幾つもあったことでしょう。
 しかし、同胞の貧しい人の負債を免除することは、特に守らなければならなかったはずです。
 何故なら、もし主に、私たちが負債を取り立てられたならば、私たちは誰一人決して返すことはできないからです。
 主の前に罪をおかし、大きな負債があります。
 返しきれない負債を、主ご自身が犠牲を払って免除してくださったのです。
 取り立てるのではなく、免除する。
 それが主の恵みでした。

 捕囚から帰国が許されて、城壁の再建も許されると言う恵みの中で、人々は自分の罪と言う負債について思い起こし。
 それが赦されている身であることを喜んだのです。

 それならば、この七年目に負債を免除する律法は、守らなければなりません。
 自分が主から受けている恵みを忘れないために。
 私たちも、主から恵みを受けている負債が許されている身であることをもう一度確認して、喜びたい。
 シャローム

8.3今日のみことば

2018-06-20

「〜しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」」ルツ記 3章13節後半から
 水曜日です。今朝は「ルツ記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 今朝、心に刻みたいことば「主は生きておられる」。アーメン。

 物語りの主人公である女性、ルツの名前が書名になっている書です。
 モアブの子孫であり、モアブの野の出身であるルツが、夫や義母のナオミを通してイスラエルの真の神を信じて、その信仰を貫いた生活を記す書です。
 わずか4章からなる書ですが、信仰について、とても深くそして広がりを教えてくれる書です。

 どんな状況に私たちが陥っていたとしても、自分では解決できないような問題や悲しみの中にあったとしても、主は、私とともにいてくださるのです。
 私には最悪な状態と思える時でも、そこには既に主の恵みが注ぎ始められているのだと言うことを信じることができると、教えられるルツ記です。

 義母のナオミは、苦しみ悲しんで、何も持たず、素手で故郷に帰って来ましたと、告白しますが、それは間違っていました。(1章20〜22節)
 地上での夫や二人の息子との別れを経験し、財産も失っていますけれど、素晴しい信仰者となった嫁のルツが彼女の隣に居ます。
 ルツは義母を愛し、主を愛して仕えました。
 その信仰は宝物であり、再婚したルツから、ダビデ王が生まれ、イエス様の家系となったのです。

 選びました節は、本書のもう一人の主人公と言って良いボアズの言葉です。
 義母ナオミ、即ち亡くなったエリメレクの親戚筋にあたる人であり、ルツが落ち穂を拾っていた畑の所有者でもある人です。
 律法によれば、ボアズは親戚ですので、ルツを妻に迎えて、エリメレクの家を継ぎ、畑を所有することができます。
 しかし、その権利を一番に持っている人物が他にいます。ボアズは2番目の権利保有者なのです。

 ルツが外国人であり、町の人々から受け入れられていないこと、エリメレク、ナオミの家を継ぐことは楽なことではないので、多くの町の人は避けたいところです。
 ボアズは、そんな中で、自分のできる事をして、律法をも守り通します。
 自分の感情や欲望ではなく、主に従うことを通すのです。

 ここにある「主は生きておられる」と言うことばが今朝は強く響きます。
 このことばにある意味はこうです。
 真の神は、人の手で作ったような偶像の神々とは全く別のもので、今も生きて働いてくださる方だと信じる告白のことばです。
 次ぎに、生きている神の前に、自分のすべきことはみなします、おこないますと言う告白でもあります。
 最後に、生きて働かれる神に、信頼して、委ねますと言う、告白です。

 これが実践できるボアズなので、このことばを口にした次の朝を平安の内に迎えることができます。
 また、ルツも、生きている神を信じているので、ボアズのことばに安心を得ています。

 主は生きておられる。
 本当に、心からそのように信じて、唇にのぼらせ、その主に委ねて、今日の歩みをしたい。
 主は、私の想像を遥かに超えた恵みで答えてくださり、私の必要を満たし、心とたましいをも満たしてくださる。
 シャローム

8.2今日のみことば

2018-06-20

「私たちに降りかかって来たすべての事において、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです。」 ネヘミヤ記 9章33節
 仮庵の祭りが終わった二日後、イスラエル人は集まって、断食をして、自分たちと先祖の罪を告白しました。
 日中の4分の1を聖書を読み、4分の1を罪の告白をして主を礼拝したのです。

 その中で、彼らは自分たちと先祖は、繰り返して主に背き、主を悲しませてきたことを認めて、告白します。
 罪を繰り返し、悔い改めることなく、頑固に主に逆らい続けたのです。

 しかしそんな時でも、民が苦しみの中から助けを求めると、主は、何度でも助けてくれたことも、告白します。
 もう助けないと、見捨てられることはなかったのです。
 現在も、ペルシャの属国と言う立場であり、奴隷のような立場なのですが、その中でも城壁再建が許され、故郷への帰還が許されるなど、主のあわれみは大きいことを告白します。

 エルサレムの町の崩壊と捕囚の身となったのも、すべて自分たちの罪の結果であり、主のさばきは正しかったのです。
 今、悔い改めて、悲しみの中で、罪を告白することができた人々は、主のあわれみを改めて知ったのです。

 ここ33節の短いことばがすべてを言い表しています。
 「あなた(主)は正しかった」すべての事において。
 「私たちは悪を行った」

 「あなたは誠実をもって行われた」
 「私たちは罪を行った」

 これが残念ながら、私たちの姿です。
 しかし、そんな私をも、主は見捨てることなく、救い出された。
 主は、情け深く、あわれみ深い神です。
 私の今朝の告白のことばとします。
 シャローム

8.1今日のみことば

2018-06-20

「レビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」」 ネヘミヤ記 8章11節
 ラッパを吹き、聖なる会合を開く日になると、民は皆、樹種的に広場に集まってきたのです。
 そして律法の書が朗読されることを求めました。強く望んだのです。
 これまで、律法、聖書が読まれる機会がなかったのです。

 律法の書が読まれると、彼らは皆、自分たちと先祖がおかしてきた罪を示されて、良心にとがめを感じて泣いたのです。
 しかし、主は彼らに語ります。
 「悲しんではならない。泣いてはならない」
 それはこの日が、聖別された日だから。

 しかし、悲しむな、泣くなと、叱責されているのではありません。
 悲しまなくても良いのだ、泣かなくても良いのだと言う、主の慰めと励ましです。
 だから喜びなさいと、主は語ってくださるのです。

 罪を認め、悲しみと涙を知った人が、主に受け入れられて、主の恵みの中で喜びをいただけるのです。

 罪をそのままに放置し、主など知らないと、頑固に歩む人は、喜び楽しみを追いかけても、満足する日はこないでしょう。
 主を知り、悲しみと涙を知った人が、喜びを得ることができます。

 貴方の、苦悩、悲しみ涙は、喜びに変わります。主が、貴方と共にいてくださるのですから。
 静まって、もう一度、聖書の言葉を読んでください。喜びが湧き上がります。力づけられます。
 シャローム

7.31今日のみことば

2018-06-20

「 私はふたりに言った。「太陽が高く上って暑くなる前に、エルサレムの門をあけてはならない。そして住民が警備に立っている間に、門を閉じ、かんぬきを差しなさい。エルサレムの住民のうちから、それぞれの見張り所と自分の家の前に見張りを立てなさい。」」 ネヘミヤ記 7章3節
 城壁が再建され、門も取り付けられた時、即ち、エルサレムでの生活が本格化した最初の時の様子を伝えてくれる7章です。
 町には、四万数千人が暮らし始めました。
 そして外敵から町を守るために門は夜間は閉じられるのです。
 ここ3節から、その最初の頃の生活が大変であったことを知ることができます。

 まず、警備には町の住民の協力が必要でした。
 ネヘミヤが専任の門衛を置くことができなかったのです。
 そして門は、通常であれば日が上る時にあけるはずですが、太陽が高く上る時間にならなければあけることができませんでした。
 人数が確保できなかったのです。
 これが城壁が再建されたエルサレムの現状です。

 でも、この時、歌うたいが任命されます。
 歌うたいは、現代ならば専門家の聖歌隊と奏楽者ということです。
 町を守るのに人数も足りない状況でも、聖歌隊は外せません。
 ここエルサレムは、単なる首都ではないからです。
 東京の代わりに大阪に首都を移転と言う訳にはいきません。
 ここは主を礼拝する中心地、主が臨在してくださる場所です。
 荒野で「会見の天幕」を中心にして生活したように、主を礼拝する場所を中心に生活するのです。
 歌うたいは大切です。必要なのです。

 苦しい時だからこそ、主を賛美することを中心に生活を立てていく。
 私たちの家も、衣食住を整えること以上に、賛美が溢れる家にすることを大切にして毎日を過ごしたい。

 日曜日です。主を礼拝する週の最初の日です。
 賛美を全面に押し出していきましょう。
 シャローム

7.30今日のみことば

2018-06-20

「事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。」 ネヘミヤ記 6章9節
 城壁の再建工事は、本当に大変な工事でした。
 再建工事を妨害する人は、様々な方法で工事を止めさせようとします。
 ついには、手紙を偽装して、脅迫をしてきたのです。
 ネヘミヤの周りは、工事に反対する者ばかりで、王も、ネヘミヤを良く思っていないなどと虚偽の内容を伝えて脅迫して、工事を止めさせようと悪略を図るのです。

 選びました9節は、ネヘミヤがどのようにして謀略、妨害に対抗したかを教えてくれます。
 ネヘミヤが、状況を説明しています。
 すると突然、ネヘミヤは祈り始めるのです。

 「ああ、今、私を力づけてください。」
 これは会話の途中に、いきなり祈り出している状況を示します。
 ああと、声を上げるのは、天におられる神様の存在を、信じて、明確に祈りを聞いてくださる相手として、捉えているのです。
 ネヘミヤは、エルサレムの城壁が破壊されたままだと、聞いた瞬間にも突然祈り出しました。
 大変な時こそ、思わず祈るのです。何処ででも、いつでも祈るのです。
 祈ってしまうのです。
 祈りの声を止めることはできないのです。

 祈りが、自分の生活の中にしみ込んでいるのです。
 呼吸するように、常に祈りの声を上げているのです。
 祈りが、必ず答えられると信じているのです。
 そう言う祈りなのです。
 私も、夕に朝に祈りの声を上げる者でいたい。
 シャローム

7.29今日のみことば

2018-06-20

「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」 ネヘミヤ記 5章19節
 5章は、城壁の再建に取り組んでいたネヘミヤが、外敵からの問題だけではなく、エルサレムの内側にも問題を抱えていたことを示します。
 それは裕福な人たちが、困窮している同じユダヤ人をさらに苦しめるようなことをしていたのです。
 困窮する人が、異邦人に奴隷として売られていったりしたのです。
 ネヘミヤは彼らを買い取り助けます。
 そして裕福な者たちの罪を指摘して,神の前に,二度とそのような罪をおかさないように約束をさせるのです。
 そしてネヘミヤは、自分の報酬を受け取らず、人々を助けて、城壁に再建に取り組んでいたのです。

 ここでもネヘミヤは祈っています。
 ネヘミヤは,自分のおこなったことを誇っているのではありません。
 すべてのことをと、言うのは律法を守り,神と隣人を愛して,誠実に城壁の再建をおこなってきたと、告白しているのです。
 だから,称賛してくださいと言うのではありません。
 主が、そんな自分をいつくしんで、助けてくださることを祈り求めているのです。

 律法を守り,誠実な仕事をしたのだから、主が祝福をしてくださるのは、当然のことでしょうか。
 そうではないことを、ネヘミヤは知っています。

 祝福し,恵みを与えて,時にかなった助けをくださるか、そうではないのか、それを決めるのは主です。
 主のいつくしみの心が注がれるから,私たちは救いを得て,祝福を得ることができるのです。
 だから、律法を守ることと,主の慈しみを祈り求めることは、どちらも大切なのです。

 信じない人、聖書のみ言葉に従わない人は、主のいつくしみを祈り求めないものです。
 主のことばを信じて従う人こそが、主のいつくしみを祈り求めるのです。
 朝毎に,感謝して,信じ期待して「、私をいつくしんでください。」と、祈る者でいたいと思うのです。
 シャローム

7.28今日のみことば

2018-06-20

「城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。」 ネヘミヤ記 4章17節
 4章は,城壁再建の実際の工事の様子を記します。時系列で言うならば、2章に続く内容と言うことです。

 工事をやめさせようとして、ネヘミヤたちを脅迫してくる者もいましたので、ネヘミヤはそのための備えをしながら工事を進めたのです。
 工事をする人を守るためには,城壁のところに剣や槍や弓を持たせて配置します。13節。

 そしてここ17節では、興味深いことが記されます。
 片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。
 一方の手は,工事をするために働き。
 もう一方の手は、身を守り,工事を邪魔させないために働いたのです。

 しかしこれは片手間で工事をしたと言うことではありません。
 直後の20節には「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」と言う言葉があります。
 主が守ってくださることと,主が工事を完成させてくださることを,信じているのです。

 片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握るのは、主への信仰を明らかにすることと,主が与えてくださった使命を果たすことを明らかにしているのです。

 攻撃をしようとする者に対して備えをすることは、主のことばに信頼することと矛盾しません。
 「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
 エペソ人への手紙6章11節からの、ことばが心に響きます。
 主に信頼して,日々を歩み、罪の誘惑やサタンの攻撃に備えるのです。

 恐れているだけでは,工事は完成しません,進まないのです。
 しかし敵を軽く見てもいけないのです。
 私たちは弱いのです。
 しかし主は私を守ることができ,私に与えてくださった使命を果たさせてもくださるのです。

 片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。
 片手で仕事をし、片手に聖書のみことばを堅く握っていたと、私は、ありたいのです。
 シャローム

7.27今日のみことば

2018-06-20

「しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった。」士師記 2章19節
 水曜日です。今朝は「士師記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 カナンの地に入って後の時代のことが記される書です。
 罪の時代です。折角、約束の地に移り住み,主の豊かな祝福を受けていながら、すぐに主の恵みを忘れて,主のことばに背き罪をおかすイスラエルの民の姿があります。
 罪をおかし,堕落し,苦しい時代となり,主を呼び求めるようになり,主が再び回復と祝福を与えてくださると,安堵してすぐにまた罪をおかす。
 この繰り返しです。
 そのような時代に、民が主に叫び求めた時に,主が,送ってくださるのが「士師」です「さばきつかさ」とも呼ばれます。
 宗教的な指導者であると同時に、勇士であって軍事的な指導者でもあります。
 後の,ダビデ王のような働きを、短期的に,局地的におこなう人たちが登場します。
 12人の士師が登場します。
 しかし、民の一人一人が好き勝手に生きている時代であることがもっとも大きな特徴です。
 それは同時に,今の時代の私たちの姿と似ているところがあることを否定できません。
 そんな時代の士師の活躍から、信仰者の歩むべき道を学ぶことができます。
 また、見捨てない主の愛と寛容,忍耐を知ることができます。

 2章までは、士師記の時代、そして3章から登場する12人の士師の紹介を兼ねたこの書全体を要約した内容です。
 ここに私たちの罪の性質が現されています。

 幾つかの言葉がそれを強く示してくれます。
 「いつも」
 「いっそう」
 「捨てなかった」

 苦しくなると,主,神に助けを求めるのです。それも、自分ではもうどうしようもないと言うところに追い込まれてからです。
 そんあ民を、主は見捨てないで救い出してくれます。
 士師記では,それが具体的には、一人のさばきつかさである人が,主によって起こされて遣わされて助け出してくれます。
 そしてもちろん,助け出され,問題が解決して,人々は平安に生活できるようになります。

 すると「いつも」逆戻りして,神を忘れます。
 その上「いっそう」堕落して,神ではない偶像の神々を崇め仕えるようになります。
 そうして頑迷な生き方を「捨てなかった」のです。

 主はそれでも、見捨てないで,愛して救ってくださる。

 見捨てない愛。
 これが主イエスの愛です。
 私たちは、頑迷なこれまでの生き方を捨て去り,主のことばに従うことが,真の幸いと平安,豊かさを得ることができる唯一の道です。
 シャローム

7.26今日のみことば

2018-06-20

「その次に、テコア人たちが修理したが、そのすぐれた人たちは彼らの主人たちの工事に協力しなかった。」 ネヘミヤ記 3章5節
 ここに「すぐれた人たち」と言う表現があります。
 身分の高い人たちのことを指しています。
 そしてこの人たちは、ネヘミヤの城壁の再建には協力しなかったのです。

 一度壊れた城壁を再建しようとする時には、それに関わる人たちの心の有り様、生き方が現れてきます。

 協力しなかった人たちは、ネヘミヤが気に入らなかったということもあるでしょう。
 また、いまの生活に満足しているので,城壁を再建したいと思わなかったのでしょう。
 身分の高い人が,協力しなかったのは,この二つともを持っていたのだと,分ります。

 こんな風に人の心が表に出てきた再建工事です。
 ここ3章を読むと、どうやら工事の基本の進め方は、自分の家の前の城壁を責任を持って再建して,次に繋げていくと言うやり方なのです。
 とても合理的で,公平な進め方だと思います。
 皆が、自分の生活する家の前を責任を持つのですから,公平ですし、力も入ります。

 しかし大事なことは、その家の前の再建工事には、その人の信仰が現れ,問われると言うことです。
 破れた城壁は、罪をそのままにして信仰が根本から崩れたままになっていることを象徴的に示します。
 エルサレム、そしてユダ全体が、罪を悔い改めて,信仰をもう一度活き活きとさせるには、一人一人が,その信仰を正しく持たなければいけないのです。
 家の目の前の城壁を再建することは、本人の信仰を再建することなのです。

 全体を良くしようと、ネヘミヤだけが頑張って,主を信じるだけではできないのです。
 ひとり,またひとりと、信仰を吟味して再建し、主を信じる民となっていく時にこそ、城壁は再建されるのです。

 私たちもまた、目の前の信仰の城壁が崩れてしまっていることに気がつかないままで「すぐれた人たち」のようにこの世の豊かさに惑わされないように気をつけたい。
 今日,新しい心で,主を信じて歩む時,明日の信仰へと繋がっていくはずです。
 シャローム

7.25今日のみことば

2018-06-20

「アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月に、王の前に酒が出たとき、私は酒を取り上げ、それを王に差し上げた。これまで、私は王の前でしおれたことはなかった。」 ネヘミヤ記 2章1節
 ネヘミヤの心はすでに決まっていたことでしょう。
 エルサレムの城壁を再建したいと考える、ネヘミヤ自身の希望は明確なのです。
 しかし、それは捕囚の身で、この国に住み、王に仕えている身分と職務を考えれば、そのことを王に願い出ることは、止めるべきことでした。

 しかし、相反する思いが、ネヘミヤの思い煩いとなる前に、愛の神様が働いてくださいます。
 ネヘミヤの顔に、これまでとは違う悲しみの表情が浮かんでいることを、アルタシャスタ王が読み取り、声を掛けてくれるのです。
 それはもちろん叱責や、非難する言葉ではありません。
 ひとりの人としてのアルタシャスタ王が、掛ける優しい言葉です。
 その心に,全能で愛の神様が働いてくださっていることは確かです。

 でも、そこにはネヘミヤの信仰者としての大切な歩みがあったことは確かです。
 王は、ネヘミヤと言う人物が,これまで王に誠実に仕えて、王の前に顔を曇らせて職務に就くことなどなかったことを知っているのです。

 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり」との、ルカの福音書のことばを思い起こします。
 ネヘミヤの信仰者としての誠実で真摯な仕事のやり方。
 王への謙遜で配慮のある仕え方。
 これらが王の信頼を勝ち得ていたのです。

 ネヘミヤからではなく、王の方から、声を掛けると言う状況が生まれたのは、主の御手が動いたからです。
 でも、その御手が働くことを、しばしば私たち信仰者が邪魔をしてしまったりしないでしょうか。
 ネヘミヤのように、何処に(この時は、極端な言い方をすれば,敵国の生活の中です)いても、誠実に謙遜に、仕事をして,生活を整え,隣人を愛することができていれば,主の御手はいつでも大胆に動いてくださるのでしょう。
 それを邪魔をするようなことがないようにと、思いました。
 日頃の行いが・・・などと,言いますが、まさに平常な日々に、どのような信仰生活を送り,隣人を愛してきたかと言うことが、不測の事態、困難や悲しみの時に、思いがけない助けとなって現れるのです。
 そこには,私たちのために大きな祝福を与えようと、いつも待っていてくださる主の御手があるのです。

 神,主を信じない人でも。神,主を信じる人の誠実で謙遜な歩みを認めてくれる時があるものです。
 主に期待しつつ、小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、という毎日を歩みたい。
 シャローム

7.24今日のみことば

2018-06-20

「「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。」 ネヘミヤ記 1章11節
 今日から「ネヘミヤ記」を読みます。
 エズラ記と元々は一つにまとめられていたようです。
 ペルシャ帝国の王の献酌官として仕えていたネヘミヤが、ユダからやって来た旅人にエレサレムの悲惨な現状を聞いて、それを直し城壁を再建するために立ち上がります。
 王の許可を得ることができるのですが、その工事は多くの困難と妨害があります。

 しかしネヘミヤは、驚くべき早さで城壁を再建するのです。
 そのネヘミヤの姿から、主イエスを信じる信仰者は、多くのことを学ぶことができます。見習って行動することが勧められます。

 「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。」
 主よ。祈りに耳を傾けてください。
 この祈りこそがネヘミヤ記から、ネヘミヤから学ぶべき最大のことです。
 ネヘミヤは、故郷でありユダの中心地であるエルサレムの城壁を再建したいと言う思いを与えられました。
 そのためには、王の献酌官と言う名誉ある仕事を離れることも惜しくないのです。

 ただ、その思いが自分勝手な思いではなく、主からいただいた正しい思いであることが大切になります。
 確信を持って始めなければ、完成させることはできません。
 使命への確信は、祈りによってのみ与えられるのです。

 祈りが大事です。
 祈りのないところに確信のある働きはありません。
 祈りのないところには、使命を果たすことはありません。
 祈りは、主への愛と従順な思いから積み重ねられて祈りとなっていきます。

 聞いてください主よと、主への信頼と期待、謙遜な思いで祈りたい。
 シャローム

7.23今日のみことば

2018-06-20

「だから今、あなたがたの父祖の神、主に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい。」」 エズラ記 10章11節
 イスラエルが捕囚の民となった後、律法が禁じている外国人の女性と結婚をしていた者たちがたくさんいたことが分りました。
 エズラは深く嘆き悲しみました。
 民のリーダーたちがそのような罪をおこなっていたのです。

 礼拝の秩序を取り戻すために、彼らは悔い改めて、離婚をすることを決断します。
 ものすごい決断と行動と言うことになります。
 難しい問題があったことは、最後の44節に「子どもを産んだ者もいた」と言う言葉に象徴的に表れています。
 しかし、ここでそれを行った者たちの名前が記されるのです。
 それはその人たちが罪をおこなったレビ人であったことを告白して残すことでもあります。

 外国人とはいえ、女性たちに何らかの落ち度があった訳でもないのに、勝手に離婚を決めるのは酷いと、感じます。
 でも、現代の私たちの感覚や常識でそれを判断して批判することは、してはいけないのです。
 この時、罪の結果としてエルサレムが崩壊したのですから、その後で、レビ人と言う主に仕えるべき部族の者たちが、律法を破って、外国人の女性と結婚をしたことが責められるべきです。
 厳しい決断をこのときにおこなったエズラを批判することはできません。

 罪を悔い改めて、もう一度主の前に進み出ると言うことは、ここでの離婚のように深い悲しみや困難が伴うと言うことです。
 最初から、罪から離れているべきだったのです。
 それをしなかったので、ここで結婚している妻である外国の女から離れなければならなくなったのです。
 主のことばを守ることの大切さと、破った後の困難を覚えておかなければなりません。

 しかし同時に、罪を主の告白する勇気を持っていることが大事であることを忘れないように実践したいものです。
 シャローム

7.22今日のみことば

2018-06-20

「私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。」 エズラ記 9章3節
 着物を裂き、髪の毛を引き抜くのは「悲嘆」「恥辱」を現す表現です。私たちにはあまり馴染みのない感情の表しかたです。
 しかしここでは更に「色を失ってすわってしまった」のです。
 同じ表現が4節でも繰り返されます。
 これはエズラが「肝を潰し」「唖然」となっている様子を現しています。
 非常にその驚きが大きいことが分ります。

 それはイスラエルの民、しかも祭司、レビ人、リーダーたちが、主の教えを守らないで、異教の民との雑婚をしており、それを悔い改める様子がないことを、エズラは嘆き、驚き、唖然としてしまったのです。

 エルサレムへの帰還が許されたとはいえ、まだ民はペルシャの支配下にあります、奴隷の身分と言うことです。
 しかしそんな中でも、主のあわれみは注がれて、帰還が許された上で、神殿の再建にもペルシャの王の援助まで受けているのです。
 それは主なる神様が、イスラエルの民を愛してくださっているから。
 罪を繰り返して彼らを、なおも愛してくださっているのです。

 奴隷の身分が奇蹟の力で解決が与えられるのとは違いますが、あわれみと恵みは注がれているのです。
 しかし、民のほうは、主のことばを守ることをしません。
 悔い改めることをしなかったのです。
 エズラが色を失ってしまうほどに、それは酷い神様に対する裏切りです。

 そう、ヤコブの兄のエサウが、父と母が自分の異教の民の妻のことを良く思っていないと知ると、悔い改めるのではなく、また、別の妻をめとって解決を図ろうとしたことに似ています。
 主に立ち帰る。主のことばに立ち帰ることができないのです。

 どんな困難、悲しみも中にも、主の恵みとあわれみは注がれているのです。
 私たちはそれを知って、いつも主の元へ帰ることを大切にしなければなりません。
 守るべきことばを守るには、主を信じて継続して従うことが肝心です。

 エズラを、色を失わせてすわりこませてしまうようなことがないようにと、自分の歩みを吟味したい。
 従うべき、愛のことばは与えられているのですから。
 シャローム

7.21今日のみことば

2018-06-20

「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。」 エズラ記 8章21節
 7章が終わる27節から「私」と言う表現でこのエズラ記が記されます。
 エズラ自身の記録、告白に基づいて書かれてるのです。

 エズラはエルサレムまでの旅を安全に終えることができるように、アハワ川のほとりで宿営して出発の準備をします。
 旅の途中には待ち伏せをしている強盗などがいるのです。31節には「敵のて、待ち伏せする者の手」と言う表現でその存在を記しています。
 エズラがおこなった準備は、アルタシャスタ王に、部隊や騎兵の援助を求めることではありませんでした。
 祭司、レビ人を揃え、断食をして、主に道中の安全を願い求めることでした。

 武器や兵士がエズラや信仰者、私を守ってくれるのではありません。
 主が守ってくださるのです。
 私が、主に信頼をして、祈り賛美をして、願い求めて、実際に行動をするのかどうかが問われているのです。

 この時、主は、エズラの願いを聞き入れてくださいました。
 正しい人とは、このエズラのような人のことです。
 主に信頼をして、実践し、主に委ねることができる人が正しい人なのです。

 祈りのないところに、義はないのです。
 主の存在を信じないところに、義はないのです。

 私がへりくだり、主なる神に祈り求める時、主はあわれみ深く、情け深い、その御手を伸ばしてくださる。
 いや、伸ばしてくださっていることを知るのです。
 いつも主の恵みと愛が、先に私に注がれています。
 シャローム

7.20今日のみことば

2018-06-20

「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」」ヨシュア記 5章13節
 今朝は、「ヨシュア記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 「モーセ五書」と呼ばれる律法の書に続くヨシュア記です。
 ヨシュア記になってようやくイスラエルの民は約束の地に入るのです。
 イスラエルの民が、いよいよ約束の地であるカナンへ入り、部族ごとに土地を分割した時の記録です。
 その時の指導者が、モーセの後を継いだヨシュアです。それなので「ヨシュア記」と呼ばれます。
 主が、モーセが存命の時に、モーセに命じてヨシュアを後継者として明らかにしました。
 ヨシュアは、モーセの従者として、真摯に仕えました。
 そしてヨシュアもまたモーセと同じように主のしもべと呼ばれるのです。

 開きました5章13節は、不思議な箇所です。
 主の使い、御使いが登場します。
 それも抜き身の剣を手に持っています。
 これは、直ちに戦いを始める準備が整っている様子を示しています。
 これから、ヨシュアたちはカナンの地で最大の難関であるエリコの町を攻略しなければなりません。避けては通れないのです。
 恐れることは不信仰へとつながり、以前と同じ罪をおかすことになります。
 御使いを通して、主は不思議な試練を与えます。

 剣を手にした最強の御使いは、ヨシュアたちのために戦ってはくれません。
 ヨシュアに告げられたのは戦いの方法ではなく、主をほめたたえる方法でした。続く6章で具体的に示されます。
 イスラエル人は、エリコの城壁の周りを、祭司らを先頭にして、戦士たちが主を賛美して、日に一度、廻るのです。
 他のことはしません。声も発しません。
 それも六日間と、更に最後の七日目には七度回り、最後に「ときの声」をあげます。
 すると、城壁は崩れ、勝利するのです。

 御使いは、剣を振るって、ヨシュアの代わりに戦いません。
 しかし剣を手にした御使いの存在は、主が、ヨシュア、そしてイスラエルの民と一緒にいてくださり、戦ってくださることを象徴しています。
 主を信じること。
 それが勝利することの秘訣であり、知恵であり、力なのです。

 私たちも、困難に立ち向かう時に、同じようにします。
 最初に、主を賛美して歌い、祈ります。
 最後には、感謝しsて、主を賛美して歌い、祈るのです。
 困難や敵は、貴方の前にはいません。
 貴方の前には、主と主の助けがあるのです。
 シャローム

7.19今日のみことば

2018-06-20

「私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、」 エズラ記 7章27節
 「主はほむべきかな」と、ある27節です。
 私も「主の御名を心から賛美します」と、声をあげたい朝です。
 主はほむべきかな。主はほむべきかな。主はほむべきかな。と、三度叫ばずにはいられません。
 ここ27章を読むと、私が見つけ出していただき、知り、信じて従う主と言う方は、本当に凄い方、素晴しい方だと、「主はほむべきかな」と、叫ばずにはいられません。

 ペルシャの王は、支配下にある国の、その国の人々が古い時代から信じてきた「主」なる神様を信じて、戦いによって崩壊したままの神殿を再建することを許し。
 そればかりか、そのための献金、資材の調達などに便宜をはかることを正式に王の名前で命じてくれたのです。

 王は、王の寛容さとその富と力を現すために、この命令を出してくれたのかも知れません。(王の心を王自身はそう捉えているのでしょう)
 しかし、主が、主を信じているのではない、このペルシャの王の心に働いてくださったのです。

 わずかな恵みではありません。
 「塩は制限なく求めることができる」22節。
 こんなにも大きな恵みをくださった神、主です。
 同じ神、主を、今、私たちも信じているのです。
 同じ、大きな恵みと守りを、私たちも受け取ることができると言うことです。いや、受け取っているはずです。

 今朝は、ただ、ただ、主はほむべきかな。と声をあげたい、声をあげて一日を過ごしたい。
 シャローム

7.18今日のみことば

2018-06-20

「そして、彼らは七日間、種を入れないパンの祭りを喜んで守った。これは、主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」 エズラ記 6章22節
 ペルシャ帝国の宝物殿から見つかったエルサレム神殿再建を命じたクロス王の書巻によって、ダリヨス王は工事の続行と援助を命じました。
 主の助けは、このような不思議な形で届くこともあるのです。
 ここ22節には、主が王の心に働いてくださり、工事を助けてくださったと、明確に書かれています。
 私たちも、困難な時こそ、主の助けを期待する信仰を持ち続けたい。ただ私たちは、知ってはいても、持ち続けることが難しいのだと思います。

 さて、神殿は最終的には、クロス王、ダリヨス王の次のアルタシャスタ王の治世の時代に完成をみます。
 完成の喜びを、捕囚から帰還した、真の信仰者と。
 エルサレムに残りながら、主だけを信じて信仰を守り通した残りの民である真の信仰者と。
 この人たちによって喜び歌い、祭りが守られました。

 ここで私たちが知るべき大切なことがあります。
 「これは、主が彼らを喜ばせ」
 私たちは、神のためにと言って、様々なことをおこないます。
 神殿の建築や、礼拝を整えること、備品を美しく調えることもその一つでしょう。
 しかし、神のためと言いながら、実は、自分の心と喜ばせるためと言う動機はないのでしょうか。
 神を礼拝したい、神殿を再建して神を礼拝したいと言う、正しい心でおこない、完成を見ました。
 そして喜びました。
 主も、その神殿の再建と、礼拝を喜ばれたことでしょう。

 しかし実は、この喜びは、主が、人々を喜ばせるために、すべてのことを導き、助けてくださったのです。
 私たちは主を喜んで欲しいと願いますが。
 主は、それ以上に、私たちが主の前に喜んでいることを、喜びとしてくださり、私たちが喜べるようにと、すべてのことを助けて、必要も満たしてくださるのです。

 こんな小さな存在の私を喜ばせようと、全能の主が、動いてくださる。
 この愛に溢れる主を、いつも見上げて喜びたいのです。

 主は、今日も貴方を守り、貴方を喜ばせてくださる。
 シャローム

7.17今日のみことば

2018-06-20

「しかし、バビロンの王クロスの第一年に、クロス王はこの神の宮を再建するよう命令を下しました。」 エズラ記 5章13節
 エルサレムの神殿の再建を邪魔しようとする者たちは、書状を送って王からの正式な禁止命令を取り付けようとしました。
 しかし神殿の再建に携わった者たちが、この工事はクロス王によって認められ、勧められた正式なものであることを訴えます。
 彼らは、主の守りと導きがあることを信じて歩んでいるのです。

 そして両者からの訴えを受けた形になったダリヨス王は、宝物殿を調べることにするのです。
 その結果が記されるのは、次章になりますが、ここに興味深いことばがあります。
 「バビロンの王クロス」です。

 クロスとは、もちろんペルシャの王の名前であり、バビロンを滅ぼして征服したクロス王のことです。
 実は、クロス王は、バビロンを征服した時に、その国の支配権を、バビロンの神であるマルドゥクから与えられたと主張して「バビロンの王クロス」と言う称号を使ったのです。
 この結果、エルサレムを破壊したバビロンの王にもなったペルシャの王クロスの、言葉があれば、イスラエルの人々は大手を振って再建工事ができます。
 誰も、バビロンの王、ペルシャの王であるクロス王の言葉を覆すことはできないと言うことです。

 この背後に、全世界の王、天と地の創造主であり、主権者であるイスラエルの神、主の愛の御手が働いているのです。
 真の神を信じない人でも、王の元で庇護を受け暮らす以上は、王の言葉は絶対です。
 そこには王の守りがあり、王への服従があるからです。
 そのクロス王が、ペルシャとバビロンの二つの強国の王なのです。
 人々はその力を知っています。

 私たちは、全世界の王である主イエスの力と愛を知っています。
 カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神のものは神に返す」ようにと、主イエスは教えました。
 それはイエス様を知らなくても、実はすべてのものは主のものであることは揺るがないことを示します。
 この「バビロンの王クロス」と言う、不思議な表現は、言葉に現さなくても、主は「全世界の王」であると言うことを照らしているのです。
 王の王、主の主であるイエス様を知っていることをもっと喜びたい。
 シャローム

7.16今日のみことば

2018-06-20

「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」 エズラ記 4章4節
 捕囚から帰って来た民が、神殿を建て始めると、それを妨害する者たちが現れました。
 捕囚となったイスラエルの民の代わりに、かつてこの地に移住させられて住みついた民や、サマリヤ人たちが、妨害する人たちです。
 甘言を使って、帰還した民に近づいて、妨害しようとしたり、脅迫して工事が進まないようにしました。
 また、ペルシャ本国に書状を送って、エルサレムの神殿が再建すると、イスラエルの民はペルシャに敵対するようになると訴えもするのです。
 このような妨害があって、神殿再建の工事は、一旦中止してしまうのです。

 主の心を奮い立たされて神殿再建に力を尽くす者がいれば。
 反対に、エルサレムに自分たちに都合の良い神々を奉り、そこでの権利を少しでも得たいと思う者もいます。
 この人たちは、主のことを愛してはいません。
 それなので、主のことばには従いません。敵対してしまうのです。
 このような人たちは、どんなことでもやってのけるのです。でも、それを恐れる必要はありません。

 私たちが、主のことばに従おうとする時、妨害が起きたり、批判の声が上がることもあります。
 主を愛して、主に従おうとする時に、困難が起きるものです。それも具体的に起きます。
 そして困難は、解決をするのが難しいように思えるのです。
 ここでもペルシャからの命令によって、工事が止ってしまいました。

 しかし主は真実で全能の方です。
 どのような妨害、困難も、主が助けて解決をしてくださるのです。
 私たちは、主を信じて祈り、みことばに従うことが、解決の道です。
 困難があると言うことは、そこに主の栄光が現されると言うことです。
 信じて従いたい。
 シャローム

7.15今日のみことば

2018-06-20

「そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。」 エズラ記 3章13節
 第七の月を迎えました。
 「ラッパが吹き鳴らされる日」「贖罪の日」「仮庵の祭り」と、続くのが、第七の月です。
 重要な祭りです。そして捕囚から帰っ来ることが赦された民が、罪を悔い改めて、新しい礼拝、信仰生活を始めるのふさわしい月なのです。

 クロス王の援助もありましたが、周辺国を警戒し恐れているイスラエルの民の姿があります。
 そして未だ、神殿は再建されていません。
 元の神殿があった場所に祭壇を設けて、いけにえを捧げます。

 そして真での礎が置かれた時、二つの声が大きく響き、広がりました

 一つは、かつての荘厳な神殿に比べてあまりにも貧弱な、礎が置かれたことで泣き声をあげる人たちです。
 同時に、捕囚となった時の苦しみ悲しみを思い起こして泣きました。

 一方は、喜びの叫び声です。
 神殿の再建を確信できた喜び、主のあわれみと助けを感じて、喜びの叫び声をあげたのです。
 この二つの声が、遠くまで響きました。

 私たちにも、この二つの声が必要です。
 自分のかつての罪深い姿、神を知らないと言っていた姿を思い起こして泣くのです。
 罪を悔い改めて泣きます。
 しかし、同時にそんな自分をイエス様は命がけで愛して、捜し出してくださったことを知って、喜びの声をあげます。
 主の救いと、永遠のいのちの約束が確かであることを、イエス様の十字架を見上げて(神殿の礎を見るようにして)喜びの声をあげます。

 泣き声と、同時に、喜びの声をあげられるので、私たちは幸いなのです。困難を受けても平安があります。
 今日、涙とともに笑を。
 泣き声とともに喜びの声を、叫びたい。
 その声は、イエス様に届き、未だ、イエス様を知らない人にも伝わっていくから。叫ぼう。
 シャローム

7.14今日のみことば

2018-06-20

「すなわち、彼らは自分たちにできることとして工事の資金のために金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着をささげた。」 エズラ記 2章69節
 ここ2章は、帰還者の名前の一覧が記載されています。
 氏族ごとと、町ごとに記されています。
 その中に幾つか大切なことが示されています。

 祭司の子孫のうちで、家系図を失ってしまった者たちは、祭司職に就く資格がないとされました。
 最も聖なる職に就くのですから、自分たちの家系を証明して、その上で捕囚の地で雑婚をしていないことが求められたのです。
 聖所で奉仕すると言う特別な使命を与えられた者として、資格や使命感が厳しく問われたのです。
 これは律法に従おうとする姿勢ですので、家柄を比較すると言うような価値観で、祭司職から外されたのではないのです。
 どこまでも主の前に姿勢が問われたのです。
 見方を変えれば、家系図を守った人たちがいた訳です。
 彼らは、捕囚の民となった間も、祭司として自分の家系図を大切に守り、いつの日にかまた、祭司としてエルサレムの宮で主に仕えることを待ち望んでいたと言うことなのです。

 彼らの、宮で主を礼拝したいと言う熱い思いがこの69節のささげ物に現れています。
 まずは、宮を再建しなければなりません。
 そのために工事の資金をささげています。
 所が、同時に祭司のための長服もささげています。
 これは礼拝の時に、祭司が着用するものです。
 今は未だ、必要がない祭司の式服と言えるでしょう。
 しかし、宮の工事の資金と一緒にささげていくのです。ささげたくて抑え切れないのです。

 一刻も早く主を礼拝したい。
 宮が再建される前でも、主を礼拝したいとの熱い思いが、長服をささげる行為に現れています。
 捕囚の地、期間には自由に礼拝できなかったのでしょう。礼拝できることがそのまま喜びそのものなのです。

 現在の私たちならば、日曜日の礼拝が、早く、少しでも早く来ないものかと待ち望みつつ、礼拝の支度をする、そんな感じでしょうか。
 熱い思いで、主の礼拝の時を待ち切れず主の前にささげものをしていく、義務感などではなく自ら進んで礼拝をささげる、そんな心を大切にしたいと教えられる朝です。
 シャローム

7.13今日のみことば

2018-06-20

「 あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」申命記 4章31節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「申命記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 モーセ五書の5番目の書です。
 モーセがヨルダン川を前にして、イスラエルの民に告げた「惜別説教」はおもな内容です。
 対岸こそが約束の地であるカナンの地です。
 しかしそこにはモーセも、モーセの世代の民も入ることが許されていません。
 彼らが、かつて主を信じないで罪を重ねたからです。
 カナンの地に実際に入って行くのは、ヨシュアに導かれた第二世代です。

 そのため、モーセはもう一度、人々に律法について語らなければなりませんでした。
 申命記は「第二の律法」と呼ばれ、それが再度告げられたので、申命記と言う名前で呼ばれるようになりました。

 5章に入ると、実際に十戒がもう一度語られるのです。
 そして34章は、モーセの死も記されます。この章は、後の時代に編纂されたものと、考えます。
 モーセの死が記されているので、申命記そのものが、後の時代に作られたと考える必要はありません。
 創世記から申命記までの五書で、律法は一つの完成をみていることは明らかです。

 さて4章は、私たちに神様のことをもう一度しっかりと考えさせてくれます。
 神様の存在、どのような方なのか、私と神様の関係とはどういうものなのかを教えてくれます。
 ここに記されていることを、心に刻み、日々、そのことばに聞き従うのであれば、私の人生は平安で祝福に満ちたものとなっていくでしょう。
 そしてその先にはここにあるように「あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」永遠のいのちの約束があります。

 29節には、自分たちが都合よく(ある意味では、熱心に願って)作り出した神に、仕える(支配されてしまう)ようになると、教えられます。
 しかし、そのような状況から、私は、まことに神、主を慕い求めて、神を知ることができるようになると、教えられています。
 神が、そのように私を導いてくれるのです。

 偶像の神々を慕ってしまった私を神は見捨てず、滅ぼさず、愛して導き、待っていてくださる。
 そしてあわれみ深い神は、私たちを神の近くにと呼んでくださり、共に、神を慕い求めた兄弟、姉妹たちと一つにしてくださり、豊かな交わりを持たせてくださるのです。

 申命記には、罪深い民の姿がありますが、同時に、神のあわれみ深い姿が有り、律法のことばが慰めとなって与えられていることを知ることができます。
 律法の実践、礼拝を捧げることで、私は主である神様を愛していることを現すことになるのです。
 今日も、こうしてみことばを読み、噛みしめて、今日の生活の中で実践することで神を愛して、そして、神に愛されていることをもう一度味わいましょう。
 シャローム

7.12今日のみことば

2018-06-20

「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」 エズラ記 1章1節
 今日からエズラ記を読んでいきます。
 捕囚からエルサレムに帰還した民が、神殿の再建工事に取り掛かりますが、妨害も有り中断してしまいます。
 そんな時、大切な働きをした人物の一人が、エズラです。
 かれは祭司であり、学者でした。
 彼は、律法を解き明かして、民を力づけ、導いたのです。

 エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記までが、旧約聖書の中では、歴史書として分類されますので、もうしばらく旧約聖書を順番に読んでくことにします。

 ここにペルシャの王であるクロスが、全土に布告して、バビロン帝国の捕囚の民となっていたイスラエル人の帰国、帰還を許したのです。
 エルサレムを破壊したバビロンは、クロス王のペルシャによって滅ぼされました。
 今、何故だか理由が記されませんが、クロス王は捕囚の民を解放して、帰国までも許してくれたのです。
 王は何を思ったのでしょう。
 王はイスラエルの人々を解放することで、何か自分の国にとって利益になることがあったのでしょうか。
 分りません。

 一つだけ明確なことがあります。
 誰か人、参謀や臣下の助言によるのではないのです。
 ここに記される通り「主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせた」なのです。
 主が、働きかけてくださって、イスラエルの民に恵みを与え、回復してくださったのです。

 エレミヤ記25章11節には、南ユダの民がバビロンで七十年の捕囚の民としての期間を過ごした後、エルサレムに帰還することが赦されると言う主のことばが、エレミヤを通して語られています。
 ここ1節では、それが実現する方法として、まず、主を信じる民ではないペルシャのクロス王に対して、主が特別に働きかけたことを示します。
 5節にも、ユダの民のかしら、祭司やレビ人がその霊を奮い立たされて、帰国して神殿の再建に取り組もうとすることが記されます。
 1節には、外国人の王に対して、5節では、選民イスラエルの人々に、主が臨まれて、一人一人の霊を奮い立たせて、その使命を与えてくださったと言うことが示されます。
 神、主は、全世界の神なのです。
 神様が、必要と思われたのならば、主を信じてはいない人にさえも、主は働かれる、働きかけることができるのです。

 主を信じて歩んでいても、周りの人々が同じ主、神を信じていてくれないと、物事は上手く運ばず、問題も解決しないように思えることが多いです。
 しかしそれだからこそ、主に期待しましょう。
 主はすべての人に働きかけることができるのです。
 私たちは、周りの状況を劇的に変えることや、隣人の心を変えることはできません。
 しかし私が、砕かれた心で主の前に進み出て、自分自身が変えられていく時に、主が、周りに、そして隣人にも働いてくださると言うことは期待してよいのです。
 主は、私のことをすべて知っていたくださり、私を愛して、私に関わってくださる。
 そして私が主と、主のことばに従い通そうと、格闘する時に、クロス王に働きかけてくださったように、思いもかけない形で道を開いてくださるのです。
 そしてその時には、私自身もまた(5節の祭司たちのように)霊を奮い立たせていただき、力強く歩めるのです。
 シャローム

7.11今日のみことば

2018-06-20

「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」 歴代誌 第二 36章21節
 南ユダ王国の崩壊とエルサレムの滅亡について36章は細かく伝えてくれます。
 南ユダが滅んでいくことを、北イスラエルの時と違って、このように細かく伝えるのは、彼らがやがては赦され、回復されていくからです。
 主は罪深い人々に中にも、主を信じる人を残して守り、回復の時を与えてくださるのです。

 エジプトとの関係も厳しい状況に有り、そしてついにバビロン帝国による侵略によって南ユダは滅びます。
 この頃、王は主の前に悪をおこない続けます。
 残念ながら、主のことばに従う王は、ヨシヤ王の後には登場しません。

 ここ21節には、預言者エレミヤの名前が上げられています。
 エレミヤ書の25章あたりを読みますと、主の怒りのことばがユダに語られていることが分ります。
 そこにはエルサレムの滅亡についても預言されています。主が、ユダとエルサレムをその罪のためにさばき、バビロンの王の手に委ねたのです。
 全地を治める主権者である主は、時には、愛するわが子であるユダを、主を信じてはいない王の手に任せて、さばきをおこなわれるのです。
 しかし、そのバビロンの王も、ユダへの主のさばきを見て、悔い改めることがなければ、必ずさばきの座に着くことになります。

 エレミヤ書を読んで分ることがあります。
 主は繰り返し、預言者を通して、選民(即ち主が愛してくださった)イスラエル、ユダに語りかけられたにも関わらず、人々は、主の声を聞かなかった。
 頑固で、罪深い人々と王だったのです。
 ユダの滅亡は、バビロンが強かったからではなく、ユダが主のことばを聞かなかった結果なのです。

 しかし、ここ21節に、大切なことが書かれています。
 さばきをおこなわれる主ですが、どこまでもあわれみ深く、ユダを愛してくださるのです。
 ここには七十年と言う時が記されます。
 ユダが滅び、捕囚となって七十年後に赦しと回復が与えられます。
 主の律法の教えでは、土地は七年の一度の、土地を休ませる期間を持つように定められています。
 ここでも捕囚の期間を、主は、罪深いユダを七十年間休ませることで、罪から悔い改め、主のことばを聞くことができるまでの時間として与えたのです。

 70とは、7と10の数字の組み合わせです。共に完全数と言われる7と10を組み合わせることで、完全な休息の時、悔い改めのための時間を与えてくださったのです。
 その後、バビロンはペルシャのクロス王によって滅び、彼らの罪もさばかれて、ユダは解放されます。

 主の厳しいことば、さばきの時は、次に与えられる恵みと安息が、その背後にあるのです。
 私たちは、苦しい試練の時を過ごす間も、主があわれみと赦しを与えようと、忍耐して私たちを見守っていてくださることを覚えたい。

 主のさばきは、私たちを苦しめ滅ぼすためではなく(鉄を焼き、打ちたいて鍛練するのと同じ)より素晴しい主の器とするためのものです。
 そのためには時には、七十年と言う長い時間も必要なのです。
 もし、苦しい七日間を過ごすようなことがあったのなら、その先には主の恵みと安息が、前よりも豊かに備えられているのだと、主の言葉に聞く時としたい。
 シャローム

7.10今日のみことば

2018-06-20

「そのあとで、彼らは自分たちや祭司たちのための用意をした。アロンの子らである祭司たちは、夜になるまで、全焼のいけにえと脂肪をささげていたからである。そこでレビ人は、自分たちや、アロンの子らである祭司たちのための用意をした。」 歴代誌 第二 35章14節
 ヨシヤ王は、これまで正しくおこなわれていなかった過ぎ越しのいけにえを捧げます。
 レビ人は、聖所に立って参加します。
 その上で、いけにえを律法に従ってほふります。
 いけにえを捧げるとは、罪深い人が神様に近づき、受け入れていただくために、身代わりにいけにえの動物をほふって血を流さなければなりません。
 ただ、捧げました。その後、祭壇から引き下げて終わりではありませんでした。

 収穫に感謝して、初物を捧げていく祭りとは別のものです。
 もっともっと生々しく罪を覚えるものです。

 祭司たちは、いけにえをほふり、脂肪を焼きます。
 ここに「夜になるまで」と、あります。
 いけにえの数が非常に多くて、夜まで時間がかかったと言うことです。
 手を抜いたり、省略することはできません。
 その数の多さ、流される血の多さが私たちの罪の大きさ深さを思い知らせます。
 そこにはいけにえの動物の匂い、泣き声、立ち上る埃といったものがあります。
 簡単にはいけにえは捧げられません。それらのすべてが、私たちに自分の罪の深さを思い知らせるのです。

 そして現在、私たちは動物の血を流さなくても、聖所である教会の礼拝で、神、主に近づくことが許されています。
 それはイエス様が、傷のないいけにえとして、ご自分の血を私のために流してくださったからです。
 教会の入り口を通り、礼拝の席につき、賛美して祈り、みことばを受け取る礼拝に辿り着く時、実は、この場面のような多くの血が流されなければいけないほどに重要な席に自分はいるのだと言うことを覚えたいと思います。
 礼拝の朝ですから、イエス様だけを信じる心と、砕かれた心とたましいを持って、御前に進み出たいのです。
 シャローム

7.9今日のみことば

2018-06-20

「王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」 歴代誌 第二 34章19節
 分裂王国の時代に、主の御心にかなう善王としてしられる南ユダのヨシヤ王の治世、宗教改革について記す34章です。

 ヨシヤは、徹底して偶像礼拝を取り除き、エルサレムだけでなく全地で偶像礼拝に関するものを取り除き、きよめました。
 そして宮の工事を進めていく中で、主の律法の書が発見されたのです。
 本来ならば、宮の契約の箱の近くに置かれているべき律法の書が発見されて、王に報告されると言うことは大変なことです。
 それは偶像礼拝が深く広がっていたことを示すものです。
 偶像礼拝が広くおこなわれていたので、心ある祭司が隠したのでしょう。
 そして隠したことさえ忘れ去られていたと言うことです。

 発見された書を読んだヨシヤ王は、自分の着ている衣を裂きました。
 それは悲しみを現す行為です。
 主は、27節で、そのことをこう表現しました。
 「神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。‐」
 偶像礼拝をして、罪を重ねていた民のことを知って、ヨシヤは主の前にへりくだり、悲しんで泣いて悔い改めたのです。
 ヨシヤ自身が罪をおかしたのではありませんが、民の罪を自分の罪のように、主の前に悔い改めたのです。

 人の罪をもかぶると言うことではありません。
 が、他人が、昔の人がおかした罪で自分には関係がないと、言うのも間違いです。
 主が、生きておられます。
 主が、罪人を忍耐と寛容を持って支えてくださっているのです。それなので今の自分がいるのです。
 主を悲しませたことを恥じて、悔い改めて、主の忍耐とあわれみの深さを知るのです。

 主のことばを聞く時、私たちは自分のおるべきただしい場所を知り、すべきおこないを知ることができます。
 この時は、失われていた主の律法が発見されたのです。
 私たちは今、自由に手元に置いた聖書を読むことができます。その喜びを感謝しつつ、しっかりとみことばに聞く毎日としていきたい。
 シャローム

7.8今日のみことば

2018-06-20

「しかし、民は、彼らの神、主にではあったが、高き所でなおいけにえをささげていた。」 歴代誌 第二 33章17節
 ヒゼキヤ王の子、マナセが王位に就きますが、初め彼は主の前に悪をおこないます。
 地位が破壊した高き所を築き直してそこで偶像の神々に誓願を立てて祈ったり、アシェラの像を造ったりします。
 さらには子どもたちを火の中をくぐらせたり、まじないをしたりしました。
 主は彼をさばかれました。アッシリヤの王に攻め込まれて彼は捕らわれの身となるのです。

 流石にそこで彼は悔い改めます。
 主の助けを嘆願し、主の助けと赦しを経験するのです。
 これによってマナセは「主こそ神」であることを知ります。
 彼は一転して、エルサレムに築いた外国の神々の偶像や、祭壇をすべて取り除いて、投げ捨てたのです。

 さて、そんなマナセの治世の後半ですが、民は、おかしなことをしています。
 ここ17節では、民が、イスラエルの神、主に対してではあるのですが、高き所でいけにえをささげていたのです。
 高き所は、元々は偶像の神々にいけにえをささげる所あのです。
 マナセが祭壇を取り除き町の外へ捨て去ったように、民も、高き所は打ち壊して、そこでいけにえをささげることがないようにすべきなのです。
 悔い改めは、徹底的にしなければ、すぐにまた、ほころびます。

 主の前に罪を捨て去ると言う、潔さ、徹底さが求められていることを考えますと、これは非常にあいまいです。
 真の神への理解不足。
 信仰のあいまいさが見えます。
 それは信仰の危うさでもあります。

 あいまいさは、よそ見をしながら主を見上げて礼拝しているような感じです。
 主だけを愛していると言いながら、他の神々を慕っているような感じでもあります。

 マナセ王が知ったように、神が主であることを知り。
 潔く、神である主だけを信じて歩む生活をしたいものです。
 主は、酷い罪を率先しておこなってきたマナセ王を愛して赦してくださったように、悔い改める者を赦して、祝福を倍増してくださる方なのですから。
 シャローム

7.7今日のみことば

2018-06-20

「ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。」 歴代誌 第二 32章25節
 ヒゼキヤは、強力な力を誇ったアッシリヤの軍勢と対峙しますが、主により頼んだヒゼキヤが勝利します。
 しかし主にのみより頼んで困難を乗り越えたはずのヒゼキヤが、その後すぐに罪をおかしてしまうのです。

 具体的には自分の力を誇ってしまうことです。
 バビロンの王は、アッシリヤに対抗したいと考えて、ユダのヒゼキヤ王と同盟を結ぼうと考えて使者を送ってきました。
 ヒゼキヤは、この使者にエルサレムの宝物を初めとしてすべてのものを使者に見せます。
 これは自分がどれほど凄い王であるかを誇ろうとした行為なのです。

 圧倒的な劣勢の中で、主を信じた時に、主が助けてくださったのでした。
 それならばバビロンに対しても、主にだけ信頼する謙遜で素直な姿勢を見せるべきでした。
 しかしヒゼキヤ王は、自分を大きく見せたのです。

 恵みを与えられたのに、それに報いなかったと、ここで指摘されます。
 この時、ヒゼキヤは思い病を癒され、そのしるしとして、太陽が戻って、日時計の針が戻ると言う、驚くべき奇蹟を経験させてもらったのです。
 それなのにそんな全能の神の恵みを忘れたのです。

 恵みを受ければ、受けるほど、謙遜になることが、信仰者のふさわしい歩み方なのです。
 しかし私たちは、好調な時が続いて恵みが増えると、主の恵みとあわれみを忘れてしまい、高慢な態度を取ることがあるのです。

 苦しい時には、主をより頼んでも。
 好調になると、主を忘れてしまい、自分の力でなんでもできると思ってしまう。
 恵みの時ほど、謙遜になることを覚えたい。
 主は、惜しみなく与えてくれる方です。忘れないようにしたい。
 シャローム

7.6今日のみことば

2018-06-20

「「イスラエル人は、定められた時に、過越のいけにえをささげよ。」民数記 9章2節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「民数記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 モーセ五書の4番目の書です。
 元々の原題は「荒野にて」です。
 1章1節で、主がモーセに荒野にて語りかけられて、本書は始まります。
 それなので原題は、その言葉を取って「荒野にて」なのです。
 「民数記」と言う題名は、旧約聖書がヘブル子からギリシャ語(七十人訳聖書)に翻訳された時につけられました。
 1章にある人口調査と、それから40年後におこなわれた第二回目の人口調査(26章)に由来する題名です。

 特徴は、神に選ばれた民の礼拝における奉仕ということになるでしょうか。
 荒野を進む時の各部族の位置関係に始まり、レビ人の奉仕などについて細かく規定されます。
 それもみな、人が作り出した規定ではなくて、主が命じたことばなのです。
 礼拝の方法も主が定めて教えられたのです。

 創世記が、主の民の選び。
 主エジプト記が、主の民の贖い。
 レビ記が、主の民の礼拝。
 と、ここまで進んできたテーマが、礼拝を中心とした民の奉仕へと進むのです。

 過ぎ越しの祭り、過ぎ越しのいけにえが、中心であり基礎となります。
 主が、エジプト脱出の前夜に、エジプトを打たれましたが、イスラエルの民は打たれることがありませんでした。
 主のさばきの御手が、通り越されたからです。過ぎ越しは、救われた原点の祭りです。
 主はこれを、定められた時におこなえと、命じました。

 礼拝やいけにえには、秩序が大切です。
 熱心なだけではいけないのです。主のことばを聞いておこなう秩序が大切になります。
 そしてその礼拝には、一番の基礎、原点があります。
 私たちもまた同じです。
 イエス・キリストが、ご自身をいけにえとしてくださって、私を罪から救い出し、連れ出してくださったのです。
 それを原点として、主のことばを聞いて、礼拝します。
 そうすることで、救いが確かなものであることを確認し、私の中で確かなものにできるのです。
 民数記を読みながら、私のするべき奉仕について良く考えたい。
 シャローム

7.5今日のみことば

2018-06-20

「この命令が広まるとともに、イスラエルの人たちは、穀物、新しいぶどう酒、油、蜜など、すべての野の収穫の初物をたくさん持って来た。彼らはすべてのものの十分の一を豊富に携えて来た。」 歴代誌 第二 31章5節
 ヒゼキヤの宗教改革は続きます。
 彼は、主を礼拝することが一時的なもので終わることがないように、祭司とレビ人の奉仕を定めて、彼らを組み分けしてその奉仕にあたらせました。
 こうして礼拝が、ヒゼキヤの治世の中心となり、人々の生活の中心となり、基礎となりました。
 これは素晴しいことでした。

 人々は、いけにえをささげるために多くの収穫物を持って来ました。
 ここにはそれが「豊富」であったこと、民が惜しむことなく「たくさん持って来た」ことが記されています。
 どれほど豊かであったかと言うと、祭司とレビ人が、律法に定められた通りに、民が持って来た収穫物の中から食べてもなおたくさんの収穫物が残り、山のように積まれたのです。

 この時から遥かに後の時代のことです。
 捕囚からエルサレムに帰ってくることが赦された民は、自分の生活、自分の家を建て直し、豊かにすることばかりに熱心でした。
 主の宮は破壊されたまあであり、礼拝も荒れ果てたまま、なによりも民の心が悔い改めて主を一番にしていませんでした。
 その時、たくさんの種を蒔いても収穫物は少なく、豊かにはならなかったと、ハガイ書は1章で、その状況を示します。
 それは主のさばき、懲らしめがあったからなのだと、示します。

 このことを知ると、今朝の箇所で、人々があり余るほどに豊かなものを得ていたのは、主を一番とし、主を礼拝することを一番大切にしたからだと、分ります。
 その上、いけにえを惜しまなかったので、ささげても更に豊かになったのです。
 それは続く10節に示される通り「主が御民を祝福」してくださったからです。

 主を1番とする時、私たちの日々は、真に豊かになります。
 それはささげてもなお、無くなるのではなく、増し加えられると言う祝福です。
 主は、惜しみなく与えてくださる方です。
 私たちは、この方を一番大切にして礼拝し、そのことばに従うことが喜びへと繋がっているのだと、教えられる今朝の箇所です。
 シャローム

7.4今日のみことば

2018-06-20

「ヒゼキヤは、主の務めによく通じているすべてのレビ人の心に語りかけた。そこで彼らは、和解のいけにえをささげ、彼らの父祖の神、主に告白をしつつ、七日間、祝いの食物にあずかった。」 歴代誌 第二 30章22節
 ヒゼキヤの宗教改革が続きます。
 そのような表現をしなくても良いのかも知れません。ヒゼキヤは、心から正しく主を礼拝していけにえをささげようとします。
 ところが大切な過ぎ越しのいけにえを捧げようとすると、身を聖別した祭司の人数が足りないのです。
 そこで律法に従って、翌月にささげるように準備を始めて、各地にふれを出して、集まるように命じます。
 人々は、エルサレムに上って来ます。非常に大勢の人が集りました。
 偶像礼拝が広がっていた間も、各地に主を愛する人が残されていたのです。

 しかし問題もありました。
 長い期間、偶像礼拝が広まっていたために、人々は正しいいけにえのささげ方などが分らなくなっていたのです。
 そこで身を聖別した祭司らが手伝い、いけにえを捧げます。
 最終的には、この章の最後の27節に記される通り、人々の祈りと賛美の声は、天に住まわれる主のところに届きました。
 主も人々の礼拝、いけにえ、祈り、賛美を喜んでくださったのです。

 真心を持って主を礼拝することが大切です。
 しかし主が教えてくださった律法があり、礼拝の形もあるのですから、正しく学ぶことも大事です。
 独りよがりな信仰は、主の前にふさわしくはありません。
 本来、主を礼拝する心も、主が与えてくださったのですから。

 律法を学ぶこと、教えることが大切になります。
 その時、最も大事なことがこの22節に記されていると思いました。
 「すべてのレビ人の心に語りかけた」
 ヒゼキヤは、正しくおこなうように優しく語りかけたのです。
 主のことばを教えて導く時には、相手の心に優しく語りかけるのです。

 これは証しする時にも、信仰者として生活をして毎日を過ごす時も同じです。
 相手を自分よりも優れた人だと、謙遜に接して。
 その人の心に語りかけるのです。優しく語ります。
 そうすれば聖霊が働いてくださり、聞いた人も喜びの中で、聞いたことをおこなえるように変えられていくことでしょう。
 私たちの日常では、この時のように、それがすぐに起きないかも知れませんが、必ずふさわしい時に、主に喜びの賛美がささげられる時を迎えることでしょう。

 今朝、心に覚えたのは「相手の、心に語りかける」と言うこと。
 日とに話しをするとは、こう言うことなのです。

 主イエスは、私の心に優しく語りかけてくださったのですから。私もならいたい。
 心に語りかける。
 素敵なことです。
 シャローム

7.3今日のみことば

2018-06-20

「ヒゼキヤとすべての民は、神が民のために整えてくださったことを喜んだ。このことが即座に行われたからである。」 歴代誌 第二 29章36節
 アハズ王の後は、その子ヒゼキヤが王となりました。
 ヒゼキヤは,父と違って主の目にかなうことをしました。
 まず最初に,祭司とレビ人たちを集めると、彼らに対して、自らをきよめ,悔い改めた後、主の宮を聖別することを命じました。
 実はアハズ王が、主に宮にあるべき器具を取り除き,代わりに偶像礼拝の道具を持ち込んでいたのです。
 聖別するとはそれらを正しくしたのです。
 偶像礼拝のものを外へ出し、主の宮の器具を聖別して整えたのです。

 王に即位して直ぐにこれに取り掛かったようですが、それは大変なことでした。
 神殿の庭を聖別するのに8日間。宮そのものを聖別するのに8日間と、合計で16日という長い時間を要しました。17節。
 それは、非常に酷い状態であったことを示します。数日でできるような状態ではなかったのですから。

 次いで、祭司らが聖なるささげものをささげ,いけにえを捧げる時には、祭司の人数が足りなかったのです。34節。
 それなので、兄弟のレビ人が手伝います。
 それは偶像礼拝に関わってきた祭司の人数が多く、悔い改めることができなかった祭司もたくさんいたことを示します。
 ここでも偶像礼拝が酷かったことが分ります。

 しかし、恵みもあります。
 ここ36節で王は「神が民のために整えてくださったことを喜んだ」とあります。
 大変な困難な状況下でしたが、主が助けて導いてくださったのです。
 主の備えもあったのです。
 主を一番としていく時に、すべてのものは備えられ,与えられていくのです。
 悔い改め,主を一番とする時に,主は以前よりも増して祝福を与えてくださる。助けと導きも含めて,主の備えはあります。
 日曜日です。主に期待して主を礼拝し、賛美していきましょう。
 シャローム

7.2今日のみことば

2018-06-20

「彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげて言った。「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に私もいけにえをささげよう。そうすれば私を助けてくれるだろう。」この神々が彼を、また全イスラエルをつまずかせるものとなった。」 歴代誌 第二 28章23節
 次の王であるアハズ王の治世について記します。
 残念ながら、アハズ王は、その治世の最初から、主のことばに従わなかったのです。
 モレクという偶像の神にいけにえをささげ、子どもたちさえもいけにえとしてささげてしまうほどでした。

 主は彼をさばき、彼はダマスコの王の手で苦しめられることになります。
 その上、イスラエルまでもが南ユダとアハズ王に敵対するようになります。
 苦しい日々が続く中で、アハズ王は更に罪をおかしてしまうのです。
 エドム人に苦しめられ、ペリシテ人にも苦しめられます。
 そんな中でアハズ王は、アッシリヤの王に贈り物を贈って援助を求めますが、何の助けもありません。

 彼の罪が大きいので、主のさばきはやまないのです。
 すると彼は更に罪をおかします。
 ダマスコの王たちがいけにえを捧げていることに習って、自分でも偶像の神々にいけにえを捧げて、助けを求めたのです。

 人は、罪をおかした時に、素直にその罪を主の前に悔い改めることができないようです。
 別のことをして、解決を図ろうとするのです。
 他の神々が、助けてくれると考えることが、間違っています。
 しかしそれを認めて悔い改めないのです。

 これが駄目ならば、あちらのの方法で解決を図り。
 それが駄目なら、また、別の方法で解決を図ります。
 しかし、主の前に進み出て、主に悔い改めることをしません。

 主は忍耐強くあわれみ深い方なのです。
 もう遅いということはありません。主は、砕かれた心で主の前に進み出て悔い改める者に、助けを与え赦してくださるのです。
 他の神々、人が勝手に作り出した偶像の神々を頼っても、助けは来ないのです。
 私の助けと祝福は、ただ、主からだけ来ます。
 シャローム

7.1今日のみことば

2018-06-20

「彼はすべて、主の目にかなうことを行った。父ウジヤが行ったとおりである。ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。民はなお滅びに向かっていた。」 歴代誌 第二 27章2

 ウジヤの子ヨタムが王になります。
 晩年、主のさばきの中にあったウジヤの存命中から王位についていたようです、(26章21節の内容より)
 彼は、父ウジヤがおこなった良いおこないは父に習ってすべておこなったのです。
 しかし自分の手で主の神殿で香をたくようなことはしなかったのです。
 主の目の前に悔い改めて、正しいことをひとつひとつおこなったのです。

 ヨタムが、主の律法を守っていたのとは違って民は偶像礼拝をやめないで倫理道徳的な面においても腐敗していたのです。
 そのことをここ2節では「民はなお滅びに向かっていた。」と、表現します。
 ウジヤ王が罪をおかして主のさばきにあったことを、民は王だけの問題として、気にしなかったのです。

 ウジヤ王は、確かに祭司ではないのに香をたこうとする明確な罪をおかしました。
 しかし民はどうだったのでしょうか。
 すべて主の目にかなうことをしていたでしょうか。
 そうではなかったことは、この2節の文章から分るのです。

 私たち一人一人が、主の前にどの様に生きるのかが問われています。
 主は、私が良いおこないをしたのならば、報酬を与えようと、語られているのではありません。
 主は、最初から私にその価値がなかったとしても恵みを与えてくださり、主の前に、悔い改めて喜び感謝して生きることを望まれています。
 それは一人一人が問われ、一人一人が主と交流を持つことが求められています。

 ヨタム王がおこなった王としての業績である門を建てたりやぐらを築き、アモン人を押さえて治世をおこなったことは、3節以降に記されます。
 王の業績として、最初に示されるのは「主の目にかなうことを行った」「主の神殿に入るようなことはしなかった」と言うことなのです。
 16年間の治世の間で、最も評価されるのは、この2節の内容なのです。
 それがあって3節からの王の業績が評価され、主に喜ばれるのです。
 父ウウジヤ王は、それを間違えてのだと思います。
 それでもなお滅びに向かい隣人がいるのです。隣人もまた主の前に滅びではなく、救いの喜びと永遠のいのちの約束を得て歩めるように、主の福音を伝えたい。

 今朝、私は、最初に主の前に一人の信仰者として進み出て、みことばを聞き。
 その上で、主が遣わしてくださる社会の場で、その働きを誠実に果たしたい。これも大事なのは確かなのですから。
 順番を逆にしないようにと思います。
 シャローム

6.30今日のみことば

2018-06-20

「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。」 歴代誌 第二 26章16節
 アマツヤ王が亡くなった後、立てられたのは16歳のウジヤでした。
 彼は、ゼカリヤに主を求めることを教えられてこれをおこない、祝福を得ます。
 そして巧みな戦い方をおこない、彼の勢力は強くなりました。
 すると彼は高慢になるのです。

 巧みな兵器を考案もしたのですが、それらはすべて主の助けがあったからです。ひとつ前の25節にそのように記されています。
 しかし彼の力が強くなった時に、ウジヤ王は主を忘れて高ぶったのです。

 彼は、神殿で祭司しかおこなってはならないと決められている「香をたく」と言う行為をします。
 自分が一番なのだから、祭司の手に任せたくはないという思いなのでしょうか。
 主を礼拝するという、良いおこないの中に、高慢な行動が入り込みます。
 祭司らは、ウジヤ王を止めるのですが、彼は聞き入れません。
 そして最終的には、主に打たれていくのです。
 その亡骸は、王の墓にも埋葬されないという、悲しい最後を迎えます。

 どんなに凄い力を誇っても、最後に主から離れてしまっては、人々の尊敬も愛情も失います。
 そして悲しい思いをするのは結局自分です。

 何人かの王が続けて好調の時、力をつけた時に、主を忘れて、高慢になり、主から離れてしまいます。
 まったき献身の思いと、砕かれた心がなければ、どんな高価の香をたこうとも、たくさんの捧げものをささげて礼拝をしたとしてもそれは空しいのです。
 罪深い自分を知り、認めて悔い改め、自らの胸を打ち叩いて、主のあわれみを求める人、主のあわれみを感謝できる人が、本当の祝福を得て、幸いな地上の人生を送れるのです。

 主は、15節にあるように、助けを与えてくださるのです。ところが、滅びを招くのは、私たち自分自身なのです。罪、主から離れることが滅びを招きます。
 主の助けをいつも得て歩みたい。
 地上の人生だけで終わりではありません。地上での生涯が終わった時に、主に真っ直ぐに顔を向けれる礼拝者でいたいと、思いました。
 立派なことを成し遂げるよりも(誠実に、しっかりと使命は果たしていきますが)主から決して離れないで、主と親しく交わりを保ち続ける者でいたい。
 神殿、教会へは砕かれた心と、まったき献身の心を持って、素直に進み出たい。
 シャローム

6.29今日のみことば

2018-06-20

「レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。」レビ記 25章32節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「レビ記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。
 難しい、いけにえや祭りの規定が並んでいます。

 いけにえを捧げている、まさにその状況などを想像して、読むと興味が尽きません。
 そうでないと、難しい書と感じてしまうかもしれません。

 著者はモーセです。モーセは、創世記から申命記までの五つの書を書きました。
 「モーセ五書」と、呼ばれます。主の律法の中心となる五書です。
 レビ記は、イスラエルの民が守るべきいけにえの制度、祭りの規定など、様々な宗教的な内容を記しています。
 これらをひとつひとつ、イスラエルの民に正しく教え、おこなっていくように指導する責任が「祭司」である「レビ人」にありました、

 レビ人とは、ヤコブの第三番目の息子、レビの子孫を指します。
 そしてレビの部族は、祭司の家系です。
 他の部族の人間は祭司にはなれません。

 彼らレビ人は、祭司部族ということになります。
 幕屋の維持、管理を一手に引き受けています。
 またカナンの地に入った時の、土地の分配に関しても特殊な形で受け取ることになります。

 そして「レビ人」と言う表現は、この25章の32,33節の、二ヶ所にしか登場しませんが、レビ人から取って、本書は「レビ記」と、呼ばれます。
 不思議なことに、他の兄弟の名を取って「ユダ人」「ヨセフ人」等とは表現しないのです。

 レビ人は、特別な上にも特別です。
 それは主なる神様を、聖い特別な方として、意識して、謙遜に、聖く仕えていくとを示す意味もあるでしょう。

 レビ人は、主が、選びました。
 レビが、勝手に祭司になったのではありません。
 主が選びました。

 貴方も主が選び、万人祭司と呼ばれる信仰者として、広い世の中から選び導き出したのです。
 そう言う意味では、新約のレビ人であると、意識して、主との交わりを喜ぶべきでしょう。
 シャローム

6.28今日のみことば

2018-06-20

「彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。」 歴代誌 第二 25章2節
 アマツヤの治世について記します。
 彼は、良い王としてスタートを切りましたが、順風の時に戦いで打ち破ったエドム人の神々を持ち帰って拝んだりします。
 そして治世の途中では高慢となり北イスラエルに戦いを挑み敗れて、最後はエルサレムの人々の謀反にあって、死ぬことになります。

 上手くいっていたようなのに、失敗が多くなったのには理由があります。
 ここ2節に記される通り、彼は、主に従いながらも、その心は完全に主とひとつにはなっていませんでした。
 全き心で主を信じて従っていなかったのです。

 主の目にかなうことを表面的にはおこなうことができても、聖い心と完全な心で主に従わないと、少しのきっかけで偶像礼拝に走ったりするのです。

 全き心でとは、完全であれということではないのです。
 ただし他の神々や、主以外の何者かを頼りとしてはいけないのです。
 主と主のことばにだけ信頼して従うことを、毎日決断して、行動するのです。
 イエス様の聖さに習い、それを求めて歩みます。
 聖さは、愛する心でもあります。
 主を愛し、隣人を愛して、歩もうとする時に、全き心となって、主に従い続けられるのです。
 そのように歩み続けていれば、他の神々、刻んだ像に心を引かれることはありません。

 他の人の目に映る良いこと、評価されることを成し遂げるよりも、主への全き心を追い求めて、成果が出る途上にあるほうが、本当の意味で、主の目にかなう良いことをすることになるのです。
 全き心は、主を愛する心と、主を求める聖い心、主のことばに従いたいと願う心だと、教えられました。
 シャローム

6.27今日のみことば

2018-06-20

「エホヤダが死んで後、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。」 歴代誌 第二 24章17節
 ヨアシュ王の治世について記す17章です。
 祭司のエホヤダが生きている間は、ヨアシュは主に仕えて良い王でした。主だけを信じて従っていたのです。
 その時には、主の宮を再建する工事も行ったのです。
 ところがエホヤダが亡くなり、ユダのつかさたちが王を訪問し、彼らと一緒にアシュラ像に仕えるようになってしまいます。
 預言者が起こされて、主のことば、警告を与えても、悔い改めません。
 ついにはエホヤダの子であるゼカリヤを殺してしまうのです。
 そしてついには、主のさばきを受け、アラムの軍勢による侵略を受け、臣下の謀反を受けて死んでしまいます。
 エホヤダが死んだ時には、人々は彼に敬意を表して、エホヤダをダビデの町の王たちの墓に一緒に葬りましたが、ヨアシュはしてもらえませんでした。
 自分の行い、信仰の姿によって晩年を汚してしまったのです。

 何故、ヨアシュは主を捨てて、偶像礼拝に走ってしまったのでしょう。
 主の宮を新しくするという良いおこないも、もしかすると、主に仕えると言う心ではなく、自分の名誉のためにおこなうという動機だったのかも。
 また、毎日主の宮の門に置かれた箱に捧げられる多くの献金が、彼を惑わせたのかもしれません。
 主の宮の再建が実現し、子どもの頃から自分を導き助けてくれた祭司エホヤダがいなくなって、ヨアシュは自分を高くしてしまったのではないでしょうか。
 そこにユダのつかさたちが来て、彼を伏し拝んだのです。
 本来は伏し拝む行為は、主にだけおこなうべきものです。
 それがヨアシュを増長、或いは心を転じさせたのではないでしょうか。

 他の人から、称賛を受けると、どうしても高慢になったり、主を一番にすることを忘れたりするものです。
 宮の再建など、人の目に立派なことをすることよりも、レプタ銅貨を二つを献金するという小さなしかし、主を信頼し切る素直で謙遜な信仰が、私たちの毎日には大切だと教えられます。

 逆境の時の厳しい試練よりも、順境の時の小さな誘惑に、人は弱いのではないでしょうか。
 いずれにしても、ヨアシュの信仰がちゃんと自分のものになっていなかった。
 主を一番にしていなかったということになります。
 人の目、称賛よりも、主の目、主の恵みを受け取ることを求めたい、喜びとしたい。
 毎日、主のことばを謙遜に聞き、素直な心で祈り、純粋な心で献身して仕えると言う小さな積み重ねが大切であり、私の力となるのだと思います。
 シャローム

6.26今日のみことば

2018-06-20

「エホヤダは、主の宮の管理を定めて、これをレビ人の祭司の手にゆだねた。彼らは、モーセの律法にしるされているとおり、ダビデの指示に基づいて、喜びと歌とをもって主の全焼のいけにえをささげさせるようにと、ダビデが組分けをして主の宮に配属した人々である。」 歴代誌 第二 23章18節
 祭司のエホヤダは、レビ人の祭司らを率いて、ヨアシュを正式なダビデの家系の王として立てます。
 アタルヤを退けて、礼拝を立て直していくのです。
 その時、エホヤダがしたのが、主飲み屋の管理方法を定めて、それに従って運用することでした。
 どうやらこれまで、神殿はダビデの時代と違って、いい加減になっていたようなのです。
 それなのでエホヤダは、モーセの律法に定められている通り、ダビデの指示した通りにおこなうように命じたのです。

 ここ18節でも、モーセの律法、ダビデの指示と、言葉を重ねて強調するほどに、厳しく運用方法を定め直したのです。
 心が主に向かなければ、真心がなければ、礼拝もいけにえも、祈りも賛美さえも意味はないでしょう。
 しかし、それは同時に、形はどうでも良いということにはならないのです。

 現に、偶像のバアルの宮までもが築かれてしまったイスラエルでは、主の宮の運用がいい加減になっていたのです。
 心が主から離れ、形もモーセの律法から遠く外れてしまったのが確かです。

 イエス様の時代には、律法学者やパリサイ人たちが、こと細かに律法を守り、捧げ物をして、汚れを遠ざけながらも、形ばかりを聖く見せかける信仰になっていました。
 これではいけないのは確かなことです。
 しかし、形がどうでも良いのではないのです。

 モーセの律法とは何でしょう。モーセが作り上げたルールでしたか。違います。
 主が与えてくださった律法、ことばでした。
 信仰を考える時。
 信仰を整え、深めていく時。
 立ち帰るところがあります。
 主のことばです。

 主のことばに従うこと、それは良く聞くことです。
 そこから歩み始めるのです。
 日曜日、安息日の礼拝の朝を迎えます。
 主のことばを聞いて、そこにいつも立ち帰る素直さと謙遜さを覚えておきたい。
 シャローム

6.25今日のみことば

2018-06-20

「ヨラムのもとに行くことによって、アハズヤが滅びたのは、神から出たことであった。彼はそこに着くと、ヨラムとともにニムシの子エフーに向かって出て行った。これは、主がアハブの家を断ち滅ぼすために油をそそがれた人である。」 歴代誌 第二 22章7節
 アハズヤ、アタルヤと、主のことばに従わない者が王となっていきます。
 しかしその背後には、主の守りと、導きが、主を信じる一人一人の上にあるのです。

 アハズヤがアハブの子であるヨラムを見舞いに行ったのは、彼自身の中から出て来た思いに従った行動です。
 神から出たというのは、神が誘惑して滅ぼそうということではありません。
 アハズヤは、神、主に従おうとしないヨラムとの関係を喜ばれないことを知っていながら、神に従うのではなく、自分の思いを優先させました。
 そのようなひとつひとつの決断と行動が、自分に滅びを招き入れるのです。

 ダビデはかつて、サウル王に狙われて追い回され命の危険に際した時でも、サウルを殺せそうな場面でも、それをチャンスとは捉えませんでした。
 むしろ、主のさばきに委ねる機会としました。

 同じような場面、出来事をチャンスと受け止めて、自分の願うことを優先させるか、主に従い通す試練の時と受け止めるか。
 それは人それぞれです。
 しかし、その時だけではなく、常に主のことばに従い、主の御心を尋ねることを大切にして、積み重ねるならば、その先にあるのは祝福です。
 主が、必ず良くしてくださり、祝福してくださるのです。

 アハズヤ、アタルヤと主に背く王が続きますが、その背後では、ヨアシュという一人の王の子が、わずかな人数の人によって、隠されて守られていきます。
 主は、混乱と不信仰の中にも、働いてくださる。
 どんな時でも、主の声を聞いて、自分にできる小さなことをしていきたい。

 何が起きているのか、理解するのも難しい出来事が続きますが、そんな中にも、主の守りと導きが有り、主の恵みはなくならないことを覚えておきたい朝です。
 そしてここにも主の守りと恵みがあるならば、私の毎日に主の守りと導き、恵みが亡くならはずはないのだと、確信できます。
 おおいに主に期待する週末の土曜日を迎えました。
 シャローム

6.24今日のみことば

2018-06-20

「主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、約束されたからである。」 歴代誌 第二 21章7節
 ヨラムが王となると、彼は主を捨てて、悪事をおこないました。
 この21章の最後には、ヨラムが亡くなった時に人々が彼を王の墓には葬らなかったことと、彼は民に愛されなかったことを記して、彼の生涯としました。
 この記述は、彼が酷い王であったことを示すと同時に、主を愛さない者は、他の人から愛されないことを教えてくれます。

 そんなヨラムですが、王となった最初から自分の兄弟たちを殺すという悪をおこないます。
 そしてアハブの家の者に習って、偶像礼拝をして、主を捨ててしまいます。
 最大の悪をしているのです。

 しかし主は、このヨラムを打って、ダビデの家系を滅ぼすことをされません。
 それは主が、ダビデの家を祝福し、いつまでも守ると約束を与えたからでした。
 主の約束は変わることがありません。
 主を捨てて悪をおこない続けるヨラムに対しても、主は滅ぼすということをされません。
 約束を取り上げたりしないのです。

 これは凄いことです。
 主が約束を変えず、与える恵みを取り去ることがないというのです。
 それならばどんな困難や障害も、私から主の恵みを取り去ることはできません。
 どんなに強い力やひどい方法で、私を苦しめ迫害したとしても、主の恵人と約束を奪い去ることはできないということです。

 私たちは、今日も変わらない主の約束を信じて、主の恵みを受け取れることを喜び、一日を始めたい。
 今日、主はどんな恵みを与えてくださり。
 今日、主は私に何を期待して私を遣わすのでしょう。
 今日、主は私に何を委ねてくださるのでしょう。
 そのすべては、主の恵みの中で進みます。
 シャローム

6.23今日のみことば

2018-06-20

「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」」 歴代誌 第二 20章21節
 ヨシャパテは、モアブ人とアモン人が合流して、ヨシャパテと戦おうと出て来たことに恐れます。
 以前、エフーによって告げられた主の怒りが現実のものとなったことを知ったからです。
 それなのでヨシャパテは、主に助けを求め、民にも断食をして神に悔い改めと献身の姿勢を現すように命じます。

 神は、答えてくださり、ヨシャパテや南ユダの民ではなく、神がモアブ人とアモン人の同盟軍と戦ってくださると、語られます。
 神の戦いだと、語ってくださるのです。
 神ご自身が、神、主を信じない民を打ってくださり、神が本当におられることを証ししてくださるのです。

 そこでヨシャパテは、聖なる飾り物を着けて賛美するものを任命します。
 聖歌隊の制服を定め、それを着用して、戦いの最前線で、神を賛美する人を揃えるのです。
 軍馬や歩兵の数を増やし、剣を用意するのではなく、主を賛美する人を揃えたのです。

 戦いの最前線という、危険が待ち受ける場所と場面で、軍事力ではなく、主への信仰を確かなものとして、それを証しする聖歌隊を大事な存在としたのです。
 そして聖歌隊の彼らもまた、戦いの最前線で恐れることなく、神を賛美します。

 その時、敵は神によって打ち負かされたのです。
 目の前の危険、危機に目を向けるばかりでは、解決は難しいのです。
 一度、目を上げて、主を見ます。
 そして主への信仰を証しして、賛美します。
 その後で、問題を見直すのです。

 その時には、既に主の解決が与えられることでしょう。
 見るべきところ。見るべき順序を間違えないようにしたい。
 不安になって、主に叫び、祈ってもいい。けれども賛美することは忘れてはいけないのです。
 シャローム

6.22今日のみことば

2018-06-20

「主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」出エジプト記 16章4節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「出エジプト記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はモーセです。創世記が記すヤコブことイスラエル一族が、ヨセフに導かれてエジプトに移り住んでから、約四百年後の出来事を記します。
 エジプトの王も代わり、ヨセフの活躍とその恩義も忘れて、ただ子孫が増えて力を増したイスラエル人を脅威に思った王はイスラエル人を圧制の元で奴隷のように扱っていました。
 男の子たちは出産時に殺される命令まで布告されるほどですが、主の守りはそこにも届き、モーセが誕生します。
 王パロの家の養子として育てられたモーセはやがて、何度も失敗をし、幾つもの試練の後に、イスラエル人を率いてエジプト脱出をします。
 前半は、エジプトを脱出し、荒野での旅を記します。
 次に、十戒が与えられ、主のことば、律法について記します。
 大きく三つ目には、幕屋(礼拝場所)の建設を記します。

 エジプトに起きた十の災い、奇蹟の場面があります。
 紅海の海が真っ二つに分かれて、そこを渡るイスラエル人と、その後を追い海に沈んで滅んでいくエジプト軍の様子は、14章に記されます。
 こう書きますと、華々しいエジプト脱出と思いますが、実態は違います。

 まず脱出ではなく、主の恵みと強い御腕によって「連れ出され」て救い出されたと言うことです。

 人々については、情けない、罪深い私たちの姿が、そこにあります。
 神様の恵みとあわれみによって、奴隷から救い出されたのに、すぐに、神様に呟き、背きます。
 信仰はすぐに萎えます。弱くなります。
 背信。エジプトの方が良かったとまで言います。

 エジプトの脱出、荒野の旅。
 これは私たちの人生、毎日をそこに象徴的に見ることができます。

 選びました16章の4節は、空からマナと呼ばれる食べ物が降ることが約束された最初の場面です。
 その前の3節で、人々は食べ物がない、エジプトでは豊かな食事をしていて幸せだった(そんなことはないのですが)と、呟きます。
 あの紅海を渡り、奇蹟を体験して主を力強く賛美した直後の出来事なのです。
 呆れます。いえ、呆れることはできません。それこそ私の姿です。

 主は、パンを、食べ物である特別なマナを、毎日降らせると約束をしてくれます。
 信仰は、毎日新しい心で、主に期待して、主に従うことを求められます。
 明日の分、来週の分、来月の分のパン、恵みを、今日与えるとは主は約束しません。
 主の恵みは、日毎に新しく、十分であり、途絶えません。たとえ私の信仰が萎えてしまい失われても主の約束は有効です。
 では信仰などなくても良いということにはなりません。
 ここにあるように、毎日、外に出て、天からの恵みを受け取ります。
 自分の座から立ち上がり、主を見上げて、主の恵みを受け取る毎日が、信仰者の毎日です。

 今朝、今日も主は、貴方に語りかけ、貴方に恵みを与えます。
 朝毎に新しい信仰の心をもって起きて立ち上がり、耳で聞いて、恵みを受け取りましょう。
 シャローム

6.21今日のみことば

2018-06-20

「ヨシャパテはエルサレムに住んだ。それから、彼はもう一度ベエル・シェバからエフライムの山地に至る民の中へ出て行き、彼らをその父祖の神、主に立ち返らせた。」 歴代誌 第二 19章4節
 ヨシャパテに、預言者エフーを通して、主のことばが語られました。
 北イスラエルに協力することは、南ユダとヨシャパテにとっては、一つも良いことがない。
 それどころか、主に背き、主を憎む北イスラエルに協力することは、そのような人たちを愛することになるという指摘です。

 ヨシャパテは、主のことばを聞くと、主のもう一度、しっかりと立ち返ります。
 彼は、北に協力することはやめて、南ユダの国内を安定させることに力を注ぎます。
 それは政治、軍事、経済といったことを安定させるということではありませんでした。
 もちろん、それらも大切なことですが、それは後からついて来ます。
 最初にしなければならない大切なことがあります。

 主に立ち返ることです。
 ヨシャパテは、国中を回り、人々を主にたち返らせました。
 大事なことは一つです。
 主を知り、主を信じて、そのことばに従うのです。
 他のことは、これができていけば、後から整ってきますし、豊かになります。

 国がエルサレムの中心だけではなく、地方の隅々まで、主にたち返りました。
 私たちも、一人一人、心と行動の隅々までが主に立ち返っていくことが大切だと、教えられます。
 預言者の口を通して、聖書を通して語られる主のことばを聞くことから、それは始まり、実現します。
 今朝も、私が聞くべきことばが、語られます。
 シャローム

6.20今日のみことば

2018-06-20

「すると、ミカヤは答えた。「主は生きておられる。私の神が告げられることを、そのまま述べよう。」」 歴代誌 第二 18章13節
 南ユダのヨシャパテ王と北イスラエルのアハブ王が縁を結びました。
 ヨシャパテの息子とアハブの娘が結婚したので、協力するようになったのです。
 二人は、ガド族の領地であるモテ・ギルアデを支配するためにアラムの王と戦おうとします。

 そこで預言者400人に、戦いに行くべきかどうか、戦果はどうなるのかを尋ねます。
 全員が、アハブ王の顔色をうかがい、勝利できると答えます。王がそう望んでいることを知っているからでした。
 しかしヨシャパテは、他の預言者の意見も求めます。
 これまでもアハブ王に厳しいことばを語ってきたミカヤが連れて来られます。

 王の使者は、ミカヤに対して、王が望むことだけを語るようにと、伝えます。
 「王に対して良いことを述べて」と、言うのです。12節
 でも、それは良いことではありませんし、主のことばを聞く姿勢、信仰としても間違っています。
 アハブ王自身は、ミカヤがアハブを憎んで、良いことは語らず、悪いことばかりを語ると、言っています。7節

 ミカヤはと言うと、「主は生きておられる。私の神が告げられることを、そのまま述べよう。」と、告白するのです。13節

 主は生きています。この信仰の告白は大事です。
 生きている神を信じること。
 そのまま述べよう、これは語る者の、取るべき正しい態度です。
 立場を変えるならば、アハブ王と私たち聞くべき者は、そのまま素直に謙遜に聞くべきです。

 生きてはいない神、作られた偶像の神ならば、人の望む通りのことを語らせればよいのです。
 しかしいきている神、全知の神の語ることは違います。
 私が望むないことも語られます、指摘し、叱責されます。
 でもそこには、愛がありあわれみがあります。
 だから、聞きたくない言葉でも聞くのです。
 聞いて従うのです。
 そうすれば、自分が望んだ以上の良いことが、聞きたくない、したくないことの先にあります。

 イエス様は、今日も、貴方に語ってくださっています。
 貴方の名前を親しく呼ばれて語られます。
 主が語られたことを、そのまま聞いて従う一日としましょう。
 主は生きておられます。
 主は、貴方を生かして、貴方を祝福します。
 シャローム

6.19今日のみことば

2018-06-20

「彼らはユダで教えた。すなわち、主の律法の書を携えて行き、ユダのすべての町々を巡回して、民の間で教えた。」 歴代誌 第二 17章9節
 次のユダの王となったヨシャパテ王による宗教改革が徹底しておこなわれました。
 それはまず、王自らが率先しておこないました。
 高き所や偶像を排除しました。

 そして一番素晴しいのはこの9節に示されることでした。
 ヨシャパテ王は、祭司らとともに町々を巡回して、主の律法を民に教えたのです。
 その結果として人々は、主がユダを守っていてくださることを知り、神を恐れたのです。
 その恐れは、恐怖におびえることではありません。
 主にだけ信頼して、心から畏れ敬うことです。

 そしてこうした信仰が徹底した時、周辺の国はヨシャパテに戦いを挑むことはありませんでした。
 主のことばに信頼すること。
 主を恐れること。
 これが軍隊を強くしたり、同盟を結んで戦いを避けることとより勝った平和への道でした。

 最初に主のことばに信頼すること。
 徹底して、主を恐れること。
 それが平和に生きる道となるのです。

 週の初めの日曜日です。
 主を礼拝して、主のことばを聞き、信頼して歩みを始めましょう。
 それが幸いな一週間を送るなによりもまさる大切なことです。
 シャローム

6.18今日のみことば

2018-06-20

「それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。」 歴代誌 第二 16章12節
 アサ王の晩年の様子を記します。
 残念ながら、晩年のアサ王は、主と心がひとつではありませんでした。
 北イスラエルとアラムが連合軍となっていることに脅威を覚えたアサ王は、アラムの王と軍事連盟を結んで、イスラエルを排除しました。
 このような危機にこそ、主に頼るべきでした。
 以前の朝なら、そうしたはずです。
 しかし晩年のアサはそうしませんでした。

 そして主からそのことを指摘されますが、悔い改めることができません。
 そして病にかかった時も、主を求めないで、逆に医者を求めたと、記されています。

 私たちが、病にかかった時に、医者を頼るな、薬に頼るなということを、聖書は命じるのではありません。
 ここに「逆に」と、あります。
 主に信頼しないで、医者を求めたことが、間違いであることを指摘するのです。
 医者に診断や治療と薬を否定するのではありません。
 主に頼り、主を求めないで、医者を求めたことが指摘されるのです。
 それは主に頼らないで、アラムの王の力を頼ったのと同じ、罪なのです。

 若い頃のアサは、軍事力で明らかに劣勢なのに、主にだけ頼り、主を求めて戦いました。
 主は、アサを助けてくださった。

 主を一番に求めること。
 主に信頼して委ねることを、晩年まですべきでした。

 もし途中で、罪をおかし、主から離れてしまっても、悔い改めて戻ることができるのです。
 主は、悔い改める人を喜び、罪をおかす前よりも、悔い改めた後のほうが、さらに祝福してくださる方です。
 私たちは、悔い改めることを、我が友として、常に主を求めていく者でいたいと、思う朝です。

 病が重くなることよりも、主から遠く離れてしまうことを、恐れたい。
 シャローム

6.17今日のみことば

2018-06-20

「高き所はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、完全であった。」 歴代誌 第二 15章17節
  前の章から続いてアサ王の治世の時の様子が記されます。
 幾つかの言葉が、心に留まりました。
 4節に「悩み」とあります。
 3節の「まことの神なく、教師となる祭司もなく、律法もありません」と言う状態を指しています。
 偶像礼拝に走り、或いは神を捨てて自分勝手に生きる、自分が正しいと思うことだけをする状態を指しています。
 その状態を、聖書は悩みのある、悩みのまっただ中にいる状態だと示します。
 ここでは「士師記」の時代を具体的に指し示しながら、アサ王の時代と比較するのでしょう。

 このような状況を示しながら、アサ王の時代は、彼が主に立ち帰り、主だけを信じて歩んだので平安であると示すのです。
 彼は、預言者を通してこれらのことが示されると、忌むべきものを取り除き、主だけを信じて歩むことを徹底しました。
 12節では、心を尽くし、精神を尽くして主を求めたことが示されます。
 また、母マアカが偶像を造ったことを知ると、母をその位から退けて、聖さを求めます。16節です。

 このようなアサ王の姿勢、生活は、主に喜ばれました。
 ここ17節では、そのことを「アサ王の心は一生涯、完全であった。」と、示します。
 言い換えるならば「主と全く一つになっていた」と言うことです。
 「高き処」とは、偶像にいけにえを捧げるための、盛り土をした場所を指します。
 何故、偶像を破壊して取り除いたアサ王が、その盛り土をした場所を取り除かなかったかは不明です。
 しかし見かけだけ信仰深いのとは逆に、高き所が残っていても、アサの心は主と一つであり、信仰は確かであったことを聖書は示してくれます。

 むしろこのことは大切なことを教えてくれます。
 私たちには、すべてのことを完全に行うことはできないということを示しながら。
 しかし、主と心が一つになっていることが大切であると言うこと。
 主ご自身は、そのことを良しとしてしてくださり、完全であると評価してくださると言うことです。

 私たちは、不完全で弱い者です。
 しかし主を求め、主だけを信頼して、その心が離れないのであれば、主がそれで十分であると言ってくださり、助けてくださるのだと言うことです。
 アサ王の生涯を通した姿に習いたいものです。
 シャローム

6.16今日のみことば

2018-06-20

「それから、ユダに命じて、彼らの父祖の神、主を求めさせ、その律法と命令を行わせた。」 歴代誌 第二 14章4節
  アサが王になると、彼は主がよいと見られたことをおこないます。
 2節では「主がよいと見られること、御目にかぬこと」と、言葉を少し変えて繰り返して、彼が主の目にかなうこと、よいことを行ったことを強調します。
 またつづく3節では、異教の偶像礼拝を徹底的に取り除いたことを示します。

 その上で、南ユダの民に、神、主のみを求めさせました。
 主を求めることは、実際には律法と命令を守ることでした。
 信じて歩む時、そこには毎日の生活の中での、具体的な行動がともなうのです。

 こうしてアサは、主だけにより頼み、助けを求めました。
 後半には、クシュ人の大軍勢と戦う様子が記されます。
 その時、アサは、主にだけより頼み、人の力に頼ったり、人の力を恐れたりしないことを、告白しています。

 毎日の生活の中で、具体的に、誠実に、主の律法と命令を守る歩みをします。
 そして、大きな問題、障害にぶつかった時には、慌てないで主にだけ信頼していることを告白して、主の助けを待つのです。
 日々の具体的な歩みがなければ、いざと言う時に、見えない主の助けを待つことはできないでしょう。
 毎日の信仰生活があって、大事の時にも慌てずにすむのです。
 そしてこの時のアサのように、問題が解決した後に、多くの恵みと祝福を受け取れるのです。15節。
 まさに、主が助けてくれるのです。
 それはこの4節に示される通り、主を求め、主の律法と命令を守ることから始まっています。
 シャローム

6.15今日のみことば

2018-06-20

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」」創世記 3章9節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「創世記」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 聖書、旧約39巻、新約27巻、合わせて66巻の最初に納められている書です。
 毎週、水曜日は聖書を一巻づつ順番に読み、紹介しています。先週、新約聖書の最後に納められているヨハネの黙示録を読みましたので、今朝は最初に戻って創世記です。

 創世記、聖書の一番最初は、神がこの世界、そのすべてを造られたことを語ります。
 「ベレシー」ヘブル語で「最初」の意味を持つ単語です。この単語から聖書66巻は始まります。
 とても興味深い出来事やことばがたくさんある創世記です。
 遥か遠い昔のできごとですが、現代を生きる私たちに、とても身近な出来事、迫る内容です。

 始まりが有り、終わりが有る。
 これが聖書の神様が、私たちに示す大切なことです。

 天地の創造から始まる聖書の記述です。
 神が創造主であり、私たち人間も含めてこの世界のすべてのものは創造主に造られた被造物であることを示します。
 その後で、最初の人であるアダムが罪をおかしたことを語ります。
 ノアの箱船、出エジプトの物語など、よく知られた物語が創世記にはあります。
 これらは誰かが作った物語、事件ではなく、歴史上の真実であると聖書は証言します。
 天地創造の場面を私たちは確認することはできませんが、アブラハムの物語に登場する地名の場所からは、近年も考古学的な貴重な発見が相次ぎ、創世記の記述の通りであることが証明されています。
 見えないもの、見に行くこともできない創世記の出来事を信じていく時も、信仰が問われるのでしょう。聖書は、他の箇所でも作り話を記さず、イスラエルの始祖であるアブラハムの恥ずかしい失敗までも記す真実の書ですから、他の箇所もその通りであると、信じるか否かと、問われます。

 今朝選びましたのは、3章です。
 最初の人類、神に愛されていた人であるアダムが、神とのたった一つの約束を破り、罪をおかす3章です。
 そしてエデンの園を追われていくことになります。
 しかしその前に神は、罪をおかして神の前から隠れたアダムを探して、ここ9節で、呼びかけられます。

 聖書は、その始めから終わりまで、神の愛が貫かれています。
 神が、愛の神であることを教えてくれます。
 神が、私たちが罪をおかしてもなお、愛してくれていることを教えてくれます。

 そんな聖書は、創造主である愛の神が、私に、呼びかける書です。
 私たち人に語りかけ続けてくれる書です。
 最初の約束を結ばれた時も、今朝の箇所も、神が語りかけてくれています。
 時には、預言者を通して語りかけます。
 具体的に、積極的に語りかけます。

 神がどれほど私を愛して、私を求めて、私に語りかけてくださっているのか。
 今朝、その声にもう一度、しっかりと耳を傾けたいと思います。
 シャローム

6.14今日のみことば

2018-06-20

「イスラエル人は、このとき征服され、ユダ人は、勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。」 歴代誌 第二 13章18節
 南ユダの王、アビヤと北イスラエルの王、ヤロブアム(2世)の間には争いがありました。
 その原因や範囲などの細かな状況を聖書は教えてくれませんが、ここに全面戦争の様相を引き起こしていることが記されます。
 南ユダ四十万の精鋭部隊と、北イスラエル八十万の精鋭部隊が戦いを始めようとします。

 興味深いのは、4節から12節までの文章で、アビヤが北イスラエルが、その王国の始まりの時から、今に至るまで、主を捨て、偶像礼拝をしている罪を指摘していることです。
 そして南ユダとアビヤ王自身は、主がダビデの変わらない契約を結んでくださった正統的な選民イスラエルの者であり、主を信じて戦うのだから、北イスラエルには勝ち目がないと訴えていることです。
 いわゆる、主に信頼することに対する、一大説教ともいえるものです。

 それに対して、北のヤロブアムは、伏兵をアビヤが語っている間に、強力な軍隊の力に頼り、伏兵をアビヤの背後にまわしたことです。
 通常の戦闘で言えば、圧倒的な戦力の差と、戦略をおこなった北のヤロブアムの勝利と、思えます。
 しかし、勝利したのは劣勢と思われた南ユダのアビヤでした。

 聖書は、勝利の原因をここ18節で明確に記します。
 「彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。」
 14節からは、具体的な戦いの状況として、祭司がラッパを吹きならして、主により頼んでから戦いを始めて、主が、南ユダを助けてくださったことまでを記します。
 しかし、なによりも大切なことは、アビヤと南ユダの人々が、主により頼んだことです。

 大きな問題、ここでは倍以上の戦力を誇る敵に対する時にどうするのか。
 力や謀略に頼るのではなく、主により頼んで、解決を図ったことが大切であると教えてくれます。

 5節に「塩の契約」とあります。
 これは塩が腐らない、変化しないことを象徴的なものとして、いけにえと一緒に捧げて、主と変わらない約束を結んだことを示す言葉です。
 残念ながら、私たちは心変わりをしたり、心弱くなったり、主を忘れたりします。
 しかし主は変わらない恵みで、約束を守ってくださるのです。
 私たちが、主にたち帰り、主にだけより頼むならば。
 主は私たちを助け、愛と恵みを現してくださる。
 どんな大きな問題も解決します。

 でも今朝、覚えたいのは、問題が解決できることではありません。
 私たちが、彼らがその父祖の神、主に拠り頼むことが、一番大事だという、一点です。
 問題の解決よりも、主により頼むことを知り、実践する毎日、私でいることが大事だということです。
 それができる毎日が、本当の幸いと平安なのです。
 シャローム

6.13今日のみことば

2018-06-20

「 彼は悪事を行った。すなわち、その心を定めて常に主を求めることをしなかった。」 歴代誌 第二 12章14節
 レハブアムの治世が進み、彼自身の力が強くなった時、彼は主を捨て去ってしまいました。
 自分自身の力を過信し、自分を神としてしまったのかも知れません。
 民もまた、レハブアムに習って、主を捨て去ってしまいました。
 主は、全イスラエルが、レハブアムに習って主を捨て去ったので、主はイスラエルを捨てます。

 この後、エジプトの王が、エルサレムに攻め上ってきて、神殿の大切な金の楯までも財宝と共に奪い取っていきます。
 しかし王が主の前にへりくだったので、主の怒りは王を離れていき、エルサレムは完全に滅ぼされることはありませんでした。
 主のあわれみは深いのです。

 さて、何故そんな事態を引き起こしたのか。
 それがここ14節に記されています。
 「その心を定めて常に主を求めることをしなかった。」
 心を定めてとは、主だけを信頼してと言う意味です。
 心を定めてとは、主に向かって真っ直ぐに、祈り求めることです。
 また、いつも変わらずに主に信頼していくことです。
 そして、いつでも、なんでも主に尋ね求めるのです。

 こんなことぐらい、自分で解決できるからと、主に求めないまあでいると、いつの間にか、主と離れてしまうのです。
 そして恐ろしいのは、そのことに気がつかないことです。
 そして、罪を行ってしまうのです。
 心を定めて、揺らぐことがないように、主にだけ信頼して祈り求めよう。
 揺るがない、変わらずに頼れる相手、主がいてくださることは嬉しいことであり、力強いことなのです。
 シャローム

6.12今日のみことば

2018-06-20

「さらに、彼らのあとに続いて、イスラエルの全部族の中から、その心をささげてイスラエルの神、主を尋ね求める者たちが、その父祖の神、主にいけにえをささげるためエルサレムに出て来た。」 歴代誌 第二 11章16節
 イスラエル人が、カナンの地に定着して、ヨシュアの下で各部族に分割されてそれぞれの所有する土地に住んだ時、祭司であるレビ人だけは各地に住みました。
 祭司ですので割り当て地を持たなかったのです。
 それなので、この時代にもレビ人は各地に住み、祭司としての使命を果たしていました。
 ところがヤロブアムが、高きところを勝手に作り出し、自分勝手な礼拝を定めました。
 南ユダのエルサレムに対抗して、自分で決めたのです。
 そして祭司を追い出して、自分のために祭司を任命して、高きところで、いけにえをささげさせたのです。

 祭司の職務を勝手に解任されたレビ人、祭司たちは、南ユダのレハブアムについて、エルサレムへと出て行きました。
 北イスラエルでは、主なる神様を礼拝することができないと考えたのです。

 彼らは移り住みます。
 それはただ仕事、職務を失ったので、引越しをしたのではありません。
 ここ16節に大切な言葉があります。
 「主を尋ね求める者たち」
 彼らは、真の神、唯一の神である主を尋ね求めたのです。

 王が、主を捨てました。
 その国に住み、迫害に耐え、偶像礼拝を避けながら、秘かに生きる道もあるかも知れません。
 しかし、なによりも大切なことは、主を尋ね求めることです。
 エルサレムに出て来たのは、その尋ね求める心が形になったものです。

 大切なのは、周りの状況が変化しようとも、自分たちに不利な状況が迫って来たとしても。
 主を尋ね求めることを一番とすることです。
 その人に、主は必ず豊かな祝福と守りを与えてくださるのです。
 シャローム

6.11今日のみことば

2018-06-20

「「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」」 歴代誌 第二 10章4節
 レハブアムが父ソロモンの後を継いで王となった時に、人々はレハブアムに願い出ました。
 3節では全イスラエルと表現されます。北の地域の人々が中心となって願い出たのです。そして交渉決裂の結果として南北に分かれていくのです。
 ここ4節を読みますと、ソロモンの治世の後半は、重税と過酷な強制労働を人々に課していたことが分ります。
 ソロモンが主なる神様と心が一つになっていなくて、多くの妃たちが持ち込んだ偶像礼拝がソロモンの王としての働きを誤らせていたのでしょう。
 いずれにせよソロモンに対する不満が、人々を、部下であったヤロブアムを指導社に立てて、レハブアムに願い出る行動に進ませたのです。

 そしてレハブアムは、長老たちのアドバイスを退け、彼に仕える若者たちの意見を受け入れて、人々の願い出を退け、むしろもっと苦しいくびきを負わせていくと答えるのです。
 結果、北イスラエルを中心とする部族は、反逆をして、レハブアムから決定的に離れていきます。

 この事件には決定的な問題がありました。
 レハブアム、彼に仕える若者、北地域に住むイスラエル人、ヤロブアムと言う人々が登場していますけれど、誰一人祈っていないのです。
 この事件を引き起こす結果となった、晩年、そして最後の時を迎えたソロモン王も含めて祈っていません。
 イスラエル12部族の父であるヤコブことイスラエルは、地上での最後を迎える時に、12人の息子たちにふさわしい言葉、遺言であり信仰の言葉を残しました。
 そこには厳しいことばもありました。

 このレハブアムとヤロブアムとの対決、分裂へと進む出来事に間には、主への祈りがありません。
 誰も主に求めないのです。
 苦しみを訴える言葉さえ聞かれません。

 ダビデ王のように常に周辺の国から攻められる危機感や様々な問題意識を持って主に祈ることがなかったのでしょう。
 安定した豊かな生活が、レハブアムや若者たちに祈りを忘れさせ、主から心が離れてしまうことになったのかも知れません。

 苦しみ悲しみの時も。
 平安で喜びのある時も。
 貧しい時も、豊かな時も。
 私たちは主を礼拝し、祈り、賛美する毎日を忘れてはいけない。
 問題が起きた時にさえ、祈りを忘れてしまうから。

 主は、いつも私たちとともにいてくださり、見捨てないと約束してくださっています。
 そのことをいつも味わっていくためにも、切実な祈りを主を親しく慕いつつ祈り続けたいものです。

 祈りのある毎日が送れることが、なによりも豊かな毎日なのだと、教えられる朝でした。
 シャローム

6.10今日のみことば

2018-06-20

「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。」 歴代誌 第二 9章7節
 シェバの女王がソロモンを訪ねてきて,うわさで聞いていたソロモンの知恵がどれほどのものであるのかを試します。
 女王が心の中にあるすべてのことを質問しますが,ソロモンはそのすべてを解き明かしたのです。
 女王は驚きます。
 うわさで聞いていたのは、ほんの一部でしかなかったことを証しします。
 ソロモンの知恵は,女王の想像を遥かに超えるものであり。
 ソロモンの国に住む人たちは、どれほどしあわせなのだろうと、ここ7節で、感嘆の声をあげています。

 うわさで漏れ聞いたこと。
 自分で想像したこと。
 自分のこれまでの経験で理解できること。
 それらのことを遥かに遥かに超えた知恵と幸いと安心がソロモンの宮殿と国にはあったと,シェバの女王は知ったのです。
 実際にソロモンに会い、目で見て耳で聞いて経験した知りました。
 そして、言葉を繰り返して「なんとしあわせなことでしょう」と言う他はなかったのです。
 そして「いつもあなたの前に立って」いる家来の幸いを告白します。

 女王の想像を超えるものが、ソロモン王の前にはありました。
 それならば、私たちの想像を超えるものが、主なる神様の前に、主の住まわれる御国にはあるのは確か上にも確かです。
 詩篇84篇を思い起こしました。
 「 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。」
 84篇の詩人は、主の大庭を切実に慕います。
 詩人は、主の大庭に住む一日は、他の場所で生きる千日にまさると告白します。
 そして幸いであることを繰り返して歌います。

 シェバの女王は、地上で想像を超えた幸いを見て驚き喜びました。
 私たちは、それよりも遥にまさり、そして完全な幸い、喜び、平安が主にお会いした時に約束されています。
 シェバの女王は、そのことを少しだけ見せてくれまいした。

 シェバの女王は、私たちにも「なんとしあわせなことでしょう」と、声を掛けるのです。
 ソロモンとは違い、決して変わることもなく、約束を変えることもない主イエスを知っています。
 シャローム

6.9今日のみことば

2018-06-20

「ソロモンはパロの娘をダビデの町から彼女のために建てた家に連れて上った。「私の妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない。主の箱を迎え入れた所は聖なる所だからである」と彼が言ったからである。」 歴代誌 第二 8章11節
 神殿完成後のソロモン王の生活を記します。
 父であるダビデが定めた通りに、レビ人との祭司らを組み分けして、賛美と奉仕をさせ、門衛も配置します。

 そしてエジプトの王パロの娘と結婚していたので、彼女はダビデの家には住まわせないで、別の場所を与えます。
 これを行ったのには理由があります。
 異邦人であるパロの娘が、エジプトで信じていた異教の神々を、ダビデの町に持ち込ませないためでもありました。
 主なる神様だけを信じて、従うこと。
 これがイスラエルの王様には、民の誰よりも、王様が手本となるように求められるのです。
 何故なら、イスラエルは主が治める国であり、主こそが王の王なのですから。

 ソロモンは、主だけを信じて守りました。
 しかし、失敗したのです。

 列王記の方には、こんな記述があります。
 「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」列王記第一11章3節
 ソロモン王の晩年は、異教の神々が周りにたくさんあるような生活になっていたのです。
 それは彼がたくさんのそばめを持ち、そのそばめたちが、思い思いに故郷の神々、異教の神々を持ち込んだからです。

 ソロモンは、ここでパロの娘にしたように、厳格におこない続けられなかったのです。
 そして自分は誠実に、主だけを愛して従うことを徹底できなかったのです。
 ここでのソロモンは正しかったのにです。

 「蟻の一穴天下の破れ」ではありませんが、主だけを信じて従う時、これくらいはと言う妥協が後になって、自分の信仰を曇らせ、惑わしてしまうことになりかねないのです。
 誰よりも知恵に富むソロモン王にして、この失敗です。
 私は大丈夫とは思わないで、気をつけたい。
 常に誠実に主に仕えて、自分の力に頼らず、聖霊の助けを求めていきたい。
 そして、いつも主の前を真っ直ぐに歩み続けたいと思う朝です。
 シャローム

6.8今日のみことば

2018-06-20

「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」ヨハネの黙示録 2章25節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ヨハネの黙示録」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 聖書、旧約39巻、新約27巻、合わせて66巻の最後に納められている書です。
 小説、映画などの題名などにも黙示録の名称は幾つも見つけられます。そのほとんどが終わりの世界、破滅に関するものですから、どうしてもこの聖書の黙示録にも恐ろしいイメージや、終わりの世への不安を連想させてしまうように思います。
 しかし正しくこのヨハネが見た、ヨハネが主から預かったことばを聞く必要があります。
 ある一面では、確かに終末の日のことを示します。
 しかし破滅ではありません。そこには主イエスによって約束をされた希望が有り、御国の完成があります。
 そしてヨハネ、このヨハネは使徒のヨハネです。
 ヨハネがパトモス島と言う名前の島にローマ帝国によって島流しの刑に処せられている時に見た幻、ことばが記されます。
 ドミティアヌスの迫害の下にあったキリスト者を励ます書でもあります。終末の世は、先に世界にある希望と慰めを語っているのです。

 でも確かに面白いと言いますか、興味深い言葉や表現も多いのです。
 例えば2章20節には悪い女、不品行で預言者と自負する存在として「イゼベル」と言う名前の女性が登場するのですが、この名前を見ればユダヤ人はあの北イスラエルのアハブ王の悪妻イゼベルを思い浮かべることでしょう。人々がその内容を理解しやすい名前が登場するわけです。
 他にも11章17節の「今いまし、昔います神である主」と言う表現などは主なる神様の存在を端的に教えてくれる表現として、力強く迫っています。

 ただし確かに難しい書であることも確かなのです。
 1章は、ヨハネが見たもの、見せられたものを記します。
 2,3章は、いまある出来事を記します。
 4章から先は、後に起きることを記すのです。

 いまの状況を見つめ、今の自分の信仰、生活を知って、そこにもキリストの慰めと励ましがあることを確認します。
 そして更に将来の約束、希望を知るのです。

 2章には厳しいことばもあります。
 ある教会と信仰者は、神の愛を捨て去り、離れていったことを指摘されます。
 非難すべきことがあるとの、厳しいことばもあるほどです。
 しかしここ25節には、与えられたもの、即ち、キリストの救いをしっかりと持っているならば、主の守りがあることを示して、励ましてくれます。
 救いがある、それはキリストを持っていることそのものです。

 4章以降には確かに恐ろしいことが起きると記されます。
 しかし恐れることはありません。
 最後の22章の一つ前の21章で、新しい天と新しい地が現れることが示され、最後の章では、そこでの豊かさが示されるのです。
 そしてキリスト・イエスがいつも私たちの近くにおられて、私たちを励まし支えてくださることを示してくれます。

 だから恐れず期待して歩めるのです。
 今日も、大変な職務や苦労があるかも知れません。むしろ楽なことは少ないのでしょう。
 しかし私たちにはキリストが与えられており、終末の日にお会いできます。
 「アーメン。主イエスよ、来てください。」と、イエス様がすぐに来るとの約束を信じて、その日が早く来るようにも祈りたい。
 シャローム

6.7今日のみことば

2018-06-20

「しかし、もし、あなたがたがそむいて、あなたがたに授けたわたしのおきてとわたしの命令とを捨て去り、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、」 歴代誌 第二 7章19節
 ここは神殿の完成を喜び、その神殿に主が臨在してくださることを主ご自身が示してくださった場面から始まります。
 人々は喜び、賛美していけにえと捧げものを手にして集いました。
 そのいけにえ、捧げものがあまりにも多いので、本来の受け入れ場所である内庭には入りきらず、内庭の外にある前庭を聖別して使用したほどです。7節。
 この記述から、人々の喜びが非常に大きく、また、熱心であったことが分ります。

 主はそれを受け入れてくださり、民を代表して祈ったソロモンの祈りに答えてくださるのです。
 しかしそこには警告が語られるのです。
 ここ19節では、人々が、生活の中で善を行うことの以前に、イスラエルの神、主を捨て去ることへの警告が語られます。
 多くのいけにえを捧げた日、喜びに溢れ、熱心な民に向かって、主は警告されます。
 後になって、主が語られた通りに、民が主を捨て去る姿を私たちは同じ聖書の記述から知っています。

 主を捨て、信仰を捨ててしまうならば、主は祝福を取り去ると警告します。
 しかし私たちは、裁きや罰を恐れるのではなく、自分たちの恐ろしい心にこそ目を留めなければなりません。
 ここで主は、人々、いいえ私が主を捨てると、警告するわけです。
 そしてそれは「行ってほかの神々に仕え」ると言う行為、心が一緒なのです。
 「行って」と、聖書は示します。
 この単語は、行く、離れると言う意味があります。
 主を捨てるというと、信仰が失われただけのように思えるかも知れません。
 そうではありません。何か心が弱ってしまって、主を見失っている状態のようにも思えるのですが、違うのです。
 主の前から、離れていき、他の神々のところへと出かけて行って、その神々を愛して、仕えると言うことなのです。
 そこには積極的な自分自身の行動があります。

 主を愛していくか。
 他の神々へ行くか。
 喜び溢れている時にさえ、私たちにはその危険があるのです。

 だから主は、警告すると同時に、主を愛するならば祝福して、導き助けると、約束してくださっているのです。
 主が与えてくださったことばをいつも真剣に聞くところから、主の導きと助けがあります。
 朝毎に、夜眠る前に、貴方の耳に主のことばを聞き、貴方の口に賛美をのぼらせることで、守られ充実します。
 シャローム

6.6今日のみことば

2018-06-20

「今、私の神よ。お願いします。どうか、この所でささげる祈りに目を開き、耳を傾けてください。」 歴代誌 第二 6章40節
 「真実の祈り」「真心の祈り」
 礼拝説教のように題名をつけるとしたら、今日の6章からのメッセージにはそのようにつけます。
 神殿が完成したので、ソロモンがイスラエルの全集団に向けて語り、そして祈っている場面です。

 最初にソロモンは、神殿建築に至る経緯を語ります。
 父ダビデから、自分へと引き継がれた神殿建築の使命について語ります。
 主がどのようにして、それをソロモンに示されたのかを語ります。
 そこには主が働いていてくださり、主が完成へと導かれたこと、主ご自身が成し遂げてくださったことを語ります。
 言い換えれば、神殿建築において、ダビデとソロモンの果たした手柄を誇るようなことはしないのです。
 主が、恵みによって、イスラエルに与えてくれたものだと、確認をしているのです。

 その上で、祈ります。
 あらゆることについて祈っています。
 民が主を裏切り、捨てたとしても、悔い改めるのなら、再び赦して、受け入れて欲しいと祈ったりもします。
 自分たちが罪人であり、誘惑や試練に弱い者であることを告白して祈るのです。

 今日の、ソロモンの祈りには一つの特徴があります。
 それは繰り返してソロモンが祈っている言葉です。
 「祈りを聞いてください」「聞いてください」「守ってください」

 ソロモンはもちろん、真の神にむかって祈っています。
 主を信じていますから、祈りが聞かれて、恵みによって答えていただけることも知っています。
 それでも祈るのです。
 切実に祈るのです。

 「聞いてください」
 もう何度も何度も祈るのです。
 選びました40節には、祈り求める具体的な内容などありません。
 主が、耳を傾けて聞いてくださるようにと祈るのみです。
 目を開き、耳を傾けてと、言葉を変えながら、主の愛によって聞いてくださるように願います。

 聞かれないなどと、疑ってなどいないのです。
 それでも、いや、信じているからこそ、聞いてくださいと祈らずにはいられないのです。
 アーメン。真実、その通りですと、祈るからこそ、聞いてくださいと切実に求めるのです。

 私たちも、朝毎に、毎日祈る時に、これほどまでに切実に主の耳を開いて欲しい、聞いて欲しいと願い求めて祈っていきたい。
 シャローム

6.5今日のみことば

2018-06-20

「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」 歴代誌 第二 5章14節
 主の宮が完成をします。
 ソロモンは、父ダビデが聖別したものを運び入れ、至聖所には契約の箱を運び入れます。
 これで宮は完全に完成を見ます、

 11節では、すべての祭司が普段の勤めの順番に関係なく、身をきよめたことが記されます。
 全ての祭司が、宮の完成を喜び祝って主を賛美するのです。
 それはまるでひとりであるかのごとく一致した歌声であったことを教えてくれます。

 今日の宮の完成の場面から、二つのことを学びました。
 形式的なことを行って、すべての人が身をきよめたのではなく、心から主の前に進み出ていることが、歌声が一致していることに現れているのです。
 全員が主の前に、正しく進み出ていることが、一致した賛美の歌声に現れています。
 私たちも、礼拝で主の前に進み出る時には、ひとりひとりが過ごしてきた七日間の経験や心の持ち方は違います。
 喜び感謝に溢れている人もいれば、悲しみに打ちのめされたままの人、苦悩し格闘している最中の人もいるでしょう。
 しかし主の前に、揃って進み出ていく時、主のへの信頼と感謝、期待する心においては一致しているのです。
 いや、神の家族、主の民として、賛美の中で整えられていくのです。
 そしてふさわしい主のみことばを受け取り、慰め励ましを得て力に満たされて、送り出されます。

 二つ目には、この最後の節にあります。立ってはいられない状況を経験するということです。
 主の栄光と威厳の前に畏敬の心で満たされて、ひざまずくのです。
 主を信じる者、すべての人は主を信頼し、主に期待し、主を親しく慕っています。
 それでも愛する親しく感じる主の前で、それでもなお畏敬の心でひざまずくほどに、主の威光、きよさを感じること。
 それほどの心で主の前に進み出ているかどうか、自分自身が問われました。
 賛美は、気持ち良く歌うだけでは終れない。
 そこに主のきよさ、威光、栄光を感じる時となるかどうか。そして愛も感じるのか。
 私の賛美の姿勢が、問われるのです。
 シャローム

6.4今日のみことば

2018-06-20

「さらに、祭司たちの庭と大庭およびその庭の戸を作り、その戸に青銅を着せた。」 歴代誌 第二 4章9節
 聖所である本堂に設置されるさまざまな聖具が作られたことが記されます。
 この節に続く11節からは、フラムが製作したものについて記されていくのです。

 そんな中で、ここ9節は少し他の節とは様子が違います。
 ここ9節には、聖具などの記述がありません。
 庭の戸に青銅を着せたと言う記述です。
 わざわざ青銅で扉を覆ったか、飾り付けたということです。
 聖具でもありませんし、礼拝に直接使うものではありませんが、その扉が、大切なものであることを意味しています。

 「祭司たちの庭」は、祭司しか入ることが許されません。
 その外側に配置された「大庭」はすべてのイスラエル人が入ることができます。
 勝手には入ることができない祭司たちの庭と、主を信じる者の方から近づき、立ち入ることが許されている大庭の違いです。

 詩篇84篇2節には「 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」との、告白があります。
 神殿の大庭、即ち、神の御国を慕う信仰者の姿です。
 その庭には、厳密な規定があり、大庭の先には祭司の庭があります。
 しかし今、その大切に青銅を着せられた戸は、イエス様によって内側から開けられました。

 十字架の死によって、完成された救いを信じる私たちは、大庭も祭司の庭も区別がなくなって、主の元へ近づくことができるのです。
 なんという幸い、なんという恵みでしょうか。

 青銅が着せられた素晴しいとが内側から開けられて、主の御座に近づける風景を思い浮かべたい、ここ9節です。
 そしてますますイエス様を信じて、同時に慕い求めて今日も歩みたいと思いました。

 与えられた信仰の先には、青銅も金銀も、12種類の宝石をも凌ぐ、素晴しい御国が私たちの住まいとして、備えていただけているのです。
 夢幻ではなく、真実の約束です。
 青銅の戸を、想像しながら、その先をも具体的に期待したい。
 青銅の戸が、本当にあったように、御国も確かにあるのですから。
 シャローム

6.3今日のみことば

2018-06-20

「至聖所の中に、鋳物のケルビムを二つ作り、これに金を着せた。」 歴代誌 
第2 3章10節
 至聖所の中にはケルビムが作り出され、神殿の壁にもケルビムがいます。
 アダムが罪をおかしてエデンの園を追放された時に、神は、その東の方にケル
ビムを置いて園を守られました。(創世記3章24節のことばです)
 しかしこれは、神様が意地悪で冷酷な方だから、ケルビムを置いたのではあり
ません。
 人が再び主の約束を破って、勝手に園に近づいてしまうことがないように守っ
ているのです。
 今、律法が与えられており、礼拝する場所が備えられているのです。
 人が勝手に作ったルールではありません。
 主が与えてくださった恵みの律法です。
 主の言葉を聞いて、守ることが求められているのです。

 ケルビムを見るたびに、人は、主が与えてくださった道が備えられていること
を思い起こすのです。
 ケルビムがそこに存在していると言うことは、そこは正しい場所であり、大切
な上にも大切な場所であると言うことなのです。
 ケルビムは、私たち人が神に近づけないようにと、守っているのではありません。
 私たちに与えられている神のことば、律法、恵みを守り、私たちが、正しく神
の身元へいくように守ってくれているのです。

 私たちはケルビムを目で見て、そこで聞くみことばに従う信仰者となっていく
のです。
 私たちに対する神の守りが確かであることを、目で見ることができる唯一の形
なのではないでしょうか。

 今、主イエスが十字架で完成させてくださった救いに至る唯一の道も守られて
います。それをケルビムに投影することができるでしょう。
 私たちに与えられている救いの道は、完全に守られています。

・追加
 ケルビムはいつも二つ一緒に登場します。
 対なのです。創世記の最初のときからそうです。
 元々の単語は「ケルブ」です。単数形の原型を持っています。
 けれども、文中、律法の中で、単数形で使われることはありません。
 いつも「ケルビム』と二つが対になって登場します。
 左右から羽を広げている形が多いようですが、左右から守っていると言うより
も、二重の守り「聖なる。聖なる」守り、完全で、最上級の守りと大切 さを示
す対の形だと思います、
シャローム

6.2今日のみことば

2018-06-20

「 さらに、フラムは言った。「天と地とをお造りになったイスラエルの神、主はほむべきかな。主はダビデ王に、思慮と悟りとを備えた知恵ある子を授け、主のための宮と、自分の王国のための宮殿とを建てさせられるのです。」 歴代誌 第二 2章12節
 ソロモンは、いよいよ神殿建築に取り掛かる時、ツロの王であるフラムにレバノンの杉の樹を送ってくれるように依頼します。
 フラムには、父ダビデも同じように杉材の調達を依頼していました。

 フラムは、ソロモンの願いを聞くと、それを引き受けるののです。
 この時、フラムはソロモンに向かってソロモンが信じるイスラエルの神、主のことをこう呼びました。
 「天と地とをお造りになったイスラエルの神、主はほむべきかな。」

 他の国、地域に住む人たちは、自分たちが考える神々と同じようにしか、主なる神様のことを捉えません。
 しかしフラムはちゃんと、唯一の神の名前を、ソロモンたちが呼ぶのと同じ名前で呼びます。
 そして賛美の心を表して「主はほむべきかな。」とまで口にするのです。
 更に「宮殿とを建てさせられるのです。」と、言います。

 主と、主の導きをよく見ています。
 外交辞令としての表現と言葉を超えているでしょう。
 ダビデ、そしてソロモンとの交流が、遠く外国人の王であるフラムの心に届いているのです。
 証しとなって、主のことがフラムに伝わっているのです。

 私たちもまた、仕事やその他のことで、関係ができ、交流が続く人に、自然と主のことを証しできるようになりたいものです。
 相手の人に「貴方の信じる神は、ほむべきかな」と、言ってもらえるような信仰者としての生き方を今日もしたいものです。
 私たちの働く、手と足の背後に主の導きと助けが見えて「主が貴方にそうさせるのです」と、見てもらえるように。
 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり」と、ルカの福音書で語られるように、私たちの主に忠実に仕える姿、小さなことを大切に、忠実に行うことから、証しをしたい。
 シャローム

6.1今日のみことば

2018-06-20

「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」ユダの手紙 21節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ユダの手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 とても短い手紙です。それも特徴です。
 しかしその短い手紙の中には、これほど多くの驚くべき特徴が幾つもある手紙も数少ないのではないでしょうか。

 まず著者です。ユダ。これは誰ですか。
 1節の自己紹介によれば、イエス・キリストのしもべであって、ヤコブの兄弟です。
 すると、この人物はマリヤとヨセフを両親とする、イエス様の地上での弟いうことです。
 ズバリ弟と名乗って、そのことを誇るよりも、キリストのしもべとして生きていることを誇るユダです。

 9節に「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、」と、あります。
 これは偽典「モーセの昇天」と言う書籍からの引用です。
 伝承に過ぎませんが、当時の人々の間では良く知られていた物語(創作物語)です。
 こんな引用を大胆にしながら、人々に親しく語りかけ、そして鋭く指摘していくのです。

 4節に、この手紙を書くことになった緊急性が示されます。
 「ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。」
 AD70〜80年に執筆されたと考えられる手紙です。
 まだまだイエス様が昇天して間もないといって良い時期です。その時、既に異端が入り込もうとしていたのです。
 教会の始まりの時から直ぐに、異端があっという間に入り込もうとしていたという驚くべき事実が分ります。

 そしてユダは、それらの異端に惑わされないようにと、緊急にこの手紙を書いたのです。

 ユダの主張は、この二つです。
 「聖徒にひとたび伝えられた信仰」3節。
 最初に正しく、しっかりと伝えられた福音を聞いているのだから、それを守りなさい。
 そのために必死に戦いなさい。この教えです。

 二つ目はこれです。
 「神の愛のうちに自分自身を保ち」21節。
 神様の愛のうちに憩い、神様の愛を信じて、そこで生きるのです。
 そしてそこから天の御国の約束を望むのです。

 既にすべては伝えられており、約束は成就しています。
 愛のうちに待ち望むのなら、不安に惑わされて異端の教えを受け入れることはありません。
 キリスト・イエスを信じるとは、キリスト・イエスの十字架の愛のうちに留まることです。
 シャローム

5.31今日のみことば

2018-06-20

「さて、ダビデの子ソロモンは、ますます王権を強固にした。彼の神、主は彼とともにおられ、彼を並みはずれて偉大な者とされた。」 歴代誌 第二 1章1節
 今日から「歴代誌 第二」を読みます。もうしばらく旧約聖書を順番に読み進めていくことにします。
 第二は、元々は第一と合わせて「日々の出来事」と題名で記されていた書です。
 その書が、ヘブル語からギリシャ語に翻訳される時に二つの分けられて、現在の書名がつけられました。
 この第二は、大きく二つの内容です。
 1〜9章は、神殿建設者としてのソロモンのことを記します。
 10〜36章では、南ユダ王国の王たちを紹介します。
 また、本書の最後の36章の終わりの部分は、エズラ記の最初の部分とほぼ同じ内容を記します。
 続けて読むと、分裂王国から捕囚、捕囚からの解放といった歴史と、そこに働かれる神様の愛を知ることができるでしょう。

 一章は、神殿建設を実現したソロモン王の統治の最初を記します。
 ソロモン王については、後の時代の人々を含めて全ての人々(それは諸外国の王たちも含めてのことです)は、知恵の王様だと評価します。
 ソロモンが、11節にあるように、神様に富や財宝を欲するのではなく、また、敵の命を求めることもなく、自分の長寿を願うのでもなく、知恵を求めたからです。
 それも賢くありたいというのではなく、民をさばき、国を治めるための知恵と知識を求めたからだと、主は評価してくださって、知恵を与えてくださったのです。

 しかし、本書の一番最初の最初に、書かれていることは大切です。私たちにも通じる大切なことです。

 ソロモンが知恵のある王となったから素晴しいのではなく。
 見事に国を治めたから、素晴しいのでもなく。
 「主は彼とともにおられた」からなのです。
 その結果、ソロモンは偉大な者、偉大な王となったのです。

 私たち現代に生きる者は「偉大な王」「偉大な人」と呼ばれる必要もないと感じます。
 しかし、一人一人が、他に比べることができないほどの、素晴しい信仰者、主のしもべであった、と評価されるのは素晴しいこと、嬉しいことです。
 そうなれます。
 主は彼とともにおられるのだから。
 貴方とともに、主がおられるのですから、貴方はソロモンと肩を並べるほどの信仰者として、イエス様を証しする日々の出来事を現す人となります。

 今日の何気ない信仰の歩みが、貴方の信仰の王国を強固なものにします。
 主がともにいます。
 シャローム

5.30今日のみことば

2018-06-20

「私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。」 歴代誌 第1 29章16節
 本書の最後の章です。
 ダビデは、次の王となるソロモンを励まします。
 そして集った民の指導者たちに、ソロモンを助けて、神殿の建設に力を尽くすように勧めるのです。

 10節では「私たちの父イスラエルの神、主よ。」と、特別な表現を使って主に祈ります。
 十二部族の父であるヤコブのことを、このように表現したのでしょう。
 それと同時に、主なる神様をこのように特別な名前で呼んでいるのだとも言えるでしょう。
 各部族の指導者たちを前にして、語り、祈るのにはふさわしい呼びかけだとも言えます。

 こうして民を励まして、主の宮の建設に向かわせるダビデですが、主への信仰の姿勢は明確です。
 ダビデは、繰り返して信仰告白します。

 天と地とそこにあるすべてのものは、主のものである。
 すべてのすべてが、主から出ている。そして主の所有する物であり、主権が及ぶものである。
 ダビデと私たちは、それらを預かり運用することが任されているのだという理解です。
 ダビデは、これを繰り返して語ります。
 大切なことです。

 捧げ物も、実は主から出ているものであり、主のものなのです。
 ダビデが確かに用意したものですが。
 それは主の恵みがあってのことです。
 私たちが自分のものであることを主張するのではなく、主のものを預かっている中で、それを私たちが心からお捧げし、お返ししていくことで、主のご計画が進むことを喜ぶのです。

 すべてのものは、主から出ている。
 すべてのものは、主のものである。
 その大切なもの、大きなものを、私たちは委ねられ、任されているのです。
 自由に任されていることを喜びたい。
 それは生かされていることを喜ぶことにも繋がっています。

 多くの恵みは、すべて主よ、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。
 心からそのように告白をしたい。そこにこそ喜びがあると信じています。
 シャローム

5.29今日のみことば

2018-06-20

「今、主の集会、全イスラエルの前で、私たちの神が聞いてくださるこの所で、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令をことごとく守り、求めなさい。それは、あなたがたがこの良い地を所有し、あなたがたの後、とこしえまでもあなたがたの子たちにゆずりとして与えるためである。」 歴代誌 第1 28章8節
 28章は、息子ソロモンに主の宮の建設に関わる細かな指示をします。ダビデは資材を準備しました。主の宮で用いる器具は、金の重さまで決まっていました。いいえ、祭司の配置まで決まっていたのです。それは主の指示でした。ダビデはそれをよく聞いて、ソロモンや民に伝えたのです。
 ここの言葉は、ある意味においてはダビデが彼とともに戦い、主に仕えてきた勇士たち、すべてのつかさたちに対する惜別の説教でもあります。
 そして大事な言葉があります。

 「主の命令をことごとく守り、求めなさい。」
 主の命令に従え、とだけダビデは命じないのです。
 主のことばを求めよ。主を求めよ。と、命じます。

 主を尋ね求め、主に問い、主を探しなさい。
 律法に、こうあるから守る。こう命じられた、禁じられたので、それをしません、と言うのでは、全然足りないのです。
 主のことばを聞くと言うことは、主に尋ねることです。主のことばを、自分から欲するのです。
 主に問い、探すということは、主との関係を深めることです。

 創世記の最初にアダムが罪をおかした時、アダムは、主の声を聞いて隠れました。
 主は、いつでも私たちを追い探し求めてくださる愛の方です。
 私も、主を探すのです。見つからないから探すのではありません。積極的に主に近づきたいと求めるのです。主を欲するのです。
 そうすれば主は、すべてのものを与えてくださり、答えてくださる。

 今朝、ダビデの言葉を聞いて思ったことは、主のことばに従うということは、命令に従うというだけではないということ。
 消極的な行動ではなく、もっと積極的な愛の行動が、主のことばに従うということだと言うことを知りました。

 日曜日です。
 主が礼拝に招いてくださる。私たちがどこにいても、もし、体調不良や仕事で教会の礼拝の場に行くことができなくても、招かれている事実があります。
 主の礼拝に招かれている者として、主を、積極的に求めて、賛美し、祈り、主の前に期待と感謝をもって進み出たい。
 シャローム

5.28今日のみことば

2018-06-20

「ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。」 歴代誌 第1 27章23節
 27章は、ダビデ王を補佐する働きをする人たちについて記されます。
 祭司の働きが記された後で、王様の補佐をする勇士、軍人たちのことが記されるのも、意味があるでしょう。
 王ダビデよりも当然のことですが、主なる神様のことが優先され、大切にされるのです。
 祭司は、礼拝の時だけ大切にされるのではなく、王の王である主の治められるイスラエルの国家においては、日常でも常に大切にされるのです。

 そして記される勇士たちを含めた人の名前が続けられます。
 ここには、二十歳以下の人々を数に入れなかったとあります。
 実際の職務に就くのが二十歳と言うこともあるでしょうが、あまりに人数が多くて、数えることができないと言う、現実があります。
 これは主の祝福なのです。
 アブラハムに主が、アブラハムの子孫を、空の星のように海辺の砂のように、数え切れないほどに増やして祝福をするとヤクソクシテくださったのです。
 それが実現しているのです。
 人数だけが多いのではなく、祝福が溢れていることを示します。

 サウル王が、王位に就いた時、彼らはサウルのところにやって来る力ある勇士、精鋭をことごとく、召し抱えました。
 サムエル記第一、14章52節に、そのように記されています。
 サウルの軍団は大きくなり、力も強くなりました。
 けれども主を一番にすることができなかったサウルは、主に祝福を注いでいただくことができませんでした。
 自分の力で、一生懸命に勇士を集めて召し抱えてもダメでした。

 そのサウルに苦しめられていた時でさえも、主を一番にして従ってきたダビデは、今、その臣下を数えることができないほどに、人数の面でも、力の面でも祝福を受けています。
 ここ23節の、後半にあることば「主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである」は、まさにアブラハムへの約束が実現していることを現しています。
 どの様な状況下でも、いつも主を一番にしてきたダビデが祝福されるのです。

 私たちが、主を一番にして信じて従う時、主は、約束を果たしてくださり、恵みと祝福で満たしてくださるのです。
 今日、週末の土曜日の働き、使命を果たすのに苦労や涙があるかも知れません。
 しかし主を一番にするならば、気がつくと、そこには数え切れない祝福が与えられていることを知るのです。
 主イエスに期待して、今日の歩みを進めましょう。
 シャローム

5.27今日のみことば

2018-06-20

「これはみな、オベデ・エドムの子たちで、彼らとその子、兄弟たちは、その奉仕にふさわしい力のある勇敢な人であった。オベデ・エドムに属する者は六十二人であった。」 歴代誌 第1 26章8節
 門衛の組み分けについて記されます。
 門衛とは、宮の入り口を守り、朝になると鍵を開ける人たちです。
 別の箇所でも彼らの仕事について記されます。宮を守る大切な仕事であることが分ります。
 そしてここに、その職務を果たすのにふさわしい力のある勇敢な人の名前が記されます。

 レビ人の他の職務ももちろん部族ごとに名前が記されるのですが、この門衛の箇所には、一人だけ注目したい名前を見つけました。
 「オベデ・エドム」エドトンの子のオベデ・エドムです。

 ダビデが契約の箱を最初にエルサレムの町に運び込もうとした時に、失敗をして、近くにあった家に仮置きをしました。
 その家こそが、オベデ・エドムの家でした。
 二回目に、ダビデが箱を運び込もうとする時まで、オベデ・エドムは箱を守りました。
 そして主は、彼の家を祝福しました。
 その様子を見て、ダビデはもう一度、箱を運び込むことに取り組んだのです。

 箱を守った人。
 その人の子らが、今、宮を守る門衛となって、勇敢に職務をしています。
 六十二人もの人たちがいます。

 大祭司の職務は重要で他の人の取り換えがきかないでしょう。
 では、門衛ならば、誰にでもできる仕事でしょうか。
 ここを読むと、そうではないことが分ります。
 ダビデ王の統治の最初の頃に、契約の箱を守った唯一の人、オベデ・エドムなのでした。
 今、主の宮を守る仕事を任せるのに、ふさわしい勇敢な人は、あのオベデ・エドムに子らが一番です。
 主が、彼らを選んでいます。主が、彼らに門衛の職務を任せたのです。

 主を信じて従う信仰者の、一人一人にふさわしい職務がまります。奉仕があります。
 貴方にしかできないと、貴方に委ねると、主が語られて、遣わしています。
 その職務は、勇敢におこなうべき、勇敢な貴方がする奉仕なのです。
 喜びをもって奉仕したい。
 喜び、期待して、今日の使命を果たしたい。
 主は、貴方を主の勇士として、勇敢でふさわしい人と見ておられるのですから。
 シャローム

5.26今日のみことば

2018-06-20

「彼らは、下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためのくじを引いた。」 歴代誌 第1 25章8節
 25章は、賛美を通して預言をするアサフについて記されるなど、レビ人の特別な奉仕と、主からいただいた賜物について触れます。
 同時に、彼ら賛美する祭司の奉仕に、将軍たちも関係していたことが冒頭に記されています。
 イスラエル王国は、どこまでも主が王の王であり、主であり賛美すべき方なのです。
 そのことに直接仕える祭司のことについて、大切に記されるのです。
 武功をたてた勇士のことだけが歴史の書に記されるのではないのです。
 そして将軍たちもまた、祭司、賛美する者たちと一緒に戦うのです。

 シンバルや立琴を手に、主の宮で歌を歌って、奉仕に当たる祭司たちの名前が記されます。
 その数は、288人です。
 先に組み分けされた24組から、それぞれ12人が選ばれて奉仕します。
 最初に、四千人が選ばれていますから、特別な賜物をいただき、訓練を受けた祭司ということです。
 このようにして選び出すことからも、神様への賛美を本当に大切にしていることが分ります。

 それと同時に、皆が主の前に平等であることも分かります。
 ここ8節には「下の者も上の者も」と、あります。
 これは年長者か、年が若いかに関係なく、平等にくじを引いたのだと、分ります。
 主の前に、霊とまことを持って賛美するのは、私たち皆に与えられた恵みであり、使命でもあります。

 現代の教会では、くじを引いて何かを決めることはしませんが、主が選び出してくださり、自分を送り出してくださっていることを自覚して、賛美したい。
 礼拝者となることも、奉仕者となることも、賛美する者になることも、皆同じように、イエス様に与えられた恵みの機会です。

 賜物を生かして、主を賛美しましょう。
 私には、賛美の賜物がないとは、言わないようにしたい。
 与えられている一タラントは、私が思っているようも、遥かにたくさんの、大きな価値のあるタラント、賜物なのですから。
 シャローム

5.25今日のみことば

2018-06-20

「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。」ヨハネの手紙 第三 11節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ヨハネの手紙 第三」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 これもまた、第二の手紙に続いて短い手紙です。
 そして別れの挨拶文にもあるように、顔を会わせて話したいという強い思いがあり、それを「筆と墨でしたくない」と、言わせるのでしょう。
 それほどまでにガイオ(1節)のいる教会とガイオたちを愛しているヨハネです。
 そしてヨハネには心配があります。

 自分が教会のリーダーになりたくて、使徒たちをののしり、使徒たちの教え、即ち、みことばに従わないで勝手気ままに歩むデオテレペスの言動に注意するように厳しく書き送るのです。
 短い手紙の中で、名指しで、相手を厳しく戒めるというのは、なかなか私たちの日常では考えにくいのですが、ここではヨハネは明確にそれを示します。
 それは教会の中で起きようとする問題を、命の危機であると理解しているからです。
 みことばを信じないで、歩みを続けるとそれは本当の滅びへと向かうことだと、危機を持っているのです。

 愛するガイオ、愛する者へと、教会の一人一人を愛していることを明らかにした上で、戒めるべきは戒めると、手を抜かないのです。
 ここでは「悪を見ならわないで、善を見ならいなさい」と、教えます。
 悪を行う者は神を見たことがない者だとまで、言い切るのです。
 現代ならば、悪を行う者はみことばを信じない人、礼拝を愛さない人と、言えるでしょう。

 ここでは5節にあるように、旅をしながらイエス様の愛を伝え、福音を語っている人をもてなすガイオであって欲しいと勧めます。
 私たちもガイオに習い、ヨハネに習って、善を見習い、愛することを惜しまない者となっていきたいものです。

 以前も書きましたが、この短い手紙はとても好きなみことばの書です。
 そして冒頭の1節と、終わりの15節の言葉が、何度読んでも心に響きます。
 「私はあなたをほんとうに愛しています。」
 「そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください。」
 私も、心から素直に、そして大胆に「私はあなたをほんとうに愛しています。」と、手紙を書ける信仰者になりたいと、思います。
 シャローム

5.24今日のみことば

2018-06-20

「レビ人の出の書記、ネタヌエルの子シェマヤが、王とつかさたち、および祭司ツァドクとエブヤタルの子アヒメレク、それに祭司とレビ人の一族のかしらたちの前で、それらを書きしるした。エルアザルの父祖の家を一つ一つ、イタマルのを一つ一つ。」 歴代誌 第1 24章6節
 24章では、アロンの子、子孫である祭司たちが部族ごとに24組に分けられたことを記します。
 くじを引き、組み分けされたことと、その名前が記されているだけだと、言うこともできるでしょう。
 現代を生きる私、それにイスラエル人ではない私には関係がないと、思ってはいけないのです。

 例えば、イタマルの子孫は八組なのは何故でしょう。
 24組は、12部族に関係した数字として、倍の24であると理解できます。
 それならば、二つの部族を12組に分けなかったのは何故でしょうか。
 イタマルの家は、エルアザルの部族より、かしらが少なかった訳です。4節。
 それはサムエル記第一の2章、4章で、イタマル系のエリの子らが主に背いて亡くなっていたこと。
 サムエル記第一の22章で、やはりイタマル系のアヒメレクの家の者が、サウル王によって虐殺されたこと。
 これらから人数が少なくなっていたからだと、聖書を遡って知ることになります。
 ですから、16と8組になったのです。

 一方で、先祖となるエリの息子たちが罪をおかしたとはいえ、イタマル家の祭司が、主によって完全に排除されたわけではなく。
 むしろ同じ祭司職に与るという恵みを受け取っているのだということも分ります。

 しかも、公平に交互にくじを引き、公正に名前が記されたことも分るのです。
 「一つ一つ」と言う表現は交互に記録されたことを示すものです。
 また、31節の「かしらもその弟と全く同じであった」と言う表現は、長男も、弟たちも平等にくじを引いたことを示します。
 これらから、祭司職は主が与え、主が公平に恵みとして与えてくださった大切な職であることが分るのです。
 人が勝手に作った祭司職ではなく、人が勝手にアロンの家をかしらに仰いだのではなく、主の召しと恵みの賜物だということです。

 人数の違いはあれども、その恵みは平等であり、機会も公平です。
 私たちも、主イエスによって、召されて、使命が与えられています。
 それは長い時間の中で見た時、公平であり、恵みであり、主の選びとして素晴しく、ふさわしい使命が、一人一人に与えられているのだと分ります。
 ここに名の上がる一人一人がそうであったようにです。

 貴方は主イエスに見出されて召され、貴方にしかできない使命が与えられているのです。
 そしてその名前は天の御国に書き記されています。
 いただいた賜物を惜しみなく発揮して、主イエスの弟子として、その使命を果たしたい。
 今日、貴方を必要としているところへ、貴方は主イエスによって遣わされるのです。
 シャローム

5.23今日のみことば

2018-06-20

「立って朝ごとに主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同じようにすること。」 歴代誌 第1 23章30節
 23章と、その前後の章の構成は興味深いと思いました。
 22章では、ソロモンが建設する主の宮についての記述。
 そして続く23章は、最初にソロモンがダビデの次の王となったことを簡潔に記すと、すぐさま、レビ人の奉仕、祭司のこと賛美のことを細かく記します。
 ところが、列王記の第一の最初のところを読むと、ソロモンが王位に就くまでの、かなりドロドロとしたやり取りがあります。
 こちらはそんなことはすべて飛ばして、ダビデの息子のソロモンが正統な王として当然のように後を継いだかの書き方です。
 その分、祭司の勤め、賛美の勤めについて、細かく書きます。

 主の選びがあるのです。
 ソロモンが王となったのは、主の選びと導きがありました。
 今、二度もそんなことを書き残すよりも、大切なことを示すのです。

 王と民がひとつとなって、主を賛美し、礼拝を捧げることの重要性について書き残すのです。
 レビ人が組み分けされて、朝に夕に賛美します。
 それも立ち上がって、心と歌声、楽器を合わせてひとつとなって賛美します。
 一人づつが、賛美していれば良いのではないのです。

 新約聖書のヘブル人への手紙でも、ともに集まることの大切さを教えます。
 私たちは、一人一人主の招きに応じて、信仰を告白したのならば、次に、ひとつとなって主を礼拝し賛美する者となっていくのです。
 王は、この時、それを導き、民をひとつにする働きを求められています。
 民はまた、朝に夕に、主を見上げて、賛美することが求められています。

 私たちも今日、与えられている賜物を生かして、ある人は楽器を奏でて、ある人は歌声で、ある人は言葉を紡いで、朝に夕に主イエスを賛美しましょう。
 それぞれに大切な賜物が与えられていることです。

 そして、立って動き回る職場で、家庭で、その手を動かし、足を使って主を証しすることで賛美をしましょう。
 その賛美は、きっと芳しい香りとなって、貴方から香っていくはずです。
 シャローム

5.22今日のみことば

2018-06-20

「ある時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。」 歴代誌 第1 22章8節
 主の宮を建てるのが、ダビデ王ではなく、ダビデの子のソロモン王である理由が記されます。
 この細かな理由は、サムエル記には記されていません。
 それは、ダビデの生涯が、戦いに次ぐ戦いであったことです。
 主のための戦いであり、主に敵対する諸国を退ける戦いでした。
 しかし、多くの血が流されたことも事実です。

 戦いに明け暮れたダビデが、宮を建てると、後の人々が、ダビデの勝利を誇っていく危険があります。
 ダビデは、主のための剣として、仕えたのです。その使命をまっとうすれば十分でした。
 宮のためには、材料を蓄え、息子ソロモンのために備えておけば十分なのです。

 また、主は平和と愛の神でもあります。
 戦いのダビデではなく、平和のソロモンが建てる方がふさわしいのです。

 ダビデは、主に、他の誰よりも愛されています。
 宮を建てなくても、その価値は変わりません。愛されていることも変わりません。
 人にはそれぞれふさわしい働きが与えられているのです。

 ダビデにはダビデの使命。
 ソロモンにはソロモンにための使命。
 貴方には貴方のためだけの使命が与えられています。
 皆が宮を建てなくてよいのです。主はそれぞれの働きを喜んでくださっています。

 そして今日、主は、主を礼拝する人たちを喜んでいます。
 そしてたくさんの恵みをその礼拝者に注いでくださるのです。
 シャローム

5.21今日のみことば

2018-06-20

「オルナンが振り返ると御使いが見えた。彼とともにいた彼の四人の子は身を隠し、オルナンは小麦の打穀をしていた。」 歴代誌 第1 21章20節
 ダビデ王が、おかしたもう一つの罪がここに記されます。
 王様の、ある面から言えば絶頂期、安定した国の統治がされている時に、王のおかした罪を後世にまで書き残すと言うのが、聖書がまことに神の言葉を記した書であることを証明しています。
 王様の功績を記録するのではないのです。
 神様の視点で、イスラエルの歴史と信仰者の足跡を残すのです。
 それがそのまま私たち、後に続く信仰者が聞くべき言葉となっているのです。

 ここではダビデは国民の人口調査をします。それが罪です。
 何故ですか?
 民を自分のものとして見て、自分の力を計ろうとする行為だからです。
 主への反逆なのです。
 民が祝福されての数が増えていたとして、それは主の恵みであって、ダビデが数を数えて、何かと比べるようなものではないのです。

 さて、主のさばきがおこなわれた時。
 ダビデが再び赦されて、いけにえをささげていくことになります。
 その時の祭壇の場所が、このオルナンの土地でした。

 オルナンと彼の息子は御使いを見て、身を隠します。
 恐ろしかったのです。

 どうでしょうか。
 私たちがもし、御使いを目撃したのならば、恐れるのでしょうか。それとも喜び躍り上がるでしょうか。
 決して、自分が罪をおかしたわけではなくても、御使いが目の前に現れたのならば、驚き、恐れるのではないでしょうか。
 主を、心から信じているならば、余計にそうです。
 何故、今、御使いが自分の目の前に登場するのかと、その特別な出来事に恐れることでしょう。
 信じているからこそ、恐れると言うことはあります。

 では、神様から特別な恵みが届いたなら、どうでしょうか。そんなことを考えました。
 感謝と、喜び受け取るのでしょうか。
 そこに驚きと恐れとを感じながら、しかし、素直に受け取る信仰というものがあると思いました。
 突然の御使いとの出会い、突然の恵み、同じように私のために主が送ってくださったのだと、信じて受け止めることができるようにと、思いました。
 シャローム

5.20今日のみことば

2018-06-20

「年が改まり、王たちが出陣するころ、ヨアブは軍勢を率いてアモン人の地を荒らし、さらに進んで、ラバを包囲した。ダビデはエルサレムにとどまっていた。ヨアブはラバを打ち、これを破壊した。」 歴代誌 第1 20章1節
 アモン人、そして続いてペリシテ人との激しい戦いが幾度となくあったことを記す20章です。
 ここにはあのダビデが一躍表舞台に登場することとなった巨人ゴリヤテの兄弟で、やはり尋常ではない力の持ち主であったラフミと言う戦士がいたことまで記します。
 そしてそのような強力な敵をも、ダビデとダビデの軍勢は打ち破っていったのです。

 そこにはイスラエルの勇士がいたから勝利したと言うことではないのです。
 主のあわれみと助けがあったからです。
 主が、戦いを守り、主ご自身も戦ってくださるのです。

 何故なら、ここ一節に記される「ダビデはエルサレムにとどまっていた。」とは、なんでしょう。
 あのバテ・シェバとの姦淫の罪をダビデが起こした最悪の時のことです。
 しかし主はダビデの罪を暴くことと、主なる神様を認めず、イスラエルに敵対するアモン人、ペリシテ人を打ち破ることをしてくださったのです。
 ダビデの罪は、ダビデの上に返されました。

 しかしアブラハムに約束をされた恵みの故に、主はイスラエルを助けてくださって、周辺の国から守ってくださったのです。
 ダビデは、酷い罪をおかしましたが、悔い改めることもできる人でした。
 主は、赦しと回復、祝福をもう一度与えてくれました。
 これが主のあわれみと、私たちを愛してくださっている事実です。

 私たちは、主をいたずらに恐れ、さばきを恐れるのではなく、罪を憎み、主のことばに謙遜に従うことを通して、主を恐れる歩みをしたいものです。
 主は、信じる者に恵みを与え、祝福をすると約束してくださいました。
 この約束は絶対に変わりません。
 それなので、私たちは「罪を友人としないで、悔い改めを友人として」毎日を歩みたいのです。
 主は、いつも貴方と共におられて、貴方を祝福しようと、今日も待っておられます。
 シャローム

5.19今日のみことば

2018-06-20

「アモン人のつかさたちは、ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。この地を調べ、くつがえし、探るために、彼の家来たちがあなたのところに来たのではありませんか。」」 歴代誌 第1 19章3節
 ここは、ハヌン王の部下が、ダビデとその部下に、悪意を持って酷いことをする場面です。そしてそれは戦いを生みます。

 ダビデが、アモン人の王であるナハシュに受けた援助、恩に報いたいと考えて、その子であるハヌンが王位を継いだ時に、使者を送って礼を尽くそうとしました。
 ところが、ハヌンの側近たちは、それを悪意で受け取り、ハヌン王に、ダビデと対決するように仕向けてしまうのです。
 その方法として、ダビデの使者を侮辱して、送り返しました。それも非常に酷い侮辱をします。

 ダビデは怒ります。
 ダビデの怒りは、自分に対する無礼に対してではなく、部下が受けた侮辱に対してです。部下を思う気持ちがあります。
 そして戦いが始まり、ダビデが勝利することになるのです。
 しかし、何故こんなことになるのでしょう。
 疑心暗鬼と言うのでしょうか。
 この時、アモン人は、好意的に遣わされた使者を、悪意で送り返したのです。

 友好の行為に、敵意の行為で答える。
 愛の行為に、憎しみで答える。
 酷いことです。
 が、案外と私たちに日常にもありがちです。

 どうしてこんなことになるのでしょうか?
 自分に愛が無く、相手を陥れたりすることを考えているならば、相手もそうするだろうと、想像してしまうのでしょう。
 では、ダビデはどうして、愛のある行動を取ろうとしたのでしょう。
 ナハシュに受けた恩、援助は、たぶんダビデがサウル王から逃げていた時に、助けられたと言うことです。
 ダビデは、当時、サウル王に裏切られて逃げていたわけですから。
 ナハシュの子ハヌンが裏切るかも知れないと考えて、わざわざお祝いの使者など送らなければよかったのではないのか?
 いえ。ダビデはあの時、救ってくださったのは、主であると確信しています。
 主の愛に答えるために、正しいことをしようとしたのです。

 裏切り、失敗を恐れることが多い私たちですが。
 それでも愛の行為、行動を控えてしまうことは避けたいものです。
 主が、してくださったことへの応答としての愛の行動だけは、自分の方から動きたい。
 もし、それがこの時のように悪いものが返ってきたとしても、主が、また良くしてくださるのだと信じられるのです。
 シャローム

5.18今日のみことば

2018-06-20

「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」ヨハネの手紙 第二 6節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ヨハネの手紙 第二」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 第一に続いて記された手紙のようです。冒頭に「選ばれた夫人とその子どもたちへ」と、記されていることから、誰に宛てた手紙なのかが議論されてきました。
 選ばれたと言う単語が、ギリシャ語の「エレクタ」と言う単語のため、エレクタ夫人に宛てたものなのではないかと言った議論です。
 教会はキリストの花嫁に例えられますから、教会とその子どもである教会に繋がる信仰者に向けた手紙だと理解するのが適切だと思われます。

 本当に短い手紙です。
 でも、それを書いて、届けなければならない事情があったのだということです。
 第一の手紙と同じように、異端に対して警戒し、しっかりと信仰を保って歩むように、ヨハネは勧めるのです。

 この6節が、中心主題です。
 そして二つ前の4節には「真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」と言う言葉があります。
 イエス様が伝えてくださったことばに従って歩むこと、信仰をもって生活することは、真理のうちを歩むことなのだと分ります。
 そして、この歩みは、間違った歩みをしたり、的外れの道を歩んでゴールを見失うことはありません。
 ですからこそ、イエスが真の神であり、また、真に人となって生まれてくださったことを否定するように異端に迷わされてはいけないのです。

 では、具体的にはどのような信仰生活、毎日の日常生活でそれを実践するのでしょう。
 最初から聞いていたことだ、既に知っていることなのだと、ヨハネは言います。
 「愛のうちを歩むことです。」
 神を一番に愛し。
 神に愛されていることを知って、自分を愛するように隣人を愛し。
 そして互いに愛し合うこと。

 正しいことをする、良い行いに歩む、それは愛し合うことから始まる真の信仰の生き方だと言うことです。
 愛し合う時には、異端などに惑わされることはないのです。
 愛を失い、嫉み、憎しみなどに心が囚われる時に、異端に惑わされてしまうのです。
 愛が、すべてのことを結びつけて、正しく歩ませてくれるのです。
 それは最初から聞いたことであり、最初からイエス様が実践されていたことなのです。
 シャローム

5.17今日のみことば

2018-06-20

「ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」 歴代誌 第1 18章6節
 ここ18章の後半には、ダビデとともに戦った勇士であり重臣の名前が記されています。
 そしてダビデが、敵対するツィバの王から奪い取った青銅は聖別されて、ソロモン王が宮の聖具などを作ったことも記されています。
 この二つのでき語を読むだけでも、ダビデの勝利が、イスラエル国家において大きな影響があったことが分ります。
 即ち、18章は最初の部分でダビデの勝利を記して、それがどれほど多くの影響をイスラエル国家に残したのかと言うことを示すのです。

 しかし、この18章でも、私たちは確認できること、改めて知ることができる大切なことが一つあります。
 即ち「歴代誌」の書名の通りに確かにダビデ王の行った戦いの軌跡、国がどのようにその勝利によって安定したかを示す、王の公式史実です。
 しかし、ダビデ王の功績を誇り、ダビデ王の名前に偉大な名誉を与えようと言う歴代誌ではありません。

 この1点を指し示します。
 そして感謝と賛美の心を与えてくれます。
 それはこの言葉です。
 「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」

 ダビデの勝利は、主が与えてくださったのです。
 主が、恵みを与えてくださった。

 主が恵みを与えよう、祝福しようとされた時に、ダビデはそれを素直に、感謝を持って受け取れた人です。そこが素晴しい。
 しかしなによりも、主が彼に勝利を与えられた、と言う真実です。

 貴方にも、貴方の行く先々で、主は、貴方に恵みを与えられるのです。
 今日も。
 シャローム

5.16今日のみことば

2018-06-20

「それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたのすべての敵を屈服させる。わたしはあなたに告げる。『主があなたのために一つの家を建てる。』」 歴代誌 第1 17章10節
 主が、ダビデのために家を建てる、と約束をしてくださいました。
 主の方からの申し出と言うことです。

 ダビデは、自分には立派な家ができて、そこに住み。国も安定した。
 しかし主の大切な契約の箱は、天幕と言う仮住まいのような宮に納められているので、新しい宮を建てたいと言うのがダビデの思いでした。
 でも、主はそれを望みませんでした。
 そしてこれまでも一度も、ご自分に向けて、立派な宮を建てるように求めたことはないと、断言されました。
 その通りでした。

 そして何と、ダビデのために家を永久に建つようにすると、約束を与えてくださったのです。
 驚くような話しです。

 ダビデが、自分の権力や財力、その他の力を持ったことを誇り、それを人々に誇示するために、主の宮を建てることを利用しようと言うのならば、それは完全な間違いです。
 歴史を見ると、私たちの国でも似たような時の権力者の建てた建造物や像があります。
 しかしこの時、ダビデの思いは純粋で正しいものでした。それは主もご存じであり、否定されないのです。
 しかし主は、人が建てた立派な宮などを必要とはされません。

 考えてみればそうなのです。
 神は永遠の神です。そしてすべてのものを持っておられる。
 人がどんなに立派な宮を建てても、主の造られた、空と地上にあるものに勝ることはありません。
 その上、主は永遠の方。宮のほうが先に消えうせるのです。

 そして主は、主を愛して、主に仕えたいと願うダビデに、ダビデが願う以上の素晴しいものを与えてくださるのです。
 私たちも同じように、主から素晴しい恵みをいただいています。
 私たちが、何を捧げたとしても、主がくださる物の足下にも及ばないのです。

 それでもなお、主はあなたを愛して、あなたに恵みを与えてくださるのです。
 今日も、主の恵み受け取って始まりました。
 シャローム

5.15今日のみことば

2018-06-20

「彼は、その場所、すなわち、主の契約の箱の前に、アサフとその兄弟たちをとどめておき、毎日の日課として、常に箱の前で仕えさせた。」 歴代誌 第1 16章37節
 契約の箱が、予定通りに、ふさわしい場所に納められました。
 ダビデの喜びは、民の喜び以上です。
 その心がどれほど喜んでいたかと言えば、喜びの祝宴を現す「丸形のパン」を、男にも女にも一人一人に配るほどでした。

 しかしダビデの信仰の素晴しいのは、それだけでは終りません。
 喜び、祝宴を張って終らないのです。
 ダビデは、レビ人を正式に立てて、主の宮で奉仕する聖歌隊、歌うたいとして奉仕させました。

 彼らは、毎日、いけにえをささげます。
 彼らは、毎日、さんびをささげます。

 いけにえの動物を、パンを捧げるだけではないのです。
 心から歌い、シンバルを響かせて、賛美をささげたのです。

 それも毎日です。

 それは、ダビデと民の毎日、夕に朝に、主こそが一番であることを明らかにする行為です。
 主が、自分といてくださること、主を喜ぶことが、ダビデの毎日の決して変わることのない「喜び」であるということです。

 何か、素敵なことがあった、経験したので、今日は喜ぶ。
 しかし、悲しい出来事があった日は、喜びはないと言うのではありません。
 喜べるのです。
 今日も、明日も、主がおられるのですから、喜びがあります。
 主が喜びです。

 私たちは、何を喜びとしているでしょうか。
 この朝、何を喜び目覚めたでしょうか。
 昨日も、今日も変わらない喜びを知っています。
 シャローム

5.14今日のみことば

2018-06-20

「 こうして、主の契約の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。」 歴代誌 第1 15章29節
 二回目の契約の箱を運び込む時の様子と、それに関わったレビ人の名前が手稲に記されます。
 何よりも、律法の戒めの通りにしたことが強調された上で、運搬に、賛美が伴っていたことが示されます。
 聖歌隊が組織され、レビ人の部族ごとに、尊い奉仕が割り当てられました。
 みんなが歌いますが、勝手に歌い賛美したのではなく、美と秩序の神の前に、美しく整えられて組織された歌うたいがいたのです。

 そしてみんなが喜びました。
 ダビデは、その誰よりも一番大きく喜び、踊ったのです。
 しかも王服を脱いで、神への信仰と、謙遜、献身を現すために、祭司と同じようにエホデを身に付けたのです。

 それなのにエルサレム中が喜び歌っている時に、一人だけ、その輪に加わらない人がいました。
 ダビデの妻となっていた、サウル王の娘であるミカルです。

 なんと言うことか、ミカルは夫であるダビデが王の服を脱いで、エポデを纏って歌い踊る姿が気に入りません。
 王ならば、王服を着て、威厳を保っているべきだと、思っています。
 サムエル記の第二、6章20〜23節に、詳しく書かれています。

 彼女は大きく二つの罪をおかしました。
 夫であり、王であるダビデをさげすんだことです。
 主が、ダビデを王にしました。ミカルの夫としてくださったのです。
 それなのに、主の前に喜んでいる夫、王をさげすんだのです。
 彼女が思う、王らしさや喜びを、主は求めていないことに気がついていません。

 もっと、酷いのは窓から見おろしたことです。
 それはダビデだけではなく、主なる神様をも馬鹿にしていることになります。
 窓から見おろすのではなく、戸口から出て、主を、契約の箱を迎えるべきでした。
 その唇に、夫、王ダビデへのさげすみの言葉ではなく、賛美の歌を上らせて、戸口から出て、迎えるべきでした。
 それができないことが彼女の問題です。

 他の人が主にむかって歌う喜びの賛美が聞こえたならば、その賛美の中に飛び込んできましょう。
 心の中にさげすみの言葉など湧き上がることはないでしょう。賛美、喜び、感謝の言葉が湧き上がってきます。

 こちら、歴代誌は、レビ人の名前などを丁寧に記しますが、ミカルの出来事は簡単に説明をして終わりです。
 ダビデ、レビ人と主の関係の深さと、ミカルと主の関係が薄すぎることが、説明の簡略されていることに象徴的に示されています。
 やはり、いつも心の中に主への賛美を持ちたい。そしてダビデのように喜び踊りたいものです。
 シャローム

5.13今日のみことば

2018-06-20

「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは戦いに行け。神はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。」」 歴代誌 第1 14章15節
 ダビデの王権が確立されていった頃のこと、ペリシテ人はダビデとイスラエル王国を打ち破りたいと、戦いを挑んできます。
 ペリシテ人は、一度敗退しても、なおも雪辱戦を試みるのです。
 ダビデの生涯は、このように戦いの日々でした。

 この14章で、主なる神様のことを良く知ることができる言葉があります。二つの言葉を一緒に読むとよく分るのです。
 まずは、12節にペリシテ人が敗走する時に、彼らの偶像の神々(実際に刻んだ、彫像など)を置いて逃げている様子があります。
 古代の、あの地域の戦争は、我が国のわが神々と、敵対する相手の国とその神々との戦いと言う意味がありました。
 詩篇では、敗戦し捕囚の民となったユダヤ人が、勝利したバビロンの人に、主なる神様を愚弄されて、苦悩する姿が見られるのは、そう言う意味が、戦争にあったからです。
 そして多くの国の人々は、勝利のために、戦場の真ん中に、神々の像を持ち込んだのです。

 しかし戦いに負けることもあります。この場面のようにです。
 すると、逃げ出す時に、神の彫像、木像などは捨てて逃げるのです。
 相手の国は、当然のことですが、その像を焼き払い、勝利を宣言します。
 人々が、神々を利用し、自分たちの欲望のままに、使おうと言うことです。

 しかし真の神であり、唯一の神、主は、そうはいきません。
 勝手に像を造ることなど許されません。
 そして、人々が相手の国、敵対する国や人々を、倒し、支配したいと願っても、主なる神様を利用することなど、できないのです。

 しかし、その戦いが主の前に正しく、主が行けと、命じられる戦いならば、また、違うことが起きるのです。
 ここ15節です。
 「神はすでに〜あなたより先に出ているから」
 神がダビデよりも、先に戦いに出て行かれるのです。
 神が戦ってくださるのです。義のためにあわれみを注いで守ってくださているのです。
 真の神を、人が自由に使うことなど、できるはずもありません。
 でも、主は、私たちを愛してくださり、必要ならば、主が、先に、最前線で戦ってくださる。

 偶像の神々ではなく、生きている真の神が、いつも私と一緒にいてくださる。
 そして大切な場面では、なんと!主が私に先立って行動してくださり、勝利と解決を与えてくださるのです。

 主なる神だけを愛して信じて従うならば、主は私にさらに恵みで答えてくださり、先に先にと進んでくださるのです。
 今日も、主は、貴方と共におられ、貴方の前を進まれています。
 シャローム

5.12今日のみことば

2018-06-20

「こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押さえた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。」 歴代誌 第1 13章9節
 かつてペリシテ人の手によって、戦いの最中に奪われ、野にそのままになっていた「契約の箱」をダビデは、エルサレムの町に宮を建てて、そこに納めようとします。
 そして、その思いと計画が、神のみこころにかなうことであるならば、イスラエルの皆の賛同を得て、それを実行したいと、イスラエル中のの人々に呼びかけます。
 人々は、即座に賛成します。
 3節にある通り、サウル王の時代には、箱のことは顧みられないで、そのままになっていたのです。
 箱を取り戻し、ふさわしい場所に納めることは、皆が願っていたことでした。

 ダビデも、人々も、喜び踊りながら、箱を運搬します。
 しかし、そこで事件が起きます。
 箱を乗せた車を引いていた牛が、ぬかるみにでも足を取られたのか、箱をひっくり返しそうになりました。
 牛が引く車を御していたウザと言う男が、それを防ごうとして、箱を押さえたのです。

 箱がひっくり返るのを不正だのですから、良いことをしたかと、思えば、逆でした。
 主の怒りが、このウザに向かって燃え上がり、彼は主に討たれて死にます。
 「ウザが、割り込んだ」からだと、聖書は証言します。

 箱は、運搬する時には、必ずレビ人が担がなければならなかったのです。
 ダビデと人々は、熱心な思いだけで、この律法を忘れていたのです。自分の解釈で運搬を始めてしまった。
 それなので、ダビデたちの思いは良いものですが、方法が間違っており、主に尋ねることが足りなかったのです。
 厳しい主のさばきです。

 この時、ウザは割り込んでしまったのです。主のことばが発せられるそのときに、割り込んだのです。
 だから、打たれました。

 ひっくり返されなければいけなかったのです。
 間違った方法と、思いで始めたからです。
 主が、ひっくり返して、もう一度やり直そうとされるのを、ウザは主とダビデの間に割り込んでしまったのです。

 主のことば、それが厳しいことばであったとしても、聞くことが大切であり、聞くところから赦しと助けがあります。
 人が、先走って主の前に割り込んではいけないのです。

 主の前には謙遜に聞くことが大事です。
 善かれと思って起こしたことが、ひっくり返ることもあります。
 その背後に、主がおられるのであれば、ひっくり返った事実から、主の声を聞くことを学ぶのです。
 失敗はいいのです。
 主の雨に手を伸ばして割り込んではいけない。
 主の前には、耳を傾けるのです。
 シャローム

5.11今日のみことば

2018-06-20

「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」ヨハネの手紙 第一 5章21節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ヨハネの手紙 第一」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者は、使徒ヨハネです。
 福音書と、このヨハネの手紙の三通に加えて黙示録も執筆しました。
 一部の人は、ヨハネの手紙の第二、第三の冒頭で「長老から」と、自分のことを名乗っているので、使徒ヨハネとは、別と考えるようですが、全体的な内容や、使徒であり長老でもあることは矛盾しないことなどから、著者が使徒のヨハネであり、主の愛されて弟子であることを疑うことはできないでしょう。

 80年代後半から90年代、即ちヨハネの晩年に書かれました。
 執筆場所は、エペソであったと考えます。

 当時は、教会の中に異端が入り込んできましたので、それを警戒するようにと、手紙を書きました。
 この異端は、イエス様を救い主であるとは認めなかったり。
 救い主である神が、完全な人となって、私たちの間に、即ちこの地上に生まれてくださったことを否定します。
 それなので、この第一の手紙では、一章の冒頭で「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし」
 と、表現して、主イエスが肉体を取って地上に来られた、完全に神であり、完全に人であることを証しします。
 触れることができるとの、表現は実際に主イエスとエルサレム、ガリラヤ地域を巡ったヨハネらしい、生きた証しだと思います。

 愛することについて、信仰者が互いに愛し合うこと、隣人を愛することについて教えてくれる愛の溢れる手紙です。
 そして若い頃はかなり激しい性格をしていたとも言われるヨハネですが。
 晩年は「愛の使徒」と呼ばれました。
 今朝は、この手紙の最後の言葉、本当に短い、簡潔な言葉で書かれた節を選びました。
 ここにはヨハネの愛に溢れる姿と、同時に、激しく主イエスを愛して従い通す姿があります。

 「子ども」愛情を込めた表現、単語なのです。
 大人と子ども、学生、社会人といった分類する言葉ではありません。

 「警戒しなさい」
 自分の身を、ちゃんと守って、避けなさい、との意味です。

 「偶像」
 アシェラの神々、バアル神と言う誰かが拝んでいる偶像の神々と言うものだけを指してはいません。
 名誉、他人からの称賛、お金などなど、自分にとって、神に取って代わってしまうようなものを、偶像と言っています。

 この手紙の最後は、お別れの挨拶もなければ、誰かへの配慮の言葉もありません。
 愛を込めて「子どもたち」と、呼びかけながら。
 最後の最後にも、警戒しなさいと、強く訴え、念押しをして手紙を終えるのです。

 もう何と言いますか。書き切ったと言う感じでペンをおいた雰囲気さえ伝わってきます。
 それほど、愛する子どもたちを思い、主イエスを愛しているヨハネが書いた手紙なのです。
 シャローム

5.10今日のみことば

2018-06-20

「誠実な心で、並び集まったこれらの戦士たちは、ヘブロンに来て、ダビデを全イスラエルの王にした。イスラエルの残りの者たちもまた、心を一つにしてダビデを王にした。」 歴代誌 第1 12章38節
 時間の流れは、一旦11章よりも前に戻って、説明が加えられます。
 そしてダビデが、イスラエルの王となって行く様子が記されます。

 幾つか、心に留まる言葉があります。
 ここ38節と33節にもあります「心を一つにして」と言う言葉。
 イスラエルの人々が、心を一つにしてダビデを王としていくことが示されます。
 それはサウル王の出身であるベニヤミン族も、ダビデの元に勇士の一人となって集い、忠誠を誓うことにも現れます。
 何故、二代目の王がサウルの息子や、同じベニヤミン族から立てられないのだと言う不平不満は、この時にはなくなっています。
 それは18節で、御霊がベニヤミン族の心にもやましいところがないことを保証してくださっていることにも現れています。

 それは即ち、人々が、主がこのダビデを選んでおられることを認めたと言うことに他なりません。
 ここには忠誠を誓ったことを「誠実な心で」と、現していますが。
 それはこれまで、ダビデが主の前を誠実に歩み。
 いつでも、主を一番大切にしてきたことを表しています。

 私たちは、一人一人が誠実な心で神の前に集い、神に従い。
 皆で心を一つにして、イエス・キリストを、私の主として、一番にして生活することが大切なのです。

 神の王国はそんな私たちが、イエス様とともに歩む生活の積み重ねで実現していくのです。
 私も、誠実な心で教会に集い、心一つにした主の勇士として、今日も歩みたいと思います。
 シャローム

5.9今日のみことば

2018-06-20

「全イスラエルは、ヘブロンのダビデのもとに集まって来て言った。「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です。」 歴代誌 第1 11章1節
 11章は、ダビデが王に即位したことを記します。
 後半には、ダビデと一緒に戦った勇士たちの名前が記されます。
 そして前半には、ダビデがエルサレムの町を住まいとして、王国が安定するまでを記します。

 ここ11章の特徴は何でしょうか?
 例えば17〜19節に記されるのは、サウル王に追われて苦しめられているダビデのために、井戸の水を汲んで来た勇士と、その勇士たちの心を称賛に、心から感謝したダビデの物語です。
 麗しい、そして、主への信仰を見ることができる物語ですが。
 これらはサムエル記の第二に、同じ記事があります。
 細かなところは記述の仕方などが違うのですが、同じことを記します。

 ところが、10章でサウル王が死んで、王位がダビデに移った時のことは、サムエル記はもっと細かく記述します。
 サウル王を殺したと偽った者もいました。サウルの息子の、イシュ・ボシュテを殺してダビデに取り入ろうとした者たちがいました。
 このような人たちを、ダビデは即座に打ちました。彼らの行った行為は、主に対する反逆に等しいと、断じたのです。
 同時にサウルへの親愛の情は見せても、憎しみなどはありませんでした。

 これらの記事を、ここ歴代誌の方は、すべて飛ばすのです。
 何故でしょう。

 ここはイスラエルの誠の王とは、どのような者であるのかを、ダビデの歩みを順に追って示しているのです。
 それなのでサウルが倒れた後の細かなことは省いたのでしょう。

 そしてダビデが立てられました。
 人々は、ダビデが、まことに主に立てられた王であることを認めます。
 「あなたの骨肉です」とは、、本来は、肉親であることを示す表現です。
 このような表現で、二代目の王となったダビデこそが、真のイスラエルの王であることを、人々が認めたことを示します。
 骨肉ですとは、ダビデへの心から忠誠心を表すことばなのです。
 当然そこには、親しい心もあるでしょう。
 骨肉、すごい表現です。すごい告白です。

 サウルが、主に尋ねなかったと、指摘されて、表舞台から去った時。
 ダビデは、主に立てられ、人々には、実の肉親のように慕われ、忠誠を表してもらい、表舞台へ出ます。

 そして続く、勇士たちは、実はサウルに追われていた苦しい時代からの部下であり勇士なのです。
 ダビデが権力を持ったから、すり寄ってきたような人たちではないのです。
 素晴しい信仰者であり、主に信頼して従うことができるダビデの魅力を教えてくれる11章です。

 教会の神の家族も、言葉の表現と言うのではありません。ここにあるように、イエス様に在って、私たちは骨肉なのです。
 そんなことをダビデの魅力とともに考えた朝でした。
 シャローム

5.8今日のみことば

2018-06-20

「主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」 歴代誌 第1 10章14節
 系図が終りました。ここ10章からはイスラエルの歴史が始まります。
 イスラエル王国、南北分裂の王国とその崩壊を記すことになります。
 そして驚くべきことには、イスラエルの初代の王であるサウルに関しては、この10章でのみ記されます。
 それもサウル王の最後、戦場での死とその後を記すだけなのです。

 何故なのかと、聖書をひも解いてみました。
 二代目のダビデ王の手によって、イスラエル国家が確立、安定したとはいえ、サウルに関してあまり少ないのは何故なのか?
 サウルが王として失敗したからと言うのではないのです。

 ここ10章14節に答えがあるのです。
 「主に尋ねなかった。」
 これです!

 ダビデだって王になってからバテ・シェバの酷い罪を初めとして、失敗もあります。
 しかし全てが記されるのと同時に、主の目にかなった、主に愛された王だと、主ご自身に言っていただけたのがダビデです。
 何故なら、いつもいつでも、そして直ちに、ダビデは主に祈り、主に頼り、主に尋ねたからです。

 しかしサウルは罪をおかしても、真の悔い改めができず。
 祭司サムエルを通して、主に尋ねることをせず、祈らなかった。
 最後には霊媒にまで頼ってしまった。

 罪をおかしてしまった後でも。
 悩み、迷う最中でも。
 喜びの時でも。
 主に尋ねること。

 私たちは、いつでも主に尋ねることが許されているのです。
 それをしないのはもったいないことであり、主の愛と力に身を寄せないことでもあります。
 主に尋ねよう。
 主は、それを待っておられる。
 主は、貴方が尋ねるのを、待っておられるのです。

 礼拝の朝ですね。主の前に進み出て、主に尋ねましょう。
 シャローム

5.7今日のみことば

2018-06-20

「コラの子エブヤサフの子コレの子シャルム、その父の家に属する彼の兄弟たち、すなわちコラ人は、その奉仕の仕事につき、天幕の入口を守る者となった。彼らの一族は主の宿営をつかさどり、その門口を守る者であった。」 歴代誌 第1 9章19節
 ここ9章は、イスラエル全体をまとめたような系図です。
 ここにコラの名前があることに注目しました。
 コラは、民数記の16章で、自分たちがモーセやアロンに取って代わってイスラエルの指導者、レビ人として大祭司になりたいと思って、モーセを批判した人物です。
 主の怒りは、コラに向かい、彼は地に飲み込まれて死にます。
 主は、モーセとアロンが正しいことを示して、主にそむく者たちを打ちました。

 しかし、同じ民数記の26章を読みますと、コラの子どもたちは命が守られたことが分ります。
 主は、さばきをくだされますが、その時でもあわれみ豊かなのです。

 そしてイスラエル全体の系図を振り返る時、人々はこのコラの名前を消し去ってしまって、なかったことにはしません。
 コラの名前があると、人々は主に逆らった罪を思い起こし、自分たちの信仰を吟味します。

 それと同時に、そのような地面が割れてそこに飲み込まれると言う主のさばきがおこなわれた時でも、主のあわれみは注がれていたことを、コラの子らの名前に見るのです。
 主は、怒るのに遅く、あわれみ深く、その救いの御手は早いのです。

 過去に主がどれほど豊かにあわれみと恵みを注いでくださったのかを知る時。
 私たちは、今日もその主が、変わらない恵みを注いでくださることを期待し、確信できるのです。

 自分たちの過去の罪を隠したり、誤魔化すことなく、正しく知る信仰者は、主が与えてくださる今日と、将来の恵みを期待します。
 シャローム

5.6今日のみことば

2018-06-20

「ウラムの子たちは勇士であり、弓を引く人々であった。子や孫が多く、百五十人であった。以上はみな、ベニヤミン族の者であった。」 歴代誌 第1 8章40節
 8章はベニヤミン族の系図です。
 特に心が留まる人物がいます。33節に登場するサウルです。
 イスラエルが王国となった最初の王が、このサウルです。

 そしてもう一人気になる人がいます。6節に登場するエフデです。
 このエフデは、士師記の3章15節に登場する、モアブの王エグロンを暗殺して、イスラエルを救った士師です。
 ゲラの子であり、左利きの勇士として紹介されます。

 ベニヤミン族は、部族として特別に目立つ活躍をしたりするわけではありませんでした。
 レビのように祭司の家系となったわけでもなく、ヨセフのようにイスラエルことヤコブの後を継いでエジプトで契約の担い手となったわけでもありません。
 しかしこうしてベニヤミン族の系図を並べてみると、そこにはエフデ、サウロと言う人物がいたことが分ります。
 彼らが、イスラエルが困難を経験している時に、勇士として立ち上がり、イスラエルを救ったと言う事実があることに気がつきます。

 一方で、サウルが王として歩みを進める中で、罪をおかし、悔い改めることができなかったと言う事実も思い起こすのです。
 系図は、人を誇るのではなく。
 また、失敗や罪を指摘するために記すのでもありません。
 過去の事実、先人たちの信仰の歩みを、しっかりと覚えて、そこに主の恵みと守りがあったことを見出すのです。
 同じ主が、今、私にも恵みを注ぎ、私を守っていてくださることを確認できるのです。
 喜びを見出せるのです。

 それにしても、ベニヤミン族は、ここ40節にあるように、勇士、武人としての精鋭たちがたくさんいた部族のようです。
 勇士です。
 でも、真の勇士は、主を信頼して、主のことばに応答して、信仰の戦いを逃げない信仰者のことです。
 皆、勇士だと、イエス様に言っていただけるのです。

 弓を引く代わりに、聖書のページをめくり、みことばをいつも引く者でいたいと思います。
 「神のすべての武具をとりなさい。〜腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」エペソ人への手紙6章
 それが勇士。
 シャローム

5.5今日のみことば

2018-06-20

「その子はヌン、その子はヨシュア。」 歴代誌 第1 7章27節
 7章は、イッサカル、ベニヤミン、ナフタリ、エフライム。アシェルの各部族の子たちの名前が記されます。
 そして各部族の、勇士の名前と人数が記されています。
 読む人は、主を信じて戦った勇士の名前とその人数を数えて、励まされます。

 そしてここに、エフライム部族のヨシュアの名前も登場します。
 ヨシュアとは「主は救い」の意味です。
 民数記13章16節で、モーセがヌンの子「ホセア」を「ヨシュア」と、改名したことが記されています。
 ホセア「救い」と言う意味から「主は救い」の意味へと改名したのです。
 ここでは勇士の名前の中に、当然のことヨシュアの名前もあります。
 しかしその名前は、勇士として活躍をした人の名前としてではなく、主が与えてくださる救いについて思い起こさせる名前と言うことです。
 出エジプトの時代も、捕囚からの帰還が叶った時代も、主の救いが与えられたことを、その名前とともに思い起こすのです。

 私たちにとっては、キリスト・イエス以外に、救いに関する名前は他に与えられてはいません。
 この方こそ、唯一の救い主なのですから。
 この系図を見直した帰還の民は、主の契約が確かに受け継がれ、主ご自身によって守られてきたことを確認できたことでしょう。
 そして今も有効であることを確信して平安を得たことでしょう。
 私たちは、こうして契約が更新されて受け継がれ、そして、ついにイエス様によって救いの業が成就したことを確認できるのです。

 主イエスの約束は確かだと知ることができる系図です。
 名前が紹介されているだけではなく、主の恵みの約束を覚えることができる名前なのです。
 ヨシュアとは主は救い、この名前を覚えておきましょう。
 シャローム

5.4今日のみことば

2018-06-20

「 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」ペテロの手紙 第二 1章10節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ペテロの手紙 第二」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者は使徒のシモン・ペテロです。
 第一の手紙と文体が違うので、著者がペテロではないと、考える人が少なからず居ると言う第二の手紙です。
 ローマで殉教する日が、迫っている時に書かれました。
 偽教師による異端が現れて、それが広がっていく傾向がある中で書かれました。
 また、ユダの手紙には似た内容が見られます。この手紙を参照にしてユダが、実際に起きた異端の問題に対処しようと、手紙を書いたのだと思われます。

 キリスト・イエスを知ったことで、罪から救われた信仰者が、その救いをますます確かなものとしていくことを勧めます。
 召されたことと選ばれたこととを確かにするとは、どうしたら良いでしょう。
 それは異端の影響に振り回されそうになっている当時の教会も、今の私たちにも共通することです。
 イエスを信じる信仰者として、敬虔な生活を送ることで、信仰を確実なものとするのです。

 偽教師たちは、自分たちの教える知識こそが優れていると、その知識を誇示しますが、ペテロは、初めに知らされて、私たちが信じたキリスト・イエスの知識こそが真に価値のある力あるものであることを教えます。
 現代にも、新しい発見があったと、先の知識、積み重ねられ、精査され信じて従った信仰の先人たちの歩みを否定するような、偽教師と知識が披露されますが、振り回されないように気をつけなければなりません。
 たった一人によって、突然降って湧いたように神の国の真理が示されるというものではないのです。
 イエス様によって語られ、パウロ、ペテロたちが、殉教するところまで従い通した信仰は、特別なことによって明らかになるものではなく。
 日々の敬虔な信仰生活、祈りと賛美、みことばに聞き従う生活の中で、確信を深めていくものです。

 キリスト・イエスの信仰の知識とは、キリストを知り、敬虔な生活を重ねる中で、確かなものとなります。
 そして私の力になり、私の内側にキリストの愛が深まります。
 シャローム

5.3今日のみことば

2018-06-20

「彼らの同胞のレビ人は、神の宮である幕屋のあらゆる奉仕につけられた。」 歴代誌 第1 6章48節
 今度は、レビ部族の系図が記されます。
 レビ部族は神殿での奉仕に当たると言う、特別な働きがありますので、そのことについて記されます。
 神殿での歌うたいの奉仕に始まり、「のがれの町」についても示されます。57節。
 あらゆることが記されています。
 主は、すべてのことを見ていてくださるのです。

 神殿での奉仕がレビ人への奉仕として与えられた時、他の部族の人たちはどう感じたのでしょう。
 うらやむ気持ちや、自分たちの部族にもできる奉仕だと、競うような気持ちもあったのではないでしょうか。

 しかし自分たちが思うようにではなく、主が語られる通りに仕える。
 主のことばを聞いて、大切にその奉仕を果たす。
 それが大切に守られていたことを、この系図の名前と奉仕の種類との組み合わせから知ることができます。

 ここ48節にあるように、私たち現代の信仰者はまた、礼拝での「あらゆる奉仕」が与えられています。
 一人一人がふさわしく、大切な使命が、日曜日の礼拝ごとにあり。
 また礼拝から遣わされる社会の場でもあります。
 大切に果たしていきたいと思います。

 主が、貴方を見守り、同時に貴方に期待して委ねてくださった使命です。
 礼拝と社会の両方でその使命を果たしたい。
 歌うたいに特別に、歌う賜物が与えられていたように、貴方にも特別な賜物が与えられているのですから。
 シャローム

5.2今日のみことば

2018-06-20

「ユダは彼の兄弟たちにまさる者となり、君たる者も彼から出るのであるが、長子の権利はヨセフに帰したからである‐‐」 歴代誌 第1 5章2節
 5章は、イスラエルの長子ルベンの系図を中心に記すのですが、興味深い表現がここ1,2節には続けて登場します。

 1節では、本来ならば長子であるルベンが受け継ぐべき「長子の権利」が弟のヨセフに移っていることが、ルベンのおかした罪とともに示されます。
 続けて2節では、その長子の権利はルベンの直ぐ下の弟であるユダに移らなかったことを、補足するようにユダ部族の優れた点が示されます。
 「君たる者も彼から出る」とは、ユダ部族からダビデ王が生まれ、やがてイエスが生まれることを指します。

 これら重要なことを示した後、ルベンやマナセ部族について記します。
 いずれの系図も前章のユダ部族に比べると簡単に記されていると感じます。
 それは25節にあるマナセがおかした罪「その父祖の神に対して不信の罪を犯し、神が彼らの前からぬぐい去って滅ぼされたその地の民(1)の神々を慕って不貞を犯した。」、即ち、偶像礼拝の罪によるものです。

 5章は、長子ルベンやマナセの系図を示しながら、主の契約が確かであり、変わることがないことが「君たる者も彼から出る」と言う事実(これを読む者たちはダビデ王が生まれたことを知っている人たちですから)を示し。
 長子の権利が、ちゃんとヨセフへ、その先へと受け継がれることの大切さも示し。
 その上で、主を裏切り、契約を軽んじるマナセ部族の罪も示して。
 主の契約の確かさと、それを守ることが人にはできないと言う、悲しい事実を示してくれるのです。

 しかし今、私たちは、与えられた契約を、おこないによって正しく守るのではなく、ただ素直にイエス・キリストを新しい契約を与えてくださった「救い主」と、信じることで受け継ぎ守ることになります。
 私たちは、人と比べて誇るところなど何もありませんが。
 兄弟たちにまさる者のように、イエス様に扱われて約束をいただいています。
 なんと嬉しいことでしょう。

 この恵みを、確認しつつ、喜んで契約の子として今日も歩みを続けたい。
 主の約束と、貴方に与えられた賜物を、決して変わることがありません。
 シャローム

5.1今日のみことば

2018-06-20

「彼らは陶器師で、ネタイムとゲデラの住民であり、王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ。」 歴代誌 第1 4章23節
 ここには15節に、約束の土地であるカナンを目前にした時に、ヨシュアとともに斥候として活躍したカレブの名前もあります。
 そして21節には「白亜麻布業」を営む家、ここ23節には「陶器師」の仕事をしたことが書かれています。
 全ての主産業、主な職業が記されているわけではありません。
 その中で仕事が紹介されているのは、何か王のために、或いは主のために特別な指名を果たした家族だったのでしょうか。
 何の説明もありません。
 カレブにしても説明はありません。

 しかし後の時代の子孫たちは、ここにその先祖の名前と仕事を見つける時に、主に信頼して歩んだ先祖の働きを思い返すのでしょう。
 そして正しい意味での誇りをもって、自分たちも主に仕えて、主の使命を果たしたのだと思います。

 私たちは誇るのならば、主を誇るべきです。
 しかし主に信頼して歩んだカレブのような人を見出したり、逆に、主を裏切ってしまった人の名前を見つける時。
 その歩みを手本にし、逆に、戒めとして心に留めたりしながら、この系図を読み。
 しかしその全てが、主には覚えられていることを知って、平安を得て歩めるのです。

 私たちの名前とその歩みは、主に信頼する信仰者として、いつまでも主に覚えられています。
 それは力強く、励ましです。
 シャローム

4.30今日のみことば

2018-06-20

「エホヤキムの子孫は、その子、エコヌヤ、その子のゼデキヤ。」 歴代誌 第1 3章16節
 ここには、ダビデの家系の名前があげられています。
 アムヌン、アブシャロム、妹のタマルと言う、悲劇の兄妹の名前もあります。
 ソロモン王の母であり、ダビデ王最大の罪のバテ・シェバ(バテ・シェア)5節の名前も隠さずにあげられています。

 そして王国の最後の時のことも記されます。ここ16節に二人の王の名前があります。
 エコヌヤとは、エホヤキンの別名です。
 ゼデキヤはマタヌヤがバビロンの王によって改名させられた名前です。
 エコヌヤ、そして続くゼデキヤは、南ユダ王国の最後の王ゼデキヤと、その一つ前の王エコヌヤ(エホヤキン)と言うことです。

 ゼデキヤは、エホヤキンの叔父にあたります。
 ここ3章は、生まれた順番を正確に記すのではなく、王になっている順番が優先されています。
 しかも先に書きました通り、ゼデキヤは、南ユダを滅ぼしたバビロンが人々を捕囚の民として引き連れていく時に、バビロンの王が決めた南ユダの王と言うことです。
 南ユダの人々が望んだ王ではなく、ゼデキヤ自身の契約や希望でもなかったでしょう。
 敵対する国、主を神とは認めないバビロンが選びました、

 しかしそこに主の選びと導きがあることを覚えます。
 ダビデ自身も、ダビデの子どもたちも、平安で皆正しいことをしたわけではありません。
 バビロンとの戦いにも敗れて、ゼデキヤが王になりました。

 それでも主なる神様のあわれみは無くなることがことがなく、ダビデの家は続きます。
 主の契約は、細く見えないようでも続いているのです。
 そしてその先には、マリヤとヨセフ、そしてイエス様の誕生があります。

 覚え切れない名前があり、その順序さえも混乱しているように見えますが、そこに主の選びと契約が守られていることを見ることができるのです。

 主は、アブラハムの子を愛し、ダビデの子を愛し、その契約を守ってくださる。
 どんなことがあってもです。
 そして今、私たちもまた、主に見出していただき、その契約に繋がったのです。
 霊的なイスラエル、ダビデの契約の恵みに繋がったのです。

 私たちの生涯に、この先、どんな困難や危機が迫っても、主の恵みの契約は失われることはなく、私たちは主イエスの救い、永遠のいのちの約束を受け取るのです。
 この系図に、主に選ばれた一人として、書き加えられのです。
 その恵みを、自分のこととして、ここの系図を味わってきたい。

 王の名前があるだけのようですが、恵みの約束が、私たちに与えられていることを確認させてくれる、貴方のための系図なのです。
 シャローム

4.29今日のみことば

2018-06-20

「ユダの子は、エル、オナン、シェラ。この三人は、カナンの女シュアの娘から彼に生まれた。しかし、ユダの長子エルは主の目の前に悪を行ったため、主が彼を殺された。」 歴代誌 第1 2章3節
 2章から12部族の系図が記されていきますが、特にユダ、ベニヤミン、レビに関して詳しく記されています。
 これは、捕囚から帰還した民が、本書を読んでいく時に、帰還民は南ユダの出身者が多かったので、その中心と案るユダとベニヤミンを中心として、詳細に記し。
 自分たちの系図のうちに働いてくださる、主の愛とご計画を知るためでしょう。
 私たちは、自分の家系や血縁を誇っていくようなことがあってはならないのです。
 主が選んでくださっていることを喜び、主がどのように働きかけてくださるのかを知ることが大事です。

 そのため、ここにもユダ部族の罪もしっかりと書き記します。
 後の時代になって、先祖の恥ずかしい罪を隠し、消し去ろうとするのではなく、しっかりと覚え、しかし、そこに主のあわれみと赦しがあったことを味わうのです。
 罪は、人の目からどのように隠したとしても、ここに記される通り、主の目の前に行われたものであり、それは隠しおおせるものではないのです。
 それよりも、おかしてしまった罪のすべてを主の前に注ぎ出し、悔い改めへと進んでいくことが大切です。

 そしてこのユダ族の系図には、恥ずかしい罪も記しますが、素晴しい信仰者の名前を見つけることができます。
 外国人であるモアブの女性ルツを、主を愛する信仰者と受け入れたボアズ。
 そのボアズの後に続くのはダビデなのです。
 ルツ、ボアズ、ダビデ。主が愛してくださった信仰者です。

 私たちも罪を隠す者になるのではなく、罪を悔い改めて主の前に行く者でいたいものです。
 主は、そのような信仰者を愛して祝福してくださる。

 追加
 レビのことも詳しく書かれていると思います。
 信仰のことを問いかけると同時に、神殿礼拝を大切にすることを教えるために祭司の家系であるレビ部族についても詳しく記すのでしょう。
 シャローム

4.28今日のみことば

2018-06-20

「アダム、セツ、エノシュ、」 歴代誌 第1 1章1節
 今日から、歴代誌に入ります。第一と第二があります。
 イスラエル王国の代々の王の歴史を記した書です。
 イスラエルの系図から始まって、サムエル記や列王記と、同じ時代を取り扱っていますが、それらには載っていない詳細な記事が記されています。
 現代の日本に生きる私たちから見ると、無味乾燥な系図から始まっていて、読み進めるのにも難しいと感じることもありますが、イスラエル、主に愛された者(私たちも含む)に、神の盟約の民としての価値と意味を教えてくれる大切なものです。

 ここ一章の最初の1節は簡潔に「アダム」とその名前を記すだけで、始まっています。
 そして、その後はイシュマエルの子孫や、エサウの子孫についても記します。
 最初に何の説明もなく、アダムの名前だけが記される意味は何でしょうか。

 新約聖書、ルカの福音書は、3章の後半で、イエスの母マリヤの系図を遡る形で記して、アダムまで遡って、神の子であると、記しました。
 それに対してここでは、アダムの名前だけです。
 しかしその内容を細かく見ると、神が契約の子として、アブラハム、イサクの名前を簡潔に上げています。
 そして、契約から漏れたイシュマエルたちのことの方が説明がされていることが分ります。

 この一章は、簡潔に主が愛し選んでくださった契約の担い手としてのイスラエル、イエスを信じる信仰者は、神との最初の契約の相手であるアダムから、明確に続き、繋がっていることを示すのだと思います。
 その示し方が、この簡潔な名前の表示ではないでしょうか。

 言ってしまえば、ここにあるアダム、ノア、アブラハム、イサクの契約に続くのは、この系図と聖書を、イエスを救い主と信じて読む、貴方に繋がっているのだと言うことです。
 そこには細かな説明はなく、簡潔にその契約者の名前が示されるのみです。
 貴方の名前も、個々にはなくても、天の御国の書には、簡潔に記されていることでしょう。
 アダム、アブラハムと並んで。
 大きな恵みだと思います。
 シャローム

4.27今日のみことば

2018-06-20

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」ペテロの手紙 第一 4章8節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ペテロの手紙 第一」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者は使徒のシモン・ペテロです。
 5章13節では、バビロンでこの手紙が書かれたと示唆していますが、文字通りのバビロンではなくローマで書かれたと考えます。
 既に迫害が始まっており、余分なトラブルを避けるために、かつてユダヤの国を滅ぼしたバビロンと言う表現を使ったのでしょう。
 執筆されたのは六三年頃、ペテロは晩年はローマにおり、そこで殉教しましたから、その直前と考えます。
 この手紙で扱う迫害は、皇帝ネロの行った投獄や身体的な迫害ではなく、キリスト者に対する悪意から来る非難や攻撃と言ったものです。
 しかしキリストを信じる者が、苦しめられていたことには変わりはありません。
 ペテロはそのような人々を励ますために書きました。

 2章11節には「寄留者」と言う表現があります。
 迫害の中にある人たちにとっては、この世界、狭い意味では住む町は、苦しい世界と言うことになります。
 しかしその生活は、寄留者としての生活なのです。
 不足があったあり、試練があったとしても、仮の地での生活ならば、当然のことでしょう。
 しかし、その先には、真の意味でのホームグランドとなる、神の御国が、信仰者のために備えられているのです。
 それならば、送り出された仮の地である場所で、寄留者として、戦うのもやりがいがあると言うものです。価値があると言うものです。

 そしてペテロは続けます。
 「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。」
 迫害の中にあっても、これは一番にすべきことであり、一番大切にして力を注ぐことなのです。
 そうすれば教会の神の家族は、互いに罪を覆い、ますます励まし合って、戦えるのです。

 迫害の中にある人たちに向かってあのペテロが、慰め合いなさいではなく、愛し合いなさいと、勧めてくれることに感激をします。
 大失敗を経験してきたペテロです。誰よりも慰めや励ましを求めたこともあったと、思うのです。
 しかしそれらを勧めるのではなく、愛し合うことを示してくれることに、その重大さを更に覚えました。
 何よりもまずと、教えてくれるのです。

 難しいことですが、遣わされている場所で、そこに居る人を、一人一人、愛することを今日も実践したい。
 シャローム

4.26今日のみことば

2018-06-20

「バビロンの王は彼らを打ち、ハマテの地のリブラで殺した。こうして、ユダはその国から捕らえ移された。」 列王記記 第2 25章21節
 ついに南ユダ王国も滅びます。
 王と多くの人は、補修の民となって連れて行かれます。
 バビロンの王は、ユダの地に総督を任命して、これを治めさせます。
 そして従うように命じます。

 しかしユダの人々は反乱を企てたりして、おとなしくしていません。
 それでも反乱などはうまくいかないのです。
 何故なら、バビロンは自分の力を誇り、それを頼りとする国ですが、主である神様が、この国を用いて南ユダを打たれたからです。

 ですからユダが、自分の力で、バビロンに刃向かい、勝利を得ようとしてもうまくいかないのです。
 補修の民となった者も、エルサレムに残った者も、皆、バビロンの支配の元で苦しみながら、自分の罪を向き合う時だからです。
 真の悔い改めをするための期間と場所が与えられているのです。

 ここに「ユダはその国から捕らえ移された。」と、あります。
 主ご自身が愛するユダの人々を、敵対する者に渡したのです。
 主の愛が注がれ、主の守りがあった場所から、彼らは捕らえ移されたのです。主なきところへ。
 主の愛と守りを失うこと(それが一時的にせよ)が、どれほど恐ろしく苦しいものなのかを知るために。
 そして悔い改めるために、移されたのです。
 意味があったのです。

 だからすべきことは、バビロンと戦うことではなく、一人一人が、主の前に進み出て、悔い改めて、信仰をもう一度、確かなものにするのです。
 それを知ることができるように、捕え移されたのです。良く知るために。
 そして帰ることができるように、移されたのです。

 主の前に、良く祈り、自分がその時、すべきことをしなければならないと思いました。
 シャローム

4.25今日のみことば

2018-06-20

「彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目の前に悪を行った。」 列王記記 第2 24章19節
 いよいよ北イスラエルが滅んだ後、続いていた南ユダ王国の最後の王が登場します。
 彼とは、エホヤキンのおじマタヌヤのことです。改名してゼデキヤとなって、王位につきました。
 そして、主の前に悪をおこなったのです。

 相も変わらずと言いますか。
 繰り返される罪。
 またか、と思うわけですが。
 エオヤキム、エホヤキン、ゼデキヤと、その時、一人の王がいました。
 そこに一人の王がいます。

 あの王も罪をおかした。前任の王も罪をおかした。その前の王も罪をおかした。
 繰り返されます。
 でも、罪を行うのは、その時の王です。王が自分で罪をおこなったのです。

 そして4節では、あまりに酷いマナセの罪のために、主はさばきを止め、赦すことをされなかったと示しておられます。
 しかし主が赦してくださらないから、続く王たちも罪をおかすのでしょうか。
 違います。

 その時の王、次の王、それぞれが自分で罪をおかしたのです。
 残念ながら、マナセ王の犯した罪を、自分がおかした罪のように真剣に受け止めて、悔い改める人はいなかったのです。
 他の人の事はいいのです。
 他の人が悔い改めなくても、自分は悔い改めて、主の赦しを祈り求めればよいのです。
 悔い改める機会はあったはずです。
 しかしこの頃の王は、悔い改めるよりも、悪を行っていくのです。

 「もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」」
 これはヨナ書の3章9節のことばです。
 ニネベの王のことばです。

 私たちは、真剣に悔い改めて、ひたすら主にお願いして、赦しを願い求めることを、積極的にするべきなのです。

 赦されないから、また、罪をおこなうのだと、言うことには、ならないはずです。
 悔い改めることには、積極的になり。
 他の人を真似て、他の人のせいにして、罪をおこなうことがないように、罪に敏感でいたいと思います。
 シャローム

4.24今日のみことば

2018-06-20

「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行いのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。」 列王記記 第2 23章26節
 こんばんはー今朝、お知らせしたように、明日は早朝に出かけますので、明日24日の分を送らせていただきます。

 23章では、ヨシヤの宗教改革が徹底しておこなわれたことが記されます。
 偶像礼拝の祭壇は人の骨をその上で焼くことで、二度とその祭壇が使われないようにしたり。
 偶像を徹底的に取り除き、捨て去り。
 霊媒や口寄せをおこなう人たちを取り除き、追い出します。
 すべての忌むべき物を徹底的に除き去ったのです。

 そして、民はヨシヤ王と一緒になって、主のことばに従い、律法の書に完全に従うことを契約させます。
 先に書いたように、人の骨を焼いて、その場を汚れた場所だと宣言していくと言う、ビックリするような方法を取るのです。
 これはヨシヤの改革が徹底的であったことを示すものです。ヨシヤの決意と行動だとも言えるでしょう。

 しかし、ここ26節では「それにもかかわらず」と、言われます。
 そこまで徹底的におこなっても主のさばきを一時的に延期することはできても、完全な赦しを得ることはできませんでした。
 即ち、この後、南ユダ王国も滅んで、捕囚の民となっていくのです。

 主は、厳しい方なのですか?あわれみがないのですか?
 違います。

 偶像礼拝をして、好き勝手ないけにえを捧げることは、非常に大きな罪だと言うこと。
 そして私たち自身を祝福から遠ざける行為なのです。

 主が厳しい方なのではなく、ヨシヤ以前の王たちのおこないが、あまりにも酷い罪なのです。
 私たちが、主を捨て、偶像礼拝をするということは、なによりも酷い酷い罪なのです。

 主の激しい怒り。
 私たちの激しく酷い罪。
 そのことをこの箇所から、心に刻んでおきたい。
 そして私たちは主を愛し、主のことばに従うことを喜びとしたい。

 明日の礼拝が祝福に満ちますように祈ります。
 貴方に平安がありますように。
 シャローム

4.23今日のみことば

2018-06-20

「そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「私は主の宮で律法の書を見つけました」と言って、その書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。」 列王記記 第2 22章8節

 ヨシヤ王は、久しぶりに南ユダ王国に登場した主だけを礼拝して歩む良い王様です。
 ヨシヤ王は、宮の修復工事に着手します。
 捧げられた献金は、そのまま工事をする者の手に渡します。彼らを信頼して、全てをまかせたのです。

 その時、「律法の書」が宮で発見されます。
 一説では、宮の金庫の底から見つかったのではないかと言われます。
 驚くのは、律法の書が手元に無くなっていたのだと言う事実です。
 それで今日まで、困らなかったのでしょうか。
 工事中に発見したと言うことは、それまでは探すこともなかったのでしょうか。
 それほど主のことばがいい加減に聞かれていたと言うことなのでしょう。

 ヨシヤ王が、民に号令をかけるだけではなく、自分も主だけを信じる生活を実践していたので、主が恵みとして律法の書を与えてくださったのです。
 ヨシヤが行う宗教改革も、その基準となるのは律法の書です。
 素晴しい王であっても、王が良いと思うことではなく、主が良いと思われる歩みをするのです。
 その基準はやはり律法の書です。

 確認、適応をするのに、律法の書があると言うことは大きな恵みです。
 ヨシヤ王は、この律法の書が与えられたことは、主からの励ましと、感じたことでしょう。

 私たちも、いつも祈り、いつも聖書のことばに帰らなければいけないのです。
 かしら石、隅石、イエス様と聖書のことばは私の基準となり、出発点となります。
 それを読んだと、ここ8節にもあります。

 私たちも、主が与えてくださった聖書のことばをいつも読んでいきましょう。
 そうすれば祝福から外れることはありません。
 シャローム

4.22今日のみことば

2018-06-20

「彼の父祖の神、主を捨てて、主の道に歩もうとはしなかった。」 列王記記 第2 21章22節
 マナセ王、アモン王と、続けて偶像礼拝をする王が即位していきます。
 折角、高き所を怖して偶像礼拝を止めたにも関わらず、再び偶像礼拝を始めるのです。
 何故、これらの王は、偶像礼拝をするのでしょう。

 国内の安定、王の力を強固なものにすることなどが目的なのでしょうか。
 もし、そうであれば、主にそのことを祈り求めることもできるはずです。
 しかし、そうはしません。

 ここにあるように「彼の父祖の神、主を捨てる」のです。
 真の神を捨てて、偶像の神々、本物では無い神を崇めるのです。

 主が命じられた「わたしのことばを聞きなさい」と言うことに従うのが嫌なのです。
 神礼拝も、自分の思い通りにしたいのです。
 神を選ぶところから自分の好き勝手にしたいのです。

 私たち人は、どうしても主のことばに聞き従うことが嫌なのです。
 祝福と平安が約束されているのに、それでも嫌なのです。

 自分の良いと思うことを始めたいと言う、欲望が強いのです。
 しかしそれは正しいもの、神を捨てることから始まっていることを覚えなければなりません。
 選んでいるつもりですが、捨てているだけなのです。

 聞くことを、いつも大切にしなければ、本当に良いことを選んでいくことはできないものだと、改めて知ることができる箇所です。
 シャローム

4.21今日のみことば

2018-06-20

 「預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。」 列王記記 第2 20章11節
 ここに「日時計」とあります。
 宮殿の南側に、屋上に上る一対の階段があり、東と西とに対になっていました。
 この階段に壁の影が、午前中は西側の階段に、午後になると東側の階段に影が落ちたのです。
 これで時間が分ったのだそうです。

 ヒゼキヤの命に関わる重い病が、主の奇蹟の力によって癒されました。7節。
 その奇蹟の証拠を求めたヒゼキヤの願いに答えて、影が戻る、即ち、太陽が戻ると言う奇蹟を明らかにしてくださったのです。
 面白い箇所です。

 時間を遡ると言うSFの世界のような奇蹟が、今、私たちが生きる時代には起きない訳ですが。
 それは神が人となって生まれ、私たちの世界、歴史の中へと飛び込んでくださったと言う奇蹟があるから。
 他の証拠など必要がないのです。

 と、こんな「日時計の影を十度あとに戻す」と言う奇跡をも起こすことができる神が、私たちと一緒にいてくださるのです。
 ここ20章では、病の中で、ヒゼキヤが祈ったことで、この奇蹟が起きました。癒しが与えられたのです。
 5節に、大切な神、主のことばがあります。
 「祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」

 主は、私の祈りを聞いていてくださる方です。
 主は、私の涙、悲しみを知っていてくださる方です。
 だから私たちは安心をして祈ろう。
 日時計の影は戻らなくても、私にとっては同じような凄くてあわれみ深い神様の奇蹟が与えられるのです。
 いや、与えられているのです。

 一人祈る私の祈りも、こぼれ落ちる涙も、空しく地に落ちることは無い。
 主が知っていてくださり、見ていてくださり、必要な助けと慰めを与えてくださるのです。
 だから、祈ろう。
 今朝も、信頼して祈ろう。
 私が、祈ろう。
 シャローム

4.20今日のみことば

2018-06-20

 「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」ヤコブの手紙 1章4節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ヤコブの手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者は、主の地上での兄弟であるヤコブです。
 この手紙は「行動書簡」と呼ばれます。
 一つの教会、そこにいる人に宛てて書かれたと言うよりは、もっと広いその地域なる主の教会に向けて書かれたものです。
 1節には「国外に散っている十二の部族へ」と、言う挨拶の言葉があります。
 ヤコブは、外国に散っていたユダヤ人キリスト者が試練に会っているのを励ますために書かれました。
 「会堂」と言う言葉が出て来ることや、再臨に対する言及があることなどから、新約の中でも比較的早い時期に書かれたものだと判断できます。45〜48年くらいでしょう。

 手紙の内容は、信仰の教理的な面の指導と言うよりは、実践的な教え、信仰の結果について明らかにされていると考えられます。

 ペテロもパウロと同じように、もちろん信仰によってのみ、救われることを信じています。
 しかしおこないがないのならば、その信仰は生きてはいないと、言います。

 おこないによって、救いを獲得するのではないことはヤコブも知っています。
 ヤコブが伝えたいのは、信仰をちゃんと持ったのならば、その信仰の結実として、良いおこないが出て来るものだと言うことです。
 良いおこないと言う実がないのならば、その信仰は、真の信仰と言えるのですかと、訴えているのです。

 真の信仰があるのならば、御霊の導きにより、良い実を結ぶものであると、言うことです。
 イエス・キリストを信じた者は、成長して、主イエスに似た者となっていくことを望み、求めるものです。
 そして真の信仰があるならば、その実は結ばれていくのです。おこない、良いおこないをしないと言うことは有り得ないのです。

 信仰はその実によって、信仰が本物であるかどうかを計ることができます。
 真の信仰をもって、御霊の実を結びたいものです。
 シャローム

4.19今日のみことば

2018-06-20

 「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」 列王記記 第2 19章29節
 アッシリヤに苦しめられるイスラエルの民に、預言者を通して主のことばが与えられます。
 現在の苦しみは、民が主の前に罪を重ねた結果であることが示されます。
 主が、アッシリヤを用いてイスラエルを打ったのです。
 アッシリヤは主を信じていませんが、主の主権と力は、アッシリヤにも及ぶのです。
 主の力は信じる者だけでは無く、信じない人たちにも及ぶことを知っておきたい。

 しかし、主は主を信じる主に忠実な者たちを残し守ってくださり、アッシリヤを退けることも約束をしてくださるのです。
 そしてその約束の前に、今日のことばがあります。

 落ち穂から生えたものを食べるとは、収穫が取れないことを示します。
 それは苦しい時が続くことを示すのです。
 一年目だけでは無く、二年目も同じように苦しい時が続くことが示されています。

 しかしどうでしょうか。
 三年目には、刈り入れを行うことができることが語られます。
 苦しい時は、終わりを告げるのです。
 しばらくは、苦しい時が続きますが、やがて苦しみは去り、豊かな祝福が与えられることが示されるのです。

 苦しみを耐えた先に、祝福があることを教えていただけることは、二重の喜びです。
 回復し祝福が与えられることはもちろん喜びです。
 苦しみを耐えた先に、その祝福が確かにあることを知ることができるのも喜びです。

 主はあわれみ深い方です。
 さばきを与える時にも、このように希望を与えて励ましてくださるのです。
 主の約束にいつも期待と希望をおきたい。
 シャローム

4.18今日のみことば

2018-06-20

 「おまえたちは私に『われわれは、われわれの神、主に拠り頼む』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め』と言ったそういう主ではないか、と。」 列王記記 第2 18章22節
 南ユダ王国に久しぶりに正しい王がたてられました。
 ヒゼキヤは、主だけを信頼して歩みます。
 彼は、他の王ができなかった「高き所」を取り除きます。
 他にも偶像を切り倒し、偶像礼拝を止めさせ、主にだけ信頼することを徹底させます。
 主をあがめながら他の神々にも信頼すると言うことをしない、させないのです。

 素晴しい宗教改革をおこない、主だけに信頼して歩みます。
 それでも軍事力を誇るアッシリヤに征服させられてしまいます。
 こういう試練は、信仰がしっかりしていても起こることなのです。
 その時、よほど経済的に困窮していたのか、ヒゼキヤはアッシリヤの王に対して、神殿の柱に貼り付けてあった金をはがして支払うほどです。
 さらに、アッシリヤがなおも南ユダ王国を攻める時。
 ヒゼキヤ王は、主の助けがあることを信頼して待ちます。
 ヒゼキヤ王には強い軍事力も、財力も何もありません。
 しかし主がおられる。信じているのです。

 すると、この22節で、アッシリヤの王は、南ユダとヒゼキヤを愚弄します。
 そして、それはそのまま主である神様を馬鹿にする内容です。

 ヒゼキヤが行った宗教改革を、馬鹿にしているのです。
 エルサレムの一ヶ所だけでしか礼拝がおこなわれない神様になど、力は無いと、馬鹿にしている訳です。
 多くの場所に、高き所があり、礼拝が自由に捧げられ、色々な場所に立派な像が立てられている神々が強くて力があると、主張しているのです。

 人が考える力ある神々とはこう言うことでしょう。
 しかし真の、生きている神ご自身が現される姿は、そうではない。
 神を形ある何かに似せても意味がありません。それは神ではないのです。
 色々な形で、多くの場所で礼拝を捧げるから、強くて真実の神だと言うことにはなりません。

 ご自分でご自身のことを現され、私たちに語りかけることができる方が、真の神です。
 私たちが、立派だと思う方法で礼拝することが、神様の喜ばれることにはならないのです。
 神、主だけに拠り頼む。
 それは主のことばを聞くところから始まっています。

 どこまでも主に信頼すること、これに限ります。そこに祝福と平安が備えられています。
 シャローム

4.17今日のみことば

2018-06-20

 「しかし、彼らは聞かず、先の彼らのならわしのとおりに行った。」 列王記記 第2 17章40節
 アッシリヤの王に征服されたイスラエルの国の様子が記されます。民は、捕えられてアッシリヤに移され、そこから反対にイスラエルに移住して住まわされた人々もいたのです。
 イスラエルの土地に住み始めた人々は、当然、以前住んでいた町で行っていた偶像礼拝をします。
 主は、それを怒り約束の地での偶像礼拝を許しません。
 獅子が送られて災いが起きた時、王はイスラエルの祭司を送り、主を礼拝させようとします。
 これは国を安定させるための政策です。

 人々は、祭司の言葉も聞くは聞きます。
 そして故郷の神々を拝みながら、主を礼拝すると言うことをします。
 主は、そのような信仰生活を厳しく戒め、主だけを恐れるように命じます。

 主だけを信じよ。
 主だけを恐れよ。
 他の神々を拝むな。
 他の神々を恐れるな。

 主は、語ってくださったのです。
 しかし「彼らは聞かず」
 しかし「彼らは以前のとおりに混合宗教としての神々を拝み続けます」

 これは移ってきた民だからしかたがないことでしょうか。
 外国人と生活が混じっていったイスラエルの、この時代、この人々にはしかたがないことでしょうか。
 私たちはどうでしょう。

 主のことばを聞かないと言うことがあります。
 良いものならば、受け入れていっても良いのではないか。と、そんな言葉で、主だけを恐れることを捨てていないでしょうか。

 今朝、思うことは、これです。
 私たちは誰しも「聞かず」と言う罪をおかす者だと言うこと。
 主のことばが語られないのではない。
 語られた主のことばを、聞かない私がいるのです。
 聞かず。このことはとても大きな罪であり、悲しみ、苦しみに繋がっていると感じました。

 日曜日です。主のことばを一番近く聞くことができる礼拝の日です。期待して耳を傾けましょう。
 シャローム

4.16今日のみことば

2018-06-20

 「アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。」」 列王記記 第2 16章7節
 南ユダの王、アハズの時代のできごとです。
 アラムの王が、アカバ湾の地にあるエラテを初めとした町々を侵略して、これを支配します。
 そこにはエドム人たちが住みつくようになります。
 せっかく約束の地であるカナンに移り住みそこを治めてきたのですが、それを奪い取られていくのです。

 その時、アハズ王はアッシリヤの王に同盟を申し入れて、援助を求めるのです。
 この申し入れは上手くいきます。アッシリヤの王は一気にアラムを打ち破ります。
 アッシリヤがアラムを追い出し、南ユダはひとときの平安を得ます。

 この後、南ユダのアハズ王は、アッシリヤの王に会うためにダマスコに行きます。
 そこで見た立派な祭壇をまねて、エルサレムにそれを作ります。
 そしてソロモンが造った祭壇に代えて、ダマスコの祭壇を置くのです。
 きっとアラムを打ち破った強いアッシリヤの王の力にあやかりたいと思ったのでしょう。
 このダマスコの祭壇で、偶像礼拝をしたと言う記述はありませんが、自分の願うような立派な祭壇でいけにえを捧げて、祈りたいと言う思いが優先したのでしょう。
 しかしこの一連の行動は正しくありません。

 アラムに攻め込まれて支配され、エドム人まで侵略してくると言う、大問題が起きています。
 アハズ王には、解決の糸口は見えません。
 方法もありません。
 力もなかったのです。

 そこで強いアッシリヤの王に、頼りました。
 一気に解決をしてくれたのを見ると、その力は、アハズ王が期待した通りだったのです。
 これが間違いの始まりです。

 一気に解決することを、人の力に求めました。
 主に頼るべきでした。

 アラムの問題は、アハズ王と民が、主だけを礼拝して歩まなかった結果です。
 それを悔い改め。
 そして主に助けを祈るべき時でした。

 その解決は、一度にはできないかも知れませんが、一歩づつ解決に向かっていけたはずです。
 自分の願う解決が、本当の問題の解決と、その先の祝福と平安に繋がっているとは限りません。失敗も多い。
 苦しい時、主にだけ頼る。主にだけ頼っているか吟味する。
 そして主の解決を期待するのです。
 一気の解決は、次の問題をも引き起こすものです。

 「私を救ってください」との、7節の言葉は、主に祈り求めて唇に上らせるべき祈りのことばでした。
 そこから平安が与えられたはずです。
 主に頼ろう。主に祈ろう。
 シャローム

4.15今日のみことば

2018-06-20

 「ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。」 列王記記 第2 15章4節
 南ユダの王アザルヤ(別名ウジヤ)その子のヨタム王、その頃、北イスラエルでは、ザカリヤから、シャルムそして六人もの王が一ヶ月数ヶ月と言う短い統治期間で次々と変わります。
 二〇年で6名の王、暗殺が続くと言う、不安定な時代です。

 そして最大の問題は南ユダも北イスラエルも、高き所を取り除く王がいなかったということ。
 王たちは、初代北イスラエルのヤロブアム王の偶像礼拝を離れることができませんでした。
 その象徴的な場所、行為が高き所です。

 高き所は、列王記の第一、12章31節に最初に登場します。
 ヤロブアム王が、南のエルサレムの宮に対抗して、北に二ヶ所の宮を作り、そこに金の子牛の像を置き、エルサレムよりも勝った礼拝の場所だとしたことが始まりです。
 そこに高き所を築き、いけにえを捧げることを始めた、しかも勝手に祭司を任命しました。
 このヤロブアムの罪を、歴代の王たちは離れることができません。

 罪深い人の姿を、もっとも露にするのが高き所です。
 主なる神様は、そのような礼拝を求めておられません。命じたこともないのです。
 ところがいかにも自分たちは信心深く、熱心であるのかを、自分たちの思うがままに示すのが高き所での礼拝、いけにえを捧げる行為です。
 主のことばに従うより、自分の言葉でいけにえを捧げて、自分の正しさ、信仰を表したいのです。

 基準は、主です。
 主のことばが、基準であり、始まりです。
 主のことば、律法に従う時に幸いが与えられるのです。
 それを聞くことが嫌なのです。
 自分を優先したい。
 だから高き所を優先します。大事にして壊しません。

 私の心の中に、高き所はないでしょうか。
 聖書の言葉より、優先させる高き所を作ってはいませんか。
 それがどんなに素晴しく見えても、正しくはありません。

 「主と、主のことばに頼るはたのし」と、賛美の歌がありますが、まさにその通りだと思います。
 シャローム

4.14今日のみことば

2018-06-20

 「主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。」 列王記記 第2 14章27節
 ここは珍しく北イスラエルと南ユダの間で、直接の戦いがあったことを記します。
 南ユダのアマツヤ王の力が強くなった時、北イスラエルのヨアシュ王に戦いを仕掛けます。
 アマツヤは、自分の方が王として力があることを示したかったのです。
 しかし結果は。アマツヤの負けでした。
 このような小競り合いがあったのは、彼らが主の前に正しい信仰生活を歩んではいないことが根本的な原因でした。
 アマツヤ王の後、ヨアシュ王の後も、どちらの王も主の目にかなう正しい王ではありませんでした。

 どの王も少し国が安定し、力をつけてくると主の前に罪をおこないます。
 彼らは、誰も彼も自分の思うがままの王として歩みます。
 主の前に、正しくあろうとしません。

 しかし主はそれでも彼らを消し去ろうとは言われません。
 さばきを行われますが、必ず、回復の道を備えていてくださるのです。
 主は、どこまでもあわれみ深く、忍耐強いのです。

 アマツヤ王の歩みを見ていると、最初に目指すべきゴール、歩みべき道が間違っていることに気がつきます。
 最初から、完全で完璧な信仰者、王(私たちで言えば、遣わされた仕事)になる必要はないのです。
 しかし、初めから主を礼拝しつつ、違う存在にも、心引かれていけにえを捧げたり、祈ったりするのでは真っ直ぐに主に向かって行くことはできません。
 主だけを愛していくことを大切にしていく毎日。
 その歩みの中で、失敗をすることはあっても、主は助け導いてくださるのです。
 しかし初めから、主以外のものに、心引かれるようなことでは正しくありません。
 その時は上手く行っているように見えても、どこかでアマツヤのように、高ぶり、自分の力を誇って、大きな罪をおかすのではないでしょうか。

 主は、私たちの弱さを知っていてくださいます。
 働きが順調となり、主を忘れて高ぶるより。失敗しても、いつも主にだけ頼る人を主は喜んでくださる。
 私の助けはいつも主から来る。
 いつも、いつまでもです。
 シャローム

4.13今日のみことば

2018-06-20

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル人への手紙 12章2節、前半
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ヘブル人への手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者は誰であるか判明していません。パウロ、バルナバ、ルカ、アクラとプリスキラの名前も執筆者として上げられたこともあるようです。
 神様だけが知っておられます。そしてこの手紙には私たちにとって大切なこと、変えてはならないことが書かれています。
 折角イエス・キリストを救い主であると信じたのに、また、ユダヤ教に戻ってしまったりする人たちがいたようです。
 試練に会うと耐えられずに、信仰を捨ててしまう者もいたようです。
 それなので「すぐれた」「さらにすぐれた」という表現が何度も登場します。
 無論、本来は比べる必要などないのですが、以前の生活、信仰を捨てた生活に戻ってしまう人たちに向けて、イエス・キリストを信じる生活の方が、すぐれていることを訴えているのです。

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」11章1節
 この聖句を始めとして良く知られた言葉が多く在すのが、この手紙の特色かも知れません。

 今朝選んだのは、12章です。
 続く4節には「 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と、厳しいことばがあります。
 試練に会うと、信仰を捨てたり、そこまではいかなくても神に呟いたり、一人悲しむことがあります。
 が、この手紙は貴方はまだなにも試練と向き合ってもいないと、訴えます。
 そうです。
 でも、厳しく叱責していると言うことだけではありません。
 選びました2節には、最初に「イエスから目を離さないでいなさい。」と、語ってくれます。
 私が信じたのも、イエス様が与えてくださったものです。
 その信仰を完成させてくださるのも、イエス様。
 その途上を、一緒に伴走してくださるのもイエス様です。

 良い時も。
 試練の時も。
 喜びの日も。
 悲しみの日も。
 聖書は命じます。
 「イエスから目を離さないでいなさい。」目を離すなと。
 私は、イエスから目を離さないでいれば良いのです。
 何故なら、イエス様は、昨日も、今日も、明日も、変わらない愛で貴方を見出し、愛し、導き守ってくださっているから。

 悩み、迷う時も、イエス様の愛を疑わないでいることです。
 シャローム

4.12今日のみことば

2018-06-20

 「主がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。」 列王記記 第2 13章5節
 まだまだ歴代の王たちが、偶像礼拝を止めることがない状況が続いています。
 その中で、この13章の後半では預言者のエリシャの死が記されます。
 そして不思議なことに、エリシャの墓に緊急に葬られた人の亡骸が、エリシャの亡骸に触れると生き返ると言う奇蹟の場面までを記します。

 しかし繰り返される偶像礼拝の罪は酷いものです。
 それでもそんな主に背いているような状況の中で在っても、主に救いを切実に祈り求めるならば、主は答えてくださるのです。
 主はどこまでもあわれみ深く、寛大です。
 私たちは、その主に甘えすぎています。

 今朝は、ここに記される表現に心が留まりました。
 イスラエルが、アラムに苦しめられている時。
 (それは、自分たちの罪の結果として、さばきを受け取っているのですが。)
 主は、助けを求める祈りに答えてくださいます。
 すると、アラムに苦しめられている状況から、平安な生活になったことを示します。
 その表現が「以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。」
 天幕に住むなのです。
 面白いと、思いました。
 当時、人々はもう天幕には住んでいません。落ち着いた板塀の家、石の家があります。
 では何故、天幕の家に住むのが、平安で平穏な生活なのでしょう。

 それは出エジプトの、荒野の旅路を、指し示すものです。
 苦しめられ、奴隷のような生活であったエジプトの生活から救い出されました。
 そこからは水や食料の入手にも苦労する荒野の旅路を、天幕生活ですることになります。
 しかし日々の糧は主から与えられます。主の守りがありました。
 何よりも、前と後ろを主が守り、いつも一緒に旅をしてくださいました。
 大変ですが、主がともにいてくださると言う平安と平穏な毎日です。

 私たちの人生、毎日には、信仰があっても苦しいことや悲しみがあり、時に試練もあります。
 しかし主がいつも一緒に居てくださることが、他の何よりも勝る平安で幸いなのです。

 この時、人々はそれを受け取りました。天幕生活になったのです。
 私たちもまた、この天幕生活を目指し喜ぼう。
 立派なお屋敷に住もうとも、主を見失った毎日では平安も喜びもありませんから。
 シャローム

4.11今日のみことば

2018-06-20

 「また、工事する者に支払うように金を渡した人々と、残高を勘定することもしなかった。彼らが忠実に働いていたからである。」 列王記記 第2 12章15節
 ヨアシュ王の治世におこなわれた神殿の補修工事に関する記事が記されます。
 王は、祭司のエホヤダが生きている間は、主に仕えて良い統治をおこなったようです。
 しかし信仰の回復と言う点においては、まったき聖さをもっておこないませんでした。
 高き所でいけにえが捧げられ続けて、それを止めさせませんでした。
 12章の最後は、このヨアシュ王が家来たちの謀反に会って打ち殺されていくことで終ります。

 どうやらこの謀反には家来たちの方に正義があったようです。
 歴代誌の第2の24章を、参考にして読みますと、ヨアシュ王が主にそむいていることを指摘した祭司エホヤダの子のゼカリヤを殺したのが、謀反の原因です。
 これは、ヨアシュ王は恩義のあるエホヤダの息子が、預言者として、王を糾弾したことに腹を立てて、恩をあだで返し、主に背いて、ゼカリヤを殺したのです。
 即ち、神殿の補修をおこなわせた良い王であったはずのヨアシュも、その心が完全に主に向いておらず、いつの間にか心変わりをしたということです。
 小さなことに忠実ではなかった王が、大きな罪をおかしたということです。
 残念です。が、これが私たちの姿でもあるのでしょう。気をつけたい。

 さて今朝、心が留まったのは神殿の補修工事を行った「工事をする者」たちの姿です。

 ヨアシュ、王様。と、名前が記されて、こうして後代に残る人がいます。
 しかしその最後は、主に背き、信頼していたはずの家来に殺されて、不名誉で悲しい最後です。

 一方、工事する者は、工事する者としか記されません。名を知ることがありません。残りません。
 しかし、残り、記録され、記憶されている大切なことがあります。
 「彼らが忠実に働いていたからである。」

 主の宮の工事のために忠実に働いたと言うこと。
 残高を数え、会計報告がされなくても誰の目にも忠実であった工事をする者。
 それは宮という建物のためではなく、主のために忠実に仕えた者と言うこと。
 小さなことに忠実に、毎日を仕えた、信仰者が、ここにいます。

 これこそが私たちが地上の人生で、今日、今週の七日間で歩むべき道、姿です。
 宮の改修工事を行った王として「ヨアシュ」の中が残ることより。
 「彼らが忠実に働いていたからである。」と、信仰の同労者、信仰の後輩に記憶される方が嬉しい。
 それは、主が、そのように見てくださっていると言うことなのです。

 貴方には、今日、貴方のすべき小さなことがあります。
 それは埃にまみれ、手が汚れ、身体に疲れを覚えることかも知れません。
 心を砕いて、仕事しても、誰にも顧みられず、悔しい思いをするかも知れません。

 しかし、主は違います。主は貴方を見ておられる。
 主は、貴方を「貴方が忠実に働いていたからである。」と、天の御国の主に記し、御顔と御心を向けていてくださる働きなのです。

 工事をする者を、今朝は、主を愛する者、と言い換えたい。
 そしてそれは、主に愛された者であると、付け加えたい。
 シャローム

4.10今日のみことば

2018-06-20

 「エホヤダは、主と王と民との間で、主の民となるという契約を結び、王と民との間でも契約を結んだ。」 列王記記 第2 11章17節
 アハズヤの母アタルヤが、自分が王位につこうとして、王の一族をことごとく殺しますが、ヨアシュだけが助け出されます。
 そして祭司エホヤダは、時を待ってヨアシュを王とするために行動します。

 その時、エホヤダは王冠をかぶらせるだけではなく「さとしの書」即ちモーセの律法の書をヨアシュに渡します。
 そしてアタルヤとそれに賛同する者たち、それは同時にバアルを崇める者たちでもあるのですが。
 この者たちを滅ぼします。
 そして、主の前で契約を結んだのです。

 これは正しい王権の復権です。
 次の王になるべき正当な王家のヨアシュを王にしたと言う意味ではありません。
 イスラエルを愛して導いてくださる、主なる神への真の礼拝を回復させることが目的です。
 そのために偶像礼拝を止めることがない者たちを退けて、主の前に王を立てたのです。
 王も、王に従う民も、揃って神こそが「王の王」イスラエルの真の王であることを告白して、礼拝をするのです。
 戴冠式の時だけでのことではありません。
 主を一番として、王の主に立てられた王であることを自覚し、喜び、その指名をはたすのです。

 民は王とともに、主を礼拝し、主のことばに従うことを告白するのです。
 そのために契約を結ぶのです。

 私たちも契約を結んでいます。
 主イエスが、信じるだけで罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださると言う、恵みの契約を与えてくださいました。
 私たちは「信じます」と、告白し応答することで、契約の民となったのです。
 それなので私たちは、今日の主の日に主を礼拝することを一番として、喜びとするのです。

 私が、この契約は守る(礼拝をささげる。)ことに力も注ぐことも必要になりますが、主がこの契約を破棄されることはありません。
 それなので安心して、感謝と喜びをもって守ります。
 シャローム

4.9今日のみことば

2018-06-20

 「ただし、エフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。」 列王記記 第2 10章29節
 エフーは、アハブの子どもたちを一人残らず処刑します。
 そしてそれはアハズが主の前に罪を重ねて、バアルを崇めたからだと、人々に知らせるのです。

 同時に、国中のバアル信者を根絶やしにするために策略を図ります。
 自分はアハズ以上に熱心にバアルを信仰するので、そのための祭りをするので、全員集まるように布告するのです。
 これは一人残らず処罰、処刑するための作戦でした。
 これは成功します。バアル信者は根絶やしにされます。
 しかし宮がバアル信者で隅から隅まで一杯になっている様子(21節)を読むと、恐ろしくなります。
 主なる神に愛されたイスラエルで、いつの間にこんな偶像崇拝が広がってしまったのでしょう。
 小さな罪をそのままにすることがスタートであったと思います。

 何故なら、この作戦を成功させたエフーですら、主なる神様だけを礼拝して、主のことばに従うことを徹底できないのです。
 金の子牛は、一番最初は、出エジプトの時代に、不安から人々が見える神を求めて、アロンが作ったのが始まりでした。
 そして分裂王国の最初に、ヤロブアムが自分勝手な礼拝を開始して、そこに金の子牛を置いて、礼拝の場所としたのです。(列王記第一 12章)
 エフーはバアルにはなびきませんでしたが、自分勝手な礼拝を捧げ、それが信仰深いかのように振る舞ったのです。
 そう感じてしまったのでしょう。
 それはアハブ王と同じような罪の芽だと思います。

 自分勝手な礼拝。
 自分お思い通りにする祈り。
 捧げ物をたくさん捧げて信仰深いように見せる生活。
 しかし自分の思いが先に来て、主のことばに従うことが後回しになるのであれば、その信仰がブレて、主から心が離れていってしまう危険は常に有ります。

 やはり信仰は、聞くことから始まり。
 信仰は、主に従うことが常に問われるのです。
 今日、おこなおうとしていることは、自分の思いだけで、始めようとしていないでしょうか。主の御心を尋ね求めているでしょうか。
 シャローム

4.8今日のみことば

2018-06-20

 「こうして、ニムシの子ヨシャパテの子エフーは、ヨラムに対して謀反を起こした。‐‐ヨラムは全イスラエルを率いて、ラモテ・ギルアデでアラムの王ハザエルを防いだが、」 列王記記 第2 9章14節
 将軍エフーの謀反の詳細が記される9章です。
 悪王であったアハブとその一族、王の后の中でもっとも悪い妃であったイゼベルに対する主のさばきがおこなわれようとしています。
 主は、さばきの剣としてエフーを用いられるのです。
 そのひとつに、謀反を起こさせてイゼベルたちを取り除くことをおこなうのです。

 エフーの活躍でイゼベルたちは滅びます。
 その後、偶像のバアルを信じる者たちをも滅ぼしていきます。10章に記されます。

 しかしあまりにも血なまぐさく、残虐な戦いが記されます。
 果たしてこれが主の望まれたさばきなのでしょうか。
 確かに預言者はエフーにそのように伝えるのです。
 ですからエフーは確信を持って剣をふるいます。

 それほどまでにイゼベルのおこなってきた悪が酷いものなのでしょう。
 自分がおこなった通りの残虐なことを、最後には自分の身に招いたのです。

 けれども、エフーの戦いは残虐です。サウル王にいわれのない罪で追われ続けたダビデは、このような残虐なことをおこないませんでした。
 ダビデとエフーの違いはなんでしょう。

 主に絶対の信頼を置き、主の時と主のさばきを待つことができるダビデと、自分の力で預言を成就させようとするエフーの違いです。
 エフーの心の中にもともとあった謀反を起こしてでも自分が王になり、力を握りたいと言う思いを主は用いたのでしょう。
 主のことばを良く聞く必要があります。

 ダビデも数多くの戦いをしました。けれども血なまぐさく、残虐なことをしませんでした。
 その差は、両者の心の奥底にある主への信頼の大きなダビデと、自分の力を頼ることで使命をはたせると思うエフーの差では無いでしょうか。
 一気に問題を解決していこうとするエフーと、できること、正しいことをひとつひとつおこなっていくダビデ。

 問題は解決しないようでも、ひとつひとつ正しいことを主の前に積んでいくダビデの道を選びたいと思います。
 私には時が遅く感じられても、主の時を待ちながら、与えられた使命をはたすダビデのような歩みをしたい。
 シャローム

4.7今日のみことば

2018-06-20

  「主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。」 列王記記 第2 8章19節
 時が移り、王が代わっても彼らは真の悔い改めをして、主の前に歩むことができません。
 ヨラムが王となりましたが、彼もまたイスラエルの悪王アハブの道に倣って歩んでしまいます。
 エリシャや預言者たちの働きは空しく終るのでしょうか。
 どんなに主のことばを伝えても、人々は悔い改めることをしません。

 しかし主はどう思われているのでしょうか。
 ここで「ともしびを与えよう」との言葉があります。
 ともしびは暗闇の中に輝きます、闇はともしびを覆い尽くすことも、消すこともできません。
 主が、預言者を繰り返し遣わし、ことばを与え、悔い改めを迫っても人々はそれには答えません。
 しかし主はあわれみ深く、ダビデとの約束の故にユダを滅ぼし尽くすことをされません。むしろ守ってくださるのです。

 どんなに預言者が主のことばを語っても、活躍しても無駄のように思えますが、それは私たち人の思いです。
 主は、ともしびを与え、約束を支え、悔い改める者がいつでも主の元に帰ることができるように待っていてくださる。
 主は、エリシャたちの働きを無駄だとは思っておられません。
 もう無駄だ、もう終わりだと、約束を反故にして私たちを滅ぼすことはされないのです。

 主はあわれみ深く、情け深い、怒るに遅い方です。
 だからこそ、私たちは素直な心で悔い改めて、主の恵みの中を歩みたいのです。
 いつまでもともしびは与えられる。
 いつでも私たちは帰ることができるのです。
 ただ、私の応答、決断が大切です。
 シャローム

4.6今日のみことば

2018-06-20

  「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」ピレモンへの手紙 18節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ピレモンへの手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。
 手紙の宛先は、コロサイ教会のピレモンです。
 パウロが福音を伝えて、ピレモンはキリスト者となりました。
 ピレモンは、そのことでパウロに非常に感謝しており、使徒として尊敬もしてます。
 手紙の目的のひとつは、ピレモンの家から、盗みを働き逃亡している奴隷のオネシモを赦して欲しいと言う願いです。
 当時の原則に従えば、主人の持ち物を盗んだ逃亡奴隷が捕まれば、死罪です。それほどの重罪です。

 今、どのような経緯が会ったのか、詳細は不明ですが。
 逃亡奴隷のオネシモは、パウロの下で信仰をもち、パウロに仕えていたのです。
 しかし逃亡奴隷のままではだめなので、それを解決するためにパウロは手紙を書き、オネシモを送り出したのです。

 パウロがピレモンにしてほしいことがあります。
 オネシモに対して、今度は奴隷としてでは無く、イエス様を信じる兄弟としてに関係を築くことです。
 そのために、パウロがオネシモの負債、即ち、盗みによってピレモンにかけた損害を払うと言うことです。
 ここにイエス様の贖いの業。
 無償の愛。
 恵みが現されているのです。

 私の罪のための死罪を、イエス様が十字架の上で支払ってくれました。
 身代わりの死と一方的な恵、愛が注がれました。
 今、同じことをパウロがしています。

 極めて個人的な手紙、私信が、何故、聖書、神のことばと呼ばれて、ここに納められているのか。
 それはそこにキリストの愛が現されているのです。恵みがあるからです。

 私信、友人からの慰め、恩師からの励まし、逆に後輩からの慰めの手紙、メールだってあることでしょう。
 極めて個人的である言葉、慰めや励ましに、キリストの愛が現され、恵みがあるのを感じることがあります。
 それはそこに聖霊が働き、イエス様が貴方を愛して、友人を通して、その愛を具体的に現してくださったということです。

 パウロは、続く言葉で「自筆です」と、言います。
 それはそこに愛が溢れている、込められていると言うことでしょう。
 貴方に届く聖書の言葉は、普遍的な神様の言葉であると同時に、貴方にイエス様から自筆で書き送られた特別な私信のような愛の言葉なのです。
 貴方は、それを今朝読んで、イエス様に祈りを通して返信を書くことでしょう。
 シャローム

4.5今日のみことば

2018-06-20

  「しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」」 列王記記 第2 7章2節
 1節で『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』との主のことばをエリシャが取り次ぎます。
 すると王が自分の身体をすべてあずけるほどに信頼する側近中の側近が、この2節で否定的な言葉を呟きます。
 主が天に窓を作られるとは、ノアの洪水の時に、想像を超える大雨が天から降ったことを示している表現です。
 そんな事が起きたとしても、今、小麦、上等の小麦が安く手に入れられるはずは無いと、否定したのです。
 今はアラムに侵略されている最中であり、食べる物も無くなって、6章ではロバの頭さえア高額で売られてそれを食料にしようとしている。
 今は、すべてがケタ違いに高額となっているのに、そんな安く小麦を買えるはずがないと、否定しているのです。

 そこには当然、嘲笑的な意味があるでしょう。
 否定し、馬鹿にし、信じない。
 しかし、19,20節を読むと、その通りのことが実現し、この人は民に踏みつけられて死んでしまいます。
 即ち、安く売られる小麦を目撃はしますが、それを食べることはできなかったのです。
 主のことばが実現しました。

 ここに、どんな問題があるでしょう。
 主を信じない頑な心、しかも主を侮る心があります。
 主は、この人に恵みを与えるでしょうか。
 罪を冒し、アラムに苦しめられている状況でも、先には赦しと回復、恵みを与えようと、主が語られた時。
 それを否定し、主を侮辱する者に、恵みはあるのでしょうか。

 涙ながらに許しを乞う時に、恵みの約束がわずかに与えられると言うのでは、ないのです。
 王と民が悔い改める前に、先に主が恵みをもう一度与えようと、語られたのです。
 その時の応答は、どうすべきでしょうか。

 主ならば、天に窓を開け、そこから恵みの雨、恵みのマナを降らせることができる方です。あなたはどこまでも憐れみ深い方です。
 と言う応答が正しいと言うよりも、素直な応答なのではないでしょうか。
 恵みを受け取る機会はいつもあります。
 そしてそれを逃すのは、いつも私たちの頑なで否定的な心です。
 天の窓を開けることができる主に期待します。

 貴方の頭上に天の窓は開いていますか。
 シャローム

4.4今日のみことば

2018-06-20

 「神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。」 列王記記 第2 6章6節
 預言者たちが住む場所が狭くなったので、新しく住む場所を作るために、ヨルダン川のほとりで樹を切り出しに行きます。
 エリシャも同行するのですが、しもべの一人が誤って斧を水の中に落とします。
 困ったしもべはエリシャに借り物の斧ですからと訴え。
 エリシャがそれを枝を使って浮かび上がらせて、取り戻すと言う奇蹟の場面から始まる6章です。
 イソップの寓話「金の斧」(きこりが斧を池に落とすと、女神が現れて金の斧か。銀の斧かと?)のような話しですね。
 イソップは、正直者が得をすると言う話しだと、記憶していますが。
 ここは何でしょうか?
 象徴的な意味を探ってみました。

 この後も、エリシャは主の助けによって、アラムから攻撃を防いだりします。
 幾度も、奇蹟を起こす訳ですが、この斧の出来事は、イスラエルが攻撃をされると言う話しでもなく、何か差し迫った危機を感じるものでもありません。
 何故?この話しが最初にくるのでしょうか。
 もちろん、それはエリシャの生涯に起きた事実なのですが。

 この斧は「借り物」でした。
 水に落とし一度は「失います」。
 しかし取るに足りない枝の切れ端で「再び取り戻します」。
 ここにイスラエルに対する主の恵みとあわれみが、象徴されているのでしょう。
 この後、イスラエルは何度もアラムから攻め込まれたりと、危険を経験します。
 その度に、エリシャの活躍などによって、危機を回避したり、平和を回復したりします。
 それらの出来事を象徴的に示しているようです。
 そこにある主の恵みと、その主の前に私たちはどうすべきかが問われるのです。

 私たちの地上での生活は、主によって与えられたもの。
 言わば、主の所有物を自由に使わせてもらい、恵みの中で豊かに暮らしているのです。(借り物の斧)
 そして、更に恵みを求めて動きますが、失敗することが多いものです。(水に落とす)
 そしてかえって恵みを無駄にしてしまうこともある。(取り戻せない)
 しかし主は思いがけない方法で恵みを再び与えてくださる。(枝の切れ端で斧を浮かび上がらせる)
 信じて手を伸ばせば斧を手にできる。(手を伸ばして取る)

 5節の「ああ、わが主。あれは借り物です。」と言う真実の言葉がこの事件の重要な言葉でしょう。
 主の恵みの中で生きていることを知り。
 自分の罪を告白して、隠さないで主の前に進み出る時。
 主は、再び以前にも増して祝福してくださる。
 そんなことを示してくださるのです。

 この後の幾つかの事件を見ると、イスラエルのア民は、主に叫ぶことはあっても、悔い改めることがないように思います。
 エリシャの前で口にし、主の前に悔い改めることが求められるのでしょう。
 それが最初に示されますが、そうはならない時代がエリシャの時代のイスラエルの民の生活なのでしょう。

 私たちはどうなのでしょうか。この時代に、私たちはどのように生きているでしょうか。
 シャローム

4.3今日のみことば

2018-06-20

 「 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。」 列王記記 第2 5章11節
 アラムの将軍ナアマン。ツァラアトに冒されて、苦しんでいた将軍の、預言者エリシャによる癒しの物語です。
 私たち、ユダヤ人ではない者の信仰について教えてくれる箇所です。
 主を信じ、主に仕える預言者を信頼していたイスラエルの若い女性。
 そして癒されたナアマン。
 それぞれに主を信じる姿勢の素晴しい人物が登場する5章です。

 ナアマンは良い!!
 まさか!川で身体を洗うだけとは。期待を裏切られたとの言葉。
 隠すことなく、思いを現すことができるのは、悪くない。(この人、私は好きです。)

 私たちも、主を信じて何かを願い求める時に、自分勝手な思い込みで期待していることはないでしょうか。
 それなのに「身体を洗う」と言うだけの主のことばに従うことができなかったりするものです。

 主が「〜すれば祝福する」と、私に命じることは正しい言葉です。
 私たちが、それに従わないことに正当な理由や、義、愛の応答があるとは言えないのです。
 それなのに私たちは逆らいます。

 思っていたのと違う。
 期待していたのに違う。
 主は答えてくれない。

 そんなことを口にするのです。
 その前に従ってみたい。

 主に愛されて、愛が分り、愛することができるようになりました。
 主に従って、分ることがあり、できるようになることが加わっていくものです。
 シャローム

4.2今日のみことば

2018-06-20

  「そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。」 列王記記 第2 4章44節
 この地にききんが有り、預言者集団に食べる物がなかった時、主は、エリシャを通して彼らに食事を与えました。
 「初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀」わずかな量だけで、百人の人を食べさせようと言うのです。
 召使いは、これでは足りませんと答えますが、主は、食べて残すと、語られます。
 そしてその言葉どおりにわずかな量であったはずの食事を食べて、彼らは満足して、残しました。
 奇蹟が幾つも起きる4章です。

 主イエスが、五千人もの人たちに、わずかなパンと魚から与えて食べさせ、群衆が満足してなお、残りがあった、あの奇蹟の場面を思い起こします。

 主の恵みと言うものは、私たちには計り知れない大きなものです。
 それは足りなくなることはありません。
 主はあり余るほどに、惜しみなく、私たちに与えてくださる方です。

 初め私たちは、それでは足りないと、主の恵みを受け取る前から、足りません、無理ですと答えてしまうような者なのです。
 しかし主への信仰は、そのような小さなものであってはいけないのです。
 主はあり余るほどに与えようと待っておられます。
 私たちは期待して、天に向かって大きく口を開け、主の恵みを待つ者でいたい。
 いつでも、どのような状況でも、主に期待して恵みを受け取る者でいたい。

 ここ四章は、私たちには決しておこなうことができない主の奇蹟、主の恵みが、大きく三度おこなわれます。
 一度だけでなく、三度も主は奇蹟をおこなわれて、ご自身のあわれみの大きさ、恵みの大きさを示してくださった。
 三度も起きるとは、最上級の出来事だと言えます。
 主の恵みはそれほどに大きく、完全なものなのです。
 それは貴方の信仰生活の中にも起きます。
 シャローム

4.1今日のみことば

2018-06-20

  「これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」 列王記記 第2 3章18節
 アハブ王の子ヨラムが王となった時に、モアブがイスラエルに背いて敵対します。
 ヨラム王は、ユダの王ヨシャパテとエドムの王を仲間として、モアブ討伐に向かいます。
 しかし途中で七日間もの遠回りをしてしまったので、陣営の者だけではなく、一緒に連れていた家畜の分の水までなくなりました。
 困り果てた彼らは、預言者エリシャに、主のみこころを尋ねてもらうために、会いに出かけます。

 しかし主の前に罪を重ねているヨラムを前にして、エリシャは彼とは関係がないと、突き放すのです。
 これはヨラムに都合が良いことばかりを語る預言者を普段から重用しているヨラムへの主からの厳しいことばでした。
 当然このままでは、ヨラムたち一行はモアブと戦う以前に自滅してしまいます。

 その時、イスラエルの王ヨラムは、自分の出撃自体が、ユダの王ヨシャパテとエドムの王まで巻き込んで、自滅させる主のみこころであったのだと、悔い改めの言葉を口にします。
 これは真の悔い改めではありません。
 しかしどこまでもあわれみ深い主は、ユダの王が一緒にいるのだからと、彼らをあわれみます。
 主は、渇き切り、水があるとは思えない谷を水で満たすことを約束してくださるのです。

 「これは主の目には小さなことだ。」
 荒れ地を川に変え、渇ききり疲れ果てた兵士らを潤して力づけるのは、主にとっては簡単なことだと言う意味です。
 主は、本当にどこまでもあわれみ深く、恵に富む方です。
 ヨラムの罪はまだまだ残っています。
 けれども主は、あわれみと恵みを先に与えてくださる。
 それももの凄い奇蹟を起こして水を与えてくださると言うのに、それは「小さなこと」だと、示される。
 私たちは、このことばを聞いて、大きな方である主を信じるのです。

 この方の恵みは大きく注がれ、この方のあわれみは尽きることがないのです。
 この方にのみ信頼するなら、大きな問題、障害も解決して、それを私の手に恵みとして与えてくださるのです。

 私には想像もできない大きな奇蹟も、主には小さなことなのです。
 信じる時、それは目の前に実現していくのです。
 シャローム

3.31今日のみことば

2018-06-20

 「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。 」テトスへの手紙 2章1節
 木曜日、今週は一日ズレてしまいましたが、旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わう朝としました。
 今朝は、「テトスへの手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。パウロがテトスに向けて書き送った手紙です。
 テモテの手紙を一通書いた後、パウロは解放されて、宣教旅行を再会します。
 その旅の中で、クレテへ移動して、そこにテトスを残して、旅を続けたのです。
 そしてこの手紙を書き、その後、再び捕えられて、テモテへの第二の手紙を書き、殉教していったのです。

 テトスはパウロの実子ではありませんが「真実のわが子テトス」1章4節、の表現があります。
 まだまだクレテの教会は組織化されていなかったので、パウロはテトスを励まし、正しい教えを伝えるためにこの手紙を書きました。
 本当にテトスを大切に思う気持ちが、この表現になったのでしょう。

 1章12節の言葉は面白い。ギリシャ七賢人の一人のエピメニデスの言葉を引用しているようです。
 こう言う引用は、手紙の受け取り手が、そのような言葉に親しんでいたことを知ることができる、面白い表現です。
 内容は、テモテへの手紙にも似ている点がありますが「長老の資格」「様々な年代の人への接し方」などを教えているのがt特徴です。
 テトスはまた、テモテと同じように有能であり、パウロの片腕とも言える存在でした。

 「健全」
 偽教師たちが間違ったことを教えて、教会の人々を惑わしていたので、パウロは注意を呼びかけます。
 イエス様が語ってくださった、キリスト教、救い主に関する正しい教理を学ぶことによって、ふさわしい生活が生まれるのです。
 1章9,13節、2章1,2,8節と、何度も「健全」と言う言葉が繰り返されて強調されるのです。

 健全な教えを学び信じて歩む時、そこからふさわしい生活が生まれます。
 その生活をしているならば、たとえ、迫害や非難、批判を受けたとしても、いずれ良い結果へと結びつくのです。
 パウロはテトスを励ましながら、正しい教えを学ぶこと、語ることの大切さを教えます。

 信仰生活や言動を整えることに心向けるのではなく、正しい、健全な教えを受けて、それをしっかりと学び、そこから語ることで、ふさわしい信仰生活へと進んでいくことができます。
 最初に、しっかりと健全な教えに耳を傾けることが大事です。
 シャローム

3.30今日のみことば

2018-06-20

 「 エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭」と言ったので、」 列王記記 第2 2章23節
 素晴しい預言者のエリヤが、たつまきに乗って天に上げられました。
 主が、エリヤは特別であることを示されたのです。
 そしてエリシャもまた、特別な預言者として、エリヤの正式な後継者となっていきます。

 その町には流産も多いと、町の人々が訴えます。
 それは町の女性たちだけではなく、家畜の繁殖や収穫物にも影響があったと言うことのようです。
 町の人々は困っていましたが、エリシャがそれを解決をします。こうして、エリシャが預言者の中でも特別であることが現されていくのです。

 そしてエリヤがたつまきに乗って言ったり、火の戦車と火の馬が現れて、また、エリシャも塩を投げ込むだけで、水を良くしたりと、不思議なことが行われる2章ですが。
 最後には、エリシャを「はげ頭」と、からかった小さい子どもが、二頭の雌熊にかき裂かれていくと言う、恐ろしい事件で終ります。
 しかも聖書本文には、かき裂かれた者たちに対する意味や説明がありません。だから不思議で恐ろしいと、感じてしまうのですが。

 まず「町の小さい子ども」は、いわゆる幼子ではないと考えます。
 偉大な預言者に対して、からかいの言葉を投げ掛ける小さな存在の者、愚かな青年なのでしょう。
 町の問題を解決してくれたエリシャであり、偉大なエリヤの正統的な後継者となった預言者をからかうと言う、その町に住みながら愚かな存在であることを示したのでしょう。

 からかいの「はげ頭」現代もからかいの言葉のようですが、これは預言者に対する侮辱の言葉です。
 軽い言葉ではないのです。
 しかも二度繰り返していますから、悪意ではなく、預言者だけではなく、主への敵対、侮辱の態度なのです。

 町の窮状を救った預言者であり、その主である神様への侮辱は、主が赦さなかったのです。
 それで二度も悪い言葉を口にした彼らの下へ、二頭のさばきの熊が来たのです。
 「上って来い」とからかうから、上って来たのでしょう、熊が。
 出産の窮状を助けたエリシャなので、熊も、雌熊だったのかと、想像します。言えるのは不思議なことを主は起こすことができるということ。

 時に、こうした不思議なことが起きます。旧約聖書らしい物語り、事件です。
 主はすべてのものを造られて、支えておられる方ですから、雌熊だって登場するでしょう。イエス様のことばには湖だって言うことを聞いたのですから。この方への畏れを持ち、栄光を現すことを教えてくれる事件でもあります。
 シャローム

3.29今日のみことば

2018-06-20

 「そこで、アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのとこ
ろに遣わした。彼がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤ は山の
頂にすわっていた。彼はエリヤに、「神の人よ。王のお告げです。降りて来てく
ださい。」と言った。」 列王記 第2 1章9節

 アハズヤ王が、自分の病が癒されるものなのかどうかをエクロンの神に尋ねる
ために使者を遣わしました。
 すると主は、預言者エリヤを通して語られるのです。
 「あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イス
ラエルに神がいないためか。」
 主の皮肉とも言える言葉を含めた厳しい言葉がアハズヤ王に届けられます。
 すると王は、エリヤのところに兵士を送るのです。
 王は、なにがしたいのでしょう。
 エリヤを捕らえて苦しめたいのでしょうか。それとも殺して、自分に逆らえな
いようにしたいのでしょうか。
 間違ったことをしたのは王です。
 それを指摘したのは預言者エリヤと言うことではなく、主なのです。
 主を捨てて、他の神々を頼ろうとしたことを厳しく指摘されたのに、さらに、
その主に背くのです。

 エリヤに差し向けられた兵士たちは、計三回。
 一度目、二度目の50人の兵士らは主の火に焼かれて滅びます。
 そして三度目に遣わされた隊長は主とエリヤを敬い、命が助けられます。
 最後にアハズヤ王が、主のことば通りに、裁きを受けて滅びます。

 何故、主のことばを最初に受けた時に、悔い改めることをしないで、更に背い
て兵士を送ったのでしょう。何の解決にもならないことをするのでしょ う。
 でも、それが罪を重ねて、悔い改めることができない人の心なのです。

 三度目に送り出された隊長のように、王を恐れないで、主を畏れる人になりたい。
 罪を隠そうとしたり、誤摩化すのではなく、素直に悔い改めていける者でいたい。

 エクロンの神であろうが、どこの、どんな立派な名前を付けた神々であろう
が、素晴らしい彫刻の神々であろうが、偶像の神々には、何の力もなく、 愛も
ありません。

 私たちには、主なる神様がいてくださるのです。
 シャローム

3.28今日のみことば

2018-06-20

「彼は主の目の前に悪を行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。」 列王記記 第一 22章52節

 列王記、第一の最後の章です。
 ソロモン王の後、北イスラエルと南ユダ王国に分裂をしたユダヤの国はどこまでも乱れ苦悩しています。
 主の前に罪をおこなうと、それはどうしても背徳と偶像礼拝の道を進むことになります。
 主を捨てた王たちは、自分勝手な道を行き、そして自分の手で偶像を作り出すか、周辺の国々に習って、偶像の神々にいけにえを捧げるのです。
 そのようなことをすることを「ヤロブアムの道」と、呼ぶのです。

 主の目にかなったと、ダビデ王が評価されて呼ばれるのに対して、ヤロブアムの道と、名付けられてしまうのです。
 なんと愚かで恥ずかしい道をヤロブアムは歩んだのでしょうか。

 ダビデは完璧な信仰者で、完全無欠な王ではありませんでした。
 バテ・シェバとの姦淫の罪に代表されるような恐ろしい罪、失敗もありました。
 しかし罪を認めて、悔い改めることを知っており、主以外に神をあがめなかったのがダビデです。
 そのダビデの罪は、主によって赦され、すべてのことを主が覆ってくださるのです。
 後になって、ダビデの罪を主が思い出されることはありませんでした。
 主の愛と赦しとは、そういうものです。

 しかし繰り返す罪と悔い改めることのない頑なな心で、毎日を歩むならば、それはやがて背徳と偶像の道になります。
 私たちは、悔い改めることを身につけ。
 主の赦しを経験する者になっていたいと、思います。

 主の愛とあわれみはどこまでも大きいのです。
 そこに留まりたい。
 シャローム

3.27今日のみことば

2018-06-20

 イースター 復活の朝
 「ナボテはアハブに言った。「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」」 列王記記 第一 21章3節
 イースターの朝です。
 復活の主を見上げて、主の声を聞きましょう。
 復活の朝。「マリヤ」「ラボニ(愛する先生の意味)」と、主と言葉を交わしましょう。

 アハブ王と妻イゼベルの最大にしてもっとも愚かな罪をおこなったのが、このナボテのぶどう畑を奪い取った行為です。
 アハブ王の身勝手な思いから、王宮の直ぐ隣りにあったナボテの畑を自分の野菜畑にしたいから、譲ってくれとアハズは言います。
 ナボテはそれはできない相談だと断ります。こちらに義が有ります。

 これは現代日本での商習慣による土地の売買の話しではないのです。また、ただ単に先祖伝来の土地を手放したくないと言う感情論とも違います。
 イスラエルでは、土地は主なる神様が真の所有者であり主権者です。
 約束の土地カナンに移り住んだ時に、主によって、部族、家族ごとに分け与えられました。
 でも、それは主の物を、大切に使わせてもらう権利と自由を優先的に与えられたということです。
 だからこそ、大切に土地を守り、使います。
 ここでのナボテの答えは正しいのです。
 ケチで言っている訳でも、意地悪をしているのでもありません。主を信じているのです。

 ところが、アハズはこの答えを聞くと、まるですねるように不機嫌になるのです。
 そしてそれを見た妻が、謀略を図り、ナボテを殺し、土地を奪い取ります。

 自分勝手な思いから、主の物を奪い取ったのです。
 自分が毎日、主からどれほど多くの恵をいただいているのかを感謝して受け取っていないから、こんな恐ろしいことをするのです。
 感謝と喜び、主への祈りがない生活は恐ろしいことへ繋がっていきます。

 絶望の金曜日、何もできない土曜日を過ごして、新しい朝を迎えました。
 新しい週、新しい一日が始まります。
 それは新しい創世の幕が上がる時です。
 イースター。お墓の石を破り、死を打ち破って主イエスは復活を果たしてくださいました。
 シャローム

3.26今日のみことば

2018-06-20

 受難週 土曜日
 「ときに、ひとりの神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』」」 列王記記 第一 20章28節
 この頃、強大な軍事力を誇ったアラムの王であるベン・ハダデは北イスラエルを征服しようと、おびただしい軍勢を率いて攻め込んできました。
 当初、ベン・ハダデを恐れて降伏しようとしたイスラエルの王でしたが、主の約束によって力づけられて、アラムと戦いこれを退けます。

 その時、アラムの王は、戦車や騎兵が山地で戦うのは不利であったので敗れたと考えました。
 そしてイスラエルの神が高い山の神と言う名前も持つことをに引っ掛けて、自分たちの神々は低地の神々なので、平原で戦えば負けることはないと言うことを口にしたのです。23節。
 もちろん、全能の神はアラムの王のこれらの言葉も聞いておられます。
 そして神、主だけが神であって、他に神は居ないこと。神は山地も低地も、海も空でも神であることを知らせるために、この大軍勢を、弱いと思われているイスラエルに渡して、打ち破らせると、示されます。

 アラムの王は、罪深い私たちの性質を象徴しています。
 神、主に叱責されさばきを受けてもなお、自分の罪を認めないで、言い訳をします。神を認めません。
 しかし、その罪深い発言も、唇に上った時には、既に主に知られているのです。
 主は、全能です。
 悔い改める者には、あわれみ深く赦しを与え、祝福してくださいます。
 罪を示された時には、素直にそれを認めて悔い改め。
 行動を180度転換する潔さをもって、主の前に行きたいものです。

 今日は土曜日です。主イエスの十字架の死、受難日の金曜日を過ごして、三日目の日曜日の朝に復活をされた主を待ち望む、土曜日です。
 毎年、この土曜日は不思議な日だと感じています。
 何故、十字架の死と復活の間に、一日があるのか。弟子たちやマリヤたち女性たちは、この日をどのようにして過ごしていたのか。
 主を見捨てて逃げ出した裏切りを悔やみ、涙して座り込んでいたのか。
 見捨てられた主の惨めで痛ましい姿を何度も思い起こしては絶望していたのか。
 何もできなかった自分を責めて、怒り苦悩していたのか。
 そこにただの一点でも自分の義と愛を見出すこともできなくて、絶望していたのか。
 私にとっての絶望と悲しみが、確かな希望と喜びに変わり、それがもう決して失われることがないように、この土曜日をどうしても過ごさなければならないのだと、思うのです。
 十字架の主を見て、罪深い自分を見て、そして復活の主を見て、その声を聞くのです。
 シャローム

3.25今日のみことば

2018-06-20

 受難日
 主が、私たちの罪をすべて背負い、十字架にかかってくださった受難の日を覚える金曜日です。
 絶望し、そこから自分ではなく、主に望みをおくことができることを知る金曜日です。
 父なる神様の涙も心に刻んでおきたい。

 「エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」」 列王記記 第一 19章13節
 19章は、一転して弱さを覚え、恐れているエリヤの姿を記します。
 バアルの預言者450人とたった一人で対決し、主の栄光を現したエリヤでしたが、悪名高い妃のイゼベルに脅迫されて、逃げ出しました。
 荒野を通り、四十日四十夜の間、主はずっとエリヤを守ってくれました。
 そして最後に、主は語りかけます。
 9節でも同じことばでエリヤに問いかけました。
 「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

 エリヤは自分がたった一人で戦ってきましたが、今は恐ろしくなって何もできないでいることを繰り返すしかありません。
 ここで顔をおおっているのは、神に対する恐れを現しています。
 同時に、自分自身を恥じているのでしょう。

 エリヤは主を信じるユダヤ人です。
 遥か昔に、出エジプトを果たした民の二代目のリーダーとなったヨシュアに対して主は「恐れるな。雄々しくあれ」と語りました。
 そして主が共にいてくださることを約束してくださいました。
 それはずっと変わらないのです。
 エリヤも知っていました。
 しかし恐れたのです。
 主を畏れるのではなく、人の言葉を恐れたのです。
 それで恥じたのです。

 でもそれは仕方がないことです。私たちはそういう弱さを持っています。
 弱さを覚え、恐れ、不安になり、立ち尽くす時。
 主は、声をかけてくださる。
 その声を聞くことで、私たちは慰められ、励まされるのです。
 主は、私たちが大丈夫になるまで、一度だけでなく、もう一度同じ声をかけてくださるのです。

 立派な返事などできなくてよいのです。主の声を聞き、主に答えていけば、導きと助けは、そこにあるのです。
 シャローム

3.24今日のみことば

2018-06-20

 受難週
 「エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」 列王記記 第一 18章18節
 列王記第一の物語りの中でも一二を争うと言って良い有名な場面の登場する18章です。
 その事件はもちろん、エリヤとバアルとアシェラの預言者の対決です。
 エリヤが主に祈ると天から日が降って来ていけにえを焼き尽くします。
 しかしその前に叫び祈ったバアルの預言者の前に置いたいけにえには何の変化もありません。
 火が降るどころか、何も起こらないのです。

 当然です。
 神は本当におられます。真の神が唯お一人だけ。
 偶像の神々、人が勝手に作り出した神は、存在しません。だからその神自身では何もすることができないのです。

 選びました18節は、この対決の前にエリヤがアハブ王に厳しく迫っている言葉です。
 今朝、心に留まりましたのは、この言葉です。
 「あなたはバアルのあとについています。」
 人が勝手に作り出した神なのです。
 真の神のことばには従いたくない人々が、自分の思い通りに神を従えたい、言うことを聞いて欲しいと作りました。
 ところが今、真の唯一の神を捨てたアハブや人々は、自分が作ったはずの居るはずもない神バアルのあとをついていいるのです。
 愚かにも作り出した神々のあとをついて従ってしまっているのです。
 自由に振る舞いたかったのに、自分で不自由になりました。
 しかもそのことは自分だけではなく周りをも煩らわせる行為なのです。

 神、主のことばに従わないと言うことは、結局のところ別の何かに従ってしまい、その奴隷となってしまうことです。
 しかし聖書の神のことばに従うことは罪の奴隷から解放されることになります。
 どちらが本当に自由で幸いでしょう。
 シャローム

3.23今日のみことば

2018-06-20

 受難週
 「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、」テモテへの手紙 第二 3章14節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「テモテへの手紙 第二」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。パウロがテモテに向けて書き送った二番目の手紙と言うことです。
 そして一旦は釈放されたものの、もう一度捕えられたパウロがローマの牢獄から書いています。
 4章6節には「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」との言葉があります。
 自分の血が流されていくことを注ぎの備え物の血が流れることに例えて、処刑される日が近く、それを覚悟している様子が分ります。
 この手紙は、パウロが最後に執筆した手紙と考えられています。

 わが子のように愛するテモテを、教会の牧会者として励ます内容が書かれています。
 前の第一の手紙のような、教会の役員の資格など、神学的な内容を体系づけて語ると言うよりは、テモテを個人的に励ます内容だと言えます。

 同時に、殉教の死が間近に迫っていることを覚悟していますけれども、テモテに会いに来て欲しいと言う、珍しくパウロの個人的な慰めを求めるような言葉もあることが、特徴です。
 テモテへの励まし、教えについても、一般論として語るのではなく、個人的に親しく語りかけるかたちです。
 ここ14節でも、テモテが幼い頃から、母や祖母から、しっかりと学んできた聖書の知識と言葉が、力となっているのだと、励まします。

 これは主である神様が私たちに、このように二つの面から語り慰めてくれると言うことです。
 救いや神の国、愛についての真理をしっかりと教えてくださいます。
 しかしそれだけではなく、まるで主は、私一人しか居ないかのように、親しく語って慰めてくれるのです。
 親しく親しく、本当に親身になって慰めてくれます。励ましてくれます。
 でも、その信仰の本質、核については、旧新約聖書から一貫して、誰にでも分るように、そして、恵として受け取れるように語ってくれます。

 私たちは、テモテがパウロから聞いたように、主から、この二つの面で言葉を聞かなければなりません。
 いや、聞かせていただけているのです。
 今朝も、主イエスは、貴方のために語ってくださいます。
 シャローム

3.22今日のみことば

2018-06-20

 受難週
 「そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」」 列王記記 第一 17章4節
 偶像礼拝を初めとした数々の悪をおこなっているアハブ王に向かって、エリヤは厳しい主のことばを伝えます。
 そこで悔い改めて行動を正すような王ならば、主はエリヤを遣わさなかったのでしょう。
 主は、エリヤに向かって身を隠すように命じます。
 主の使命に生きることは、時に厳しい状況に追い込まれることがあるのです。

 主はエリヤにケリテ川のほとりに身を隠して、川の水を飲み、主が遣わすカラスによって養われよと命じます。
 受け止め方によっては、無茶苦茶な命令です。
 カラスを育てて生活の収入を得よと言うのではなく、カラスに食べ物をもらいなさいと言うことなのです。

 どうやって、そんなことが可能なのですか?
 カラスなのですか?一国の王様に向かって厳しいことばを語ると言う命がけの行動を取った直後に、今度はカラスに身を委ねよと、言うのですか?
 エリヤは困惑しなかったのでしょうか。
 エリヤはここでひと言も発しません。
 愚痴も、疑問も、不安も唇に上らせません。

 自分には想像ができない方法を主は備えておられる。
 ただそのことを信じるしかありません。
 目に見えないものこそを信じる信仰が、聖書の神、主への信仰。
 自分には望みをおくことができない状況で、主に望みをおくことが信仰。

 私たちの信仰生活において、カラスに養われよとの言葉は語られることはないでしょう。
 しかし、私には難しいと思えること、自分にとってはもっとも苦手とすることを、しなさいと主は命じるかもしれません。
 エリヤのように、主に従って歩んできたのに、さらに、難しいことを問われる時があるかも知れません。
 いや、信仰をもって従って歩んできたからこそ、主は、次のことを貴方に命じるのではないでしょうか。
 その時、貴方はケハテ川のほとりへと、足を一歩踏み出せるでしょうか。
 そこにあなたのカラスが飛んでくるのです。
 恵と安心を持って。
 シャローム

3.21今日のみことば

2018-06-20

 受難週
 「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行った。」 列王記記 第一 16章30節
 この30節の少し前の25節では「オムリ」について、全く同じことが言われています。
 ヤロブアムの罪を、オムリは更に酷い罪としておこない。
 なんと、その子どもであるオムリの子アハブが、同じように悪をおこなったと言う、事実。
 悪の連鎖、罪の連鎖があります。
 もちろん、罪を行うのはその人個人です。
 でも、悔い改めることをしない父を見てきた息子はどうなのでしょう。
 主の祝福を信じて、悔い改めた生き方を選ぶでしょうか。
 それとも、罪の中にあっても豊かで気ままな生き方をよしとするのではないでしょうか。

 「わたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」出エジプト記20章5〜6節
 このモーセを通して与えられた約束の言葉を思い起こしました。

 十戒のなかにある言葉、戒め、命令、いいえ、祝福の言葉です。
 罪を重ねて、悔い改めない者には、主はその罪に相応しく報いると言われました。
 でもです。良く読み取りたい。
 自分の子ども、その子ども、そのまた子どもに、千代先にまで主が祝福して恵を与えると言う約束を選ぶことは難しいことなのでしょうか。
 そこに喜びはないのでしょうか。 

 自分の罪をまた、子どもに残したいと思うのでしょうか。
 そんなはずはないのです。
 しかし、人は主の前に悔い改めることが嫌だと思う傾向があります。
 そんな自分の弱さ、罪深さを認めて、悪、罪ではなく、主の前の従順と謙遜さを身に付けたい。
 シャローム

3.20今日のみことば

2018-06-20

 受難週
 「彼は、王となったとき、ヤロブアムの全家を打ち、ヤロブアムに属する息のある者をひとりも残さず、根絶やしにした。主がそのしもべ、シロ人アヒヤを通して言われたことばのとおりであった。」 列王記記 第一 15章29節
 13章1節からの箇所で、神の人がヤロブアムに告げ、その後、アヒヤが告げた言葉が実現していきます。
 王の息子ではない者が、王となって行くときには、必ず起きることです。
 前の王の家族、親族をことごとく殺して根絶やしにします。
 復讐されないためと、王位を主張されることを防ぐためです。

 人が人の前にだけ生きて、自分たちに都合が良いように動き。自分たちの考える安全を求めるなら、こうなります。
 しかし、この点においてダビデは素晴しかった。
 王となった時も、サウル王の身内を、自分の利益のために誰一人殺しませんでした。
 むしろ信仰の親友であるサウルの息子のヨナタンとの約束と愛情の故に。ヨナタンの身内を守りました。
 いいえ、サウル王に命を狙われている時から、ダビデは自分の手で安全を確保し、力を得て、サウルを倒そうとはしませんでした。

 主だけを信じて従い。
 主が与えてくださる平安を求め続けました。荒野で眠っていても安心できたのは、主に委ねていたからでした。

 ヤロブアムの子らが虐殺されたことは、悲しい出来事です。ここだけを読めばです。
 しかしヤロブアムには、ここに至るまでに主の前に悔い改める機会があったのです。
 悔い改めた、主の前に砕かれた心と行動があれば、こんな事態にはならないのです。

 主の約束は必ず成就します。
 期待し、希望を持ってダビデのように歩みたい。

 ヤロブアムの罪。ヤロブアムの道と、この先、彼の名前は、主に徹底的に背いた者の名前として記憶されます。

 受難週が始まりました。
 主は、私の罪を身代わりに背負って、ゴルゴダの丘までの長い道を、静かに歩かれたのです。
 もう一度、誰のために立っている十字架なのかを思い起こしながら、一週間を過ごしましょう。
 絶望の先にある、真の希望が十字架のイエス・キリスト。
 シャローム

3.19今日のみことば

2018-06-20

「ところが、あなたはこれまでのだれよりも悪いことをし、行って、自分のためにほかの神々と、鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。」 列王記記 第一 14章9節
 北イスラエルの王ヤロブアムの子どもが病気になった時、ヤロブアムは、その子がどうなるのかを知ろうとして、主の預言者の下に妻を送り出します。
 しかし妻には、ヤロブアムの妻だと分らないように、変装して尋ねるように命じるのです。
 もちろん、主はすべてを知っておられて、預言者アヒヤに、それらを示した上で、ヤロブアムへの言葉を与えます。

 神である主が指摘されたのは、ヤロブアムの罪です。
 主が、ソロモンの後に続く王として、ヤロブアムを北イスラエルの王としたにも関わらず、ヤロブアムは主を捨て去りました。
 そして偶像の神々を拝んだのです。

 詩篇86篇14節では「彼らは、あなたを自分の前に置いていません。 」と、歌われます。
 悪をおこなう者は、主を自分の目に置いて、日々を歩むことをしないのです。
 ここでも、主はヤロブアムが主をうしろに捨て去ったと、指摘します。

 神の前に進み出ることを喜びとして、歩み。
 神をいつも自分の前において、正しいことを行おうとすること。
 それが神様を信じる者には求められます。
 いや、結局のこと、それが幸いで平安な人生を生きることになります。

 ヤロブアムは、好き勝手に生きて、楽しく豊かであったつもりでした。
 しかし子どもが病気になった時、幾多もある神々の像や、高き所の祭壇は何の役にも立たないことを知りました。
 しかし主の前に悔い改めるもしないのです。
 そして偽りをして、預言者の助言を得ようとしましたが、失敗したのです。

 主の目にかなう生き方とは、完全な信仰を持つことでもなく、完璧な人間になることでもないのです。
 主を前にして主を愛して生き。
 主の前に悔い改めることができる、心を持って生きることです。
 それが結局の所、主の怒りを受けるのではなく、主のあわれみを受け取り、平安で喜びのある生き方をすることになります。

 ヤロブアムは、最後の最後になっても嘘を用いたのです。残念です。
 神の前に隠し通せるものなどないのに。
 捨て去るべきは、自分の罪。
 シャローム

3.18今日のみことば

2018-06-20

「このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。」 列王記記 第一 13章33節
 不思議な出来事が重なります。
 最初に「ひとりの神の人」が登場します。
 この人は、預言者であると考えられますが、名前も家系、素性も記されません。
 この神の人は、ヤロブアム王の罪を指摘します。
 それは人の前におこなう罪ではなく、神の前に、神に対する罪のことです。
 ヤロブアムは、その指摘を受け入れず、神の人を捕えて殺そうとしますが、失敗します。
 神の人は、ヤロブアムのためにも祈ります。

 その後、この神の人は、老齢に預言者の嘘によって、神からの命令を破ってしまうのです。
 食べても飲んでもいけないと言う命令でしたが、この老齢の預言者が語る言葉に促されて、食べてしまうのです。
 神は、神の人を試すために、老齢の預言者を用いたのか、それとも、老齢の預言者に何か神の人をだまして、得ようとする利益があったのか、聖書は教えてくれません。

 ただ、神のことばだけが実現していきます。

 そしてヤロブアム王です。
 神の人を殺そうとした時には、自分の腕が、しなびて戻すことができなくなり、神の人の執り成しの祈りで回復すると言う経験をしました。
 しかし彼は、神の前に悔い改めることをしませんでした。

 そして、祭司を勝手に任命すると言う、もっとも大きな罪を続けます。
 勝手に高き所を設けて、好き勝手に礼拝を捧げて、神に背き。
 その高き所に、勝手に祭司を任命して、いけにえを捧げ、礼拝をしました。
 自分勝手な礼拝は神に喜ばれることはありません。

 神の礼拝、祈りに関する私たちへの命令は、私たちを縛りつけ不自由にするのではありません。
 神の存在、神が私を愛してくださっていることを、そのまま喜ぶための道しるべです。
 礼拝で喜びを知ることが大切です。

 しかし「こんなことがあって後も」「引き続いて」と、ヤロブアムは、一向に罪を悔い改めない様子が、明確に示されています。
 私たちには、いつでも神の目に進み出て、悔い改める機会が与えられています。それも神の愛です。無駄にしたくない。
 シャローム

3.17今日のみことば

2018-06-20

「王は荒々しく民に答え、長老たちが彼に与えた助言を退け、」 列王記 第1
 12章13節

 いよいよソロモンの子であるレハブアムから民の心が離れていってしまう事態
がおきます。
 それはレハブアムが、自分が父ソロモンよりも立派な王であることを、民に見
せつけたいと言う間違った心から起きています。しかし、その背後には 主が働
いておられます。
 主は、試しておられるのです。イスラエルの真の王である主なる神が、レハブ
アムにご自身が愛しておられるイスラエルを任せるに足るかどうかをで す。

 王位を継承し、大切な国の治め方を決めようと言う時に、礼拝も、祈りも捧げ
ていないレハブアムは、この時点で失敗していますが。
 レハブアムは、父の頃から仕える年長者の意見を退けて、自分の遊び仲間の意
見、彼を高慢にさせるような意見を受け入れます。
 そしてこの後、国は分裂します。

 ここ13節で、レハブアムは長老たちの助言を捨てます。
 そして荒々しく民に答えています。
 元々のヘブル語の聖書では「荒々しく」とは、かたくなな心と結びついている
レハブアムの心を現す表現が使われてています。
 彼は何にかたくなななのでしょう。

 レハブアムは、民や民の長老たちに、自分を立派に見せたいと言う心から、お
だてる友人たちの言葉に乗りました。
 そしてそれは、主なる神様の前に謙遜になることを捨て去ったことです。
 彼は長老たちの助言を捨てましたが、それは主の前に謙遜に仕えることを捨て
去ったのです。
 それがそのまま祈ることもしない態度に現れています。

 主が任せようとしておられる民と国であることを忘れてしまっています。
 謙遜さ、それも神様の前に謙遜になることを捨てた人は、真に素晴らしいこと
を地上で成し遂げることはできないでしょう。
 主への祈りと、主の前に謙遜になることを忘れないで、今日、使わされる場所
でしっかり使命を果たしたい。
 学び、働き、愛することひとつひとつを主の前に果たしたいと思います。
シャローム

3.16今日のみことば

2018-06-20

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪 人のか
しらです。」テモテへの手紙 第1 1章15節

 水曜日です。一書づつ読み進めて、今朝は「テモテへの手紙 第1」です。
 パウロが、愛する息子と呼ぶテモテに向けて書いています。
 テモテが教会の信仰のリーダーとして、苦労し、格闘しているので、それを励
ましています。
 三代目のクリスチャンであり、若いテモテには、今、教会の中で起きている問
題に対処するのが大変であっtのでしょう。
 パウロは、教会の『監督』職についての具体的な指針やアドバイスを与えたか
と思えば、信仰の基本の「キ」を教えてもくれるのです。

 選びました節は、救いの基本と、信仰者としての基本を思い起こさせてくれます。

 神、主は、私たちにとってあってもなくても良いと言う存在ではありません。
 神であり、救い主であるイエス様がいなければ、私たちは罪の中に生き、罪の
中に死に、永遠の滅びを受け取るしかなくなってしまうのです。
 しかし、キリスト・イエスが十字架で死ぬために、地上に来てくださったのです。
 私たちは、そのイエスを信じるだけで救われます。
 滅びではなく、えいえんの命を持つのです。

 しかしこの自覚も必要です。
 立派な人、良い行いをした人が、救われるのではなかったはずです。
 私は罪人である。いいや、私こそがその罪人のかしら、代表のような存在だと。
 自分の罪深さを認め、それを憎むほどに自覚して、真の悔い改めをした人が、
平安と確信を得ます。
 そして愛を持って、イエス様を証しして、隣人にも勧められます。

 罪人のかしらと、言えることは恥ずかしいことではなく、幸いなのでしょう。
 パウロに習い、テモテのように励まされて、今日も御言葉と一緒に歩みましょう。
シャローム

3.15今日のみことば

2018-06-20

「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」 列王記 第1 11章3節

 ソロモンの晩年の出来事です。それはソロモンが主から離れてしまった事実を
指摘しています。
 父ダビデのように、ソロモンは一生の間、主とともに歩み、主と一つになって
いませんでした。
 それは信仰生活において、或は、信仰を持って歩む毎日で決して失敗をしたり
しないとか、信仰が完璧であると言うことではありません。
 何故なら、ダビデだった失敗もしましたし、大きな罪も犯したことがあります。
 しかし、主はそんなダビデの罪は赦し、主の目に叶う素晴らしい信仰者であっ
たと、言ってくださる。
 誰かが、ダビデを責めて、告発するならば、主が弁護してくださる。

 ところが、ソロモンはそうではなかった。
 それはここに一つ、大きな罪があるからです。
 人に対してではありません。神、主に対する罪です。

 彼には多くのそばめがいました。それも外国人の女性です。
 彼女らは、自分の祖国の神々を持ち込み、それを拝み、ソロモンを惑わしてし
まったのです。

 ここに、『ソロモンの心を転じた」と、あります。
 転じたと言うのは、曲げてしまう。押しのけてしまう。と言う意味です。
 ソロモンがそばめを愛して、それを一番にしたので、その心が、主への愛を押
しのけて、ソロモンの心から押し出しました。
 その結果、ソロモンの心と生き方が曲げられてしまい、気がつかないうちに主
から離れてしまったのです。

 恐ろしいことです。
 主を一番に愛することを忘れたり、大事にしないと、自分の心から主への愛
と、信仰まで追い出されてしまうのです。

 砕かれた心。
 悔い改めの心。
 主を愛することを今朝も大事にしたい。
シャローム

3.14今日のみことば

2018-06-20

「ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた。」 列王記記 第一 10章23節
 10章は、シェバの女王がソロモン王に謁見し、その知恵を試すことから始まります。
 ソロモンの知恵と富に驚いたシェバの女王は、9節では、思わずイスラエルの神、主の名前を出して、誉め称えるほどでした。
 それは外国の女王であるシェバの外交辞令も入っていたはずですが、それでもそのような言葉をシェバの女王の唇に上らせるほどの、素晴しい祝福が、この時イスラエルにあったのです。

 10章は、続けてソロモンがどれほど素晴しい時代を築いていたかを示します。
 その富の凄さ。
 その統治の範囲。
 そして誰よりもまさっていた知恵。

 ソロモンはシェバの女王に豊かな贈り物を与えて、国へ返します。
 多くの者がソロモンの知恵を聴きたいと願ってやって来ます。
 それは素晴し光景。

 しかし残念な光景でもあります。
 ソロモンを豊かにしたのは、贈り物を贈った外国の王たちや周辺の国々ではありません。
 主です。
 ソロモンに知恵を与えたのも、もちろん主です。
 主なのです。

 こんなにも長い章の中で、ソロモンは一度も祈っていません。
 シェバの女王に贈り物は与えますが、祝福の祈りをしていません。

 ソロモンには、この時、全然祈りがないのです。
 礼拝をしていないのでしょうか。
 これが残念でなりません。

 シェバの女王のために祈り、国へと返してあげるべきだった。
 もっと、もっと祈るべきです。
 進む次の章が、不安です。

 私たちも、日常から、祈りを押し出してしまうことがないようにしたい。
 シャローム

3.13今日のみことば

2018-06-20

「主は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」 列王記記 第一 9章3節
 ソロモンが建てた神殿が完成した時、主は、ソロモンに現れました。
 そしてソロモンに約束と警告、そして預言を与えました。

 ソロモンが、父ダビデのように、全き心と正しさを持って、主の前を歩むならば、その王座は失われない。
 ソロモンの子孫が、主のおきてから離れて、偶像の神々に使えるならば、イスラエル人の祝福は断たれて、神殿も廃虚となる。
 他の国々の人々は、廃虚となった神殿を見て、イスラエル人が神に背いたので、神は彼らをさばいたのだと、言う。

 三つ目の警告は、預言であり、そのようにイスラエル人は、主なる神様に背き、好き勝手に歩むことになると言う、厳しい預言なのです。
 こんな厳しいことばを、受け取っているのに、確かに、人々はソロモンの次の世代になると、神を捨てて偶像に走るのです。

 神殿が、宮殿が、立派に完成した時こそ、人々の信仰が問われる時なのでしょう。
 神殿には、主の目と心があると、ここ3節で、主ご自身が約束され、示されました。

 では、私たちはどうでしょうか。
 主が祝福してくださった宮殿(家)が立派になった時、そこに主への全き献身と従順な心はあるでしょうか。
 神殿(教会)が立派になった時、そのことで満足してしまって、そこに主への全き献身と従順な心はあるでしょうか。

 主の目は、礼拝の度に、私に注がれ離れない。
 主の愛は、礼拝の度に、私に注がれ失われない。

 私の目は、いつも主を見ているか。礼拝で、朝毎に。
 私の心は、いつも主を愛して礼拝を捧げ、祈りを捧げているか。
 順境の時こそ、信仰が曇ったり、ズレて行ってしまう危機の始まりなのかも知れません。
 しかし、主に信頼して願うなら、主はいつも助け導いてくださる。祝福は失われない。
 シャローム

3.12今日のみことば

2018-06-20

「「約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。」 列王記記 第一 8章56節
 かなり長い8章です。
 そして今朝読みながら驚いたことが幾つかあります。

 ソロモンに祈りは、かなり長いなと、驚きました。
 神殿の完成を祝う席での祈りですが、真剣な祈りです。形式的な祈りじゃない。
 主に祈り求めることをお赦しください、聞き届けてくださいと、節に祈っています。
 見習わなければと思います。

 捧げられたいけにえの多さに驚きました。63節です。
 数百、千と言う数字じゃない。
 捧げられて。煙りとされたいけにえと、民によって感謝して食されたいけにえがあったはずですが。
 12万頭、2万頭と言ういけにえの動物が、ほふられたのです。
 これだけの血が流され、命をもってしても主には近づくことはかないません。
 それが今、私たちは手ぶらで、礼拝できる恵を受け取っています。
 主イエスの犠牲があったからです。

 祈り求める時。
 祝福を祈り時。
 この56節のように、真摯に告白して祈りたい。
 「主は、私たちに対して、告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。」

 さあ、果たしていつも私はそのように喜び感謝しているだろうか。
 主は、祝福してくださらないのか?試練を与えるのかと、呟くことの方が多くはないのか。
 もう一度、主が与えてくださっている恵の約束を噛みしめながら、祈りたい。
 シャローム

3.11今日のみことば

2018-06-20

「ソロモン王は人をやって、ツロからヒラムを呼んで来た。」 列王記記 第一 7章13節
 6章38節によれば、神殿建築には七年かかっています。
 そして7章では、ソロモンの宮殿には13年かかっています。
 宮殿の建築にたくさんの力と時間を注いだと言うのではなく、資材や労働力など様々な問題で時間が余分にかかったと言うことのようです。
 12節までが,ソロモンの宮殿の様子ですが、仮に再現建築を試みても、とてもできそうにないほど簡単な説明です。
 神殿と隣り合わせのような位置にあるので、宮殿の説明もしているのでしょう。

 そして13節以降は、再び神殿の建築に関する記述が始まります。
 やはり、こちらが重要です。
 ヒラムと言う人が重要な仕事をします。
 続く14節では「ラムは青銅の細工物全般に関する知恵と、英知と、知識とに満ちていた。」と、紹介されます。
 ヒラムが、神殿で使う調度品、祭時に使う洗盤などの一切の物を作ったのです。
 その記述は、とても細かい。

 モーセが荒野で、天幕の聖所を建築した時も、その飾りに至るまで記していました。
 ここでもそうです。ヒョウタンの模様などの記述があります。興味深いです。

 でも大切なことは、主が背後において導いてくださっていると言うことです。
 51節で完成を記す記述には、ダビデが用意した各種の器具類も運び込まれたとあります。
 ダビデに主が語られた(7章13節)通りに、ソロモンが後を継ぎ、神殿を建てたのです。

 主の約束は、ことごとく成就し、私たちに恵みを与えます。
 素晴しい神殿も,自分の栄誉のために建てるなら,失敗するでしょうが。
 主が恵みとして与えてくださるなら、その完成は喜び感謝になるでしょう。
 シャローム

3.10今日のみことば

2018-06-20

「わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」」 列王記記 第一 6章13節
 13節「中に住み〜捨てることはしない。」
 12節「わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら」
 この二つの節に記される文章が、どれほど大切で価値があるのか、私たちは知らなくてはいけないのです。

 ここ6章は、ソロモンの建てた、宮、主の家の様子が記されます。
 建物探訪と言う視点で見てもかなり興味深い内容が続きます。
 二つのケルビムが羽を広げて置かれている様子は圧巻です。叶うことならば一度この目で見たいと思います。
 素晴しい神殿、至聖所です。

 もし、現存していれば、間違いなく世界遺産です。
 けれど立派な建造物であることには、本当の意味も価値もないのです。
 この国にも近年、特に大型、地上からの高さを誇る宗教施設、像が作られました。(個人的には他の宗教であることを除いても、建造物として美しいと思った物はないのですが)
 それらには神と人との双方の交流がありません。
 人が一方的に作っているに過ぎません。人の自己満足です。

 しかし、主はダビデには宮の建造を許しませんでした。ダビデに与えた使命は違うのです。
 しかし今、ソロモンにはお許しになりました。
 そこで大切になるのは、12節の、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むならと言うことです。
 そうすれば13節、わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。
 祝福と守りは失われることはない。
 主の臨在のない宮など、張りぼてのトラならぬ宮。ただの建物です。

 主は、私を愛してくださった。見捨てるつもりなら、とうに見捨てられていた私でした。
 でも、主は先に犠牲を払って愛してくださった。
 だから今、主のことばを聞き,従って歩むことは喜びです。難業苦行ではない。
 すると主は更に祝福してくださって、わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。と,声を掛けてくださる。

 主の家,宮を見る時に、このことを心に覚えるからこそ価値があるのです。
 だから今朝、6章を読むことで、ソロモンの宮を見るのと同じなのです。主の恵みの約束を思い起こせます。
 シャローム

3.9今日のみことば

2018-06-20

「あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」テサロニケ人への手紙 第二 2章17節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「テサロニケ人への手紙 第二」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。
 先の第一の手紙を書いた後、新しい問題が生じたので、この手紙を書き送って、間違いを正そうとしました。
 第一の手紙の数ヶ月後のことと、考えられています。やはりコリントで書かれました。

 特にパウロが問題としたのは、テサロニケの教会の人がパウロの手紙を誤解したり、他の惑わす言葉によって、既に「主の日」が訪れたと思っていることでした。
 その結果、落ち着かなくなってしまった人。
 もう、主の日は来ているのだから何もする必要はないと、怠惰な生活をする人たちが現れたことです。

 パウロは2章1,2節で「霊によってでも、あるいことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも」と、言います。
 その意味は、これらのことから、主の日が来たことは証明されていない。
 主の日は、まだ来ていないのだから、間違えないように、惑わされないようにと、忠告を与えます。
 そして、主の日が来る前には起きることがあると、示します。

 しかし、パウロはただ誤りを正したいと言うことではないのです。
 主の日は、確かにまだ来ていません。それは今朝の時点でもそうなのです。そう確かに。
 しかし主の日は必ず来ます。
 その日は、時は分りません。主にとっては千年も一日のようなものです。
 それなので、その瞬間まで、すべきことがあると、示すのです。

 ここ2章17節では、大切なことを教えてくれます。
 良いわざに励むことは、誰にでも納得できるものでしょう。
 いや、多くの人が自分自身でもたどり着ける教えかもしれません。自分がそれを十分に果たしているかどうかと言う評価は別にしてですが。
 しかしここでは大切なことがセットで示されます。
 ことばに進むようにとの、教えです。
 「ことば」とはもちろん主のことば、聖書の生きている神のことばを指すでしょう。
 自分で良いことをしていますと言うのでは足りないのです。
 まず最初に主のことばに絶対の信頼を置き、主を愛して、そのことばに従う時にこそ、良いわざが、本当に良いわざとなるのです。

 日々、みことばに親しみ、主との深い関係を結んでいるのならば、既に主の日が来たなどという「人間の言葉」に惑わされたり、不安になったりしなくてすむのです。
 いや、不安になったとしても(私たちは弱いので、そのように感じる時があります)それが主のことばに深く根ざして進む内に、癒され慰められるのです。

 恐れるな。主は、わが救い、わが岩、わがやぐら。
 主のことばに信頼を置いて従う者を、主が強めてくださる。
 恐れ不安にも、主が共に立ち向かってくださるのです。
 シャローム

3.8今日のみことば

2018-06-20

「ところが、今、私の神、主は、周囲の者から守って、私に安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。」 列王記記 第一 5章4節
 ソロモンは、父ダビデと親交のあったツロの王のヒラムに神殿建築のための助力を願い出ます。
 ヒラムの元には、神殿建築に欠かすことのできないレバノンの杉の樹とそれを切り出す優秀な技術者がいることを知っていたからです。

 ソロモンはダビデとヒラムが親しかったことと、ヒラムがソロモンの元へお祝いの使者を送ってくれたので、安心して願い出ることができました。
 その時に、ソロモンは自分の治世の優秀さや力を誇ったりしません。
 愚かな息子は、自分の方が父よりも優秀で偉大であると、思わせたいものです。
 しかしソロモンがヒラムに伝えている大事なことは、ただひとつのことです。

 「私の神、主は、周囲の者から守って、私に安息を与えてくださり」
 今の平和も繁栄も、すべては主が与えてくださっているものですと、告白するのです。

 災いから守られ。
 恵みを与えられている。
 それを他の人に証しして、告白する。

 ソロモンが本当に知恵があり、広い心を持っていることがわかります。
 私たちも、自分のことを語る前に、主が与えてくださるあわれみと恵みを語る者でいたいと思った朝です。
 そのような心と行動を取っていれば、その人の周辺から災いは引き起こすことはないでしょう。
 シャローム

3.7今日のみことば

2018-06-20

「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。」 列王記記 第一 4章29節
 4章は、ソロモンの治世の時、イスラエル国家が平和で豊かな国であったことを記します。
 19節までは、国を12の行政区に分けて治めさせていたことを示します。
 それぞれの行政区から食料が治められて、国は繁栄していました。
 25節には「安心して住むことができた」と言う言葉があります。これは、戦争がなく平和であったことを示しています。

 サウル王、ダビデ王の時代とは違って、ソロモンには戦いの記述がありません。どれほど平和で繁栄していたかが分ります。
 それはすべて主が「非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。」ことに尽きるのです。
 軍事力が優れていたことや、収穫物が桁はずれて多くて国力が強くなったことが、平和と繁栄をもたらしてのではなかったのです。
 主がソロモンに与えてくださった、知恵と英知と、広い心が、その源でした。
 富や戦争がない平和は、その結果もたらされたものでした。
 ソロモンが3章9節で求めた、知恵と聞き分ける心が正しかったのです。
 ですから、主は惜しむことなく豊かに注ぎ与えてくださったのです。

 私たちが主に願い求めるべき、正しい判断力、聞き分ける心とはなんでしょうか。
 正しい判断力は、日々、「しもべは聞いております」との姿勢で開いて聞く聖書の言葉に従うことで実現するはずです。
 今すぐに、私たちにはダビデのように剣を手にすることは無いはずなのですから、戦いの末の平和ではなく、人と人との間での関係における平和が大切です。
 それは聖書の言葉に信頼して従う時に叶います。

 聞き分ける心、広い心は、主を愛して、隣人を自分自身を愛するように愛すると言う、イエス様の命令に従うことで、少しづつ備わっていくはずです。
 愛することなく、広い心で生活することはできないはすですから。
 全ては、この聖書66巻から、静かに聞く所から始まります。
 聞く時、主に豊かに与えられるのです。
 シャローム

3.6今日のみことば

2018-06-20

「ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。」 列王記記 第一 3章3節
 ソロモンが王となった最初の頃の出来事が記される3章です。
 よく知られているのは、この後ソロモンが主に知恵を求めたので、主がそれを祝福されて、誰にも勝る知恵と判断する心を与えてくださったことでしょう。
 しかし今朝は礼拝の朝です。この3節と1節が気になりました。

 ソロモンはここで高き所で香をたいています。
 宮がまだ建てられていなかったからと説明されます。
 そして1節には、エジプトの王であるパロの娘をめとったことが記されます。
 これはエジプトとの争いを避けるために政略結婚をしたことを示しているでしょう。

 これらの行動は、後になってソロモンが主だけを信頼して歩むことから外れて行ってしまう前兆に思います。
 後にソロモンにたくさんいた外国人の妻たちは、王宮に偶像礼拝を持ち込み、ソロモンを惑わします。
 その始まりがこの1節です。
 そして高き所でいけにえを捧げる行為も、そのような偶像礼拝を避けることに心を砕くことを鈍らせているようです。

 ダビデに関しては、聖書はこのような紹介をしていません。
 即ちそれは、ダビデが主だけを信じて、礼拝をし、いけにえを捧げることに、いつも注意を払っていたからでしょう。
 ダビデの時代にも、宮はまだありません。
 サウル王も、高き所に行きました。
 その差が、時間が経つにつれて大きな影響を及ぼすことを、聖書は教えてくれているのです。

 私たちには今、日曜日の礼拝の場が与えられています。
 どこで礼拝するのか。
 祈ること。
 捧げものをすることへの指針もあります。
 それを大切にすることが、長い人生に影響を与えるのではないでしょうか。

 私たちが今、共に礼拝する信仰者との交わりが、互いによい影響を与えてくれます。
 ソロモンに対して、外国の神々を慕う妻たちが影響を与えてしまったのとは、真逆にです。
 私たちが、主イエスを知る者として、互いに愛し合うことは、互いに礼拝する者として、良い影響を与え合うということにも繋がるのです。
 シャローム

「今日のみことば」メールの配信

ここに記している今日のみことばは、希望される方には毎日、指定のアドレスに配信をさせていただきます。
毎朝7時頃を配信時間の目安として送っています。
希望される方は、下記のアドレスまでご連絡ください。

シティリジョイスチャーチ 牧師榊原康成
cityrejoice-ch@kcf.biglobe.ne.jp

3.5今日のみことば

2018-06-20

「あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。」 列王記記 第一 2章3節
 ダビデの惜別の言葉,息子ソロモンへの遺言であり,命令です。
 突き詰めれば、ダビデが残し,命令した言葉は「主を愛し,主のことばに、いつでも従え」と言うこと。

 見えないところでおこなったことも必ず暴れて、その行ないに応じて,主のさばきを受けるのです。
 ダビデの死後に、王となったソロモンが、ダビデに対して罪をおこなった者、見えないところで悪をおこなった者に刑罰を与えていくことになります。
 ソロモンが厳しく取り締まったのではありません。
 主が、彼らの罪をそのままにして。ソロモン王の時代を迎えさせなかったのです。

 ダビデは,彼らとは違っていました。
 どんなに苦しくても、サウル王を呪ったり,殺害しようとはしませんでした。
 主を一番にしていたのです。いつも、いつでも、です。

 主の道とは、どんな道なのでしょう。
 時には、ダビデが通ったような苦しく,涙するような細い道かも知れません。
 しかし祝福の道です。義と愛の道であることは確かです。
 主を愛し、主のことば、さとしを守るならば、さばきではなく,主から栄をいただけるのです。

 でも、間違えないでおこう。
 報酬ではない。
 先に主の恵みが与えられ、主のことばを信じて従うならば、祝福が注がれ,奪いさられることはないということです。
 恵みなのです。
 どこまでも主の一方的な恵みが注がれているのです。
 シャローム

3.4今日のみことば

2018-06-20

しかし、祭司ツァドクとエホヤダの子ベナヤと預言者ナタン、それにシムイとレイ、および、ダビデの勇士たちは、アドニヤにくみしなかった。」 列王記記 第一 1章8節
 今日からは次の書、列王記の第一にはいります。

 ダビデ王が晩年となり、寝室で寝ている状況が続いているところから、列王記は幕が上がります。
 まさに王の物語です。
 ダビデの次の王は、主がバテ・シェバとの事件の後、ソロモンに王位が引き継がれることを示していました。
 しかしこの時は未だ、王位が継承はされていませんでした。

 ダビデ王の息子の一人アドニヤは、自分が王になろうと画策し、将軍や祭司、兵士たちを手に入れて。自ら王と名乗って、既成事実を作りあげてしまおうとします。
 そして多くの人を招いて,祝宴を張り、王座に付いたことを表明しようとしました。

 しかしそこには真にこの時,ダビデ王の重鎮、王が信頼を置く人たち、勇士は招かれることはなく、また、彼らはアドニヤを支持しません。
 人数をより多く集めて自分の力を誇示し。
 ソロモンや他の人たちよりも,先に王佐に付くのは自分であるべきだと、表明しても。
 祝宴を張り、多くの人が賛辞の声を張り上げたとしても。
 イスラエルの国においては決定的に欠けていることがあります。

 それは祭司に油を注がれて王とすることです。
 祭司ももちろん,自分の好みや、自分の都合でそれを執り行なうことなどできません。
 主が任命する王なのです。

 主を信じる者、祭司ならば主から示され,核心がなければ油を注ぐことなど勝手にはできないのです。
 アドニヤはこのことを忘れていました。
 主はすべてをご覧になっているのです。

 この地上の世界の知恵者、力ある者、美しく人気者であることが、王となるのに相応しいことではありませんでした。
 小さくても大きい。弱いけれど強い。後の者が先になる。
 逆転の価値観が、主の与えてくださる恵みの価値です。

 ソロモンが王レースに出遅れた,失敗したとは、イスラエル,聖書、主の前にはそうはならないのです。
 そのことを知っている,主を本当に信じて日々を歩んでいる人たちは,この時,アドニヤにはくみしなかった,認めなかったのです。
 私たちの日常でも,人の評価に左右されずに、主の視点を持ち、主を信じてどうすべきかと考えて,祈り行動したい。
 主は必ず,正しく,愛のある歩みを後になっても祝福してくださる。

 大勢にくみしない勇気と愛を与えてください,主よ。
 シャローム

3.3今日のみことば

2018-06-20

「こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。」 サムエル記 第二 24章25節
 事件の始まりは少し分かりにくい。
 ダビデが側近の反対を、押し切りイスラエルの人口調査を始めます。
 これは罪だと、聖書は指摘します。
 要するに、ダビデが自分の力を過信し、自分はもっと力があることを示すために人口調査を始めたのです。
 人口調査は、成人男性の人数を数えることです。
 それは軍隊の力を計ることです。

 主に頼るのではなく、軍事力に頼っていることを示す行為です。
 そこには奢りが見えます。
 そしてイスラエルお真の王は主です。
 人口調査は主の許しがなければ行うべきではありませんでした。

 新約の時代になって、イエス様が誕生する時には、イスラエルを支配するローマの皇帝が、人口調査を命じています。
 そこに真のイスラエルの王が、一番力のない所で生まれました。
 この事件と被るように感じます。

 しかしダビデはやはり素晴しい信仰者でした。
 自分の間違いに気がつくと主の前に悔い改めるのです。

 主は、ダビデと国中の人々の祈りに心を動かされて、赦しを与えてくれます。
 主は、どこまでもあわれみ深い。
 心を砕いてへりくだり、悔い改める者には、あわれみをかけてくださる。

 主の前に、もう遅いと言うことはないのでしょう。
 自分の罪を気がついたなら、悔い改めるのです。
 罪を認めること。悔い改めることができる人が、真に強い人です。

 軍事力ではなく、素直な心です。
 サムエル記の最後が、主の赦しで終っていることは嬉しいことです。
 希望で終っているからです。
 シャローム

3.2今日のみことば

2018-06-20

「ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。」テサロニケ人人への手紙 第一 3章6節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「テサロニケ人人への手紙 第一」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。
 テモテをテサロニケの教会に派遣したパウロは、コリントに移動して、そこでテモテの報告と彼が戻って来ることを待っていました。
 パウロはテサロニケの教会の人々の信仰と愛を、大変喜んでいました。
 しかし同時にこの時、教会に入り込んでいた間違った理解を正して指導する必要も覚えてこの手紙を書きました。
 再臨について強調して教えるこの手紙ですが、信仰と愛い満ちている手紙でもあるのです。
 間違いを正し、教える内容を書きながらも、愛に満ちた手紙となっています。

 それにしても。現代にように一瞬の内にメールが届く時代ではないのです。
 旅をしながら都市の間を移動し、先に書き送った手紙の返事を待ち、また手紙を受け取った相手の様子を聞くまでの時間は、本当に長く、心も乱れたことでしょう。

 パウロが、主イエスの再臨が近いことを教えたので、一部の人はそれを間違って受け止めました。
 それは、もうすぐにでも主が再臨をされるのだから、働く必要もないと考えて、仕事をしなくなってしまった人がいるのです。
 また、別の人は、主イエスが再臨をしてくださった時には、既に死んでしまった人は、主イエスの再臨の恵みに預かることができないと、考えて悲しんでいたのです。
 また、いつの間にか以前の生活、異教的な生活に戻ってしまう者もいたのです。
 パウロは、これらのことについて、正しく指導をしなければなりません。

 しかし、それにも増してパウロは喜んでいます。
 パウロは、テサロニケの教会の人々を愛していました。
 それはパウロの一方的な愛では終りませんでした。
 テサロニケの人々もパウロを愛し、互いに愛し合うと言う信仰の教えを実践してくれていたのです。
 このことはパウロを励ましました。

 キリスト・イエスを信じて、愛と信仰を守る生き方は、遠く距離は離れていても、同じ信仰を告白している信仰者を励ますことになります。
 貴方がキリストを信じて、神と隣人とを愛する生き方をすることが、罪の世界にキリストの愛を広げていく一歩になります。
 それは小さな一歩ですが、小さくはない大きな一歩なのです。
 キリストに在って、愛と信仰は切り離すことのできない大切なものです。 
 シャローム

3.1今日のみことば

2018-06-20

「彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。」 サムエル記 第二 23章10節
 ここにはダビデの部下である人たちの名前が勇士として紹介されています。
 15節以降で紹介されている内容からも、ダビデがサウル王から追われている時から、行動を共にしてダビデを支えた勇士であったことがわかります。
 またここ10節では「自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまで」と、記されます。
 剣を握りしめていた手の筋肉が固まってしまうまで勇敢に戦い続けたのだということを強調しているわけです。
 様々な表現で、ダビデと共にいる人たちが、どれほど勇敢な有能な人たちであったかを示すわけです。

 この人たちにダビデは、謀反人としてサウル王に追われている時からずっと戦ってきたわけです。
 そしてずっと、主を信頼して歩んできたのです。
 だからここに名をあげられている人たちは、ダビデを慕い。信頼して従ってきたのです。
 一人一人、大切な人です。

 そしてこの勇士たちの最後に、39節でその名が上げられているのは「ヘテ人ウリヤ」です。
 紹介もこれだけです。
 だが、この名前が上げられていることの意味は大きい。
 何故なら、このウリヤは、ダビデがその妻であるバテ・シェバを奪って、ウリヤを死に追いやったその人だからです。
 ダビデ本人も、後世の人もみんなが、勇士の中にウリヤの名前があることで、神様の前に罪深い自分を知ることができます。

 主とと共に生きなければ、勇士ではなくなってしまうのです。
 過去の罪は消せません。だから、ダビデもウリヤの名前を隠しません。削除しないのです。
 けれど主からは赦しが与えられます。

 恵みの赦しです。
 行ないによる、功績によって勇士に与えられる赦しではありません。
 悔い改めた人に与えられる恵みの赦しです。
 それを知った人が、真の勇士となり名前が神様に覚えていただけるのです。
 貴方の名前もあります。
 シャローム

2.29今日のみことば

2018-06-20

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」 サムエル記 第二 22章31節
 突然の「うた」が歌われます。
 1節にある通り、ダビデがサウル王から助け出された時に歌ったのだと、言われます。
 ここにあるのは、散文ではなく詩です。そしてダビデの信仰の告白の言葉です。
 更にこの詩は、詩篇18篇とほぼ同じ内容です。
 また、聖書の他の箇所と照らし合わせてみても、ダビデがいつこの歌を歌ったのかを定めることはできません。

 しかし、この歌、詩から明確に分ることがあります。
 信仰者がいると言うこと。
 ここには自分の力でサウルを撃退して助かったのではなく、主によって自分が救い出されたことを確信している信仰者がいます。ダビデです。

 今朝ひとつの特徴、私が見習うべきことを見つけました。
 主がどのような方なのかを知り、その主のことをほめたたえることです。

 救い出されました。なので感謝の声をあげます。
 当然です。
 いや、それができない人もいるのですから、ちゃんと感謝をこうして言葉にできることは大切です。
 でも、この31節や、47節の「主は生きておられる」と言う言葉をもって、主の存在をあがめて、ほめることは大切なことなのです。
 ここには「主のみことばは純粋」との言葉があります。
 純粋とは、混じり気がなく、確かなことを現します。
 主には誤りはなく、主の道、主のことばだけが確かです。もし、自分が救い出されなかったとしても、主の道は純粋なのです。

 助けてくださったので、感謝。
 助けてくださった、その力を、賛美。
 助けてくださらなかったとしても、なによりも、主の存在を、賛美。

 主の存在に心が向いている言葉がこうして、ここにあることが凄い。
 私はどうか。
 「主は生きておられる」
 「主は完全」
 「主の道は確か」
 主のみことばは純粋」
 こんな言葉、歌をもって主を見上げて、賛美しているだろうか。

 今日も、主が、私にしてくださり、導いてくださることは、完全で、そのことばは純粋、なのです。
 なので平安に従えます。
 シャローム

2.28今日のみことば

2018-06-20

「こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」 サムエル記 第二 21章14節
 21章は、丁寧に読んでもなかなか難しいと、感じます。旧約聖書の歴史書には、時折このような記事があるので、順番に読み進めていても混乱します。
 14節までの内容と、15節の内容が、時系列で繋がっていないようです。
 その上、14節までも、20章の出来事の後に起きたことではないようです。
 こう言う書き方をしても、当時のユダヤの人々は、混乱しないのでしょうね。でも、私は悩んでしまいます。
 これらの出来事が起きたのは、20章より前だと思います。
 今日は、14節までの、そこにある内容だけを読み取りたい。

 イスラエルに長くききんが起きました。
 どうやらそれは、サウル王がギブオン人たちに行った冷血な仕打ちに対する主のさばきの結果だったのです。
 ダビデは、その原因を探ると同時に、その解決のために、サウルの子どもたち(どうやら彼らも虐殺に加わっていたようです)を、ギブオン人に引き渡します。
 処刑された息子たちのために、サウルのそばめのアヤの娘リッパは、その亡骸が鳥や獣によって荒らされないように寝ずに番をします。
 この行ないはダビデの心を動かします。
 ダビデはサウルとヨナタンの骨を携えてきて、彼らの骨と共に墓に葬ります。
 野にさらしたままにしないことが、赦しを現し、ダビデの配慮を示します。
 国中の人々も王の行為を良いものとして受け入れます。

 その結果、主のさばきは止み、雨が降ります。
 「神はこの国の祈りに心を動かされた。」
 これは主が、さばきではなく恵みを与えてくださったことを示す表現です。

 殺すのは正しくありません。当然です。そこにはさばきがあることです。
 しかし殺した者も、さばかれた者にも、主のあわれみは注がれます。
 アヤの娘リッパの心、愛情。
 ダビデの赦しと配慮。
 それが主の御心を動かしました。

 主の御心を動かし、赦しと恵みを引き出すのは、隣人や敵への愛と赦しの心なのだと教えられる個所です。

 それは私たちには難しい。
 けれども主は愛とあわれみの神、その方を礼拝する日曜日です。
 シャローム

2.27今日のみことば

2018-06-20

「 私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者のひとりです。あなたは、イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。あなたはなぜ、主のゆずりの地を、のみ尽くそうとされるのですか。」」 サムエル記 第二 20章19節
 まだまだ国がダビデを中心に一つにまとまっていません。
 今度は、シェバと言う人物が、言葉巧みに人々を引き入れます。
 このシェバを追って行ったのがヨアブと彼に従う兵士たちです。

 アベルと言う町にシェバと彼に従う軍が入りました。
 当然ヨアブたちは、この町に迫ります。
 その時、一人に女性が立ち上がり、ヨアブに語りかけます。
 この町を戦場にして破壊するつもりなのかと言う訴えです。
 そしてこの町は、昔から大切な町のはずなのだから、戦場にしないで欲しいと言うことを訴えるのです。

 ヨアブは、自分たちの目的はシェバを打つことだけだと、答えます。
 この後、この女性がシェバを打つことで、町は守られるのですが。
 ここで女性が訴えたことの中で、大切なことは「主のゆずりの地」と言う言葉です。
 重要な町であると訴えていますけれど、それは交通の要所、豊かな町と言うことではありませんでした。

 主が与えてくださり、主が大切に思ってくださる地だと言うことでした。
 ヨアブは、この訴えに応答することができました。
 これは大切なことです。

 紺野シェバも、アブシャロムも、主を中心にしていくこと。
 主の恵みを中心にして、大切にすることができませんでした。
 しかしダビデの仲間は、それができました。
 ヨアブの戦いの最中に、よく一人の女性の声に耳を傾けることができたものです。
 これは、だビデの姿勢に習っているのです。
 ダビデがどんな不利な時でも、主の恵みと守りを大切にしたことに習っているのです。

 主の恵みを大切にすることは、今の私たちにも大切なことです。
 どんな危機の時も、主のゆずり、主が与えてくださる恵みを、大切にする時には、主の更なる守りが与えられるのです。
 シャローム

2.26今日のみことば

2018-06-20

「イスラエルの人々はユダの人々に答えて言った。「われわれは、王に十の分け前を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っているはずだ。それなのに、なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言いだしたのは、われわれではないか。」しかし、ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばより激しかった。」 サムエル記 第二 19章43節
 ダビデに謀反を起こした息子のアブシャロムは、戦いに敗れて亡くなりました。
 しかしイスラエルの部族の間では、ダビデにつくか、つかないかと言う駆け引きがおこなわれているようです。
 ここではヨルダン川をダビデが渡る時に、ユダ部族が力を貸したことに、イスラエル10部族が怒っています。
 ヨルダン川を渡る権利をイスラエルズ族が持っていたのかもしれません。
 同時に、まだダビデに力を貸すのかどうかを探っているイスラエルの部族の存在が、これらのやり取りからわかります。

 どうやらこの頃にはもう、その後北と南に別れてしまうイスラエル国家の弱点が見えます。
 そこにはそれぞれの人が、自分の利益を求めたり、メフィボシティのように自己弁護をしなければならない立場の人が様々に入り組んでいることが起因しています。
 また、ダビデが自分を殺そうとまでしていた息子のアブシャロムが亡くなったことを非常に悲しんだため、ダビデのために戦った人々の心を傷つけたと言う事実もあるのです。

 19章と続く20章も、このような権力争い、自己保身、名誉回復などの、人々の思いばかりが前面に出てくる箇所です。
 本当に勝手な人々の姿があります。嫌になってしまう。
 それでも問題はひとつづつ解決していくのは、背後に見捨てない主の守りがあるからです。

 やはりダビデが祈らない。
 ダビデが、人々を励ましたり、慰めたりすることをしないことが問題でした。
 悲しみの中に有っても、苦悩している最中でも、祈り主との関係を深めなければ、本当の解決や平安は得られないと言うことでしょう。
 シャローム

2.25今日のみことば

2018-06-20

「アブシャロムはダビデの家来たちに出会った。アブシャロムは騾馬に乗っていたが、騾馬が大きな樫の木の茂った枝の下を通ったとき、アブシャロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていた騾馬はそのまま行った。」 サムエル記 第二 18章節
 父ダビデとその仲間を打ち破るために自ら出撃していたアブシャロムでした。
 しかし慣れない戦闘のために、アブシャロムの軍団の兵士は敗れて、敗走する密林では、更に多くの兵士が倒れていきました。
 そしてなんと、アブシャロムも樫の木の枝に首を引っ掛けてしまい宙づりとなってしまったのです。

 イスラエルの王の地位を狙い、父ダビデの評判を悪賢い作戦で落として、ここまで上手くやって来たのですが、最後はあっけなく幕が下ります。
 自ら、功績を立てようと戦闘の前線に赴きながら、不注意で命を落とすことになってしまうのです。
 しかもこの危機に誰も彼を助けようとはしません。
 彼が参謀のアヒトフェルを信頼できなかったように、人々もアブシャロムを信頼しなかったのです。
 しかし敗走中のはずのダビデは、彼を信頼する仲間によってこの戦いには参戦しないで、最初から守られていました。

 二人の違い。勝利と敗北を分けたものは何であったのでしょうか。
 それは主を信頼して、いつも変わらない歩みをしてきたかどうかです。もちろんそこには祈りが在ったかどうかも大切です。
 苦しい時、サウルに追われた時も、息子の謀反への対応の時も、ダビデが主を一番にして、信頼していた姿勢は変わりません。
 その姿勢は、仲間や部下にとって、安心して従えるリーダーと映ったことでしょう。

 私たちには先のことを見ることはできません。
 戦いの途中に敵に倒されるのではなく、気に引っかかって敗北するなど、想像も、予見もできないことです。
 だからこそ、主に信頼して歩むことが大切です。
 悔やんでも、惜しんでも起きてしまったことは変えられないから。
 主に信頼しつつ、日々、歩むことが大事です。

 もっともアブシャロムについて言えば、15章の6節で、姑息な方法で人々の心を盗んだ時点で、この敗北は決まっていたのではないでしょうか。
 小さなことを忠実におこなう。偽りの証言をしない。これら主のことばに誠実に向き合わないで、自分の思い通りに生きたことが、招いた結果なのだと、感じます。
 失敗しても、その度に主の前に進み出て、祈り行動するダビデには主の守りがあるのです。
 シャローム

2.24今日のみことば

2018-06-20

「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」コロサイ人への手紙 2章3節

 今朝は、「コロサイ人への手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。やはり前のエペソ、ピリピと同じように獄中で書かれた手紙です。
 コロサイの手紙の受け取り手である教会は、なかなか興味深い教会です。
 まず、パウロと一緒に獄中にいるエパフラスがコロサイの教会の人です。
 ピレモンへの手紙の受け取り手であるピレモンは、コロサイの教会の重要な指導者の一人です。

 当時のコロサイの教会には、様々な間違った教えが入り込んでいました。
 そのため、そのことに対処するためにパウロに会いに行ったエパフラスも、捕えられて獄中の生活をしたのです。

 間違った教えとは、律法主義的ユダヤ教の教え等です。
 食べ物や祭りの規定などを、ユダヤ教のままに守るべきだと言う教えは間違っていました。
 また、むなしい、だまししごとの哲学と、パウロが、ここ2章8節で呼ぶ教え等がそう言う間違った教えです。

 ここ3節では、すべての宝が明らかにされたと、語ります。
 奥義、秘義とでも呼ぶものが隠されていて、云々と言うことはないのです。
 天の御国も奥義もすべてキリスト・イエス空かしてくださったのです。
 すべて私たちに必要な一切を、イエス様が語ってくださいました。
 必要なものは、すべてキリスト・イエスを通して与えられる、与えられているのです。
 ですから、まことしやかに、特別なことが隠されていて、それを知らせようなどと言うことを輩を信じてはいけないのです。

 私たちを惜しみなく愛し、すべてを与えてくださって十字架で死なれたイエス様が与えてくださっていないものなどないのですから。
 この宝とは、キリストが、罪人の私を愛してくださっていることに尽きます。
 秘密を、奥義を知りたいと思うならば、あの十字架を見上げれば、そこにすべて有ります。
 シャローム

2.23今日のみことば

2018-06-20

「アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。「アルキ人フシャイのはかりご
とは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。」これは主がアブシャロ ムにわ
ざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわ
そうと決めておられたからであった。」 サムエル記第2 17 章14節
 フシャイが、一人でアブシャロムの元に残り、ダビデの敵を内側から倒すため
に働き機会が巡ってきました。
 アブシャロムの参謀はアヒトフェルであり、彼が今回立てた計画は良いもので
した。
 それはダビデの危機となるはずでした。
 しかし、アブシャロムが、フシャイに更にアドバイスを求めたので、それが崩
されることになります。

 背後に、主が働いておられるのです。
 アブシャロムは、ここまで、一度も祈っていません。
 イスラエルの王は、主にだけ信頼して、礼拝を捧げ、事あるごとに祈らなくて
は、正しい判断も政策もできません。
 しかしアブシャロムにはそれがありません。

 そのくせ、心配をするので、二人の人物からアドバイスを得ようとして、主に
崩されるのです。
 イスラエルの真の王は、主だけです。主だけが王の王です。

 私たちの人生も同じです。
 私の人生の王は、主イエスです。私が王になってはいけないのです。
 いや、ならなくていいのです。
 主が、私の人生に最高の恵みを与えてくださるのですから。
 祈りつつ、賛美の声を上げて、主に委ねて従うのです。
 それは制限を受けて苦しいことではなく。自由がないのでもありません。

 愛の主を信頼して、決断をする時に、最高の人生となっていくのです。
 祈らなければ、アブシャロムのように、心配ばかりが沸き上がり、人にばかり
頼ることになります。
 しかし、主に信頼しない毎日は平安もなく、祝福も失います。

 誰が私の王なのか?
 王は、私を完全に守り、愛してくださる方です。
 その方を私は知っています。
シャローム

2.22今日のみことば

2018-06-20

「ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。」 サムエル記 第二 16章11節
 とても人間と言うもの、人間関係について教えられる16章です。
 とてもとても興味深い。

 順境の時は良い。逆境の時にこそ、人の本心が現れ、人の真の好意が現れます。

 追われているダビデに、食事を差し入れるツィバですが、企みを持っています。
 彼の主人のメフィボシェテはサウルの息子であったヨナタンの遺児です。
 彼が、逆境のダビデを追い出し、サウル王の正当な継承者として王位を狙っているように、言葉をたくみに扱って、ダビデを騙すのです。
 主人を裏切り、ダビデを騙して、自分の利益を最大限に取ろうとしている男がいます。

 一方でこんな男もいます。
 自分の主人であるダビデが侮辱されたことに怒り、相手を滅ぼさせてくれるように、ダビデに願い出ます。
 追われる身になり、権力もないダビデに真実を尽くします。

 ではダビデはと、言うと。
 ここで侮辱されるのも、主のご計画であると、告白します。
 主が、良くしてくださることを知っているからこそ、このように答えられます。
 悔い改めている人は、逆境でも心の平安があるのです。

 順境でも逆境でも、変わらない心で接したい。
 順境でも逆境でも、常に主の前を歩きたい。
 順境でも逆境でも、主に信頼して、し続けたい。
 シャローム

2.21今日のみことば

2018-06-20

「王はガテ人イタイに言った。「どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは、自分の国からの亡命者なのだから。」 サムエル記 第二 15章19節
 アブシャロムの謀反が始まりました。
 彼は、戦車と馬に加えて私兵までも準備して、謀反を起こしました。
 ダビデは、わずかな人数だけを連れて、王宮を脱出します。そしてエルサレムの町が親子による戦いの場にならないようにします。

 ダビデは不思議な反応をします。
 ここ19節では、ダビデは謀反の張本人のアブシャロムを「王」と、呼んでいます。
 「謀反人」「反逆者」とは、言わないのです。
 このような事態を招いた自分を「亡命者」と、します。

 そして26節では、主が良いと思われることをしてくださるようにと、告白をします。
 最初に、主に助けてくださいとは祈らないのです。
 この事件は、自ら引き起こしたことだと自分の非を認めているのです。
 バテ・シェバ事件を心から悔い改めていればこその反応でしょう。
 自分の身の保身だけを考えて行動していません。

 一方のアブシャロムは、自分の罪を認めていません。
 また、アブシャロムに賛同してダビデを裏切った人物に「アヒトフェル」が居ます。12節。
 どうやら、この人は別の箇所の系図と比較すると、バテ・シェバの親族にあたります。このことからダビデを許せなかったので、謀反に加担したのでしょう。
 ひとつの罪が複雑な、次の罪をを生んでしまったようです。

 どこかの時点で、主に委ねていかないと、私たちは自分の感情をコントロールできないのではないか。
 主に委ね。
 主に従い。
 主を信頼する。

 罪は犯しましたがダビデが一番、信仰者としての基本を守っていると、感じます。
 シャローム

2.20今日のみことば

2018-06-20

「アブシャロムはヨアブに答えた。「私はあなたのところに人をやり、ここに来てくれ、と言わせたではないか。私はあなたを王のもとに遣わし、『なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでしたのに』と言ってもらいたかったのだ。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」」 サムエル記 第二 14章32節
 14章は、かなりややこしい。
 妹のためとはいえ、兄を殺したアブシャロムを父ダビデはなかなか赦しません。
 ダビデの将軍であるヨアブが間に入り、アブシャロムは、エルサレムに戻ることが許されましたが、同時に家での謹慎処分が科されます。
 そのことを不服に思うアブシャロムは、ヨアブを呼びつけて不平を言います。
 ここはそんな場面です。
 アブシャロムはヨアブを呼びつけるために、ヨアブの畑に火を放つと言う方法で脅迫すうようにして、呼び出します。

 ここ32節にアブシャロムの罪深い姿があります。
 「もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」と、アブシャロムは、ヨアブに訴えます。
 まず、この不平を言うために、将軍の畑に火を放った時点で「咎」があるはずですけれども。
 アブシャロムの恐ろしいところは、自分の罪に気がついていないことです。
 兄殺しを、妹の敵討ちと言う自分の正当性だけを訴えるばかりで、罪を犯したことへの悔い改めがまったくありません。

 何故、このアブシャロムを、ヨアブが最初かばったのかが理解できません。

 自分の非を認め、咎を認めて、悔い改めることから、互いの赦しや和解の道が開かれていくはずです。
 それが全く見えません。
 この姿勢が、この後には、ダビデをも裏切る生き方へと進ませるのです。

 悔い改めと、戻って来ることができた感謝の心がないことが絶望的です。
 私たちもまた、自分の咎を認めること。悔い改めること。現状への感謝を忘れないようにしたい。
 シャローム

2.19今日のみことば

2018-06-20

「彼女は言った。「それはなりません。私を追い出すなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう、悪いことです。」しかし、彼は彼女の言うことを聞こうともせず、」 サムエル記 第二 13章16節
 ダビデの家、家族に起きた悲劇を記す13章です。
 母親は違いますが、兄アムノンが、妹のタマルを力づくではずかしめ、それを知ったタマルの兄のアブシャロムが、二年後に復讐を果たして、アムノンを殺すのです。
 素晴しい信仰者であり、王であったダビデが、バテ・シェバとの事件を引き起こした結果、少しづつ家族と王国の中に罪が広がってきたと、指摘することができます。
 それはこの後も、ダビデへの謀反が起きること等に波及していきます。

 しかしそうは言っても、罪を犯すのは個人の問題です。
 ここではアムノンが、最初に責められるべきです。
 ここでタマルが答えています。
 「なおいっそう、悪いことです。」
 罪の責任を取らないことを、タマルは指摘するのです。

 この罪は、ダビデが行った罪と同様に酷い罪です。
 しかしアムノンは、ダビデと違って、罪を認めないのです。それはもっと悪い。
 その結果、アブシャロムは、満2年もの間、兄アムノンを憎み続けて、これを殺すのです。

 罪は、神には赦していただけます。社会においてはそれを償うことが必要になりますが。
 まず大切なことは、主の前に悔い改めることです。
 罪をそのままにしたり、こうして認めないで隠そうとすれば、結局自分のためにもならないのです。

 「なおいっそう、悪いことです。」と、このタマルの言葉は大切な指摘です。
 「私は主に対して罪を犯した。」タマルに指摘される前に、この言葉を告白できる者でいたい。
 シャローム

2.18今日のみことば

2018-06-20

「さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」 サムエル記 第二 12章8節
 今朝、心に留まったのはこの言葉でした。
 「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」

 ここは、ダビデの犯した罪を指摘する預言者ナタンと、ダビデとの対決の緊迫した場面です。
 一般的に考えるならば、ナタンは不利です。
 王が隠している最大の罪をたった一人で、しかも二人だけの席で真正面に指摘するのは危険でしょう。
 王が罪を認めなければ、逆に罪を着せられて処刑されても、誰も助けてはくれません。

 また、ダビデの立場で言えば、王としての自分の名誉を守ることを優先すると思われます。
 が、ダビデは即座に悔い改めました。
 ひとつの弁明もすることなく、神と人の前に悔い改めました。
 主なる神は、そんなダビデを受け入れて赦しを与えてくださいます。

 そんな緊迫の状況の中で、主が語られたこの言葉が心に響きました。
 主は、ダビデの命を守り、多くの恵みを与えてくださったことを示します。
 その上で、もしダビデがもっと恵みを欲するのならば、与えたのだと、語ります。
 もちろん、この言葉は、ダビデが望んではいけないものを欲して奪ったことを指摘するさばきの言葉であり。隠れた意味を聞くべき言葉なのは確かです。
 それは、ダビデには溢れるばかりあり余るほどのものを与えたはずだと言うことを隠した言葉、主の厳しい言葉です。
 しかしその言葉は、そのまま受け止めても良いと思います。

 もっと欲しいと願うのは貪欲で恥ずかしく、正しいことではないと、私たちは考えます。
 ところが、その一方で、私たちは主が、自分に少ししか恵みを与えてくださらないと、不満に思っているようです。
 主は、惜しんで与えてくれないと思い、主を悪く思っているのです。

 矛盾する罪深い心が私たちにはあります。

 それならば「もっと、与えてください。」と、祈り求めた方が素直で、従順だと思いました。
 なぜなら主は「わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」と、言ってくださる方なのです。
 罪を犯したり、主を悪者にして罪を重ねるよりは、素直に求めてみれば、答えは出て来るのではないか。
 シャローム

2.17今日のみことば

2018-06-20

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」ピリピ人への手紙 3章12節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ピリピ人への手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。前の手紙と同じように獄中で書かれました。
 どの牢獄に囚われていたのかは、明確ではありませんが、1章13節に「親衛隊」にも触れていることからローマに捕えられていると言うのが有力です。
 そして同じ1章の20,21節などを読みますと、パウロは処刑されて死ぬことを覚悟していたようです。
 それにも関わらず、この手紙は喜びに溢れています。
 主の救いを知っている者たちが喜ぶようにと勧めてます。
 死を目前にしてもなお、喜び、宣教に心を向けるパウロの姿がある手紙です。
 叱責や、指導的な内容もあります。けれども・・・この手紙は!
 「喜びの手紙です。

 選らびました3章の12節は有名な言葉ですが、前の11節にも「死者」と言う言葉があります。
 処刑されて死ぬことを覚悟しているパウロだからこそ、力強い言葉になっています。

 罪から救われて終りではなく、キリストに似ていくことを追求するパウロの姿があります。
 誰よりも救いの恵みを知っていますけれど、どこまでも謙遜です。
 そしてキリストに似ていくことができるのは、キリスト・イエスが自分を捕えていてくださるからだと、言い切るパウロです。

 キリスト・イエスが、選び、捕えてくださっているのなら、私もまた、パウロの様に少しでもイエス様の姿に似ていくことができます。
 キリストの恵みには、いつも希望が有ります。

 しかし同時にこの少し後の箇所である17節には「私を見ならう者になってください」と、書きます。
 なかなか自分を見本にしろとは言えませんが、死を目前にしたパウロの言葉だと思うと、この言葉にも力と説得力があります。
 イエス様の愛をを知っている者としては、これぐらい言えた方がその愛が本物だと証しできるのでしょう。分っていてもなかなか・・・言えません。
 でも、喜びの手紙です。
 私たちも、日々、確信を持って語り、喜びを持って語り、喜びに満ちて生活したいものです。その生活がそのまま「喜びの手紙」になっていくようにと願います。
 シャローム

2.16今日のみことば

2018-06-20

「喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。」 サムエル記 第二 11章27節
 ダビデがこれまでにしたことのない最大の罪をおかします。
 ダビデを信頼する勇敢な部下ウリヤの妻、バテ・シェバを奪ったのです。
 しかもその罪を隠すために、秘かにウリヤを殺そうとします。
 ダビデが直接手を下しませんでしたが、戦場においてウリヤは不幸な戦士をします。
 ウリヤも、戦場の指揮官であったヨアブも、誰一人ダビデのおこなった罪の証拠を持っていません。
 誰にもバレていないのです。
 罪を罪で隠そうとしたのです。
 ひとつの罪が次の罪を生んでしまいます。
 これは上手くいくでしょうか。

 しかし、主は御存じです。
 主は、ダビデを厳しく罰していくでしょうか。
 ここ27節に主の御心が明らかにされています。
 大切な言葉が最初に出て来ます。さばき、罰よりも先にこの言葉が示されています。

 主がダビデの罪を咎めたと言う言葉ではありません。
 「主のみこころをそこなった。」
 主の目にかなわなかった。主のみこころに叶わなかった。というふうにも表現できます。

 私たちが罪をおこなえば、主である神様が、それをさばくと言う単純なことではないのです。
 ダビデとは「愛されている者」の意味を持ちます。
 私たち、主に愛されている者が、罪をおこなえば。
 主が、その心を痛められるのです。

 さばきを恐れることよりも、私を愛してくださっている主の心をそこない、痛めてしまうことを、私たちは恐れるべきです。
 私が捧げる拙い賛美や祈りを、天において喜んで受け取ってくださる主なのです。
 その主の心を痛めてしまうことを、私たちは知っておくことが大事です。
 シャローム

2.15今日のみことば

2018-06-20

「ダビデにこのことが知らされたので、彼は彼らを迎えに人をやった。この人たちが非常に恥じていたからである。王は言った。「あなたがたのひげが伸びるまで、エリコにとどまり、それから帰りなさい。」」 サムエル記 第二 10章5節
 アモン人の王ナハシュが死んだ時に使節を送ります。
 それはナハシュ王が、ダビデがサウル王から追われていた時に保護してくれたことに感謝の意を表して、お悔やみを伝えるための使節でした。
 しかしナハシュの子で王となったハヌンの家来は、ダビデのこれまでの武勲から、自分たちが攻め滅ぼされると、進言します。
 そして使節団を辱めて送り返します。
 私たちには分りにくいのですが、4節に記される使節団の男性たちが受けた仕打ちは、ひどい侮辱なのです。
 ひげを半分そり落とされるのは、まさに相手を侮辱する行為です。
 衣の裾を切り落とせば、当時の人は下着を着用していないので下半身がむき出しとなり、人に見られてしまうわけです。これも侮辱の行為です。
 王の使者をただ送り返すとか、門前払いにすると言うことを遥かに越えた侮辱をしたのです。

 こう言う時のダビデの反応、対応は信仰者として素晴しく愛のあるものです。
 どうでしょうか。別の王様ならば、自分の託した使命をはたせないで、侮辱された使節に対して、王自身も侮辱されたと怒って、使節の男たちを罰するかも知れません。
 しかしダビデは、彼らの名誉を守るために、途中の町にかくまいます。
 ひげが伸びるまでの時間を与えて、恥ずかしくないようにしてやるのです。
 簡単なようで、こういう対応はなかなかできないのではないでしょうか。

 自分の名誉を一番に考えるならば、彼らにアモン人を打ち滅ぼすまで帰国を許さないとか、彼らを追い出すと言うこともあるのかも知れません。
 しかし、ダビデが最初に思いやったのは使者たちの名誉です。それは同時に彼らの家族の心も守ります。
 表面的な出来事に対処するよりも、その奥にある人の心を大切にしたいものです。

 神と隣人を愛する。
 自分自身を愛するように隣人を愛する。
 名誉よりあわれみを大切にする。
 このような行ないがいつもできる人が、結局はその人自身を祝福で満たしていくのでしょう。

 それは主がダビデに良くしてくださっていることを信じて、そのことにふさわしく応答しているのです。
 ダビデはこの後も戦いが続きます。しかし同じように戦いに明け暮れたサウルとの違いはやはりこういうことです。
 その根本は主を一番にするかどうかなのです。
 シャローム

2.14今日のみことば

2018-06-20

「 ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」」 サムエル記 第二 9章7節
 信仰者としてのダビデの素晴しいところは、こういう態度、公同に現れます。
 サウルの息子であるヨナタンとダビデは、親しい関係にありました。
 信仰の友として互いの関係を結んでいました。
 そのヨナタンも父と共に戦場で死にましたが、ダビデはヨナタンの子どもを探します。
 ダビデの元に呼び出されたヨナタンの子メフィボシェテは、初め恐れます。
 当然です。
 当時の社会では、先王の一族ならば、みんな殺されていくのが普通です。それが次の王建を取った者が、自分の王国を安定させる道だからです。

 しかしダビデは、ヨナタンが既に亡くなっているのに、彼との関係を大切にします。
 ヨナタンが父サウルに背いてもダビデを援助したように、今度はダビデがヨナタンに報いる代わりに、その子どもに報いるのです。
 誰も見ていません。
 誰一人、ヨナタンの息子を助けなかったとしても、ダビデを責めたりはしません。
 しかし主は生きておられる。

 ルツ記2章15,16節で、ボアズは町の人々から良く思われてはいなかったルツに対して、一人だけ優しい接して援助しました。
 ボアズはルツに対して言いました。主を信じて主を避けどころとしたルツは正しいと。
 そう伝えた後のこと。
 ボアズは自分も犠牲を払って、ルツを助けます。
 他の人からどう思われるか、他の人とは違う行動を取ることを恐れません。
 同じ主を信じる者として、正しい行動を取りました。

 この時のダビデも同じです。
 主を信じる者として、正しい行動を取り、ヨナタンの愛に対して、その息子に恵みで答えたのです。
 サウルに苦しめられたからと、孫に当たるメフィボシェテを苦しめることをしません。

 主はいつもダビデと共にいてくださる。
 その主の前に、どのように行動すべきかは自分が決めます。
 それはいつも変わらない行動としたい。
 シャローム

2.13今日のみことば

2018-06-20

「 彼はエドムに守備隊を、すなわち、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」 サムエル記 第二 8章14節
 アラム、モアブ、アモン、ペリシテ、アマレクと、ダビデはイスラエルの周辺の国々と戦い、これに勝利しました。
 戦利品は、聖別されてささげられます。王の財産になったのではなく、主のものになったのです。
 罪の世にあった宝物が、聖別されて聖なる主の所有物と変えられたと言うことです。

 ダビデは、多くの歴史上の王たちがしたように、自分の領土を広げようとして戦い、勢力を広げたのではありませんでした。
 主が、アブラハムに与えると四百年以上前に約束された地を治めるために、主に背き、罪を重ねる民と戦ったのです。
 もちろん、これはこの時代、このイスラエルの地域に限られた特別な主の戦いです。
 言うなれば、ダビデは主の剣として戦ったのです。

 ここで今、私たちが見るべきものはこの言葉です。
 「このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」
 同じ表現が6節にもありました。
 ダビデが勇士として誰よりも強く、知恵もあり、勇敢だから勝利したのではありません。
 ダビデが、主に従い、主を一番にして歩んだからです。
 ですから主は、ダビデに勝利を「与えた」のです。

 「恵みを与えた」と、読み替えても良いでしょう。
 「平安を与えた」「幸いを与えた」とも言えます。
 人生は旅路であり、困難や課題と向き合う戦いの日々かも知れません。
 しかしそこで真の勝利を与えてくださるのは主です。
 私たちの行く先々において勝利を与えてくださる主に信頼して歩みたい。
 朝一番に主の声を聞き、祈ります。
 シャローム

2.12今日のみことば

2018-06-20

「神、主よ。このダビデは、このうえ、あなたに何をつけ加えて申し上げることができましょう。あなたはこのしもべをよくご存じです。」 サムエル記 第二 7章20節
 ダビデのイスラエルの二代目王としての働きが落ち着いた時の出来事です。
 ダビデは、恵み深い主に感謝と信仰を現して、主の宮を建てたいと願います。
 最初、ダビデの側近である預言者ナタンは、ダビデの意見に賛同して励ますのですが、主はそれをする必要はないと、答えられます。

 主は、ご自分の宮をイスラエルの民が建てることを望んだことは、これまでも一度もないと答えられます。
 その上、ダビデの王国を永遠に建て、その子孫から救い主であるメシヤが誕生する約束を与えてくださるのです。
 神の宮を建てたいとダビデが言うのに、そうではなくて、主で在る神が、ダビデの王国を確立してあげようと、約束してくださるのです。
 驚くべき、神と人との関係です。
 立派な神の宮を建てた人が、御利益を受け取れるのではないのです。
 主が、愛してくださって、その人が祝福されるのです。

 ここに真の生きて働かれる神と、人が作り出した偶像の神々との違いがあります。
 いつでも主の恵みが先行します。
 しかもその恵みは素晴しいのです。

 ダビデはここで大切な信仰の告白をしています。 
 私たちも見習うべき信仰の姿があります。
 「このうえ、あなたに何をつけ加えて申し上げることができましょう。」
 このようにダビデは答えています。

 そうなのです。あまりにも主のご計画は素晴しく、完全なものなので、人が何か付け加えること等、皆無なのです。
 全能で、完全な愛の神であり、あわれみ深い方なのです。
 その方が、愛していると私に語ってくださり、私に恵みを与えて、私のための良い計画を立てていてくださると、言うのです。
 神が、私に与えてくださる計画と恵みは、完全で素晴しいものです。
 本当ならば、私はそれを受け取る資格がありません。
 しかし、受け取ればよいのです。

 ところがしばしば私たちは自分の勝手な思いばかりを主に求めて、主が、私に対して持っていてくださる素晴しい恵みの計画を押しやってしまうのです。
 自分の思い通りのことが叶うようにと、そんな願いばかりを祈ってはいないでしょうか。いや、祈っています。
 何と言う無知で無恥な祈りを私たちはしてしまうことでしょうか。
 このうえ、あなたに何をつけ加えて申し上げることができましょう。と、祈りと賛美の応答をして、主の恵みを受け取りたいものです。
 シャローム

2.11今日のみことば

2018-06-20

「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」 サムエル記 第二 6章14節
 ここは「主の箱」を二回目に運び込む時の出来事です。
 亜麻布のエポデとは、祭司がその職務を果たす時に身に付ける祭服です。ダビデも祭司の職務の一部を担っていたようです。
 さて、この主の箱を運び込む時に起きたことは,不思議で理解するのが難しいことが幾つもあります。
 一回目の失敗は,ウザと言う名前の人物が,神の箱を手で押さえたので、主が怒り彼を打たれます。
 ダビデは恐れて,神の箱をダビデの町に運び入れるのを中止して,途中にあるオベデ・エドムの家に安置します。
 主が,彼を家を祝福するのを見て,ダビデは再び箱をダビデの町に受け入れようと行動を起こして、14節で力の限り踊った訳です。

 一度目の時にウザが主に打たれたことにはウザ自身に別の問題があります。
 しかし今朝見たいのはダビデです。ダビデが考えて行動を起こした一度目と二度目に違いがあるのでしょうか。
 何が成功と失敗を分けたのでしょう。

 ダビデの主の前の態度,信仰の告白の違いではないか。
 一度目の時も確かにダビデは民と共に力の限り喜び踊っています。5節。
 しかし二度目は、誰でもなくダビデが力の限り踊っています。しかも20節の妻ミカルの言葉によれば,王服を脱いで、祭司の服をまとっています。
 ミカルには,威厳もなく,恥ずかしい姿に見えたと言うことです。
 これが大切でした。

 元々主の箱は愚かにもサムエルの息子たちが、まるで不思議な力を操ろうとするように主の箱を戦場へ持ち出したために奪われたものでした。
 ダビデも、サウル家との争いが落ち着き、王の権威を盤石なものとするために,宮に主の箱を安置したいと言う思いがあったのでしょう。
 珍しく、こんな大事なことをおこなう前に,ダビデは主に祈っていません。
 それがダビデの心に隙を生み,ウザの邪魔が入ってしまったのです。

 しかし二度目は、王としての権威など捨てて、主のしもべとして,主に従うことを喜び賛美する姿が一番に現されたので成功へと繋がったのです。
 妻ミカルには恥ずかしく見えた姿が、主の目には叶う正しい姿だったのです。
 そして誰よりも先に立ち力の限り踊り,主をほめたたえたことが正しいのです。
 一度目にあった高慢さや自分を中心にして箱を扱う姿がなくなったのです。

 主を中心にして歩んだことが、同じように見えて一度目とは違って,主に受け入れていただけたのです。
 視点を変えれば、ダビデの町が主の箱を受け入れて安置するのではなく、主が,ダビデとダビデの町を受け入れて,住まいとしてくださるのです。
 同じように見える出来事,行為でも、信仰者として、主の目にはどの様に見えるのかを考え,思い描いて,喜び力の限りおこなう時に、難しい問題も祝福へと繋がるのでしょう。
 王服を脱ぎ、主を礼拝し賛美するエポデをまとって今日の歩みを始めたい。
 シャローム

2.10今日のみことば

2018-06-20

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、」エペソ人への手紙 2章21節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「エペソ人への手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。ローマの獄中で書かれました。
 テキコによって届けられたのです。(6章21節)
 獄中であり、瞑想することも多かったのか、教会の持つ細かな問題に対する指導の内容よりは、神の救いの全体に及ぶ洞察力ある言葉が見受けられます。
 表現もパウロが使徒となって宣教に仕える様子を「キリスト・イエスの囚人となった私パウロ」と、抽象的な表現を使いながら、その意味を深く洞察して、読者に提示するところが特徴です。

 恵みによる救いを、徹底的に強調しますが。
 キリスト・イエスを信じた信仰者が、ふさわしく歩みながら、成長して、キリストの似姿になっていくことを強く勧めます。

 自分では解決できない罪を、恵みによって赦されると言う、恵みの大きさを正しく知って。
 その恵みの先に備えられている、良い業、行ないをも信じて、主イエスに似ることをもっと皆が求めて欲しいと願っていたのです。

 選びました節でも、信仰者とイエス・キリストの関係について教えますが。
 信仰者と教会を「建物」と言うモノに例えながら、信仰者のあるべき姿を「生物」が成長することにに当てはめて教えるなど、面白いです。
 私たちも招かれて集い,共に礼拝をして奉仕をする兄弟姉妹と、しっかりと組み合わされて成長していくのです。いや、いけるのです。
 主イエスがその良い行ないも備えていてくださるのですから。
 組み合わされて成長する喜びを味わいたい。
 そこには誰一人欠けることができない、大切で一人一人が価値のある存在です。
 イエス様は、私にどんな建物の設計図を引いていてくださるのでしょう。
 完成した姿は、終末の日に主イエスと再会する時に分ります。

 主題はもちろん「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」 これに尽きます。 2章5節
 私もこの素晴しい恵みを,既に受け取っています。
 それは同時に救いが確かであることを示しています。
 その恵みの中で歩む今日一日も価値ある一日になります。
 シャローム

2.9今日のみことば

2018-06-20

「ダビデは、主が彼に命じたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を打った。」 サムエル記 第二 5章25節
 いよいよダビデがイスラエル国家を統一していきます。
 もともとサウル家とダビデが争って、戦いに勝利した方が国を治めると言うことではなかったのです。
 預言者サムエルに対して主が語られたのは、イスラエルに王を立てることを主が容認すると言うことがスタートであり。
 その時も、初めはサウルに、次にダビデに主が油を注がれて王としたのです。
 民や一部の人が推薦するからと言って、王になれるのではありません。
 イスラエルの真の王は、主なる神様一人です。
 主が、全権を預けてくださっているのがダビデなのです。

 エルサレムを王の居城としたダビデは、ペリシテ人を倒す戦いに身を投じます。
 その折りも、初めに主に祈り求めるのです。
 主が、戦えと言ってくださるので、ダビデは立ち上がります。
 ダビデは、主が命じた通りに戦います。
 そして勝利します。
 続いての戦いでも主のことばに従います。

 自分の力に頼りません。
 経験にも頼りません。
 前の勝利で、高ぶって主の声に耳を閉ざすようなこともありません。
 この五章でも、二回も祈り求めます。サウルが王としてペリシテ人と戦っていた時にはありませんでした。
 サウルは、力ある勇士を自分の元に集めることに心を砕いていたのです。
 その差は大きい。

 好調の時も、苦境の時も、いつでも最初に主に祈り、主の言葉を待つ。
 主のことばを受け取ったのならば、そのことばに従う。
 主が命じたとおりにし、というのは簡単なようで難しいことです。

 いつでもすべてのことを見通され、私に恵みと守りを与えてくださる主に信頼し続けたいものです。
 あちらから、こちらに至るまで、主は私の全てを見られて、恵みを与えてくださるのです。
 シャローム

2.8今日のみことば

2018-06-20

「すると、ダビデは、ベエロテ人リモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」 サムエル記 第二 4章9節
 事の成り行きはどうであれ、イシュ・ボシュテの家の実権を握っていた将軍アブネルが、ダビデの家来に殺されたのです。
 もともとダビデに強い意思を持って対抗しようとしていたのではないイシュ・ボシュテは、気力を失い、サウル家の家を守ることなどできなくあります。
 こう言う場面で本当に信頼できる仲間や部下を持たないイシュ・ボシュテは哀れです。
 彼は、二人の男によって暗殺されてしまうのです。
 ダビデの家の者が、画策したのではありません。

 サウル家に仕える者の裏切りです。
 彼らには、チャンスと見えたのでしょう。
 イシュ・ボシュテを殺して、そのことを手土産にダビデ家に寝返れば、高い評価を受けて、報酬などをもらえると考えたのでしょう。
 いわゆる、計算高い行動を取った人たちです。

 しかしそれは大失敗に終ります。
 ダビデは、サウル王に命を狙われていた時も、サウル王を殺して問題を解決しようとは決してしませんでした。
 部下にもさせませんでした。
 サウル王が亡くなった時、彼を殺したと嘘をついて報酬を得ようとした男を罰して打ちました。
 今回も同じです。
 ダビデは、イシュ・ボシュテが暗殺されたと言って、喜んだりしません。
 暗殺者を罰して打ちます。
 ダビデはブレません。

 苦しいときに守り、救い出してくださった主だけを信頼して、従うのです。
 自分の地位が安定し、生活も豊かになったからと言って、このような行為は許さないのです。
 苦しい時も、喜びの時も、主の前に正しい事を行うのです。

 主は生きておられる。
 「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」
 いつでも、行告白して、ふさわしい行動が取れるようにしたいものです。
 シャローム

2.7今日のみことば

2018-06-20

「主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私が彼に果たせなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられますように。」 サムエル記 第二 3章9節
 ダビデの家とサウルの家との間には、長い期間戦いが続いたと、この3章は始まりました。
 全面戦争と言うよりは、小競り合いが幾度となく繰り返されたと言うことでしょう。
 そしてそのひとつの争いには、ダビデの将軍ヨアブと、サウル家の将軍アブネルとの間の戦いです。
 ヨアブは兄弟を戦いの中で、アブネルに殺されていますから、個人的にも許せず、和解したくもなかったのでしょう。

 サウル軍の将軍として力を増したアブネルですが、サウルの息子(即ち王と担ぎ上げたはずの人物)であるイシュ・ボシュテのそばめと通じるなど、その行動が狡猾で気を許せないことになってきています。
 しかしイシュ・ボシュテには、アブネルを押さえることはできません。
 8節、9節でもアブネルは脅迫まがいの言葉で自分が潔白であると、主人イシュ・ボシュテに迫るのです。

 ここでアブネルが酷い男だと分るのは、「主」や「主のことば」を引き合いに出して訴えることです。
 主を信じているからではありません。
 主のことばを出せば、イシュ・ボシュテが反論できないことを知っているからです。

 自分自身の行動を戒め、自制をする時に、主のことばに照らすのであれば正しいでしょう。
 しかし主のことばで脅すのは、主を信じていないことが明白な行動です。
 主のことばは、信頼して従うものであって、自分の欲望や弁護のために利用するものではないのです。
 御霊の実は、愛から始まり自制へと繋がるのですから。ガラテヤ人への手紙5章22,23節

 アブネル、そして実はヨアブもまた似たような行動をとります。
 兄弟の仇を取るために、この後、アブネルを騙し討ちにして殺すのです。
 憎しみや行き過ぎた野望で始まる行動は、不幸な結果、悲しみで終ります。

 主のことばに信頼して始まる行動は、ダビデのように時間はかかっても祝福で終ります。
 主のことばを信頼して、今週も歩みを続けたい。
 シャローム

2.6今日のみことば

2018-06-20

「さあ、強くあれ。勇気のある者となれ。あなたがたの主君サウルは死んだが、ユダの家は私に油をそそいで、彼らの王としたのだ。」」 サムエル記 第二 2章7節
 1節で、主の声を聞き、自分の進むべき道を確認したダビデは、ヘブロンに上り、サウル亡き後の次の王として歩みを始めます。
 ダビデは、この7節でも自分が正当な王位の継承者であることを、油注がれた者であることを訴えています。
 南ユダの人々はダビデを王と認めていきます。

 ところが8節から、争いが始まります。
 北イスラエルと言うことができるでしょう。その地域に住む人々は、サウル王の四男を担ぎ出して王とします。
 ここに、ソロモン王の後に起きる南と北の分裂王国の兆しを見ることができるようで悲しいです。

 人々は未だまだ自分の目に良いと想うことをしたいのです。
 ダビデは、大切な時に必ず祈り、主の言葉を待ってから動きます。
 王位も、自ら欲したのでもなく、サウル王から奪い取ったのでもありません。
 主がダビデを選び、サムエルが油を注ぎ、ヘブロンの人々も認めたのです。

 しかしサウルの息子を担ぎ出す人々は、祈りません。
 主のことばを待ちません。
 自分のしたいことをするだけです。

 しかし、その結果、両者に争いが起き、それがついには全面戦争に広がっていきます。
 これにはダビデの部下たちにも非はあるでしょう。

 私たちは、日常の些細なことも、大切な上にも大切なことも、いつも主の前に祈ります。
 そして自分の欲しい答えをもらおうとするのではなく、主のことば、答えを待つのです。

 ここではダビデも自己主張をしているように見えますが、彼は待っていました。
 サウル王に追われている苦しい時期もずっと、主だけを信じて、剣ではなく、祈りを武器としてこの日に至ったのです。
 主は、ダビデを王に立てられました。
 それを認めるのも信仰です。それが対抗策を打ち出した人たちは、主に刃向かってしまったと言う事実があります。

 祈りと神のことばがどこまでも大切だと教えられます。
 シャローム

2.5今日のみことば

2018-06-20

「 すると、ダビデは自分の衣をつかんで裂いた。そこにいた家来たちもみな、そのようにした。」 サムエル記 第二 1章11節
 サムエル記の第二に入ります。
 いよいよダビデ王の誕生、ダビデ物語の本編といったところです。
 そこに働かれる主の愛と助け、主が注いでくださる祝福と恵みを読み取っていきたい。

 物語は、サウル王の死がダビデに知らされるところから始まります。
 アマレク人の男が、ダビデの陣営にやって来てサウル王と息子ヨナタンの死を告げます。
 この男は、瀕死のサウルを、サウルの懇願に答えて手をくだして留めを刺したと言って、証拠の品を差し出します。
 聖書の記述、サムエル記第一の31章4節によれば、敗北を覚悟したサウルは自ら死を選びました。従者も後に続きました。
 すると、このアマレク人は、嘘をついていることになります。
 彼は、他の人よりも近くでサウル王の死を知り、証拠となる腕輪を取って、ダビデの元に持って来たことになります。

 この男は、ダビデがサウル王に命を狙われていたので、自分がサウルを殺してその証拠の品を届ければ、ダビデに感謝されて、褒美がもらえるとでも考えたのでしょう。
 しかしダビデの思いと行動は一貫して、ブレることがありません。
 主が油を注いだサウル王に手を下したことを、悪と判断します。
 それは主に背くことだと言うのです。一番の罪です。

 ダビデは、即座に自分の衣を裂き、悲しみを現します。
 私たちにはこのような習慣がないので、大げさで芝居じみて感じるかも知れません。
 また、サウルをの死を痛んでいると言うパフォーマンスをして、自分の評価を良くしようとしていると非難の声があるかも知れません。
 しかしそうではないのです。
 そして、その場で即座にそれをおこない。
 アマレク人を打ち、サウル王に刃向かったこと、主に悪をおこなったことを断じます。
 後回しにしないのです。
 一貫しているのです。
 この後、サウルとヨナタンのために歌を作ります。
 悲しみと敬意を明らかにしていくのです。

 即座の応答。
 主への従順な姿勢がブレないこと。
 これがダビデの信仰の素晴しい点です。
 これは周りの人にも良い影響を与えます。証しになるのです。
 これは私たちが学ぶべき、習うべき信仰の姿です。

 めいめいが自分の目に良いと思われることを好き勝手に行っていた信仰の乱れた「士師記」の時代から、王の良い信仰が周りに伝わり、主への信仰がもう一度整えられていく「サムエル記第二」の時代の、イスラエルの王国家へ移っていくのです。
 シャローム

2.4今日のみことば

2018-06-20

「勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。」 サムエル記 第一 31章12節
 サムエル記第一の最後の章です。

 サウル王も、長男のヨナタンも、他の息子たちもペリシテ人との戦いの中で殺されてしまいます。
 もちろん、戦いはイスラエルの敗北です。
 30章の、非常に困難な状況の中で、略奪隊から家族を取り戻して勝利したダビデとその仲間との違いが際立ちます。
 ヨナタンの信仰とその生き方は敬意を持って見ることができますが、父サウルと共に歩んでしまったのが悲劇でしょう。

 ここ12,13節で見ることができるのは、勇士たちがペリシテ人に亡骸をさらされているサウル王のために立ち上がって、亡骸を取り戻して埋葬し、嘆き悲しんでいることです。
 それは4節で見ることができるサウル王の、自分の身ばかりを心配する姿勢とは大きく違うと言えます。

 サウルは自分がなぶり者にされることを恐れて自害の道を選びます。
 もっと以前に、主の言葉に聞き従い、悔い改める機会があったのに、それを自らの逃して、最後は王であるのに、自分のことだけ考えます。
 それに対して、勇士たちは、これまでの王の良い行ないに目を向けて、できる限りのことをしました。
 「立ち上がり」と言うのは、彼らの心を表します。
 隠れて、ペリシテ人から亡骸を奪い返したというのではなく、信仰によって立ち上がって行動したことを示します。
 ですからその後も、喪の期間を断食して過ごすのです。13節。

 後から何を言っても仕方がないのでしょうけれど、もっと早く、サウル王が悔い改めて、ダビデとの和解をして、主にもう一度従っていればと思います。
 小さなことの一つ一つを、主の前に正しくおこなうことを求め、間違えたのならば、悔い改める勇気を持ちたいものです。
 勇士たちはサウルを慕っていたのではないでしょうか。それを知ること、信じることができなかったのが悲しい。
 18章でサウルが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌う民の声に、嫉妬、憎しみを持たずに、素晴しい部下、勇士を主が送ってくださったと受け止めることができたのならばと、思います。
 いつも主を見上げ、人との比較で心乱されないようにと思います。

 ハンナの素晴しい祈りで始まり、悲しみの断食で終るサムエル書第一は悲しい。
 シャローム

2.3今日のみことば

2018-06-20

「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」ガラテヤ人への手紙 2章16節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ガラテヤ人への手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。パウロがガラテヤの緒教会を訪れた後、パウロが居なくなった後で、ユダヤ主義者が教会に入り込んできたのです。
 そして教会を混乱させます。
 救われるためには、やはり割礼を受けてユダヤ人と同じにならなければいけないと、主張したのです。
 しかもパウロの「使徒職」について攻撃をしました。
 パウロはこれらの混乱、間違った教えを正すためにこの手紙を書きました。

 神の恵みによって救われる。
 信仰のみで救われる。
 パウロの教える「信仰義認」の神学が強調されています。
 そんな手紙です。
 いや、これしかないのです。

 この16節の後半で書いています。
 「なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」
 これは誰よりも厳格に律法を学び、守ってきたパウロだからこそ言い切れることです。

 行ないによっては義と認められず。
 どんなに良い行ないを続け、重ねても、それで原罪が赦されることはできません。
 その行ないは不完全です。
 最初に、神様の前にある自分の罪を認めて神様に赦されなければ、その行ないはどこまでいっても不完全なままです。
 しかし、信仰による義は、恵みと言う贈り物で与えられる義です。
 そこにはイエス・キリストの完全な贖いという業が先にあるからです。
 だから信じれば、義であると認められるのです。

 神は私を「罪」に定めることができる方であり、ですから、私を「義」と認めることができる方なのです。
 安心してこの恵みを受け取ります。

 蛇足
 この手紙の1章は興味深いです。
 あのダマスコの途上で主イエスと出会い、改心をしたパウロですが。
 その後で、どのような生活をしていたのかと言う細かな記述は使徒の働きにはありません。
 この一章は、彼がどこに移動して、住み、ペテロたちとどういう関係であったのかが告白されています。
 その歩みもなかなか興味深いのです。

 また、こんなところもあります。偽の教えに振り回されている人に向かって、パウロは言います。
 「ああ愚かなガラテヤ人」3章1節のような、過激とも言える表現がちりばめられていることも、面白い手紙だと思います。
 だって、ガラテヤ人がこの手紙を読むんですよ。その人たちに向かって、いきなり、ああ愚かなガラテヤ人って、他の人には言えない、書けない言葉ですよ。
 それはパウロが、それほどまでに信仰による義、恵みの素晴しさを知っていたということの裏返しなのです。
 シャローム

2.2今日のみことば

2018-06-20

「彼がダビデを案内して行くと、ちょうど、彼らはその地いっぱいに散って飲み食いし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から、非常に多くの分捕り物を奪ったからである。」 サムエル記 第一 30章16節
 ダビデとその仲間たちに大きな問題が起きました。
 アキシュと一緒に出かけている間に、アマレク人がダビデたちが住む町を襲撃していたのです。
 町は火で焼かれており、ダビデの二人の妻も、勇士たちの子どもたちもみんな連れ去られてしまいました。
 民は、このような事件を落胆し、ダビデを殺しそうな気配でした。
 ダビデは、主により頼んで奮い立ちます。
 主に祈り、アマレク人の略奪隊に追いつけるかを尋ねます。
 主の答えは、行け!と言うことでした。

 ダビデは追いかけます。
 途中でアマレク人が見捨てた奴隷を助けたので、その奴隷から情報を得て、アマレク人が野営している場所にたどり着きます。ここ16節で「彼」と、記されています。
 ダビデは敵を打ち、彼の妻を取り戻し、仲間も家族をすべて取り戻します。
 同時に略奪隊が奪ってきた物まで手に入れるのです。

 ここ16節は、ただ単に敵の略奪隊が野営しているところを記しているだけのようですが、そこにも見るべきことがあります。
 ここに「彼らはその地いっぱいに散って飲み食いし、お祭り騒ぎをしていた。」とあります。
 非常に多くの兵士がこの略奪隊にはいたことが分ります。
 とても大規模な略奪隊なのです。
 とても強い力を持った敵だということです。
 しかもダビデたちは、強行軍をして追いかけてきたのですから、疲れもあるはずです。
 この時、この強い敵を相手にして、妻、家族を取り戻さなければなりません。

 しかしこう言う場面でダビデは迷いません。
 勇猛果敢な勇士だからではありません。
 初めに主に祈り、主からの答えを受け取っているからです。
 主が、助けてくださることを信じています。
 だから迷いません。不安になりません。
 ここがサウルと違うところです。
 それはすべて、主にどれほど信頼をしているのかどうかと言うことにかかっています。

 私たちも、問題にぶつかった時には、主に祈ります。
 主から答えをいただいたと喜び、動き始めると、そこでまた大きな問題や不安要素を見つけてしまうことがあります。
 しかし最初に真剣に主に祈り、主を信頼して期待して始めたのならば、そういう時にこそ信じて続けることが大事なのです。
 主は、いつも一緒にいてくださる。その人が主の勇士です。
 シャローム

2.1今日のみことば

2018-06-20

「そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。」 サムエル記 第一 29章6節
 いよいよペリシテ人がイスラエルと戦うために出陣します。
 アキシュはダビデとその一行を連れて行こうとしますけれど、他のペリシテ人の領主たちが腹を立てて反対します。
 かつてのダビデの活躍を思い起こせば当然の反応でしょう。

 ここから二つのことを見ることができます。

 アキシュは、他の領主たちと争いは起こしたくないのです。
 それは当然の反応です。
 そのため、これまで自分によく仕えてくれたと思っているダビデに穏やかに戻って欲しいと考えたのです。

 一つ目。
 アキシュは、ダビデが信じる「主」の御名を出して、主は生きておられると、まで口にしてダビデを説得します。
 アキシュは、主を信じていたのではないでしょう。
 しかし主は生きておられると、ダビデの行動を見ていれば認めざるを得なかったのでしょう。
 この場面でも、ダビデに非難されるべきところはないのだと、認めざるを得ないのです。
 だからダビデの信じる神の名前を出したのです。
 一貫して、主を信じて生きている姿を見た人は、自分は信じなくても、こうして敬意を払って接してくれるようになるのです。

 二つ目。
 やはり主はダビデを守ってくださる。
 この場面、領主たちがダビデを殺そうとしてもおかしくありません。いや、それこそが普通でしょう。
 しかし彼らは、腹を立てても、ダビデを殺そうとはならなかった。
 主が、背後で働いていてくださったのです。
 主が、ダビデを守ってくださったのです。
 主にだけ信頼しているダビデだからです。
 ですからアキシュも、主の存在を認めざるを得ない。
 前の章で、サウル王が霊媒を頼ってしまったのとは大違いです。

 私たちは、良い時も、試練の時も、主だけを信頼して歩むなら、こうして周りにも影響を与えて証しとなり。
 主だけを信頼する者は、危機にこそ主が守ってくださる。
 シャローム

2016.1.31今日のみことば

2018-06-20

「それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、」 サムエル記 第一 28章6節
 ペリシテ人との大きな戦いを前にして、サウルの心には不安もあり、サウルは主に伺いを立てます。祈り求めたということでしょう。
 しかし夢でも、ウリムでも、預言者の口を通しても答えはありません。
 当時は夢で神様が答えてくださることがありましたので、それを期待したのでしょうがありません。
 ウリムは祈りと共に用いる神様の答えを聞く道具です。
 預言者は何も語ってくれません。

 それなので、と6節です。
 この後、サウルはしてはならないことをします。
 霊媒師の女性に、サムエルを呼び出してもらい、助けを求めるのです。
 しかしそれは上手くいきませんし、なによりもしてはならないことです。
 イスラエルでは霊媒師を禁止しています。神以外のものに頼るということになるからです。

 苦しくて、サウルは、してはならにことをします。
 しかし結果は、もっと悪いことになるのです。

 ここに至る前に、サウルにはすべきことがありました。
 悔い改めること。
 悔い改めてダビデとの真の和解をすることです。

 心とたましいを砕いて、罪を悔い改めて主の前に行く。
 それをしなければ、他の何をしても無駄なことです。
 いや、無駄というよりも、ズレているのです。

 主が答えてくださらないから、別の方法を探るのではなく。
 主が答えてくださらない原因が自分の罪にあることを認めて、自分の心を探るのです。
 目の前の問題の助けを求めるよりも、主との正しい関係を結ぶことを大切にすべきでした。
 そうすれば道は開けていたはずです。

 ペリシテ人との戦いに負けても、主との正しい関係が結ばれているならば恐れることはないのですから。
 シャローム

2016.1.30今日のみことば

2018-06-20

「ダビデがペリシテ人の地に住んだ日数は一年四か月であった。」 サムエル記 第一 27章7節
 この27章は、少しばかり分かりにくい章です。
 サウルをやはり信用できないダビデは、イスラエルの領土から離れて、いわゆる敵地、競合する土地に仮の住まいを求めました。
 ダビデが選んだのは、ガテのアキシュの元です。 
 このアキシュというのは、21章12節以降に記されている出来事のあの人です。
 ダビデがサウルから逃れるために行きましたが、そこでも身の危険を感じて、気がふれた振りをして、戦士としては無能になっているように見せかけて、危険を逃れたあの出来事です。

 敢えて危険な相手のところに住むことで、サウルがダビデを追うことがないように計ったのです。
 これは大成功をしました。
 そしてなんと!一年四ヶ月もの間、ダビデは敵のまっただ中に住んだのです。
 しかしダビデは慎重に過ごしました。

 まず、自分に付き従う者たちが、長い間にその土地の人たちと混じってしまって選民の自覚を失ったり、礼拝の自由を無くすことがないように、土地の人から離れて住みます。
 そしてアキシュのために、略奪行為をおこなって信用を得る振りをしながら、実は、イスラエルにとって脅威となる町々を滅ぼしていたのです。
 狡猾という批判もできるのかも知れませんが、主は、ダビデたちを守られたのです。
 アキシュの悪を用いて、周辺の悪、脅威を取り除いたのです。
 なによりも、仲間の安全を信仰の面においても守ったことは正しく、知恵のある行為だったのです。

 そしてサウルからの攻撃をしのぎつつ、一年四ヶ月もの長い時間を忍耐したことは、やはり称賛に価するでしょう。
 すごい忍耐です。
 「ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。 」マタイ10章16節の、イエス様のことばを思いました。

 サウルにしつこく命をつけ狙われ、安住の家もなく、八方ふさがりのようなダビデでした。
 しかし敵の中に、一時の休息を得つつ、次の準備をする忍耐と期待する時間に変えました。
 今日から、一年四ヶ月ご、私は何を成しているでしょう。思い描きつつ、祈りつつ、まずは今日の主のことばに期待を置きたい。
 シャローム

2016.1.29今日のみことば

2018-06-20

「きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」」 サムエル記 第一 26章24節
 ダビデがサウルの悪(悪意)に対して忍耐強いことを学べます。
 忍耐は、ただ我慢をするのとは違います。
 主である神様が必ず良い報いを与えてくださることに期待をして耐え忍ぶのです。

 再びサウルがダビデを追撃します。
 ダビデが居るという知らせを聞いて、その地方へ大部隊を率いて追いかけてきました。
 ダビデは夜、部下のアビシャイ一人を連れて、サウルとその部隊が休んでいる宿営に忍び込みます。
 眠りこけているサウルと部下たちを目の当たりにして、アビシャイは絶対に失敗することはないので、自分にサウルを打たせてくれるようにダビデに進言します。
 しかし、ダビデの答えは以前と変わりません。

 主が、油を注がれた王様に手をかけるのは、主に刃向かうのと同じであるから、それはしない。
 しかし主が必ずサウルにふさわしく報いを与えると、告白しています。

 ダビデはサウルの枕元にあった槍と水差しを取って、サウルに自分には敵意がないことを、再び証しするのです。
 ここでは、サウルの命を奪おうとしないで、大切にした自分の信仰に対して、主が、報いてくださり、自分の命を守ってくださると、告白します。

 サウルは、もうダビデを決して殺さないので、戻って来るように勧めます。
 ダビデは信用しません。
 では何故、ダビデはサウルを打たないのか。打てば、問題は解決して、自分の命は守られるのにしないのか。
 ダビデは、忍耐しています。
 同時に、主が解決をしてくださり、自分を祝福してくださるはずだと、期待をして信じています。

 この時、養われた忍耐や寛容といったダビデの生き方は、後に、王様となった時に良い業となって発揮されます。
 我慢、我慢ではないのです。
 期待と、忍耐なのです。
 それが主の愛と恵みを知っている信仰者の取るべき道なのです。
 シャローム

2016.1.28今日のみことば

2018-06-20

「もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」」 サムエル記 第一 25章22節
 とても興味深い25章です。
 愚か者、それも道徳的に愚かなと言う意味の名前を持つナバルと、その妻アビガイル(この人は賢明で主を信じる人です)が登場します。
 当時のイスラエル地方では、あら野で羊を飼う者たちを守ってやるのは同胞の者には当然のことであり、互いに助け合うのが正しいことでした。
 ダビデはサウルに追われる身でしたが、ダビデと連れの者たちは、羊飼いたちをいつも守っていたようです。
 当然、羊飼いや羊を襲う者たちも存在したはずです。しかし、ダビデたちはサウルに苦しめられていても、そのようなことはしません。
 そのように過ごしてきたので、これもまた当時の習慣に従い、羊の毛を刈る(収穫の時)時に、使者を送り祝宴の席に加えてもらうことを希望しました。
 これは当然の権利というべきものです。
 しかし愚かなナバルは、口汚くダビデと彼の仲間をののしり、何も与えませんでした。
 自分の財産を惜しんだのかもしれませんが、これは大きな間違いです。

 ナバルに仕える若者は、ことの一部始終を妻のアビガイルに訴えます。
 ダビデが良くしてくれたこと。
 それを主人のナバルが馬鹿にしたこと。それも飛びかかるほどの勢いで馬鹿にしたのです。
 その結果、ダビデはナバルの一家を打ち滅ぼしに来るであろうこと等を訴えたのです。

 アビガイルは急いで食事の準備など、贈り物を持ってダビデのところへ行きます。
 そして礼を尽くして、ダビデの怒りが静まるように語ります。
 ダビデは、自分が馬鹿にされたので怒って復讐しようとしたのではありません。
 サウルには復讐しないのですから、そう言う考えをダビデはしません。
 しかし、この時は自分を慕う者たちと、その良き業を馬鹿にされたので怒ったのです。

 ここ22節では、主の前に誓って、ナバルを打つとまで、強い口調で言います。
 これは正しい怒りです。
 仲間を馬鹿にされて黙っていたのでは、リーダーとして信頼を失います。
 それでも血を流すのは避けるべきです。
 ダビデはこの後、アビガイルの言葉を聞いて、自分の判断でそれを止めます。
 その判断も正しいのです。
 ナバルは結局、主が打たれます。さばきがあったのです。

 ダビデとアビガイルは、判断や行動が、主の前に正しいものであるのかどうかを大切にしました。
 ダビデの行動は怒りにまかせた短絡的なものではなかったのです。だから引くこともできました。
 また、ダビデを恐れないで即座に行動し、謙遜の限りを示して、ダビデの判断を仰いだアビガイルも素晴しい信仰者です。

 ダビデは自分の仲間のために。
 アビガイルは、家のしもべたちと、ダビデ一行のために。
 それぞれが他者を思って行動しました。
 ナバルだけが自分の欲と高慢な心で行動してしまったのです。
 主は、見ておられる。主の前に正しいことを積み上げていきたいものです。
 シャローム

2016.1.27今日のみことば

2018-06-20

「兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。」コリント人への手紙 第二 2章13節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「コリント人への手紙 第二」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。第一の手紙が書かれてから早い時期、一年以内に書かれたと考えられています。
 執筆場所はマケドニヤ地方、多分ピリピの町で書かれたと思われます。
 手紙を書き、テモテを送り出して指導したけれども、コリントの教会の持つ問題は解決できなかったのです。
 それでパウロは、自分で訪問し、その時かなり厳しい発言をしたようです。

 正しくコリントの教会を導くためとはいえ、多くの人を悲しませる結果になったことに、パウロは心を痛めていました。
 しかし以前として問題は残っています。
 それなのでパウロは、次に自分が訪問するまでに、悔い改めるように語ります。
 この手紙には、パウロの個性といったものがよく出ています。
 例えば、5章1〜10節には「希望」と言うものがよく現れています。
 「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」10節。

 コリントの手紙も、神の活きていることばです。
 同時に、神、主に仕えるパウロの、活き活きとした信仰と感情、個性といったものが溢れているのも確かです。
 選びました2章13節は、パウロの不安と、愛情が見られます。
 テトスに手紙を託して送り出しましたが、コリントの教会の様子を知らせてくれるはずのテトスがなかなか戻って来ないので、マケドニヤまで来てしまったのです。
 早く様子を知りたいとの、パウロの心が現れています。

 キリストにある希望や愛について語り、献金についても具体的に語る手紙です。
 神学的、体系だてた大切な内容が語られています。大切な資料です。
 でも同時に、心配でマケドニヤに迎えに出てきてしまったパウロの様子がも分る手紙なのです。活き活きとしたパウロの手紙、神のことばなのです。
 両方が活き活きとしています。

 キリストを信じて生きること。
 信じているキリストのことを、正しく体系だてて語ることは大事です。
 その両方にキリストの愛がともなわなければ生きた信仰になりません。毎日の生活で信仰が輝かず、良い香りもしないのです。
 この手紙の文章から、キリストの香りがします。キリストの香りを放つパウロが活き活きと目に見えます。
 シャローム

2016.1.26今日のみことば

2018-06-20

「どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」」 サムエル記 第一 24章15節
 エエリムの岩にある洞窟で、ダビデは自分を追って来たサウルを倒すことができる機会を得ました。
 正確には、殺そうと思えば簡単に成功できるであろう場面にいたわけです。
 当然、ダビデの部下は、それが主が与えてくださった恵みの機会と受け取り、サウルを倒すことを進言しますが、ダビデはこれを退けます。
 その理由は、主が油注がれた王に、自分で手を掛けることはできないというものです。

 そしてダビデは、自分の身の潔白を証明しながら、サウルに訴えます。
 そのよりどころは、サウルに情けをかけてもらうとか、ギブアンドテイク等の交渉ではありません。
 主が、二人の間をさばいてくださるようにということ。
 ダビデの弁護を主がしてくださるということです。

 12節と15節で「どうか主が、さばき人となり」と、主に信頼して委ねます。声を上げます。
 サウルに声を掛けますが、ダビデが見ているのは主です。
 主により頼んでいます。
 これはずっと変わらないダビデの姿勢です。信仰の姿です。

 自分が正しいと、いつのまにか相手を責めたくなります。
 不安や悲しみが、怒りや敵意にも変わっていくでしょう。
 そうならないように、いつでも主に信頼して委ねることが大切です。
 そうすれば主が、私が思う、願う以上の恵みの解決を与えてくださる。

 主が私を救ってくださいますように、との祈りは大切だと感じました。
 シャローム

2016.1.25今日のみことば

2018-06-20

「 そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」」 サムエル記 第一 23章2節
 ここ23章は信仰について、とても深く考えさせられ、教えられます。
 とても深く愛を感じると同時に、大きな嫌悪感のような気持ちも覚えます。

 三種類の人が存在します。

 一つは、ダビデとヨナタン。
 主を愛し、主に信頼して、自分が取るべき行動を決める人です。
 この人の行動の動機は、愛です。
 ダビデはサウルに追われている最中です。しかし、同胞の町がペリシテ人に襲われていると知り、危険を冒して助けに行くべきかと、主に尋ねます。
 同胞を助けたいという、愛が動機です。
 迷いは、自分の身の心配というよりは、自分が危険を冒して途中でサウルに討たれてしまっては、結局助けに行けないからという心配なのです。
 だから祈ります。
 主が行けと言われたので、迷うことなく立ち上がります。
 同じようにヨナタンも、父を恐れるのではなく、主に在る者同士としてダビデを励ますために動きます。
 やはり愛が動機です。

 二つ目は、自分の欲だけで動くサウルとその仲間です。
 ダビデが、同胞を助けたことには、目もくれません。
 飛んで火に入る夏の虫、ぐらいにしか、この事件を評価しません。
 自分に都合の良いことだけを見て、行動します。
 愛など欠けらも見出せません。
 しかし、どんなに力を誇っても、主は、この人を助けません。ダビデと仲間を守ってくださる。

 三つ目の人は、情けない人です。拠るべきところ、立つところが定まっていません。
 ダビデに助けられた町の、指導者たちです。
 サウルが追って来たのなら、簡単にダビデを売り渡し、差し出します。
 助けられた恩義や、ダビデへの愛もありません。自分の身だけがかわいいのです。
 12節では、主が、そのような愛のない人たちだと、指摘します。
 この人の行動の動機は、不安です。
 でも、主に祈りません。
 だからますます平安がないのです。
 本当に正しいこと、愛のある行動は取れないでしょう。

 ペリシテ人の襲撃という、ひとつの事件で、主に信頼して歩めるか、愛が動機なのかと、三種類の人の姿が暴れています。
 愛が動機のダビデには、いつの間にか仲間、彼を慕う人も増えています。13節。いつの間にか、1,5倍になっています。
 愛が動機であれば、やはり強いのです。
 シャローム

2016.1.24今日のみことば

2018-06-20

「サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け。ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。」 サムエル記 第一 22章7節
 息子のヨナタンまでもがダビデを愛して味方をしています。
 ならず者と呼ばれていたとしても、400人もの戦士が逃亡中のダビデの下に集っています。
 多くの人が、サウル王に追われている立場の一人の男を応援したり慕っています。
 この状況は、サウルとしては面白くありませんから、苛立ちを隠せません。

 しかしこれもまた罪を犯す危険な状況と言わなければならないでしょう。
 私たちは、自分のために色々とします。自分にとって良いことをしたい、自分に益となることをしたい。
 それらは間違いではありませんが、それが全てとなって、主のことを忘れてしまうと危険です。

 サウルはここでイスラエル、ユダの土地や人々が、自分の所有物であるかのような発言をしています。
 明らかな間違いです。
 この土地も何もかもは主のものです。
 サウル王は、主からその統治を任されている者です。
 権威も権限も主から預かったものなのです。
 主を愛し、主を畏れない者は、恐ろしことをします。

 この後、ドエグはサウルの命令で祭司たちを殺害します。
 ダビデを助けたと言うことを罪に問われてです。
 でもそれは、祭司に剣を向けただけではなく、祭司を立てた主なる神様に剣を向けたことになるのです。主に逆らい、背いたのです。
 サウルが主に剣を向けたのです。自分の権力に驕ったのです。

 主を愛してどこまでも誠実に歩もうとするダビデとの決定的な差が現れてしまいました。
 主に逆らう人の元には、主を軽んじる恐ろしいことをする人が集っています。

 私たちは、隣人を愛するのも失敗をしたりする不完全で弱い存在です。
 しかし主に愛されいることを知って、主のことばに従いたいと格闘する者でいたい。
 失敗しても、何度でも主の前に行き、主のことばを聞いて自分自身を愛して、隣人を愛する者となりたい。
 シャローム

2016.1.23今日のみことば

2018-06-20

「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」」 サムエル記 第一 21章1節
 サウル王の手から逃れたダビデが、ノブの町に逃れて、そこで祭司のところを訪問します。
 祭司は、王の婿となっていたダビデが、従者も連れずに一人で立ち寄ったことに驚き、恐る恐る挨拶を交わします。
 ダビデが従者も連れていない一人だけの逃亡の旅が始まっていました。
 しかし5節を読みますと「若い者たち」「私たち」との表現があります。
 どうも正式な従者と言う人ではなく、ダビデを慕う勇士たちが既にダビデの下に集まり始めているようです。
 祭司には、従者もいない、寂しく、普通ではない旅に見えたはずですが、そこには既に宝があるのです。
 この時から、ダビデと旅を共にする人たちが、生涯に渡ってダビデを支える勇士たちになります。
 見るべきところがあります。
 恵み、宝は既にダビデの手にあるのです。

 祭司から、緊急時の食事として許されている、祭壇から取り下げられたパンを分けてもらわなければ食べる物もない状況ですが、そこにもダビデを慕っている者たちがいます。
 これがダビデの人柄であり。
 ダビデが、これまで主の前に正しく歩んできたことを現します。

 自分に王に対して非がなく。
 命の危険、食事の不足を覚えても。
 正しく歩んできたのならば、解決の道と慰めは与えられることを、ここからのダビデの旅が証明します。
 苦しい旅ですが、ダビデと若者たちが、更に磨かれる宝の旅になるのです。

 困難も悲しみを通って祝福に至る道が、主を信じる者には備えられているのです。
 もちろん、私たちは一人一人弱い存在ですから、困難や危機、悲しみには会いたくありません。
 打ちひしがれてしまうから。
 けれども主は、逃れの道、祝福への道も同時に与えてくださいます。
 ダビデほどの危険や困難を経験することはないと思います。
 けれど一人一人には、非常に苦しいところを通ることもあります。
 その時には、ここから始まるダビデの旅、苦しみ悲しみの旅の先に祝福が備えられており、その旅の間にも恵みもあることを覚えたい。
 シャローム

2016.1.22今日のみことば

2018-06-20

「ヨナタンは言った。「絶対にそんなことはありません。父があなたに害を加える決心をしていることが確かにわかったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」」 サムエル記 第一 20章9節
 33節になると、サウル王はダビデをかばう息子のヨナタンに対して槍を投げつけるのです。
 「すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて打ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。」
 この時になってヨナタンはようやく認めざるを得なくなりました。
 父サウルが、何の落ち度も咎もなく、サウル王に対して謀反の心さえもないダビデを真剣に殺そうとしている事実を知りました。

 ヨナタンは、ダビデがサウル王に殺されそうであると訴える言葉に対して、以前ヨナタンにサウル王が誓って「決して、ダビデを殺すようなことはしない」との、言葉を信じていました。
2節、9節でヨナタンはダビデに繰り返して伝えています。
 「絶対にそんなことはありません。」
 ヨナタンはダビデを騙しません、いい加減なことを言うつもりもありません。
 即ち、ヨナタンはダビデを愛し、父の言葉を心から信じて、伝えているのです。
 父は、ダビデを決して殺さないと、信じています。

 苦しくなりますね。
 父を信頼し、王として尊敬もしたいたであろうヨナタンは、自分が父に殺されかけて、父の本心を知るところとなりました。

 人を嫉み、憎むサウルは、息子の心までも深く傷つてしまったのです。
 この後の歴史を見ると、ヨナタンは父と和解することもできず、父とダビデを和解させることもできないまま戦場で討ち死にするのです。
 サウルは取り返しがつかないことをします。それも繰り返してしまうのです。
 二度も「絶対にそんなことはありません。」と、口にしたヨナタンの悲しみはどれほど深いでしょう。

 しかしヨナタンは主のみを信じる信仰者です。
 主が慰めてくださることを信じています。

 苦しく、悲しいけれども主を信じる信仰者としては、ヨナタンの様な生き方も必要なのでしょう。
 シャローム

2016.1.21今日のみことば

2018-06-20

「サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」」 サムエル記 第一 19章6節
 サウルの息子であるヨナタンは、ダビデを信仰者として尊敬し、次の王はダビデであるべきだと認めて、彼を自分自身のように愛していました。
 それなのでヨナタンは父サウルに、ダビデには謀反の意思もなく、サウル王に誠実に仕える素晴しい人物だと、説明してダビデを殺さないように願います。
 息子ヨナタンの進言を受けて、サウルはダビデを殺さないことを誓います。
 ここでの「主は生きておられる」と言う言葉は神の名前にかけて誓うという意味の慣用句です。

 ですが、心が伴っていないのです。
 その直ぐ後に、サウルはダビデを狙います。
 サウルのために竪琴を奏でて慰めていたダビデを狙ったのです。
 どれほど酷い仕打ちでしょうか。
 そして失敗すると更に狙うのです。

 先ほどの誓いはどこへ行ってしまったのでしょうか。
 息子との約束はどうしてしまったのでしょうか。

 やはり慣用句としての言葉だけでは意味がないのです。
 この19章まで読み進めてても、サウルが主に祈っている姿はありませんでした。
 主を信じて、主のことばに従うという毎日がなければ、人の語る誓いなど薄っぺらいものなのです。
 サウルの言葉は軽い。

 それに対して、ヨナタンの言葉は行動と一致しています。彼は自分の発言も裏切らないし、その行動は愛に基づいています。
 私たちは、言葉にも行動にも、イエスを信じイエスの愛を受けて、自分も愛する者になったことが現れなければと思います。
 イエス様の愛と、恵みは本物なのですから、私の愛も本物になっていかなければなりません。

 サウルのような言葉、行動をしたくはないものです。
 シャローム

2016.1.20 今日のみことば

2018-06-20

「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」コリント人への手紙 第一 1章2節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「コリント人への手紙 第一」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。エペソ滞在中に執筆したと考えられています。

 パウロがコリントの町を去った後に、アポロが来て宣教をしました。
 アポロの働きは多くの実を結びます。
 同時に ペテロも来て宣教をしましたので、多くの人が信じました。
 しかしその結果、アポロだ、ペテロだと、自分たちが気に入った弟子たちへの思い入れから教会の中に分派が起きるという問題も出て来ました。

 またコリントの町には、女神アフロディテを祭る神殿が町の一番目立つ場所に在り、そこには神殿に仕える神殿娼婦と呼ばれる女性たちがたくさんいました。
 その人数は一説には、千人とも言われました。
 そしてコリントの町は交易で栄えた裕福な町でした。
 そのような背景から、経済的な繁栄と退廃、道徳的な腐敗が起きていたのです。
 コリントの町は、そのような状態の代名詞となっていました。

 当然のように、教会にもその影響がありました。
 そこで教会の心ある人たちが、パウロに助言を求めたので、パウロは手紙を送ったのです。

 実はコリントの手紙はもう一通「第二の手紙」が収められています。
 二つの手紙の冒頭を比べると、興味深いです。
 ここでは「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに」とあります。
 そして続く言葉は「聖徒として召され」です。
 主を呼び求める人々には、聖徒としてふさわしく生きることが求められており、その道は、主イエスによって備えられています。
 町の退廃した状況やこの世の繁栄に惑わされないで、主を呼び求めた者の一人として、聖徒として歩むことを求めるパウロの思い、手紙の本題が、この最初にも現れているのです。

 現代に生きる私たちもまた、主を呼び求める、あらゆる町の、あらゆる状況の人々と同じ、聖徒なのです。
 召された者として、召してくださった主イエスの愛の中で、しっかりと歩みたいと思いました。

 当時のコリントの町には、アフロディテの大神殿がそびえていたようです。
 現代日本にも、あらゆる地方に大きな建造物としての偶像があります。観光名所にもなっています。似た状況があると思います。
 それならばそこで召されて、遣わされている愛する主の聖徒として、主を呼び求めつつ、愛の在る生き方をしたいものです。
 シャローム

2016.1.19 今日のみことば

2018-06-20

「それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。」 サムエル記 第一 18章29節
 恐れや不安、嫉みといったものは、人に罪を犯させます。それは主を信じる信仰者にとっても同じでした。
 サウルは、最初ダビデの活躍を喜んでおり、彼を召し抱えました。
 ところがペリシテ人を打ち破り、民が、サウル王よりもダビデに称賛の声を上げていると知った時から、ダビデを疑い憎むようになります。

 ダビデが、王位を狙うと考えたのです。
 嫉みが、根拠のない疑念となり、憎しみとなりました。
 ダビデを秘かに敵の手に渡して殺してしまおうと画策しますけれど、失敗します。
 それでますます憎みます。

 その結果、ここ29節は証言します。
 「サウルはいつまでもダビデの敵となった。」
 ずっと、ダビデを憎み、敵としてしまいました。
 もっとも問題なのは、ダビデを敵とし続けることで、主を敵にしたのです。
 ダビデは主が選んでおられます。
 そのことを気がつけなくても、ダビデがイスラエルの民のために戦っている姿を見なければいけないのです。
 ところが不安、恐れ、嫉みに心が支配されたサウルは、主に祈ることもしませんでしたので、悔い改めることもないのです。

 こうして、サウルは主と決定的に断絶し、主を敵としてしまいました。
 何が問題だったのでしょうか。
 ダビデの姿ばかり追いかけたからです。
 主の御心を求めることや、主の前に進み出て祈ることがなかったので、罪を犯してしまったのです。

 主から与えられる平安を求めなければと、思いました。
 人ばかり見ていると、主の愛が見えなくなります。
 シャローム

2016.1.18 今日のみことば

2018-06-20

「自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。」 サムエル記 第一 17章40節
 少年ダビデとペリシテ人の巨人兵士ゴリヤテの戦いです。
 当時の国と国の戦いは、互いに信じる神と神の戦いと言う面があります。
 勝利すれば、自分たちの神が、相手の信じる神よりも強い、力があるということになります。
 それは当然、戦いの後の国の評判に直結します。周辺の国への影響も大きいのです。

 この時、身体の飛び抜けて大きく、歴戦の勇士として自分を誇るゴリヤテに対して、サウル王も誰も戦う気力を無くしていました。
 しかしダビデだけは、主を信じて、主をなぶるゴリヤテに対して戦うべきだと主張します。
 それは少年らしい無謀な思いではありませんでした。
 ダビデは羊飼いとして、熊などの敵から主が守ってくださり、自分が戦う時にも勝利したことを経験しているのです、

 ここでは王が授けてくれた武具は重すぎるので脱ぎ捨てます。名誉ではなく実を取るのです。
 杖は、自分が主の羊飼いであることを現す道具です。同時に主の守りを現す道具でもあるでしょう。詩篇23篇4節で歌う通りです。
 そして石投げがダビデの剣となります。
 この時、ダビデはなめらかな石を五つ選びます。
 これが大事です。
 たった一発でゴリヤテを倒しますが、ダビデにはちゃんと備えがあったのです。
 なめらかな石を五つ選ぶことは、彼が、主によって遣わされている羊飼いの仕事を慎重にかつ、経験をも生かしてしていることを現します。
 主を信じて。
 週に任された仕事を大切にして、すべき準備をして。
 戦いの場に望みます。
 結果は?
 主が導いてくれるのです。

 私たちは、熊と戦うことはないでしょう。
 石投げを駆使する場面もないでしょう。
 しかし自分の仕事を愛してそれを高く掲げる「杖」を手にして立ち上がる日はあります。
 慎重に仕事のための準備をして、それを手にして出かける時はあります。
 その準備や決断の一つ一つに、主への信頼と、主がこれまでも良くしてくださったことへの感謝を持って立ち向かえば。
 目の前に立つ巨大な壁のような問題も打ち砕けるでしょう。
 そして主の栄光を現せるのです。
 その時、また主の恵みと守りを経験できます。

 今日も、主に信頼して、杖となめらかな石が、自分には備わっていると、歩みを進めたい。
 シャローム

2016.1.17 今日のみことば

2018-06-20

「神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた。」 サムエル記 第一 16章23節
 いよいよ16章からは、将来のイスラエルの二代目にして主の目にかなった王と呼ばれるダビデの登場です。
 サウル王が、主の前に罪を重ねたため、主はサウルを退けて、次の王を選び出しました。
 そしてサムエルにもう一度、王となる人に油を注いで聖別するように命じます。
 サムエルは立ち上がって出かけ、エッサイの末の息子であるダビデに油を注ぐのです。
 この章で有名なのは7節の「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と言う、ダビデが油を注がれる場面でしょう。

 さて、かつて私がそうであったように、聖書を直接読むのではなくて、聞きかじった情報では聖書の言葉は正しく知ることができません。
 ダビデと言えば、少年ダビデが、大男にして勇猛な戦士ゴリヤテを石ころ一つで打ち倒した話しが有名です。
 少年ダビデのデビュー戦の完全勝利と、いったところですが。
 実は、ダビデはその以前に、王サウルの前にデビューを果たしているのです。
 それがここ、主の霊がサウルを去り、代わりに災いをもたらす霊によって苦しめられていたサウルを、慰めるために立琴の名手としてダビデが召し出されて、竪琴を奏でて王を慰めたのです。

 サウルはダビデを気に入り、召し抱えて立琴を奏でさせます。
 ダビデが竪琴を奏でれば、サウルの心は慰められます。

 ここでのダビデの活躍は素晴しいです。
 しかしサウルは間違っています。
 災いをもたらす霊と言うのは、悪霊ではありません。
 神の霊が、サウルの罪をさばき、サウルを責めるのわけなのです。
 サウルはダビデの慰めばかりを求めるのではなく、主の前に進み出て悔い改めて、主からの慰めを求めるべきでした。
 ダビデの音楽で、元気を得た時に、主の前に自ら進み出て、悔い改めて、主の赦しと慰めを求めるべきでした。
 その機会は何度もあったはずですが、やはりサウルはその場その場で誤魔化してしまったのでしょう。

 どうもサウルは戦いの場でも、優秀な戦士を集めることで勝利を求めるなど、人の力ばかりを頼り、集めて、主に信頼することができない傾向があるようです。
 人ではなく、神に頼り。
 自分ではなく、神を中心にする。
 これこそが日々の生活で、真の慰めを得る方法です。
 シャローム

2016.1.16 今日のみことば

2018-06-20

「サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。」 サムエル記 第一 15章24節
 サウルは、再び罪を犯しました。
 聖絶するように、主が命じておられたのにも関わらず、それを残して自分たちのものにしたのです。
 ここで、サウルはサムエルが彼の罪を指摘すると、その理由を答えます。
 「民を恐れた」
 人々の心が、王であるサウルから離れることを恐れましたとの、告白です。

 なるほどと、言うこともできますが、別の見方もできます。
 自分は聖絶のものを残して自分の物にすることを望まなかったのだけれども、民がそれを望んだので、自分にはそれを止めさせることができなかった。
 人々を恐れたからなのです。
 そう!罪を犯したのは、民のせいなのです、と言い訳しているようです。
 悔い改めて告白していると言うよりは、責任転嫁ををして、その場をやり過ごそうとしているのではないか。

 「弁明はしません。私は罪を犯しました。」だけでよかったのではないか。
 ダビデ王も酷い罪を犯した後、預言者ナタンに指摘された時には、即座に、潔く悔い改めました。
 二人のその差は、非常に大きい。

 私たちは失敗することもある。罪を犯してしまうことだってある。誘惑されてしまうこともある。
 でも、誘惑した相手が云々と、弁明しても始まらない。
 悔い改めることが大切。
 認めることが大切。
 もう一度、主を信頼して歩み出すことが大切。

 恐れるのは主。
 恐れるのは、自分が罪を犯すかも知れないと言うこと。
 しかし、主は赦すことができ、私を新しくすることもおできになる。
 主を、私の前にいつもおいていたい。
 主は、さばくことができる方ですが、愛の方なのですから。
 シャローム

2016.1.15 今日のみことば

2018-06-20

「それでサウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日は何の答えもなかった。」 サムエル記 第一 14章37節
 主が沈黙をされるのには意味があります。

 ここ14章を読むとサウルの王としての日々はペリシテ人との戦いの日々であったことが分ります。52節。
 同時に、前半からこの37節の辺りまでを読む時、サウルの戦い方には焦りがあるように思えます。
 24節では、民に食事をすることを禁じていますが、果たしてそれは必要なことだったのでしょうか。
 民は、食事が取れずに疲れ果て、結局、32節では、血のままで肉を食べると言う罪を犯すことになるのです。

 ここ37節ではサウルは主に伺いを立てています。
 いわゆる祭司の使う「ウリムとトンミム」によって答えてを求める方法です。
 そして主は、答えをくださらなかった。
 主は、黙されたのです。
 それならば待つ時なのでしょう。静まる時なのでしょう。

 しかしサウルは、主が答えをくださらない理由を性急に探ろうとします。
 主は、それを求めておられるのではないはずです。
 ここでは戦うべきかどうかを知りたいのです。
 それは緊急で重大な課題であることは確かです。

 でも、だからこそ「戦う」「戦わない」だけが答えではないと感じます。
 主は、この緊急で重大事を前にして、サウルに静まって祈る時間を持つことを求めておられるのではないでしょうか。
 それをサイコロを投げて、出た目の数で行動を決めるような(それに近いことをしているわけですから)ことをする時ではないのです。
 だから主は答えをくださらない。

 私たちは、主が答えてくださらないと言う「答え」が在ることを知り。
 その時、更に何かをするのではなく、静まり祈り待つことを身に付けたい。
 主は、私を見捨てないのですから、その先にちゃんと最善の答えがあるのです。

 主に伺うとは、答えを無理矢理にもらうことではなく、主の声に聞くということのはずです。
 シャローム

2016.1.14 今日のみことば

2018-06-20

「サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。」 サムエル記 第一 13章13節
 サウルの大失敗を露にする13章です。

 イスラエルの王となったサウルの、パリして人との戦いが始まりました。
 国を安定させるため、ペリシテ人の脅威から守るために、王となったサウルは戦わなければなりません。
 それは王としての使命です。

 しかし問題がありました。
 戦力は圧倒的にペリシテ人が上です。
 イスラエルには、剣や槍さえもないのです。
 しかも、サウルの息子のヨナタンが、ペリシテ人の守備隊長を倒したことで、ペリシテ人は復讐に燃え、激しく迫っています。

 苦境の中、イスラエルの民が不安と恐れからサウルの元から逃げ出し、心が離れていこうとしていました。
 それを繋ぎ止めるために、サウルは主にいけにえを捧げて礼拝をしました。
 これは正しいことのように思えるのですが、そうではありませんでした。
 この時、いけにえを捧げて礼拝を司るのは、祭司だけに許された働きでした。王と言えどもそれは禁じられています。
 何故なら、イスラエルは王の王たる神、主が治める国だからです。
 自分勝手な礼拝は、神様を信じていることにはなりません。
 しかもこの時は、祭司のサムエルを待っている時だったのです。
 焦りから、不安から、人間的な考えだけで、おこなったサウルは責められても仕方がないのです。
 サムエルは、何故待っていなかったのかと、激しく責めます。
 この時こそ、王としての働きが主に喜ばれるものとなる大切な試練の時だったのです。

 私はどうだろうか。
 試練の最中で、神だけに信頼して待つこと、委ねることができるだろうか。
 周りの人の心が離れ、行動が一人だけ取り残されても、主を待っていることができるだろうか。
 自分勝手な礼拝をして安心するのではなく、不安の中で、涙と共に真の礼拝を捧げて、主のしもべとして使命を果たせるでしょうか。
 難しいかも知れません。
 主の命令を守ることは難しいのです。
 だからこそ、平常の時の礼拝と、日々の祈りと賛美を重ねていることが大事になるのです。
 困難に会った時に、焦ることがないように。
 シャローム

2016.1.13 今日のみことば

2018-06-20

「そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。」ローマ人への手紙 11章13節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ローマ人への手紙」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 著者はパウロです。
 パウロは、この手紙を書いた時にはまだローマには行ったことがありません。
 ローマの教会がどのような形で建てあげられたのかは不明なことも多いのですが、既にローマには主イエスを信じる人がおり、教会があったのです。
 パウロは、その人たちに向けて、キリスト教の信仰、神について、福音を体系的に、神学的にまとめた大切な手紙です。
 パウロの代表的な手紙と言えます。

 選びましたのは、パウロがこの手紙を書いたことが明かだと分る文章です。
 パウロはここで、自分は異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に、イエス・キリストの福音を伝える使徒であると告白しています。
 この手紙は、全体を通して神学的に高度なことも含めて体系的にまとめてありますが、パウロの熱い心が見える「手紙」なのです。
 単なる教科書ではありません。

 ここでも使徒、それも異邦人の使徒であることへの誇りと異邦人への愛を感じます。
 このパウロの熱い思いと行動があったので、今、私はキリストを信じることができたのです。聖書に出会えたのです。
 また、パウロは「それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。」と、15章17節でも語っています。
 明確に使命感を持っています。
 ですからそこから出てくる行動もハッキリとしてくるのでしょう。
 私たちも、愛と誇りを持って「私はキリストに仕えている」「キリストに仕える弟子です」と、告白をしたいものです。
 そして素晴しいキリスト・イエスの愛を伝えて、分かち合いたいものです。
 シャローム

2016.1.12 今日のみことば

2018-06-20

「 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。」 サムエル記 第一 12章23節
 サウルが、初代イスラエルの正式な王として立てられました。
 預言者サムエルは、自分がこれまで預言者、祭司として正しく仕えてきたことを訴えます。
 人々がそのことを認めた後、サムエルは随分と厳しいことを言います。かなりの皮肉を込めているようです。

 神、主は、人々が周辺の国々の王に憧れて、イスラエルの王を求めたのは、神である主を捨てたことだと言われました。
 この先、人々がいとも簡単に主を裏切り、罪を犯し、その罪を悔い改めることもなく次の罪を重ねることも知っておられます。
 しかし神は引き続き、イスラエルの民をご自分の民としてくださいます。
 民を見捨てません。
 民を裏切るのですが、神は心変わりしないのです。

 それらのことを民に厳しく、明確に、そして皮肉まで込めてサムエルは語りました。
 そしてサムエル自身は言いますと、二つのことをすると言います。

 一つは、民のために引き続き祈り続けると言うことです。
 民が罪を犯しても見捨てないで、主の愛に習い、祈り続けるのです。
 もう一つは、祭司、預言者として民を教え導くと言います。
 主のことばを取り次ぎ、民に正しいことをするように教え続けると言います。

 相手がどうであれ、信仰者は主に期待し、主に仕えて、正しいこと、するべきことをします。
 これは私たちも同じなのです。
 祈りを止めてしまうのは、主の前に罪を犯すことなのです。
 ですから今日も、私たちはイエス様ならどうするだろうと思いを馳せながら、祈りましょう。
 シャローム

2016.1.11 今日のみことば

2018-06-20

「そこでアモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件で契約を結ぼう。おまえたちみなの者の右の目をえぐり取ることだ。それをもって全イスラエルにそしりを負わせよう。」」 サムエル記 第一 11章2節
 アモン人に攻撃を受けているヤベシュ・ギルアデの町の人は、勝ち目がないと、判断して和平を望みました。
 それに対するアモン人ナハシュの答えは非常に酷いものでした。
 「右の目をえぐり取ること」
 ここには、町の人々に傷を負わせようとする目的の他にもう一つの意図があります。
 即ち、ヤベシュ・ギルアデの町の人だけではなく、イスラエル人を辱めようとするものです。

 右の目を取ってしまえば、残るのは左の目です。
 戦いの場に立つ時、右手に剣を持ち、左手には楯を持ちます。
 楯で、自分の身を守ろうとすれば、楯によって左の目が覆われることになり、相手が見えません。
 しかし右の目はもうないのです。

 右の目をえぐり出した人は、二度と戦えません。
 イスラエル人は、同胞のその姿を見れば、嘆き悲しむでしょう。
 そうして必要以上に相手を苦しめ、辱めて、自分たちの力を誇ろうとしているのです。

 これは実にそれ以上に、イスラエル人が信じる、神、主を愚弄しようとするものです。
 即ち、自分たちアモン人の神々の方が強い神であると、誇りたいわけです。
 和平を望む人たちに対して、残虐で愛のない行為です。

 私たちの周りには、このような愛のない行為がたくさん隠れているのではないか。
 もし、そのような行為に対抗するとしたら、真の神の愛をもって臨むしかないでしょう。
 真の神の名前はそしられることはありません。
 シャローム

2016.1.10 今日のみことば

2018-06-20

「主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。」 サムエル記 第一 10章6節
 預言者サムエルが、サウルに対して、これから起きることを示します。
 サウルが王になっていくことと、それに伴って起きる不思議なことが示されます。
 サウルは預言者ではありませんが、主の霊が降り、満たされる時に,預言者たちと共に預言をすることになると,示します。

 ここで教えられることは、主から与えられる使命についてです。
 サウルは、自分が王になるとは考えてもみませんでした。願い求めてきたことでもありませんでした。
 しかし今、預言者によってその道が示されました。
 主の使命とは、自分が願っていることをすることではありません。
 時には、驚くべき使命が示され、その道に召し出されます。
 その時、主の霊に満たされて,使命を受け止めることができるかどうか,問われます。
 主の使命に生きることを喜べるかどうかが問われるのです。

 しかし心配する必要はないのです。ここにある通り,その時,私たちは主によって,新しく造り変えられます。
 使命をはたすことができるようになるのです。
 召し出して使命を与えてくださる主が、力も与えてくださる。
 主の霊に委ね,主の使命を喜ぶことができる者になりたいと思います。
 ローマ人への手紙11章29節「 神の賜物と召命とは変わることがありません。 」
 恐れずに,主に期待したいと思います。
 シャローム

2016.1.9 今日のみことば

2018-06-20

「主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。」 サムエル記 第一 9章15節
 イスラエル国家の初代の王となるサウルと、預言者サウルの出会いの場面です。
 サウルは、迷子となった父の雌ろばを探していました。
 しかし見つからないため、同行していた者のアドバイスで、サムエルに雌ろばの行方を尋ねようとしたのです。
 その時、既に主はサムエルに働かれて、王となるべきサウルとの出会いを導かれていました。

 ここ15節に「耳を開いて」と、あります。
 これは頭に巻いたターバンのような布や、髪の毛を掻き上げて耳を出す仕草から取られた表現です。
 髪の毛を掻き上げ、良く聞こえるようにと言うことです。
 ここでは、主が、主のことばを良く聞くことができるように、主ご自身が語られる時に、聴く人の髪の毛を掻き上げ、耳を開いてくださっているのです。

 三つのことを受け止めます。
 1つ。私たちの耳には、気づかない内に、聞くことを邪魔をする物が覆っていることがある。
 大切な神のことばを聞く時には、そんなものが耳を覆っていないかを吟味する必要があります。

 2つ。しかし、案することはない。
 主が、耳を開いてくださる。

 3つ。そのため、聴くためには、素直に主のことばを聞来ますと言う、姿勢が大切です。
 預言者サムエルが少年であった時のように「しもべは聞いております。主よ。お語りください。」と言う姿勢です。

 そうすれば、主は大切なことを貴方に語ってくださる。
 そしてその言葉は、主が語られるその所まで、貴方を様々な方法で導かれて、語っておられるのです。
 サウルの雌ろばを見つからないようにし、サムエルを導かれと。

 私たちの耳は頑なな心で覆いとなって、主の声が届かないことはないでしょうか。
 シャローム

2016.1.8 今日のみことば

2018-06-20

「彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。」 サムエル記 第一 8章6節
 8章での、サムエルと、民の代表である長老たちとのやり取りは、少し分りにくい気がします。
 サムエルが年老いた時、後継者であるべき二人の息子は、正しいさばきをおこなないませんでした。
 そして民は不満を持ち、サムエルには暗に引退を勧めて、サムエルの息子たちや祭司、士師ではなく、王を求めました。

 サムエルの息子たちが、正しい人ではないのであれば、その人たちを退け、新しく正しいさばきをおこなう人を立てることは正しいように思います。
 しかし サムエルは気に入りません。
 感情だけでサムエルは気に入らないのでしょうか。
 そうではありません。

 民と長老は、サムエルを退け、息子たちを退け、王を持つことで、周辺の国々と同じような強くて豊かな国になることを望んでいます。
 また、どんなに主が、王によって苦しめられることになるのだと、教えても民は譲らないのは、理由があります。
 主に従うのではなく、自分たちが従いたい、あがめたいと願う、王を自分たちが持ちたいからなのです。
 王の王、まことの王、神である方を、自分の主とすることが嫌なのです。
 このことは8節で、主ご自身も指摘しています。
 サムエルを捨てたのは、主を捨てたのだと。
 主を捨て、他の国々を愛して慕い、神ではなく人の王を求めたのだと。

 それはすべて、自分の悪い思いから出ています。
 罪人は罪を認めて悔い改めなければ、まことの神、主を求めないで、自分を王とできるように願うのです。

 私たちは、真の神、主を、私の神、私の主と認めて、信じ。
 主と主のことばに従うことが、私の喜びとなっていることを証ししたい。

 自分の気に入ることが、主の気に入ることであるようにと祈ります。
 シャローム

2016.1.7 今日のみことば

2018-06-20

「こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、入って来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。」 サムエル記 第一 7章13節
 契約の箱がペリシテ人の手から送り返され「キルヤテ・エアリム」に留まって二〇年経った頃。
 イスラエル人は、主を慕い求めるようになります。
 そこで、サムエルは人々に偶像の神々を取り除き、主の前に真の悔い改めをして、その上で献身をすることを求めます。
 人々はそれを行い、献身の証しとして、全焼のいけにえをささげます。

 再び、ペリシテ人がイスラエルを襲撃しますが、人々は、サムエルに主に叫ぶこと、叫び続けることを望みます。
 サムエルは実行し、ペリシテ人は打ち負かされ、敗走します。
 この時から、主の手がイスラエルを守ってくださるのです。

 かつては戦いに勝利しようと、戦場に契約の箱を持ち出し、敵に奪われたのでした。
 神を利用、神の箱を利用しようとしても、上手くいくはずがありませんでした。
 ようやく人々は神、主を慕い求めるようになったのです。
 これが大切です。
 主を慕う、慕い求める心が大切です。

 そして、その主に仕えると言う、行動が伴わなければなりません。
 まったき献身の心と行動です。
 こういう人を、主が守ってくださる。

 主に仕えたいと、主の前にいく人を、主が守ってくださるのです。
 主の力を利用しようと、主の箱を自分の前に引っ張り出す人には、主の恵みと守りは遠くなってしまいます。
 私は、今朝も、主を慕い求めているか。
 私は、今日も、主に曇りのない心で、仕えますと告白して行動できるか。
 シャローム

2016.1.6 今日のみことば

2018-06-20

「ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、 」使徒の働き 18章2節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「使徒の働き」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 本書は「ルカの福音書」に続きルカの手による第二の書です。
 ルカは医者であり、パウロの宣教旅行に随行して、共に見聞きしたことをまとめて執筆しました。
 イエス様の昇天の記事から始めて、ローマに移送されてそこで囚人として暮らしながらも、福音を語り続けるパウロの姿を記して終ります。
 最初の方は、ペテロが主人公と言って良いでしょう。そして途中からサウロことパウロの宣教の働きが本書の中心的な内容となっていきます。
 文字通り、イエス様昇天の時から始まった「使徒」たちの宣教の記録ですから「使徒の働き」と、呼ばれます。
 しかしその内容を見ると「聖霊の働き」と、題名を付けても良いのではないかと思います。
 救い主であるイエス様が昇天した後、イエス様が与えてくださった約束の通りに地上に来てくださった(聖霊降臨と言う)聖霊である助け主が、働かれている様子を記します。

 ここ18章は、パウロとアクラとプリスキラ(プリスカとも記される)夫婦が出会っていく章です。
 この三人は、この後生涯に渡って互いに信頼して、宣教に仕える同労者となっていきます。
 不思議な聖霊の導きを感じるのは、三人の歩みです。

 アクラとプリスキラは、ローマ皇帝の命令によって、ローマから追い出されて、コリントの町に移住してきました。
 初期のキリスト教の迫害であったと、考えられます。
 その結果、パウロと会います。
 そしてパウロの指導と派遣によって、アクラとプリスキラと言う伝道者、証し者が誕生し、各地、各町で働き、家の教会を建てあげたのです。
 聖霊に導きと働きがあったのです。

 そしてパウロは、囚人となって送られることで、遠くローマの地に宣教をすることが叶いました。
 主が、パウロに語られた通りです。
 聖霊が背後で働かれました。
 アクラとプリスキラが、ローマ帝国の手によって、強制的に追い出され退去させられたローマの町。そこから各地で、宣教活動をします。
 パウロは、ローマ帝国の手によって、囚人として護送されて、ローマの町へ入ります。そしてそこでも宣教活動をします。
 不思議な聖霊の導きです。

 私たちが真摯に主に仕えたいと願い求めるなら、主は聖霊に導きを通して、私たちを何処へでも、どんな形であっても送り出し、そこで大切な働きができるようにしてくださる。
 そこにはまた、素晴しい出会いもある。パウロとアクラプリスキラのように。

 主に期待したい。
 聖霊の導きを信じたい。
 父なる神が私を愛してくださるから、実現します。
 シャローム

2016.1.5 今日のみことば

2018-06-20

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。」 サムエル記 第一 6章19節
 ペリシテ人は、契約の箱が自分たちの手には負えないことが分ると、それをイスラエルの領地へと送り返そうとします。
 頑なな心で、戦利品だからだからと拘って、いつまでも持っていると不幸になると、そんな風に考えたのでしょう。
 エジプトの王パロが、頑なな心でイスラエル人を解放しなかったために、さばきに会い苦しんだことを知っており、そのようにならないようにと願ったのです。
 こうして契約の箱は、彼らなりの誠意、彼らが考えた送り物を付けて送り返したのです。

 すると送り返されたイスラエル人は喜ぶのですが同時に事件も起きます。
 イスラエルの町、ベテ・シェメシュの人たちが、送り返された契約の箱の中を見たのです。
 それはフタを開けて中を覗いてはいけないものでした。
 彼らは、イスラエル人でありながら、主との約束を破ったのです。

 箱が何故、送り返されることになったのか。
 箱の中身をのぞき見ることは正しいことなのか。
 彼らは、そういうことを考えるよりも、自分たちの欲望を優先させたのです。

 主のことばに従うより、自分の言葉に従ったのです。
 気をつけたい。
 私にも、主のことばに従っているつもりで、実は、自分の想い、欲望に従っていたということがないように気をつけたい。

 主は激しく打たれた。このさばきは「激しく」打たれなければならにほどの罪だったのです。
 シャローム

2016.1.4 今日のみことば

2018-06-20

「アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。」 サムエル記 第一 5章3節
 イスラエル人との戦いに勝利したペリシテ人は、戦勝品として奪い取ってきた契約の箱を、自分たちが信じるダゴンの神の宮に運び入れて、そこに安置します。
 ペリシテ人としては、自分たちの信じる神が勝利を与えてくれ、ダゴンの神がイスラエルの神に勝ったと思うわけですから、契約の箱をダゴンの宮に安置して、ダゴンの神の強さを誇りたかったのでしょう。
 しかしイスラエルの真の神は、ダゴンの神に負けたのではありません。
 イスラエルの神が、神のことばに従わないイスラエル人をペリシテ人の手に渡して、さばきをおこなったのと言うことでした。
 神はお一人だけです。

 イスラエルの神は、人の手で刻んだに過ぎないダゴンの神の像を打ち倒します。
 うつぶせの形でその像が倒れていると言うのは、イスラエルのまことの神だけを礼拝しなさいと言うことを象徴的に表す形なのでしょう。
 しかしペリシテ人は、そのことに気がつきませんから、像を元に戻すのです。

 それでも次の日も、像は倒れます。
 しかももっと不思議な形で倒されます。
 両腕が切り離されて別の場所にあるのです。
 これを見れば理解できます。偶然このようにダゴンの神の像が倒れたとは言えません。
 イスラエルの真の神が、ご自分の力と存在を表したのです。

 人の手で刻んだに過ぎないダゴンの神の像と、ただ一人の真の神の契約の箱。
 比べるまでもありません。
 私たちが、どちらを信じるべきかも迷い悩むこともありません。

 イスラエルの真の神であり、私たちが信じる今も生きて働かれる神は、ご自分でご自分を現すことが出来る全能の方です。
 そしてご自分の方から私たちに近づいて来てくださる愛の神です。
 私たちは、どこに居ても、どこに住んでいても、霊とまことを持って礼拝すれば、そこが聖所となります。
 私たちは、この方だけを礼拝して、この方のことばに聞き従います。
 この方は、私に語りかけてくださるから。
 私は、この方の声を聞きます。
 シャローム

2016.1.3 今日のみことば

2018-06-20

「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。」」 サムエル記 第一 4章3節
 イスラエル人は人を敷いて、ペリシテ人と戦いますが、その日はイスラエル人が敗走する結果となりました。
 陣営で、長老たちを中心にして、配線を嘆き、どうしてこのようなことになったのかと、悩みます。
 彼らの出した答えは驚くべきものでした。

 シロの宮にある契約の箱を陣営に持ってくれば、そこに主が臨在されて、翌日の戦いに勝利できるはずだということです。
 しかし、契約の箱の到着を知ったペリシテ人は、かえって奮い立ち、イスラエルを負かします。
 そして契約の箱を奪い、よこしまな男たちであるエリの二人の息子も死ぬのです。

 もちろん、ペリシテ人が命がけで頑張ったので勝利できたのではなく。
 イスラエルの神が、ペリシテの神々に負けたのでもありません。
 すべては主のご計画なのです。

 何故、長老たちは、負けた理由を探す中で、シロに行って、そこにある主の宮で祈らなかったのでしょう。
 主の前に行くのではなく、主を持ってこようなどと、考えたのでしょう。
 そこがそもそもの間違いです。

 主は、 全能ですから、私に会いに来てくださる。
 しかし主を箱に入れて連れて来ることはできません。
 主を引っ張り出したいのならば、それは、悔い改めと、必死の祈りと賛美がある時です。
 負けたのにも、失敗したのにも意味があります。
 それを祈り求めるのです。
 そうすれば、主が、それを益にと変えてくださる。
 主の前に、いつも進み出ることが大切です。
 2016年、最初の日曜日です。礼拝の日です。
 マリヤが復活の主とお会いしたように、私たちも復活の主と親しくお会いしましょう。
 シャローム

2016.1.2 今日のみことば

2018-06-20

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。」 サムエル記 第一 3章10節
 今朝、想うこと。
 私は今日、神様の声を、ちゃんと耳に入れて聞いていますか。

 3章はサムエルが「少年サムエル」から「預言者サムエル」に変わる時を明します。
 祭司のエリに仕えていたサムエルですが、そこに真夜中、主の声がかかります。
 初めサムエルは、それが主の声だとは気がつかないので、祭司エリの元へ行きます。
 二度そんなことがあり、エリは、それが主がサムエルを呼んでおられるのだと気がつききます。
 それでエリはサムエルに「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げるように、アドバイスをします。
 三度目に同じことが起きた時、ここ10節で、サムエルは主に、教えられた通りの言葉で答えます。

 前の二度は、主はサムエルを呼ばれたと言う表現をしていますが、三度目は「主が来られ、そばに立って」と、表現します。
 主が、さらに近くに来られ、それをサムエルが知ることができて、その上で、主の呼びかけに答えていくのです。
 ただ、教えられたからではありません。
 サムエルは、主に信頼して、主が自分の近くにおられる方だと信じて、聞いていますと、答えたのです。
 だから、この後エリに対する厳しい言葉も、ちゃんと聴けたのです。

 私たちの今生きるこの時代では、主がこの時のように、貴方や、私のところに来られて、お話しになることはないでしょう。
 何故なら、旧、新約聖書が与えられているからです。
 私たちは、いつでも神のことばを読むことが許されています。全66巻にも及ぶ神のことばです。

 では、私たちは今、この時のサムエルのと同じように、真摯に、素直に、緊張と期待をして「お話しください。しもべは聞いております」と、主のお伝えしているでしょうか。
 今朝、今夕に、自分の手元の聖書を開く時、ただ目で、文字を追うのではなく、ちゃんと聞いていかなければいけません。
 そうでないと、エリのようにいつの間にか、目がかすみ、神様の大切な言葉、語りかけを聞き漏らしてしまうから。

 聖書という「本の本」である神の言葉を記した書を開くその時。
 私は、主の声を、主が隣に立って語ってくださるように聞いていきたい。
 そして常に「お話しください。しもべは聞いております」と、言う姿勢で耳を傾けたいのです。

 イエス様。私は今、ちゃんと聞いていますか。
 「お話しください。しもべは聞いております」
 シャローム

2016.1.1 今日のみことば

2018-06-20

「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。」 詩篇 100篇1節
 聖なる主の御名をほめたたえます。
 毎朝、聖書のみことばを開いて、一緒に耳を傾けてくださり感謝しています。
 共に主のみことばに信頼して、朝毎に耳を傾けてくださる方がおられることは、互いに励ましとなります。
 もちろん、こうしてみことばの取り次ぎをさせていただき、配信をさせていただいている私にも力強く感じています。

 2016年の最初の朝は、昨日から引き続きのサムエル記を離れて、詩篇を読みました。

 詩篇は主なる神様への、祈りであり、賛美の歌です。
 新しい歌を。
 喜び。
 感謝。
 仕えよ。
 そのような言葉、意味を含んだことばがたくさん見受けられます。
 詩人がいつもそのような心と生活で、主と関係を結んでいたからの言葉なのです。

 今朝は、この1節を選びました。
 感謝して歌え。
 詩篇を開いた時には、そのような言葉と、新しい年の初めに「新しい歌」ということばが目に飛び込んで来ました。
 しかし、詩篇を読んでいる内に、この1節の「主に向かって」ということばが強く耳に鳴り、心に響きました。

 全地よと、呼びかけます。
 天も地も、すべての造られたものが対象なのです。
 同時に私たちに語りかけていることは言うまでもありません。
 地に住む私たちこそ聞くべき呼びかけの声です。

 向かって、と言う言葉が気になりました。
 主と正面から向き合って。
 主を自分の目の前に置いて。
 主を自分の耳から放さないで。
 そんな意味です。

 今年、いつも主と向き合っていきたいと願います。
 祈り願う時も、感謝の声をあげる時も、賛美するその時も、常に主に向かっていこうと思います。
 朝毎に、夜、休む前に、奥まった部屋で一人であったとしても。
 私は今年、主といつも向き合って生活し、祈り賛美しようと思います。

 あなたは今朝、どこを向き、何と向き合っていますか。
 シャローム

12.31今日のみことば

2018-06-20

「さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、」 サムエル記 第一 2章12節
 祭司エリの二人の息子は、本来ならば神殿で主に仕えて人々を導き助ける働きをするべきなのですが、彼らは全く逆のことをしています。
 いけにえとして捧げられる動物の肉を先に奪い取って自分のものとしたりしていたのです。
 そのような態度で神殿にいる彼らのことを聖書は「よこしまな者」と、表現します。
 よこしまな者とは、一般には、ならず者と、理解できるでしょう。
 神様の目から見れば、価値の無い、滅びの者ということになります。

 よこしまな彼らは、主を知ることがありません。
 知ることがないとは、どういうことでしょうか。
 知識が無くて、主を知ることがないわけではなく、主を知る機会がなかったのでもありません。
 主のことを教えられていたにもかかわらず、主を畏れて、正しい関係を結ぼうとしなかった人と、いう意味です。

 彼らは、主が見ていない、見えないと思っているのでしょう。
 主が、彼らをさばく力を持っていないと、軽んじていたのです。
 ですから、神の物をかすめ取り、神を信じる人々に横暴に振る舞うのです。
 主が、忍耐を持って彼らが自分の罪を悔い改めることを待っていてくださる方だと言うことに気がつくことができないのです。
 まさに価値のない、よこしまな者です。

 「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。 」箴言1章7節
 まさにこの聖書の言葉の通りなのです。そしてエリの息子たちは、その全く逆の存在なのです。
 主を知り、主のことばに敬意を払って従う。そして主を畏れる。
 主を畏れる人は、主のことばを通して、主をさらに深く知る。

 よこしま、ではなく。ならず者、無法者にならないで、主を知り主を畏れる、知恵を知った者になっていきたいと思います。
 シャローム

12.30今日のみことば

2018-06-20

「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ヨハネの福音書 6章35節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ヨハネの福音書」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 四つ目の福音書です。
 イエスが愛された弟子、とも表現されることがあります。12弟子の一人のヨハネが著者であることは確かです。
 他の三つの福音書、これらは「共観福音書」と呼ばれて、書かれている内容も並行記事が多いわけですが、反対にこのヨハネの福音書は、独自の記事が数多く見られます。
 特徴の一つは、イエス様の「神性」を明らかにして示そうとしていることを上げることができます。
 また他の福音書にある「たとえ」はありません。
 奇蹟の記事は他の福音書より多く、独自のものも多くあります。
 例えば有名な場面では2章にある「カナの婚礼」で、かめ一杯に入れた水をぶどう酒に変えた記事は、他の福音書にはありません。
 いずれにしても奇蹟は、その背後にある福音を知らせるためにおこなわれたことと深く結びついています。
 力を誇って見せたり、人々を恐れさせたりして神様であることを示すようなことはされませんでしたので、それを明確に示します。

 また、神性を強調すると同時に、完全な人であるイエス様の「人性」も現す記述も見受けられます。
 例えば、4章6節「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。」と、あります。
 疲れたと言う、私たち人間の持つ弱さを、人となったイエス様は経験してくださっていることを示すわけです。

 さて、選びました6章35節にも、特徴があります。
 「わたしが〜」である。と言う表現です。
 ここではイエスご自身が「いのちのパン」であることを示します。
 これは聖餐式の裂かれたパンにも繋がる大切な場面ですが、わたしが何々であると言う表現をヨハネは記してくれています。
 私たち人は、どこの国の人であっても、どの時代の人であっても、神様を求めています。
 無神論と言う表現で神を否定してはいても、神が居ないと訴えることで、実は神を求めていると言えます。
 ヨハネのこの表現は、私たち人の側からではなく、神の方から私たちに神の存在とその意味、ご性質を示してくれていることを教えてくれます。

 他の三つの福音書とは明らかに書き方やその記事の違いが1〜3章までを読んだだけでも明確であり、文体も読者である我々を惹き付けてくれるヨハネの福音書です。
 多くの日本のキリスト者の先人たちが、この福音書によって福音の真理を知り、その表現を好みました。
 何度読んでも次々に新しい発見があります。
 シャローム

12.29今日のみことば

2018-06-20

「このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」」 サムエル記 第一 1章16節
 サムエル記の第一です。
 時代は士師記の後、サムエル記から「預言者」の登場、そしてイスラエルの王が立てられていきます。
 選びました16節は、やはり不妊の女性であったハンナと言う女性が、シロの宮で祈っている場面です。

 夫のもう一人の妻であるペニンナが彼女を憎み、子どもが生まれないことで苛めていたのです。
 それでハンナは毎年泣いていましたが、この年は、主に誓願を立てて、長い時間ずっと宮で祈っていたのです。
 それを見た祭司エリは、彼女が声を出して祈らないで、長い時間、唇だけが動いているのを見て、最初は酔っていると誤解して忠告するのです。
 それに対して、ハンナは祭司エリを「ご主人」と言う尊敬の言葉で呼びかけて、自分の祈り、憂いをすべて主に祈っていたことを明かすのです。

 この後、祭司のエリは、瞬時にそのことを理解して、ハンナに主からの祝福があるようにと声を掛けていくのです。
 ここでハンナは「心を注ぎ出し」祈り。
 「つのる憂いといらだち」が、消え去るまで長い時間祈っています。
 この祈りは正しい祈りでした。
 ここ16節にある「よこしまな」と言う言葉は「益がない」と言う意味です。
 子どもが生まれないと言うのも、当時は益がないと言われることであったでしょう。
 憂いといらだちがあり、それが積もり積もるほどであるなら、それもまた益がないと言わざるを得ないでしょう。

 しかし昨年までの宮上りと違い、今年のハンナは、心が主によって晴らされるまで、祈りに祈ったのです。
 ですから、祈り終わり、こうして祭司に答える時には、もう益がない女性ではなくなっています。
 そしてこの後、ハンナは男の子を生みます。
 その子は、サムエルと名付けられ、イスラエルの最初の預言者と呼ばれる人になるのです。

 モーセの後、士師が12人立ちましたが、イスラエルは乱れに乱れています。
 今、アブラハムやヤコブの妻たちの様に、不妊と呼ばれた女性の祈りから、新しいことが起きるのです。
 主は、心のすべてを週に明して、注ぎ出して祈り、祈りに祈る人から新しいことを始め、新しい益を与えてくれるのです。

 私たちも、悩む時、憂いがある時、心を注ぎ出して祈りに祈って、その憂いが晴れるまで主の前に居たいと思います。
 シャローム

12.28今日のみことば

2018-06-20

「また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」」 ルツ記 4章12節
 ナオミの夫であったエリメレクの畑を買い戻す権利を持ち、かつ、ボアズよりもその権利を優先的に行使できる立場の男は、ボアズの話を聞いて畑を買おうとしました。
 しかしルツのことも一緒に受け入れて、子孫を残さなければならないことを知ると、その権利を放棄してボアズに譲ります。
 こうしてボアズは、正式にルツと結婚して畑をも引き継ぐことになります。

 人々は。バアズに主の祝福が有り、また、先祖のユダがタマルとの間に生まれた子供のペレツの様に祝福された子供が生まれるようにと声を掛けます。
 これは創世記38章に有る物語を念頭においています。
 ユダは、息子たちが続けて死んでしまったので、夢のタマルには次の息子との結婚をさせませんでした。
 それは間違った行為でした。
 タマルはと言うと、義父のユダに対して強行手段を取り、遊女の振りして、ユダとの間に子供を得たのです。
 不思議な形で子どもが生まれた、このできごとに習い。
 外国人のルツとボアズとの間に、不思議な形で子供が生まれて、祝福されるようにと、人々は願ったのでしょう。

 この思いは、人々の想像を遥かに超えた形で実現をします。
 外国人のルツ、しかもユダヤ人からは好ましく思われていなかったモアブの出身であるルツと、ボアズとの間に子供が生まれます。
 その子の子、孫はダビデ王となります。
 更には、救い主であるイエス様が、ボアズとルツの子孫から生まれるのです。
 ペレツより更に不思議な形で、主の祝福が注がれます。

 イエス様は、遊女の振りをしたタマル、嫌われていた外国人の女性のルツの家系から生まれてくださった。
 ボアズと言う素晴しい信仰者と外国人と言う不思議な組み合わせの夫婦を神は選び、ご自分の選びの家族としてくださった。

 神様の選びと導きは、私たちの想像を超えた不思議な形で実現するのです。
 しかし同時にその時、ボアズのように、主に信頼して従う信仰者の行動も用いてくださるのです。
 私たちは、いつでも主に用いていただけるように、その信仰をボアズのように実践していたいものです。

 しかし思うのです。
 自分の願う利益だけを考えて、エリメレクの家を再興して助けることや、ルツを受け入れることを避けた、もう一人の親族はその名前さえも記されず、記憶されずに消えていきました。
 しかしボアズは今でも、人々の心に残る信仰者になっています。
 主と隣人を愛して行動することの大切さを感じます。
 シャローム

12.27今日のみことば

2018-06-20

「 今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」」 ルツ記 3章節
 畑の所有者であり、親戚にあたるボアズからルツが恵みを与えられたことを聞いて、義母のナオミはそこに主の導きと祝福を感じたようです。
 故郷に帰って来た時には、自分の名前を、ナオミ(快い)ではなくマラ(苦い)と、呼んでくださいとまで言っていたのですが、今はまた主の愛と恵みを快く受け取っていることを知ったのです。

 そしてナオミは大胆にもルツに対して一計を授けます。
 それは祝宴の夜に秘かに訪ねて行って、妻として迎えてもらえるように願うことでした。
 ルツは素直に従います。
 現代の結婚や家族生活をしている私たちには理解するのは難しいですが、当時ではおかしなことではなかったのです。

 しかしその夜も、ボアズはどこまでも主を信じて、主の律法を重んじる人として振る舞います。
 この場で情欲に身を任せるとか、自分に都合の良い理由をつけて行動することがありません。
 親戚とはいえ、律法に従えばほかにルツを妻として迎えて、その家を買い戻す権利のある人がいることが分っているので、どこまでも主の律法を守のです。
 もちろん、ボアズには、その人がルツを妻に迎え、家を買い戻すことに益がないと分れば、それを辞退することも分っていたのでしょう。
 その人が、役目を果たすことを喜ばないならと言う説明には、それらのことが明らかです。

 しかしどこまでも慎重です。
 朝まで、ルツを守り。
 多くの麦を与えて家に帰すことで、母ナオミにこのことを心配しないようにと知らせるのです。
 また、ルツの姿が目撃されて、つまらないうわさなどが立たないように配慮して上で、自分のすべきことを始めるのです。

 後半の「主は生きておられる。」と言う言葉に、ボアズの主に信頼する信仰と、ボアズ自身が平安であることを知ることができます。
 私たちは、委ねられた、或いは、主が導いておられると感じることを始めることがあるでしょう。
 その時、大切なのは自分が正しいと思うのではなく、主は生きておられる、それなので、私はこれを決断して行動するということを貫くことです。
 まさに今朝も、主は生きておられる。
 貴方と共に、主は生きておられる。
 シャローム

12.26今日のみことば

2018-06-20

「彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。」 ルツ記 2章15節
 義母ナオミの故郷の村に戻ったルツですが、そこはルツにとっては未知の世界です。
 人々は、ルツがモアブの野の出身だと言うことだけで、彼女を嫌います。
 聖書は、ルツが名前で呼ばれないで「モアブの女」と、見下されて呼ばれていたことを記します。

 そんな状況の中で、ルツは義母との生活のために、麦の収穫時にこぼれ落ちる落ち穂を拾い集めて、糧とするのです。
 この行為は、ユダヤでは主の定められた律法として、弱者のために与えられた正当な方法でした。
 しかし、嫌な思いをすることも、いじめられることもあったのです。
 特に外国人であるルツには苦しかったことでしょう。

 しかし主は、ちゃんと恵みと守りを備えていてくださいました。 
 ルツが、はからずも足を運んだ畑は、神、主を信じる正しい人、ボアズの畑でした。
 彼だけは、初めからルツを対等に扱います。
 それどころか、主を信じて歩んでいることを評価して、優しい声をかけ、自分の収穫物から更に恵みを与えていきます。

 ここでは、ボアズの下で畑で働く若者にルツのことを大切に扱うように命じます。
 彼は、愛の手を差し出す時、惜しむことをしません。
 落ち穂だけではなく、更に恵みを与えます。

 しかしそれよりも注目すべきは、この「あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。」と言う、命令です。
 これは、ただ恥ずかしいと言ったことではありません。
 恥をかかせるな。
 侮辱をするな。
 へりくだって接しなさいと言う、命令です。
 素晴しい畑の所有者であり、信仰者のボアズですが、ルツのことを信仰者として尊敬して接しているのだと思います。

 ボアズは、ルツが若い女性だからと優しいのではありません。
 主を信じる人に、同じ、主を信じる者として、敬意を払い、恵みを持って応えようと言う姿勢です。
 主は、ルツを愛して、ボアズを送ってくれました。
 主は、ボアズを愛して、今よりも更に多くの恵みを与えようとしておられます。

 行ないのない信仰は真だものと同じだと、新約聖書は語ります。
 生きた信仰とは、このボアズのような、行動と信仰の告白でしょう。
 私たちは、他の信仰者との関係において、このように謙遜と愛をもっているでしょうか。
 シャローム

12.25今日のみことば

2018-06-20

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」 ルツ記 1章6節
 ルツと言うユダヤではなく、モアブ出身の女性の名前が書名につけられている珍しい書です。
 わずか四章ですが、信仰と主の契約の成就について、とても深く考えさせられる書です。
 ルツは、ナオミさんの長男と結婚した女性です。
 今、義母ナオミさんも、ルツも夫を亡くして未亡人となっています。

 かつて飢饉を避けて、このモアブの野に移り住んできたナオミさん一家でしたが、夫も二人の息子も亡くなり、傷心で将来の生活の不安も募る時、良い知らせを耳にします。
 「主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」
 選民ユダヤ人の一人であるナオミさん、そしてナオミさんと出会い、イスラエルの真の神と出会い、信じることができたルツです。
 今、ナオミさんは、良い知らせを聞きました。
 主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いた訳です。

 短い文章であり、説明も少ないのですが、ここに信仰の視点があります。
 飢饉が終ったと、本書を記して残した執筆者は書きません。
 それは、脚色でも、比喩的な表現でもありません。
 まさにその通りの真実であり、遠くモアブの地でそのことを聞いたナオミさんが、まさに、そのように信じて聞くことができたことを示しています。

 偶然に、飢饉が終ったのではありません。
 主が顧みてくださり、そして恵みを与えてくださったと言うことです。

 主の恵みがあると、分ったので、ナオミさんは故郷に帰るのです。
 主の恵みのあるところへ。
 主の恵みの近くへ行く。
 信仰は、遠くから眺めているものではなく、行動するものです。
 主は恵みを先に注いでくださり、招いてくださるのです。

 信じて近づくのかどうかが、私たちに問われます。
 遠くで聞いても、近づけば良いのです。そうすれば恵みを受け取れます。
 シャローム

12.24今日のみことば

2018-06-20

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」 士師記 21章25節
 士師記、さばきつかさ野時代の最後の物語はあまりにも酷い物語で終ります。
 レビ人の一人のそばめの暴行殺害で始まった物語は、ベニヤミン部族の滅亡の危機を迎え、最後にはそれを回避するために、略奪結婚を容認すると言う恐ろしい物語で閉じるのです。
 結局、12人もの士師が主によって遣わされましたが、イスラエルの民の信仰は、どんどん落ちていったのです。

 士師記の最後、24,25節には「めいめい」と言う言葉が三度も登場します。
 「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」
 主が示され、主が教えてくださる本当に正しいことではなく、めいめいが、自分勝手におこなっているのです。
 ひとりひとり、自分が好ましいことをするのみです。

 主のことばに従うことは不自由で堅苦しいことでしょうか。
 自由がなく、縛られているのでしょうか。
 そうではありません。
 めいめいが自分の目に正しいと見えることこそ、直ぐ、次の瞬間には変化していきます。
 ここでもベニヤミン部族への厳しいさばきを決めたものの、すぐに、部族が滅ぶことは良くないからと言って、略奪を認めました。
 そこに義はありませんでした。愛もありません。
 めいめいが自分の目に正しいと見えることは、次々に変わり、結局それに振り回され、縛られるのです。

 しかし私たちは知っています。
 変わることのない主のことばこそ正しいものです。
 そのことばに従う時こそ、平安があります。
 真に正しいことには、平安と愛があります。
 シャローム

12.23今日のみことば

2018-06-20

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ルカの福音書 2章6〜7節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「ルカの福音書」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 四つの福音書の内の三番目に登場します。
 使徒パウロの宣教旅行に随行して旅の記録を記した福音書の記者であり歴史家であり、医者であるルカの手による福音書です。
 主に外国人に向けて書かれた福音書です。

 明日は、12月24日、クリスマスイヴを迎えます。
 今日の祝日と明日の夜は、キリスト教会では様々なプログラムを準備して、救い主であるイエス様の誕生をお祝いし、また広く多くの方に知っていただけるように活動をすることでしょう。
 ご存じ、クリスマスの夜の出来事、即ち、主のご降誕の物語は、大きく分けて二つの物語が、広く知られています。
 星に導かれてユダヤまで旅をしてきた「東方の博士たち」が救い主を礼拝して、黄金、入稿、没薬という贈り物を捧げた物語が、ひとつ。
 もう一つは、馬小屋の飼い葉おけに眠るイエス様に「羊飼いたち」が会いに来る物語です。

 天使が現れて、羊飼いに救い主の誕生を告知し、天の軍勢が賛美する。そして羊飼いは救い主を探しにでかける。
 そして天使の伝えた通りに、飼い葉おけに眠る「みどりご」であるイエスと出会い、喜び、賛美して帰っていく。
 こちらの物語が、記されているのがこのルカの福音書です。
 マタイ、マルコ、ヨハネにはこの物語はありません。

 ルカは、続く「使徒の働き」と共にこの福音書を執筆して、ローマにいるテオピロ閣下と、他にもローマに住む人々に救い主のことを知ってもらうために執筆したのです。
 そのため、このクリスマスの出来事を他の福音書よりも詳しく書くのは納得です。
 私たちもそうですが、当時のローマの人々は、選民イスラエルの人々と違って、長い間、預言書で語られた救い主(メシヤ)の誕生を待ち望んでいたわけではありません。
 それどころか、救い主であるイエスが、十字架で処刑され、三日目によみがえり、更にその後、弟子たちと過ごした後、天に帰って行かれた後に、救い主のことを知るのです。
 ですから、選民の系図よりも、イエス様の誕生に至るまでの天使の言葉や出来事のほうが知りたいことなのです。

 羊飼いに知らされ。
 思いもかけない形で救い主が登場する。
 それはそのまま、ローマの人々にとっても驚くような知らせであると同時に、自分に語りかけられた特別なメッセージと、受け取れたはずです。
 今、私たちは赤ちゃんのイエス様を見ることはありませんが、ルカが伝えてくれた救い主の誕生の場面を、見てはいなくても、信仰の耳で聞き、見た以上に確かなこととして信じるのです。
 そこに真の神への信仰があります。

 今年のクリスマスは、ルカの文章によって、最初のクリスマスの夜の出来事を知ったローマの市民のように、新鮮な気持ちで、この2章を読み直して、救い主の誕生をこうして知ることができた喜びと驚きを、もう一度、じっくりと味わっていきましょう。
 まず、聖書から降誕の出来事を、聞きましょう。すべてはそこから始めまります。
 聞きましょう。主の声を。
 シャローム

12.22今日のみことば

2018-06-20

「当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた‐‐そして言った。「私はまた、出て行って、私の兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。」主は仰せられた。「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す。」」 士師記 20章28節
 そばめをギブアのベニヤミン族の人たちに殺された人の訴えを聞いたイスラエルの各部族は、怒り、ベニヤミン族を討つことを決めます。
 彼が話した、そばめを殺された経緯には、実際の出来事と少し違うところもありますが、ベニヤミン族が暴行を働き、そばめの女性を死に追いやったのは事実です。
 そこで彼らはベニヤミン族と交渉から開始しますが、うまくはいきません。
 そして戦いは始まります。

 ところが意外なことに、人数の点でも優勢なはずのイスラエルの連合部隊が、ベニヤミン族に苦しめられて、多くの人が死にます。
 しかも二度目も、主に祈り伺ってから、戦いを始めたのに、駄目でした。負けたのです。

 そして三度目。
 やはり祈ります。
 主は、イスラエルの人びとに、出て行って戦い攻め上れと、答えてくれます。
 しかも三度目のこの日は「あす、彼らをあなたがたの手に渡す。」との、約束もいただけたのです。

 結果は明らかです。
 二度の敗北を経験しても、主にのみ信頼して祈り、答えを求めた連合軍が最終的に勝利を得ます。
 反対に、二度の勝利に高慢となったベニヤミン族は、悔い改めることなく、敗北をします。

 失敗や、うまくいかない事態を経験しても、主にのみ信頼し続けた人の勝利です。
 自分の考えと力にだけ頼った人は、最後には自分で自分に滅びを招き入れるのです。
 常に、主にのみ信頼して従えるのかどうか。
 私たちの何気ない日常で、問われているのではないでしょうか。

 苦悩や、挫折、試練の後に、主は確かな答えをくださるのです。
 「彼らをあなたがたの手に渡す。」
 シャローム

12.21今日のみことば

2018-06-20

「 すると、彼の主人は言った。「私たちは、イスラエル人ではない外国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう。」」 士師記 19章12節
 19章は、以前紹介した時に「ベニヤミン・スキャンダル」と、言いました。
 最も恥ずべき行為をしたベニヤミン部族の物語が、ここにありますと、紹介しました。
 その通りです。

 しかし、ここ19章に登場する人は全員が罪深い人たちなのです。
 この後に、恐ろしい事件が起きるわけですが、それをしたベニヤミン部族の人たちも、この主人もあまり大差はないように感じます。
 この人は、殺されたそばめを切り分けて、各部族へ証拠と、ベニヤミン部族を訴えるために送り付けます。
 しかし、そんなことをする前に、ここ12節で、無理矢理に旅を急がなければ、よかったのではないでしょうか。
 自分が従者の意見を聞かないで無理をした結果でもあることを悔い改めることはしないで、報復だけを考えます。
 そしてそばめを丁寧に葬ってあげることもしないのです。

 イスラエル人ではない外国人の町には立ち寄らないと言う行動が、ほとんど形だけの意味のないものになっているのではないか。
 そんなことを守ったところで、そばめの命を大切にしない、この人の、25節の行動は、少しも容認できるものではありません。
 そばめを犠牲にして自分の身を守っただけです。

 なにを大切にして守るのかが、信仰生活において問われるのだと思いました。
 外国人と交流を持ったとしても、そばめの命を大切に守ってあげるほうが大切であるのは確かです。
 愛とあわれみの神は、そちらを求めることでしょう。
 しかし、そんな簡単なことも見失っているようです。

 神、主のことばをどのように聞くのかをしっかりと学びたいと思います。
 「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
 詩篇51篇16,17節のことばです。
 いけにえと礼拝をいい加減にしてもかまわないと言うことではありません。
 がしかし、幾らいけにえを捧げ、礼拝をしても、砕かれた、悔いた心のない信仰生活を、主は喜ばれません。
 ここでの登場人物は、まさにこの神が喜ばれない人の姿です。
 シャローム

12.20今日のみことば

2018-06-20

「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。」 士師記 18章31節
 17章のミカの家とその家の祭司となった人の物語が続きます。
 ここにダン部族が登場します。彼らは部族が所有できる土地、町を求めていました。
 どうやらダン部族は、カナンに入った時に、ヨシュアに割り当てられた土地をうまく自分たちのものとすることができなかったようです。
 それで土地を探していたのでしょう。
 そんな旅の中で、思いがけず祭司に出会ったので、彼を言葉巧みに誘い、自分たちの祭司として行きます。

 町の占領は上手くいったようですが、大きな失敗をします。
 偶像を持ち込んでしまうのです。

 いったいここから何を学び取れば良いのでしょう。

 自分たちのために彫像を立てたと言うこの一文がすべてを物語っています。
 神に祈る。
 神に信頼する。
 それは神に聞き従うことです。

 彼らは神と神の名を、自分たちの目的のために利用したいだけです。
 主のために生きるのではなく、自分たちのために、自分たちの思うままに生き、神さえも自分の思い通りにしたいのです。

 まさに士師記の混迷、罪深い姿があります。
 主からの祝福、繁栄、高慢、神への反逆と罪、さばきと苦しみ、叫び、悔い改め。
 士師の登場、回復と祝福、繁栄、高慢・・・
 士師記はこの繰り返しでした。
 しかしいつの間にか、この負のスパイラルで渦潮に引き込まれるごとく、徐々に罪深いところへ引き込まれていったようです。
 18章、そしてこの後に続く19章を読むと、あまりの罪深さに恐ろしくなります。

 どこかで、自分のためにと言う生き方から、主のために生きる生き方へ変えないといけないのです。
 私がそれを自分ではすることができないので、御子が身代わりになって命の代償を払い、道を開いてくれました。
 カルバリの十字架を目指すために、御子が飼い葉おけのベットへと生まれてくださったクリスマスを祝う日曜日です。

 どんなに暗黒の時代でも、どれほど罪深い人々が多くなったように感じられ、神はいないと、思ったとしても。
 こんな士師記の時代でも、今、私が生きるこの時代にも。
 クリスマスは訪れます。
 神の愛はクリスマスの日に地上に降った。
 そしてどんな時でも、暗闇、罪深き時代であっても、神はおられる。
 インマヌエル。主はともにおられるのだ。

 感謝しつつ、砕かれた心をもって礼拝します。
 主のご降誕をお祝いします。
 シャローム

12.19今日のみことば

2018-06-20

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」 士師記 17章6節
 士師、さばきつかさが12人、紹介された後、本編に続いて附録の部分が始まります。
 ここ17章は、銀千百枚を母のところから盗み、それを返したと、物語が始まります。
 ミカの家には神の宮がありました。個人的な礼拝所、祭壇と言ったところでしょうか。
 しかしそこに彫像と鋳造を作って設置すると言う行為は、十戒の教えに反するものです。

 そして、後半は祭司の任命と言う物語に変わります。
 自分が落ち着き、祭司として仕える場所を探していたレビ人が、ミカの家での祭司職につきます。
 これはこれで良いように思えますが、そうではないのです。

 丁度前半のミカの家での偶像礼拝の物語と、後半の祭司の任命の物語の真ん中に、この6節の言葉があります。
 王のいない時代の混迷。
 「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」
 偶像を造るのもの、祭司を任命するのも、自分が正しいと思うなら、それで「よし」とするのです。
 しかし、本当にそうでしょうか。

 祭司の任命も、本来の任命から逸脱した方法です。
 ましてや偶像を造り、それで主なる神をあがめるなど、正しいはずがありません。

 ミカも、レビ人も、主に尋ねません。主の言葉に聞こうとしていないのです。
 自分の目に見るよりも、主の言葉に聞く。
 これを実践することが難しいのです。
 しかしこれをすることが正しいのです。

 地上に王が居ない、自分の住む地に、自分の時代に地上の王が居なくて混迷していても、王の王である主なる神は貴方とともにいます。
 今日も、明日も変わらない愛でいます。
 シャローム

12.18今日のみことば

2018-06-20

「サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」」 士師記 16章28節
 ここでもまだ、サムソンは好き勝手に生きています。
 敵はサムソンをやっつけると、声高に叫んではみてもなにもできないままです。
 しかし遊女に溺れたりして好き勝手に過ごしていたサムソンは、そこに弱点も見えます。
 サムソンは、好きになったデリラに惑わされ、彼女に泣かれて、ついに怪力の秘密、神、主からいただいた賜物の秘密を明かしてしまって、敵に捕えらてしまうのです。

 捕えられたサムソンは、傷つけられ、奴隷として重労働を課せられたりした揚げ句、見せ物として祝宴に引き出されます。
 しかし、そこに主は働かれます。
 敵であるペリシテ人は、ただサムソンの敵だから滅ぼされるのではありません。
 ここでは彼らは、神、主を侮り、自分たちが信じる偶像の神であるダゴンを賛美し、ダゴンがサムソンを与えてくれたので、倒すことができたと、祝宴で楽しむのです。

 真の神を侮り続けるペリシテ人。
 動くこともできない刻まれた像に過ぎないダゴンをあがめる者たち。
 一方のサムソンは、幼子のごとく神、主を呼び求めます。
 ここでは復讐したいなどと祈るので、私たちは、このような祈りが許されるのかと、悩むところです。
 がしかし、この後、サムソンの死とともに語られるのは「サムソンが20年間イスラエルをさばいた」と言う、主のことばです。
 自堕落であり、好き勝手にペリシテ人を攻撃しただけ、最後も個人的な復讐をしただけに思えるサムソンですが、そんなサムソンを主は用いています。
 ペリシテ人に苦しめられているだけのイスラエル人の目を覚まさせたのです。
 偶像の神ダゴンに、主なる神が復讐、いや、さばきをされたのです。
 その時、サムソンを用いたのです。

 苦しい時、サムソンのように、自分勝手に聞こえるかも知れませんが、ただひたすらに主を求めて祈ることは正しいことです。
 この一点で、サムソンは最後まで主の民として愛されて人だと言われるのです。

 「「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。」
 この祈りが大切です。
 シャローム

12.17今日のみことば

2018-06-20

「そこで、ユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った。「あなたはペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか。あなたはどうしてこんなことをしてくれたのか。」すると、サムソンは彼らに言った。「彼らが私にしたとおり、私は彼らにしたのだ。」」 士師記 15章11節
 ここ15章でもサムソンの行動は、信仰者としてはもちろんのこと、大人としてとても容認できるようなことは一つとしてありません。
 感情の赴くままに行動し、その行動がさらに問題を大きくします。
 しかしサムソンは悔い改めることなく、また、次の問題を引き起こすのです。

 ここでは彼が怒りのままにペリシテ人の麦畑を火で焼き払います。それもジャッカルの尾に火を点けて放つと言う乱暴なやり方です。
 そしてペリシテ人は、怪力の持ち主であるサムソンに直接報復することができないと考えて、ユダの部族を苦しめるのです。

 ここで情けないのは、ユダの人々です。
 「ペリシテ人が私たちの支配者である」このひと言は信仰者として、主の民として情けないのひと言です。
 サムソンに文句を言う前に、こんな言葉を口にする自分たちの行動を悔い改めるべきでしょう。

 ユダヤ人、選民、ユダ部族の支配者、主は、全世界にただお一人のはずです。
 苦しめられて、解決できないのならば、主に祈り求めるべきです。
 サムソンに向かって怒りと諦めのままに口にした言葉は、そのまま主に向かって口を開いたことになります。

 「主よ。ペリシテ人が、主であるあなたを侮り、私たちを苦しめます。 どうぞ、救ってください。」
 サムソンのことは脇に置いても、こう祈るべきでした。

 しかし、主のご計画はもっと大きく、遥か先に恵みがあるのです。
 主は、こんな破天荒なサムソンを用いて、眠りこけたままのようなユダの人々の信仰を搖起こそうとしておられるのです。
 想像を遥かに超えた主の恵みと言うのは、私たちが望むような形、道を通って、届くのではないようです。
 だからこそ、主に祈り、主に期待したいと思います。
 私にはできないこと、私には計画できないことを主はしてくださるから。
 シャローム

12.16今日のみことば

2018-06-20

「そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)」マルコの福音書 5章41節
 水曜日です。旧新約聖書の六十六巻を順番に紹介しながら、みことばを味わっています。
 今朝は、「マルコの福音書」を紹介しつつ、みことばを味わいます。

 新約聖書の二番目に登場します。四つある福音書の中で、一番最初に執筆されたであろうと言われています。
 そして他の三つの福音書は、このマルコの福音書を参考にしてそれからそれぞれ執筆されたと、言われます。しかし確実なことではありません。
 執筆者はヨハネとも呼ばれるマルコです。
 バルナバの従兄弟であり、バルナバと一緒にパウロの第一回目の宣教旅行に同行しました。
 また、ペテロの通訳も務めたと言われます。
 マルコがこの福音書を書いたのは、外国人のために、ペテロの説教をまとめて執筆して欲しいと言う要望があったからだと言われます。
 読みやすくまとめられており、外国人にイエス様の福音を理解して信じてもらうのにふさわしい書です。
 短い書であり、読みやすいです。

 イエス様の説教はわりと少ないです。
 そしてこの5章41節など、イエス様が「アラム語」を使われた場面などでは、こうしてその意味を書き加えることで、外国人にもよく分るように書いていることが特徴です。
 イエス様は、当時の公用語であった「ギリシャ語」そしてイスラエル人の元々の言語である「ヘブル語」そしてヘブル語の流れを汲む「アラム語」を使い分けていたと言われます。
 こうしてマルコの福音書を読むと、その様子がよく分ります。

 ここは感動的な場面です。
 病のために亡くなった少女を、イエス様が言葉ひとつで生き返られせたのです。
 それは恐れず、惑わず、取り乱すことなく、ただ一人の主なる神を信じ。
 救い主である主イエスを信じる信仰を持ち、信じ続けることを教えてくれる箇所です。

 同時に、生き返った少女の食事にまで配慮してくださるイエス様の愛を知ることができる箇所なのです。
 現代に生きる私たちは、このような生き返ると言う奇蹟を目撃したり、経験することはないでしょう。
 しかし終末の日に、イエス様と再会し、このように深い愛と細やかな配慮をしてくださるイエス様と永遠に生きるようになるのです。
 この約束は確かです。
 こうして「タリタ、クミ」と、ひと言で命を与えることができる主イエスの力と愛を信じて、毎日を歩んで行きましょう。
 今日の一日がとても意味深くなります。
 大切な今日は、主とお会いするまでの期待しつつ、わくわくして過ごす豊かな一日です。
 シャローム

12.15今日のみことば

2018-06-20

「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちにその晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。」 士師記 14章19節
 士師の一人であるサムソンが成人した時の事件です。
 サムソンは、およそ誓願を立てて生きるナジル人、即ち、主に仕える特別な祭司のような存在だとは思えない人となっています。

 父と母を悩ませ、自由気ままに好き勝手なことをしています。
 ここでも本来は結婚すべきではないペリシテ人の女性を妻にしようとして、無茶苦茶なことをします。
 そして結局、客たちとの度を越した悪ふざけをして、自分の不利益を呼び込んでしまます。
 そしてその代償は、町の住民三十人を討ち殺して盗むと言う、強盗殺人へと駆り立てるのです。

 この行為、その前の行動も、とても神様を信じて歩む姿からはほど遠いのです。
 しかしサムソンが住民を打ち殺してしまった時、彼の怪力だけでそれをしたのではないのです。
 「主の霊がサムソンの上に下った」と、あります。
 主は、このような行為を許されたのか。疑問です。

 分りません。
 この時、ペリシテ人はイスラエル人を苦しめていました。
 この先に、主のさばきがペリシテ人にあるために、サムソンの無茶苦茶な行動をも、主は用いるようです。

 時に主は、私たちの怒りの行動や、突発的に思える行動の背後にも働かれるようです。
 もちろん、だからと言ってこの時のサムソンの行為が正しいわけではありません。
 しかし、こんな怒りにまかせた自分勝手な行動の背後にさえも、主が働かれるのであれば。
 私たちが日々、悩みつつ、迷いつつ、それでも主に仕えたい、主を信じて委ねて行動したいと願う行動であれば。
 そこには間違いなく主が働かれ、私たちを導いてくださる。
 そしていつか、その行動が主のお役にたつ時があるはずです。

 だから、私は悩み、迷うことがあっても、主に信頼して行動したい。
 そうすれば主は、悪さえも、益に変えてくださることでしょう。

 それにしても、怒りにまかせての行動は駄目ですね。
 サムソンの怒りの行動は、次々と、ドミノ倒しのように悪い結果へと繋がってしまう。
 何処かで、主に祈って、立ち止まることは出来ないのでしょうか、サムソン。
 シャローム

12.14今日のみことば

2018-06-20

「すると、主の使いはマノアに言った。「たとい、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のいけにえをささげたいなら、それは主にささげなさい。」マノアはその方が主の使いであることを知らなかったのである。」 士師記 13章16節
 イスラエルの民が、主の前に悪を行ったので、四十年もの間ペリシテ人に苦しめられることになりました。
 しかし主はそれでも次の士師を遣わす準備をしてくださるのです。

 今度は、不妊の女性と呼ばれており、子どものなかった夫婦に主が、士師となる男の子を授けてくださるのです。
 それもナジル人と呼ばれる、特別な誓願をして人として、士師の働きをすることになるのです。

 神の人が母となる女性に語ります。
 この女性は、夫であるマノアに事のすべてを伝えます。
 夫は、自分もこの神の人から話しを聞きたいと願います。
 それが叶った時、夫は、この神の人を最高の食事でもてなそうとします。

 そこからのやり取りが興味深いのです。
 神の人は、夫が用意する食物は食べないと言います。
 このような箇所から、神の人、主の使い、天使は、食事を取らない存在なのだと、信じられるようになっていくのです。
 それは十字架の死からよみがえられたイエス様が、疑い惑う弟子たちに対して、何か食べる物はありますかと、問われて、その後、そこにあったお魚を食べて見せるのです。
 このようなことをイエス様がされたのは、御使いや霊は、食事をしない、十字架からよみがえられて新しい身体を持つイエス様は、それとは違って食事もされると、このように繋がるのです。
 なかなか面白いやり取りだと思います。
 このマノアと言う男性は、主の使いが本当に食事をするものだと思って発言しています。
 形だけ捧げるとか、象徴的なものとして捧げようとしてはいないところが興味深いです。
 自分の